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2019年3月14日木曜日

フーコーによる「快の脱性化」

死の年のフーコー(57歳)は、インタヴューでこう言っている。

(サディズム/マゾヒズムの実践者は)身体をエロス化する érotisant ce corps ことにより、身体の馴染みのない部位 parties bizarres de leur corps を以て、快の新しい可能性を発明している inventent de nouvelles possibilités de plaisir 。……私はこれを「快の脱性化 désexualisation du plaisir 」と呼ぶ。身体的快 plaisir physique は常に性的快 plaisir sexuel から来るという考え方、そして性的快は我々のあらゆる可能な快の根だという考え方ーーこれは全く間違っているc’est vraiment quelque chose de fauxと私は思う。(フーコー M. Foucault, « Une interview : sexe, pouvoir et la politique de l’identité »、1984)

ーー《身体的快は常に性的快から来るという考え方、そして性的快は我々の可能なあらゆる快の根だという考え方ーーこれは全く間違っていると私は思う》という立場を私は取らないが、とはいえ、いかにもフーコーらしくとても魅惑的な表現で溢れかえっている、「身体をエロス化する」、「身体の馴染みのない部位」、「快の脱性化」⋯⋯⋯。

なぜフーコーの考え方を取らないかと言えば、フロイトの「性的」の定義を取るからだ。フロイトの定義は、1905年の性欲論の段階では、「欲動に関係する」、あるいは「駆り立てられる」(Triebの原義)である。

もっと分かりやすい定義もある。フロイトは「性的」という語の定義を、死の枕元にあったとされる草稿で箇条書きしている。

a) 性的生 Sexualleben は、思春期からのみ始まるのではなく、出生後ただちに性的生の明瞭な顕れがある。

b) 「性的sexuell」概念と「性器的genital」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器 Genitalien とは全く関係がない多くの活動を含んでいる。

c) 性的生Sexuallebenは、身体諸領域 Körperzonen からの「快の獲得Lustgewinnung」機能によって構成されている。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


フーコーのいう身体的快は、このフロイトの「性的」の定義から外れるとは思えない。フロイトは引き続いてこうも記している。

まずはじめに口が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは「性的 sexuell」と名づけることができるし、またそうすべきものである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

いま「快の獲得 Lustgewinn」という用語が出現したが、この語についてラカンはこう言っている。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)

この「快の獲得」は、現代ラカン派において「享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir)」とも呼ばれる(参照)。これはマルクスの「自動的フェティッシュ」と論理的には等価とされる。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。(マルクス『資本論』第三巻)


ラカンはこの自動的フェティッシュに相当するだろうものを「黒いフェティッシュ」とも呼んでいる。

享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)
純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. (S10, 16 janvier 1963)

ーー黒いフェティッシュ=純粋対象とは、形式としての対象であり、ドゥルーズの表現なら永遠回帰(自動的反復強迫)としての「純粋差異 pure différence」(内的差異 différence interne)に相当する。

ラカンによる内的差異の最も簡潔な図式はこうである(参照)。



ラカンには他に、「非性的-対象a性的[ (a)sexuée]」あるいは「対象a-解剖学的[ (a)-natomie]」という表現があるが、これこそ欲動-剰余享楽的ということである。

あるいはこうもある。

不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)

「不快 déplaisir」は、フーコーの表現「快の脱性化 désexualisation du plaisir」に応じて、「脱快 déplaisir」と訳してもよいかもしれない。

これは、快原理の彼岸にある快であり、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)であり、既にソクラテスがとっくに昔に言っていることでもある。

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快(ἡδύ)と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛(λυπηρόν)と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。(プラトン『パイドン』60B)

………


フーコーと親しかったレオ・ベルサーニ Leo Bersaniは、フーコーが耽溺したサンフランシスコのSM bathhouse での「鞭打ち、フィストファック、罵り、乳首焦がし whipped, fist-fucked, verbally abused, and singed the nipples of the other」等の行為は、一晩にうちに役割交代がありえたことを指摘している(『FOUEAULT, FREUD, FANTASY, AND POWER 』1995年、pdf)。


(フーコー、バークレー、1983年)


フーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者佐宗鈴夫「あとがき」より)

晩年のフロイトの思考においては「原初にマゾヒズムありき」である。 サディズムとはそこから派生した二次的なものにすぎない(参照)。





晩年のフロイトはこのように考えたとはいえ、次のようなことは言いうるかもしれない。

フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、 1998年)

