このブログを検索

2020年8月15日土曜日

女ぎらひ

以下、前回の記事を記した後、蚊居肢散人の脳髄のなかの自動生成装置が次の文献群を呼び起こした。ひょっとして相関関係がたいしてないかもしれないが、記念にここに貼り付けておく。



女嫌いとは何だろうか? 「自分の嫌うところは」と、定評あるストリンドベルヒが正直に答えて居る。「女の気質や性格であって、肉体に属するものではない。」と。同様にショーペンハウエルが、彼の哲学で罵倒しながら、彼の膝の上で若い女を愛撫して居た。すべての女嫌いについて、定義し得るところはこうである。人格としてでなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人に対して、これほど憎悪の感情をむき出しにした、冒涜の思想があるだろうか。)

しかしながら一方では、それほど観念的でないところの、多数の有りふれた人々が居り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等は、決してどんな場合に於ても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。

然る一方で、何故に或る人たちが、常に女性を目の敵にして、毒舌や侮辱をあえてするのだろうか。(それによって彼等は、女嫌いと呼ばれるのである。)けだしその種の人々は、初めから女に対して、単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求めているからである。女がもし、単なる肉であるとすれば、もとより要求するところもなく、不満するところもないだろう。彼等もまた世間多数の男と同じく、無邪気に脂肪の美を讃美し、多分にもれない女好きであるだろう。それ故に女嫌いとは? 或る騎士的情熱の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。然り! すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直なロマンチストにすぎないのである。(萩原朔太郎『虚妄の正義』1929年)


………………


大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。 女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」1955年)






三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と 決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)






子供は成人の心理学的な父である。幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 das Kind sei psychologisch der Vater des Erwachsenen und die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,(フロイト『精神分析概説』第7章草稿、死後出版1940年)

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡 traits がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
男性の同性愛者の女への愛 L'amour de l'homosexuel pour les femmes は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「女というもの Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。男性の同性愛者の母への愛は、他の性への欲望 désir pour l'Autre sexe のこよなき防御として機能する。…

私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、…ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)






母の行ったり来たり allées et venues de la mère⋯⋯行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ? (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)
母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン, S4、12 Décembre 1956)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)

すべての女性に母の影は落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)




………………


女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) 
素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)
男の肉体にくらべれば、女の肉体はもっと悲しいものゝようだ。女の感覚は憎悪や軽蔑の通路を知るや極めて鋭く激しいもので、忽ちにして男のアラを底の底まで皮をはいで見破ってしまう。そして極点まで蔑み憎んでいるものだ。そのくせ、女の肉体の弱さは、その極点の憎悪や軽蔑を抱いたまゝ、泥沼のクサレ縁からわが身をどうすることもできないという悲しさである。(坂口安吾「ジロリの女」1948年)
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。
私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。
ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾「私は海をだきしめてゐたい」1947年)
母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。
私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(略)

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。(略)

ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」1935年)


…………………


急に聰子の中で、爐の戸がひらかれたやうに火勢が増して、ふしぎな焔が立上つて、雙の手が自由になつて、清顯の頬を押へた。その手は清顯の頬を押し戻さうとし、その唇は押し戻される清顯の唇から離れなかつた。濡れた唇が彼女の拒みの餘波で左右に動き、清顯の唇はその絶妙のなめらかさに醉うた。それによつて、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の角砂糖のやうに融けてしまつた。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまつた。

清顯はどうやつて女の帶を解くものか知らなかつた。頑ななお太鼓が指に逆らつた。そこをやみくもに解かうとすると、聰子の手がうしろへ向つてきて、清顯の手の動きに強く抗しようとしながら微妙に助けた。二人の指は帶のまはりで煩瑣にからみ合ひ、やがて帶止めが解かれると、帶は低い鳴音を走らせて急激に前へ彈けた。そのとき帶は、むしろ自分の力で動きだしたかのやうだつた。それは複雑な、収拾しやうのない暴動の發端であり、着物のすべてが叛亂を起したのも同然で、清顯が聰子の胸もとを寛ろげようとあせるあひだ、ほうぼうで幾多の紐がきつくなつたりゆるくなつたりしてゐた。彼はあの小さく護られてゐた胸もとの白の逆山形が、今、目の前いつぱいの匂ひやかな白をひろげるのを見た。

聰子は一言も、言葉に出して、いけないとは言はなかつた。そこで無言の拒絶と、無言の誘導とが、見分けのつかないものになつていた。彼女は無限に誘ひ入れ、無限に拒んでゐた。ただ、この神聖、この不可能と戰つてゐる力が、自分一人の力だけではないと、清顯に感じさせる何かがあつた。