というのは最晩年(1937年)においてさえ受動的立場の拒否が人間の精神活動の根だと言っているのだから。

人には、受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

⋯⋯⋯⋯

ベルサーニのいう「鞭打ち、フィストファック、罵り、乳首焦がし」とは、すべてラカンの対象aにかかわる。

(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960年)

最後に記されている「無」とは、原初に喪失した対象(ラメラ≒羊膜)としてまずは捉えうるが、これ以外に代表的表現として「穴」、さらに「骨象」と表現される対象aがあり、実質的にはこれも無に近似する。

対象aは穴である。l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
身体は穴である。corps…C'est un trou(ラカン、ニース会議、1974)
私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる。(ラカン、S23、11 Mai 1976)

「骨象」とは、身体に突き刺さった骨、身体の上への刻印、フロイトのリビドー固着Libidofixierungen、異物 Fremdkörper のことである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(=異物)(ラカン、S23、11 Mai 1976)

この無に近似した穴の廻りを循環運動するのが、究極の対象aの意味であり、真の対象aとは実は対象ではない。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

※より詳しくは「モノと対象a」を見よ。


以下の語彙群はすべてほぼ同じ意味合いをもっている。


フロイト・ラカン「固着」語彙群



ところで、フロイトは「脱性化」という語を次のように使っている。

対象リビドーObjektlibido が、ナルシシズム的リビドーnarzißtische Libidoに変わることは、明らかに性的目標の放棄(止揚)Aufgeben der Sexualzieleをもたらし脱性化 Desexualisierung、すなわち一種の昇華 Sublimierung をもたらす。(フロイト『自我とエス』1923年)

ここにある「ナルシシズム的リビドー」とは、自体性愛のことである。

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

そしてこれこそ上の図に示した「自ら享楽する身体」であり、ラカンにおける享楽という語の核心的意味のひとつである。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ようするにフロイトの「脱性化」とは、ラカン的には、ファルス享楽の彼岸にある身体の享楽であり、これこそ自体性愛的-原ナルシシズム的な「リビドー固着の反復強迫(=サントームの享楽)」なのである、ーー《ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。》(Miller, L'être et l'un、2011)

フロイトはこうも書いている。

・同性愛の対象選択 homosexuelle Objektwahl は本源的に、異性愛の対象選択に比べナルシシズムに接近している。

・われわれは、ナルシシズム的型対象選択への強いリビドー固着 starke Libidofixierung を、同性愛が現れる素因のなかに包含する。 (フロイト『精神分析入門』第26章 「Die Libidotheorie und der Narzißmus」1916年)

ベルサーニのいうように、フーコーが耽ったサンフランシスコのSMバスハウスで役割交代がありえたなら、本源的にはサディズム志向ではなく、原ナルシシズムとしてのマゾヒズム中心的傾向をフーコーは愛したのではないだろうか。

まさにフロイト的図式のように。


今、純粋に理論的憶測としてのみ、こう記していることを強調して置かねばならない。そしてドゥルーズの制度的サド/契約的マゾッホの議論を知らないわけではないが、いったんそれを脇にやってこう記している。あの議論におけるサディズムとは、父の法内部の世界の話であり、マゾヒズムは父の法の彼岸、母の法の世界の話である。

マゾヒズムの場合、法のすべては母へ投入される。そして母は象徴的空間から父を排除してしまう。Dans le cas du masochisme, toute la loi est reportée sur la mère : la mère expulse le père de la sphère symbolique. (ドゥルーズ 『マゾッホとサド』)

ラカン派の議論においては、リビドー固着とは、母の法の世界にかかわるのである(母による身体の上への刻印=固着)。そして享楽とは、なによりもまず固着とその効果である。

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)


そして、くり返せば、享楽の本質はマゾヒズムなのである。

享楽はその根源においてマゾヒスム的である。(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

2019年3月2日土曜日

禁止のない社会における「奴隷状態」

フーコーの『性の歴史』第2巻「快楽の活用(1984年)における最も重要な指摘の一つは、禁圧的な一神教カトリック文化ではない多神教的ギリシアにおいても、人びとが安易に想定してしまっていたような「自由」はなかったということである。

・古代社会における自由な男 homme libreは、どんな主要な禁止にも出会うことなしにsans rencontrer de prohibition majeure、その活動を展開しえた筈なのに、なぜ性的実践の強い問題化problématisation intense de la pratique sexuelleの根があったのか?