それは何だつたろう。清顯は、目をつぶつたままの聰子の顔がすこしづつ紅潮してきて、そこに放恣な影の亂れるのをまざまざと見た。その背を支へる清顯の掌に、はなはだ微妙な、羞恥に充ちた壓力が加はつてゆき、彼女はさうして、あたかも抗しかねたかのやうに、仰向きに倒れた。

清顯は聰子の裾をひらき、友禪の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿を遠く窺はせた。しかし清顯は、まだ、まだ遠いと感じてゐた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があつた。あとからあとから押し寄せるこの煩雑さを、奥深い遠いところで、狡猾に支へてゐる核心があつて、それがじつと息を凝らしてゐるのが感じられる。

やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが仇になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。

――二人は疊に横たはつて、雨のはげしい音のよみがへつた天井へ目を向けてゐた。彼らの胸のときめきはなかなか静まらず、清顯は疲れはおろか、何かが終つたことさへ認めたがらない昂揚の裡にゐた。しかし二人の間に、少しづつ暮れてくる部屋に募る影のやうな、心殘りの漂つてゐることも明らかになつた。彼は又、源氏襖のむかうに、かすかな、年老いた咳拂ひをきいたやうに思つて、身を起しかけたが、聰子がそつと彼の肩を引いて引止めた。

やがて聰子は、一言もものを言はずに、かうした心殘りを乗り越えて行つた。そのとき清顯は、はじめて聰子のいざなひのままに動くことのよろこびを知つた。あのあとでは何もかも恕すことができたのである。

清顯の若さは一つの死からたちまちよみがえり、今度は聰子のなだらかな受容の橇に乗つた。彼は女に導かれるときに、こんなにも難路が消えて、なごやかな風光がひろがるのをはじめて覺つた。暑さのあまり、清顯はすでに着てゐるものを脱ぎ捨ててゐた。そこで肉のたしかさは、水と藻の抵抗を押して進む藻刈舟の舟足のやうに、的確に感じられた。清顯は、聰子の顔が何の苦痛も泛べず、微光のさすやうな、あるかなきかの頬笑みを示してゐるのをさへ訝らなかつた。彼の心にはあらゆる疑惑が消えた。
( ……)

聰子が言つた最初の言葉は、清顯のシャツをとりあげて、
「お風邪を召すといけないわ。さあ」
と促した言葉だつた。彼がそれを亂暴につかまうとすると、聰子は輕く拒んで、シャツを自分の顔に押し當て、深い息をしてから返した。そのとき聰子が手を鳴らすのにおどろかされた。思はせぶりな永い間を置いて、源氏襖をひらいて、蓼科が顔を出した。
「お召しでございますか」
聰子はうなづいて、身のまわりに亂れた帶のはうを目で指し示した。蓼科は、襖を閉めると、清顯のはうへは目もくれずに、無言で疊をゐざつて来て、聰子の着衣と帶を締めるのを手つだつた。それから部屋の一隅の姫鏡臺を持つてきて、聰子の髪を直した。この間、清顯は所在なさに死ぬやうな思ひがしてゐた。部屋にはすでにあかりが點ぜられ、女二人の儀式のやうなその永い時間に、彼はすでに無用の人になつてゐた。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻)






………………


女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)


モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
享楽の対象Objet de jouissance …フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzung(リビドー )を受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzung(リビドー )は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 女性器は誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





なぜかシューベルトが20歳のときに書いた未完のD 571の「暗闇に蠢く幼虫」のような感覚まで想起したのだが、これはどういったわけだろうか?




暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln […] fremd (フロイト『抑圧』1915年)
暗闇に置き残された夢の臍 im Dunkel lassen[…]Nabel des Traums」(フロイト『夢解釈』第7章、1900年)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



性交できないチンパンジー


すこし前、「男は女に好まれるように努力するしかない」で、ボノボとチンパンジーの性についてのメモをしたのだが、中井久夫も触れているんだな。

人類は、他の類人猿に比して、発情期を欠き、いつでも性交・妊娠が可能であり、たとえばボノボの産児間隔の六・八年に比して、産児制限を宗教的に禁じている集団の調査において示されているように一・八年という短い産児間隔を持っている。人類は、生存戦略として多産多死型(タカ型に対してスズメ型)であり、これは人類がかつては食物連鎖の頂点になく、狩られる存在であったことを示唆する。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

チンパンジーについては何度かあったなと読み返してみて、上のボノボに記述にも行き当たったのだが、《チンパンジーの実験によれば、乳児の時にやわらかく温かいものに接しなかった個体は成体となって性交ができない》というのも以前はまったく注目していなかった。