・(古代の男たちが自由であったという想定)、この絵は正しくない。そうでなかったということは簡単に示せる。ce n'est guère exact ; et on pourrait le montrer facilement.(フーコー『快楽の活用』「LES FORMES DE PROBLÉMATISATION」1984年)

ーー 要するに、エディプスの背後・家父長制の背後には、この現在でさえインテリ阿呆鳥が思い込んでいるらしい「自由」など全くない。これが1984年、死の直前にフーコーが示したことである。

フーコーは、ソクラテスやアルティスポス、クセノポン等を引用しつつ、近親相姦以外には実質的な禁止のないアテネ文化の上流階級男性における「不自由」を示しているが、要するに内的な「身体的欲求 besoin physique」の奴隷という不自由である。

不摂生な人々は己の身体的欲求の奴隷である。tous de phaulous lais epilhumiais douleuein(クセノポン Xenophon Oeconomicus, 『ソクラテスの思い出 Memorabilia』)

したがって(前回示したように)この不自由に対して闘うために、克己(エンクラティア enkrateia )や節制(ソフロシューネ sophrosyne)等の概念が、生の倫理として彼らに抱かれたということになる。



フーコー自身、おそらく当初はこの発見に驚いた筈である。それは、『性の歴史』第1巻「知への意志」(1976年)に引き続く形で当初の念頭にあった計画を大幅に変更し、8年の沈黙後、第2巻が別の形で上梓されたことが証明している、とわたくしは思う。

ーーと記したところで、ネット上を探ってみると、2018年にようやく上梓される運びになった未刊行の草稿『性の歴史』第四巻『肉の告白』のフレデリック・グロによる緒言には次のようなことが記されているらしい。

フレデリック・グロによる緒言(Avertissement)

1976年に『性の歴史』第一巻『知への意志』が出版された後、1977-1978 年にすでに、フーコーは当初の計画を放棄する(79-82年は初期キリスト教研究へ、 82-84年はギリシア・ローマ研究へ)。

コレージュ・ド・フランス講義『生者たちの統治について』 (1979-1980年)が 決定的な転機を構成。(慎改康之 作成)

この模索期には、フーコーの親しい友人、異形の古代ローマ史研究家(アナール派)ポール・ヴェーヌ Paul Veyneによる、古代ローマにおけるセクシュアリティをテーマにしてのコレージュ・ド・フランスの講義1977-78がある。

ヴェーヌの結論はこうだ。後期ローマ帝国ではほとんど何でも許され、近親相姦さえほとんど存在しなかった。それは愉快な仲間たちのあいだで屁をひる程度にものだと考えられていた。そして唯一、醜聞として拒絶されたことは、受動性(受け身になること)だ、と。


話を戻せば、ギリシア人において自由などなかったとは、実のところ、ニーチェが既に示唆していることである。フーコーが示す穏やかな表現「身体的欲求」は、ニーチェによる強烈な表現「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs 」「内部にある爆発物 inwendigen Explosivstoff 」に代替しうるだろうから。

たとえば偉大さにおける安らぎ、理想的な志操、高い単純さをギリシア人で驚嘆しつつ、「美しい魂」、「黄金中庸」、その他の完全性をギリシア人のうちから嗅ぎ出すということーーこうした「高い単純さ」から、結局のところドイツ的愚かしさから私を守ってくれたのは、私がおのれのうちにもっていた心理学者のおかげである。私は、ギリシア人の最も強い本能、力への意志を見てとり、私は彼らがこの欲動の飼い馴らされていない暴力に戦慄するのを見てとった、ーー私は、彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対してたがいに身の安全を護るための保護手段から生じたものであるのを見てとったのである。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」『偶像の黄昏』1889年)
In den Griechen »schöne Seelen«, »goldene Mitten« und andre Vollkommenheiten auszuwittern, etwa an ihnen die Ruhe in der Größe, die ideale Gesinnung, die hohe Einfalt bewundern - vor dieser »hohen Einfalt«, einer niaiserie allemande zu guter Letzt, war ich durch den Psychologen behütet, den ich in mir trug. Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.


ーー身体的な欲動の暴力に対する防衛、これがギリシア人におけるあらゆる制度の根だ、とニーチェは言っているのである(そして己のうちにある身体的なものに成すがままになることとは、ポール・ヴェーヌが指摘するローマ貴族社会で唯一拒絶された受動性のことだ)。

間違いなくニーチェの偉大なる後継者であるフロイトは、この「欲動の飼い馴らされていない暴力」を次のように表現している。

自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない ungebändigten「欲動蠢動(欲動興奮Triebregung)」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
快および不快 Lust und Unlustの感覚は、拘束された gebundenen 興奮過程と、拘束されない ungebundenen 興奮過程と、二つの興奮過程からおなじように生み出されるのであろうか。それならば拘束されていない ungebundenen 一次過程 Primärvorgänge が、拘束されたgebundenen 二次過程 Sekundärvorganges よりも、はるかにはげしい快・不快の二方向の感覚を生むことは、疑いをいれる余地がないだろう。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

そしてラカンによって、次のように表現されることになる。

欲動蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute(ラカン、セミネール10、1962年)

この欲動蠢動に対する「防衛」を手助けすることが、「父の蒸発」後の時代、オイディプス消滅の時代、つまり現在の超寛容社会におけるラカン派精神分析の究極の仕事のひとつである。

フロイトは既にこれを、ラカンがフロイトの遺書と呼ぶ論文で、「魔女のメタサイコロジイ」と呼んでいる。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第三章、1937年)

ーー《するとやはり魔女の厄介になるのですな》とはもちろんゲーテの『ファウスト』「魔女のくりや(魔女の厨房)」におけるメフィストフェレスの言葉である。

つまりフロイト・ラカン派文脈では、欲動要求、あるいは欲動蠢動とは(フーコーのいうことを文字通りとって素朴に言えば、つまりフーコーにおいてはもちろんそれだけではないことを脇にやって言えば)「克己」や「節制」だけではどうにもならない途轍もない相手なのである。

世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚の群れのなかへ走りこんだという人間が少なくない。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

もっとも世界には、善人という種族がいるので、克己や節制でなんとかなる場合もあるのかもしれない。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善人だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

フロイトのいう欲動要求・欲動蠢動とは、簡単にいってしまえば「エス」である。

エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

いま、エス es は語る、いま、エス es は聞こえる、いま、エス es は夜の眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中 Mitternacht が語りかけるのが?
おお、人間よ、心して聞け! (ニーチェ『ツァラトゥストラ第四部』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」)

人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


2019年3月1日金曜日

エンクラティア enkrateia とソフロシューネ sophrosyne

フーコーの『セクシャリティの歴史』第二巻・第三巻を「再読的?」斜め読みしてみた。

epimeleia heautou(自己への配慮を意味するギリシャ語)、cura sui(自己への配慮を意味するラテン語)は、多くの哲学教義のなかにくり返し見出される一つの命令である。(ミシェル・フーコー Michel Foucault『性の歴史 Histoire de la sexualité』第3巻 『自己への配慮 souci de soi』「自己の陶冶 culture de soi」の章)
「克己(エンクラティア enkrateia)」はむしろ、抵抗することあるいは争うことを可能ならしめ、また欲望と快楽の領域において自己の支配 sa domination を確保することを可能ならしめるところ、自己統御 maîtrise de soi のひとつの積極的な形式によって特徴づけられる。(フーコー『性の歴史』第2巻『快楽の活用 L'usage des plaisirs』「克己 Enkrateia」の章)
統御の訓練によって、また快楽の実践における慎ましさによって到達したいとされる状態である「節制(ソフロシューネ sophrosyne)」は、一つの自由状態として特徴づけられる。(フーコー『快楽の活用 L'usage des plaisirs』「自由と真理 Liberté et vérité」の章)


古代ギリシャ語で言うとカッコいいのだが、ようするにこういうことだな。




ーーフーコーは「自己統御」をギリシア文脈で、「自己陶冶」をローマ文脈で語っているので上のように図示したが、どちらも「自己による自己の支配」ということでほとんど同じ意味。

ようするに克己も節制も、自己の「身体的欲求 besoin physique」の奴隷にならないための「生の倫理」「生の技法」ということで、基本的な部分では「通俗道徳」とどうちがうんだろ? たんにカッコいいだけじゃか。つまるところ、自らの身体に対して受動的ではダメで能動的であれ!ということだ。

でもカッコいいのはひどく大切かもな、と生の芸術家「蚊居肢子」は呟いてみてもよい・・・

私を驚かせることは、私たちの社会において、芸術がもはや事物 objets としか関係しておらず、諸個人または生と関係していないということです。そしてまた、芸術が特殊なひとつの領域であり、芸術家という専門家たちの領域であるということも私を驚かしました。しかしすべての個人の生は、ひとつの芸術作品でありうるのではないでしょうか。なぜ、ひとつの画布あるいは家は芸術の対象 objets であって、私たちの生はそうではないのでしょうか。(Michel Foucault 「倫理の系譜学について─進行中の作業の概要 propos de la généalogie de l'éthique : un aperçu du travail en cours」1984年)