そもそも幼児型記憶は警告の意味を持っているものである。その形式は命題以前の端的な光景記憶型ではないか。「落石注意」の文字でなく端的に「落石の絵」である。その際に強烈な情動を伴っている。このほうが幼児にとっては効率的である。いや命題記憶の基盤である成人文法性の成立以前にあっては、こうでなくてはならない。

成人文法性の成立は、世界の整合性と因果性とを前提としている。この文脈において危険を理解するものである。

もう一つの型の幼児の記憶は母親に抱かれている温かい記憶であるが、これは漠然とした共感覚であろう。

前者が個体保存に関するものだとすれば、後者は種族保存に関係していよう。チンパンジーの実験によれば、乳児の時にやわらかく温かいものに接しなかった個体は成体となって性交ができないのである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

現在はどう言われているのだろうと少しだけネット上を探ってみたら、「出生後にすぐ母から引き離されたチンパンジーは、性的振る舞いが目立って低くなる」とある。

Chimpanzees which were removed from their mothers less than one week after birth, however, have been shown to exhibit markedly higher rates of atypical social behavior (tandem walking, embracing) and lower rates of sexual and play behavior when observed in conspecific social groups at 4 – 5 years of age; they also interacted with significantly fewer social partners as compared to mother-reared chimpanzees (S. R. Ross, Bloomsmith, & Lambeth, 2003). (ATTACHMENT AND EARLY REARING: LONGITUDINAL EFFECTS IN CHIMPANZEES (PAN TROGLODYTES) by Andrea Wolstenholme Clay , Georgia Institute of Technology May 2012)


やはり人間と同様、オッカサマが大事なのである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、後ののすべての愛の関係性の原型Vorbild aller späteren Liebesbeziehungenとしての母であり、男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)

オッカサマという女は原愛の対象であると同時に原誘惑者である。誘惑されたら誘惑しかえすというのが人間のサガである(フロイトが繰り返し強調している「受動性-能動性」の反転機制)。したがって女性がセクハラ対象になるのは構造的必然である。

この不幸を減少させる手段のひとつは、専業主夫を増やすことである。

男性によっての男児の養育(例えば古代における奴隷による教育)は、同性愛を助長するようにみえる[scheint die Homosexualität zu begünstigen]。今日の貴族のあいだの性対象倒錯の頻出は、おそらく男性の召使いの使用の影響として理解しうる。母親が子供の世話をすることが少ないという事実とともに。(フロイト『性理論三篇』1905年)

専業主夫が赤ん坊を世話することにより、男性の同性愛者が増えてしまうという副作用はあるが、男性による女性のセクハラは目立って減る筈である。そして女性による男性へのセクハラが増えるという「一石二鳥」効果だってある。

みなさん、男女平等のこの21セイキ、専業主夫を増やすことにより世界を変貌させねばなりません!


2020年8月14日金曜日

三段階の享楽

ああごめんなさい。最近別のことで忙しかったので。ご返事します。以下の通りです。


◼️去勢としての享楽(- J)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(享楽の控除)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».]. (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

◼️穴としての享楽/穴埋めとしての剰余享楽
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
あなた方が知っているように、ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別 [distinguera la jouissance du plus-de-jouir.]した時、形式化をいっそうしっかりしたものにするようになった。なぜラカンは区別したのか、空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽  [la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir] を? その理由は対象aは二つを意味するからである。生き生きとした形で言えば、対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon] である。

対象aが示しているのは、「中心にないものとしての不在[l'absence de ce qu'il n'y a pas en ce centre])と「その不在を埋め合わせる穴埋め [le bouchon qui comble cette absence]」の両方である。したがって、対象aは二つの顔を持つ。ポジの顔は穴埋め le bouchonである。もう一つの顔は、不在 un absence、控除 un moinsと等価である。これは対象aが去勢 castrationを含んでいることを示す記述に見出される。われわれは対象aを去勢(- φ) を含んだものとして置く。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

◼️去勢=穴
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)

疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


◼️死としての享楽
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort …もっとましな訳語はないものだろうか。「dérive 漂流(さまよい)」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES, 1988)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ『享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility』2006)