2018年11月18日日曜日

世界のあのつぶやき

じっと耳を傾けて、世界のあのつぶやきのほうへかがみこみ、けっして詩とならなかったあの多くのイマージュ、けっして覚醒状態の色調をおびなかったあの多くのファンタスムを知覚する努力をしなければならないだろう。(フーコー『狂気の歴史』)

きわめて美しい文だ。戦慄する。

ほかのことを調べているなかで、EVERNOTEの引き出しのなかに見出したのだが、EVERNOTEにメモを入れ出した最初期のものであり、前後は何を言っていたのだろうと、埃をかぶった『狂気の歴史』を書棚から取り出しても、ざっと見たかぎりでは、この文が見出せない。しかたがないから、ネットから『狂気の歴史』仏原文のPDFをダウンロードし、いくつかの語彙、たとえば「ファンタスム」や「詩」などで検索してみても、同じ文はない。

というわけで、『狂気の歴史』からではないのかもしれない。そうではあってもいかにもフーコーらしく、フーコーの文にはちがいないと思う。

なにはともあれ、人は《けっして覚醒状態の色調をおびなかったあの多くのファンタスム》をもっているはずだ。そしてファンタスム(幻想)には二種類あることに、人は最大限の注意を払わなければならない。これがこのところ繰り返している(ラカン派でさえ、殆どの人が気づいていない)ボロメオの環の読み方である。






SENSEが、象徴界に構造化されたファンタスム(見せかけ semblant)である。「真の穴 vrai trou」が象徴界の外部にある原ファンタスム(トラウマへの固着)である。フーコーがどちらのファンタスムを言っているかは明らかだろう。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

トラウマ、ーーここで中井久夫の、あまりにも見事で簡潔明瞭なトラウマの定義を掲げよう。すなわち《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》あるいは《語りとしての自己史に統合されない「異物」》である。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P.53)

この中井久夫の二つの文が、わたくしの知る限りで、フロイトの「異物 Fremdkörper 」を最も的確に表現したものである。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして、語りとしての自己史に統合されない「異物」であるがゆえに、反復強迫がおこるのである。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )


少し前に戻れば、ボロメオの環における真の穴に相当する場は「表象代理」である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、 03 Juin 1964)

この原抑圧(欲動の固着)が、人の生の引力としてわれわれを支配している。これがフロイト・ラカン理論の核心である。

最も肝腎なのは、世界が表象になる前に、表象代理(欲動代理 Triebrepräsentanz)があることである。
世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。A. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

ーーこのことを把握すれば、現実界が表象の裂け目に現れるものだけでは全くないことがすぐさま瞭然とする。

そして、《欲動代理 Triebrepräsentanz は、(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、もっと自由に豊かに発展する。

それは暗闇の中に im Dunkeln はびこる wucher 異者 fremdのようなものである》(フロイト『抑圧』1915年ーー「リビドーのトラウマへの固着」)のである。


さあ、もう理論的な話はやめにしよう。「世界のあのつぶやき」でよいのである。

もちろん、あの世界のつぶやきがきこえない「刺激保護膜 Reizschutzes」の厚すぎる連中もあまたいるんだろうがね、《あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。そら、あれが聞こえないのかい? 》(バルトーク)


真の作家、真の芸術家とは、「世界のあのつぶやき」に強迫されて書き続けている種族にちがいない。

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)
・にいやんはしんだん。うっすらと青い記憶の酸が、ひかりをはぎとり、傷つけ、蒸発させてしまおうとする。

・僕はすべてのものを憎んでいる。姉を悲しませ、兄を殺し、僕をまでも辱しめ苦々しく窒息させたすべてのものを憎んでいる。あの頃から僕は僕自身のための神話をなくしたのだ。僕の体には、人々にみすてられた廃屋の井戸のように雑草がぴっしり生えはじめたのだ。

・僕はあの時のことを忘れない。怒りと狂気を妊んだ海のことも、二十六歳のにいやんの惨めな屍のことも僕は忘れない。(中上健次『海へ』)

これらの文が、最後期ラカンの現実界、--《現実界は形式化の行き詰まり impasse de la formalisation》とした72歳までのラカンではなく、それ以後のラカンの現実界である(参照)。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイト・ラカン派においては、人にほとんど知られていない決定的な叙述があるものである。上に記した欲動代理をめぐるRICHARD BOOTHBYの次の文は、もはやこれだけでよいのではないかとさえ感じられるほど決定的な文である。

『心理学草稿 Entwurf einer Psychologie』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


上に、欲動は《「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるもの》とあるが、フロイトにおいてはたとえば次の叙述がある。

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)
(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

ラカン的語彙における原症状(サントーム)に相当する表現としては、フロイトのフリース宛書簡に現れる最初期の「境界表象 Grenzvorstellung」、すなわち「境界シニフィアン」が最も相応しい表現であるのが、面白い。


2015年3月2日月曜日

従軍記者と美的趣味耽溺者

偉大な人間は必然的に懐疑家である。あらゆる種類の確信にとらわれぬ自由さが、彼の意志の強さに属している。信念を欲しがること、肯定においてにしろ否定においてにしろ、とにかくなにか無条件的なものをほしがることは、弱さの証明である。ところであらゆる弱さは意志の弱さなのだ。信念居士は必然的に小さな人間種族である。ということはすなわち「精神の自由」、換言すれば、本能としての不信は、偉大さの前提にほかならぬ。(ニーチェ『権力への意志』936番)
「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

こういったことは引用するのは簡単である。すなわち簡単なのはこのように引用して、この〈私〉は「自由」を考えているというふりをすることだけである。

さらにはこう引用してもよい。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

われわれの「自由」の問いそのものが、時代や文化のパラダイム、すなわち《我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられている》のであるから、そのパラダイムを疑わねば「自由」などと言うことはできない。しかも現代のパラダイムは「新自由主義」というイデオロギーである。だがその問いをここで掲げるのはやめにしよう。一応そこまで考えている「ふり」をするために、「「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」」を参照せよと〈あなたがた〉に提示しておくだけにしておこう。とはいえたいしたことが書かれているわけではない。

そもそもこのわたくしは、なぜ下らぬメモ程度のことを「律儀に」毎日のように公表しているのであろうか、――これももちろん偽の、捏造された問いである。「ひまつぶし」に決まっている。――《たんに学者たちのひまつぶしであると・ ・ ・》(ニーチェ『反キリスト者』)。いやわたくしは〈学者たち〉の一種族ではないが、彼らの猿真似して、にわか教育者、にわか知識人のふりをしてみたいのではないだろうか。

教育のプロセスの基本論理……「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。(ジジェク『斜めから見る』

もちろん、カシコイ人は、すぐさまおわかりであるように、これらの問いも、真実をいってそうでないと思わせる手口である。

フロイトの『機知』には、真実を言って--「真実のふり」をしてーー、相手を騙そうとする話がある。

あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』

ひとは、彼はこういっているから、たぶんこうでないだろう、と憶測することがある。その心理を逆手にとって、真実を言って相手を騙す、騙さないまでも韜晦する。これは、わたくしの「常道」である、おそらく〈あなたがた〉と同様に。

――仮装服として何を選びますか?

私の顔に、私の顔の仮面を着ける。そしたら、みんな私の振りをしている誰かで、私ではないと思うだろ。(ジジェク

とはいえ、まさかわたくしともあろう者が、〈あなたがた〉たちのなかに溢れかえるあの種族、ーーニーチェ流にいえば「美しい魂」の持ち主たち、すなわち《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》ーーのように、人の役に立ちたい、美しいものを伝えたいなどと大嘘をいうほどには落ちぶれていない。

こう自問してみるのも、いくらか正当のことであろう、人類をかくも長期にわたっても盲目たらしめつづけたきたのは、もともと一つの美的趣味ではなかったのかと。すなわち、人類は、真理から絵のように美しい効果をのぞんだのであり、同じく認識者からは、その効果が官能に強くはたらきかけることをのぞんだのである。私たちの謙譲は早くから彼らの趣味に反していた・ ・ ・(ニーチェ『反キリスト者』13番

だが、残念なことに「沈黙」できる境地にまでは至っていない。これはインターネットへの「書き込み病」とでもいうべきものか。すなわち、大量の馬鹿が書くようになった時代」の囚人であり、まったく「自由」ではない。

「現在地球に暮らす人々がこんなにまで活字に接している時代は人類史上」なく、「読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ」(蓮實重彦『随筆』)が渦巻く時代である。

創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。(中井久夫――「自己模倣と自己破壊」より)

中井久夫はヴァレリーの「弱さから」という応答を、金のためだと読み取っている。わたくしはまったく金のためではないが、どうもいささかのところ《己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消》しているのではないかという疑念からは免れがたい(もちろんこの言い草も真理の仮装による欺瞞でありうる)。

すぐれた人と呼ぱれる人は自分を欺いた人である。その人に驚くためにはその人を見なければならない――そして、見られるためには姿を現わさなけれぱならない。かくしてその人は自分の名前に対する愚かな偏執にとりつかれていることをわたしに示すのだ。そのように、偉人などといわれる人はすぺて一つの過誤に身を染めた人である。世にそのカが認められるような精神はすぺて己れを人に知らせるという誤ちから出発する。公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。

そこでわたしは夢想した。もっとも強靱な頭脳、もっとも明敏な発明家、思考のなんたるかをもっとも正確に認識している人々はすべからく無名の人であり、己れを惜しみ、己れを語ることなく死んでゆく人でなくてはならい、と。そうした人々の存在にわたしの目が啓かれたのは、ほかならぬ、やや志操の堅固さに欠けるがゆえに、名声が赫々として世に現われた人々の存在そのものによってである。(ポール・ヴァレリー『テスト氏との一夜』)


 というわけだが、さて何の話であっただろうか。このところ荷風をめぐってメモしているのだが、次の文章を引用したいだけである。

ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言っているそうですが、ぼくがお金を ためているからこそ、戦時中、10年間1枚もの原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、 僕は他人に頭1つ下げないで、思い通りの生活ができました。いまは平和です。平和の声 の裏には戦争がありません。それは紙一重のものなんですよ。だから、作品が売れる時は、 売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります。(永井荷風

戦争中、いわゆる思想家やら文学者、批評家たちが「転向」してしまったあとも、荷風は世間に媚びずに生活できた。それは「金」があったせいだ、と言っていることになる。当時は殆んどだれもかれもが「従軍記者」であったのだ。だが「従軍記者」は戦争中でなくても棲息し続ける。

従軍記者になるための条件は、それが一般的に保守的と呼ばれるものであれ革新的と呼ばれるものであれ、きまって人類の大義と真実の二語を口にし、それを口にすることでみずからの成熟を確信し、いまある自分自身を肯定し、しかも強要されたわけでもないのに、他者の群に向かってそう物語ってみせる人間のことである。たえて久しく戦争など起こっていないというのに、現代の日本社会にも多くの従軍記者が棲息している。誰もが知っているあの批評家も、あの小説家も従軍記者そのものではないか。あるいはあの国のあの哲学者、あの人類学者も従軍記者ではないか。実際、現代とは、意識的であると否とを問わず従軍記者の時代なのだ。(……)

彼らは、一様に何ごとか貴重なものが喪われたという思いを心のかたすみに隠し持っている。しかも、その崩壊の意識が、成熟の実感と彼らのうちで深く結びついている。だが、成熟にせよ喪失にせよ、それを口にしうるのは従軍記者へと変容する芸術家に限られている。それを幻想と呼ぶか否かはともかくとして、少なくとも、この成熟と喪失が具体的に歴史を分節化しているのではなく、大義と真実の二語を口にしたものだけにみえてくるものだという意味で、それは一つの世代的な虚構なのである。人類の大義の名のもとに真実を顕揚したりする人間はきまってこの虚構の中に身を閉じこめ、従軍記者という名の作中人物をみずから演じ始めることになるだろう。この役割はきまって政治的なものであり、それを演じるのもきまって芸術家たちなのだ。従軍記者の役が真剣に演じられれば演じられるほど、その演技は政治的な色調を帯びることになるだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ここで芸術家とあるのは知識人のことである。

彼らが演じてしまう政治的な役割が一つの力を帯び始めるとき、従軍記者は新たな名前を獲得する。それは知識人という名前である。知識人とは、従軍記者の役を真剣に演じながら、こうした政治的な虚構の説話論的な要素にすぎない人類の大義や真実に殉じようとする芸術家にほかならない。こうした定義にあてはまる知識人は現代にしか存在しない歴史的な生産物である。それは、たとえば中世の知識人だの江戸時代の知識人などとは、説話論的な機能において異なっている。そして、しばしばそう口にされることで現代の特質を明らかにしうると信じられている知識人の終焉の知識人とは、現代に生きのびていた中世的な、あるいは江戸時代的な知識人にほかならず、今日の社会には、過去の自分を否定することで従軍記者の役割が真剣に演じうるものと錯覚している芸術家たち、つまり知識人があふれているのである。その知識人たちの政治的な役割を明らかにするためには、彼らに共通する資質としての凡庸さの構造を明らかにしなければならない。特権的な知識人の終焉を口にすることはいささかも歴史を明らかにしはしない。それは、歴史から目をそらすための恰好の口実にすぎず、それこそ凡庸な芸術家にふさわしい政治的な虚構というものだ。(同上)

この蓮實重彦の「従軍記者」から、小林秀雄が1938 年 3 月に『文芸春秋』従軍記者として渡中したことを想い出さない人物たちも最近は棲息するだろうから、こうやって書いておくが、これは、《「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけ》ているのではなかろうか、すなわち《中立的な「知」という見かけの背後に》主人の身振りを見いださないだろうか?


で、いまはなんの話であったか。「自由」の話である。ここではより格調高くトルストイを引用することにしよう。

『アンナ・カレーニナ』における、アンナの愛人ヴロンスキーと、ヴロンスキーと同じ名門出であり、軍務において大抜擢を受けて彼より数段上に昇格したばかりの友人セルプホフスコイとの、権力者たちの陰謀をめぐっての会話からである。

「でも、いったい、なぜだい」ヴロンスキーは、権力をもっている数人の名前をあげた。「でも、なんだってこうした連中は独立心にもえていないというんだね?」「それはただ、あの連中が財政的に独立していないからさ。いや、生まれながらにして、持っていなかったからさ。まったく財産を持っていなかったんだね。われわれのように太陽に近いところで生まれなかったからさ。あの連中は金なり恩義なりで、買収することができる。だから、あの連中は自分の地位を維持するために、主義主張を考えだす必要があったわけさ。そのために、自分でも信じていない、この世に害毒を流すような思想や主義を振りまわすが、そうした主義もただ官舎とか、いくらかの俸給にありつくための手段なんだからね。あの連中のトランプの手をのぞいてみれば、それほど巧妙なものじゃない…ひょっとすると、ぼくはあの連中よりばかで、劣っているかもしれないが、しかし、ぼくがあの連中より劣っていなくちゃならんという理由も、べつに見あたらないね。ところが、ただ一つまちがいなく重大な長所は、われわれはあの連中よりずっと買収しにくいってことだよ。そういう人間が今とても必要なんだよ」(トルストイ『アンナ・カレーニナ』木村浩訳 新潮文庫 (中)p140)

さあて、現在日本に買収しにくい連中が、どこかにいるだろうか。老人のなかにはひょっとしているのかもしれないが、それ以外にはどうなのだろうか? わたくしはツイッターにおいてしか日本人に出会うことはないので、よくわからない。ツイッターでなにやら書き込んでいる連中は、「従軍記者」か、従軍記者予備軍の小便くさいガキ、あるいは、《人類をかくも長期にわたっても盲目たらしめつづけたきた》美的趣味に耽溺する輩ばかりであり、不幸にして、それ以外の方にめったに遭遇することはない。

その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)

…………

※附記

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)
能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)
知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』)

以下はここでの文脈からはいささかはずれるが、「民主主義」とは、働かない人々によってはじめられた、との中井久夫の文がある。金のために働かざるをえない者たちに、真の「自由」などというものがありえるだろうか、と問うてもよい。

近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。

ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。

ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。……(中井久夫「近代精神医療のなりたち」  『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕 P159 広栄社)

新自由主義時代のバイブルとして、米国でよく読まれているアイン・ランドの書から抜き出しておこう。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

…………

あらゆる科学だろうと哲学だろうと結局取引関係にいくわけじゃないですか  だから取引関係に基づいて科学も経済も すべてができている これこそ問題じゃないですか?
(……)

でもそのね すべてがビジネスにもとづいているということがますますはっきりしてきたというのは ひとつの文明の衰えていく過程で露になってきた そういう事実  言葉があれだけど 

つまり 文明が盛んなときは別に取引だろうがなんだろうが そういうことはいわなかったし それで成り立ってたわけですよ  それで 今すべてがビジネスだというようなことになったときに そこから何か生まれてくるということはこれ以上ない 儲かる人は儲かるし 力のある人はもっと力があるし そういうようなことでしかないわけでしょ  そうすると そういうことをいくら批判したって始まらないわけだから  どういうふうに違うものがあるかということになりますね

――高橋悠治×茂木健一郎 「他者の痛みを感じられるか」