以上、次の通りです。




最底部の享楽=死は、原享楽と呼んでもよいです。この原享楽はフロイトの「原ナルシシズムの原像」のことです。





2020年8月13日木曜日

男は女に好まれるように努力するしかない

この論文は気合いが入ってるな、実に多くのことを考えさせられるね、ボノボとチンパンジーではなくヒト族のことを。


■ボノボのメスの発情の長期化ーー「霊長類進化の科学」京都大学学術出版会. (2007)、 「ボノボとチンパンジーの性行動」PDF より

ボノボにおける同性間の性行動だけでなく,オスとメスとの交尾も,ボノボの社会構造の特徴と関係がありそうだ。 

ボノボもチンパンジーも,ヒトと同じようにほぼ 1 ヶ月(ボノボで約 35 日,チンパンジーで 37 日)の排卵周期をもつ(図 4) 。排卵と排卵の真ん中あたりに月経があり,この周期に伴うホルモンレベルの変化などは,どちらの種もヒトとほとんど同じだ。 

ボノボもチンパンジーも,メスは排卵日前 2 週間ほど性皮(ヒトでいうと小陰唇の部分)が丸く腫脹する。性皮はピンク色をしていて,個体差はあるものの腫長した状態で顔くらいの大きさがあるので,腫長した性皮は遠くからでもかなり目立つ。この性皮が腫脹している期間(最大性皮腫脹期と呼ぶ) ,メスはオスと交尾を行う。この期間の長さは,ボノボで約 14 日,チンパンジーで約 11 日と,ボノボの方が多少長いが大きな差はなく,いずれも排卵から排卵までの月経周期のうち 3 分の 1 の間発情をしていることになる。一方,精子や卵子の寿命がヒトと同じくらい (精子が約 3 日,卵子が約 1 日)だとすると,この最大腫脹期のうち排卵の起きる直前の 3,4 日以外は, 交尾しても受精しない時期だということになる。つまり,ボノボもチンパンジーも,妊娠可能な期間の 1 週間以上前から交尾をしていることになる。

これはおそらく,チンパンジーやボノボ特有の離合集散の社会構造と関係があるのだろう。雌雄がいつも行動をともにしているとは限らない彼らの社会では,オスがメスの発情に気づいて集まってくるにはある程度の日数が必要になる。排卵時に確実に交尾をしているようにするためには,メスはある程度先立って自分の発情をオスに知らせなくてはならない。つまり,妊娠が可能な期間よりかなり早くからおこる発情は,排卵日にできるだけ確実に妊娠するための宣伝の意味をもった発情なのだ。 

このように 1 回の月経周期においては,ボノボとチンパンジーであまり差がないが,出産から出産までの期間でみると,はっきりとした違いが出てくる。 

チンパンジーの場合,1 回妊娠するとその後 2 周期発情するが,その後発情しなくなる。そして,生まれた子供が離乳するまで発情を再開しない。一方,ボノボのメスは,妊娠しても出産の直前 1 ヶ月くらいまで発情サイクルを継続し,また,出産後約 1 年で発情サイクルを再開する(図 5)。ボノボの場合も,妊娠している間はもちろん排卵しないし,子どもが離乳するまでの期間も排卵が起きてない。つまり,ボノボのメスでは,妊娠してから子どもが離乳するまでの間,排卵していないにも関わらず,発情し交尾をする。 

実際には排卵が起きていない,つまり,「妊娠に結びつかない」時期に発情することにより,ボノボのメスの生涯における発情期の長さはチンパンジーのメスの 7 倍近くになる(図 5,オトナの期間を 25 年とすると,その 27% の 2464 日)。ボノボでは,オスとメスの比率がもともと近いこともあり,集団内のオスに対する発情メスの数はそれほど小さくない。平均的なボノボ集団として,オスが 10 頭メスが 10 頭いるとすると,同時期にメスが 3 ~ 4 頭が発情している計算になる。

複数のメスが同時に発情すると,オスにとって発情メスに対する競争率が低いだけでなく,高順位のオスが発情メスを独占することが難しくなる。そうすると,オスの順位による発情メスへのアクセスの違いがそれほどはっきりしなくなるだろう。 

一方,チンパンジーのメスでは,生涯のかなりの時間を妊娠~子育てに費やし,発情しているのはほんのわずかな時間となる(図 5,4.2%とすると約 383 日)。平均的なチンパンジーの集団としてマハレの例をとり,オスが 10 頭にメスが 35 頭いるとすると,同時期に発情しているメスは平均 1.5 頭ということになる。このわずかな数のメスとの交尾をめぐって,10 頭のオトナのオスがしのぎを削ることになる。その結果,高順位のオスほど優先的に交尾の機会を確保できるようになる。実際,タンザニアのゴンベ国立公園で生まれてきた子どもの DNA を調べて父親を調べた研究では,高順位のオスほど多くの子どもを残している [6] 。 

また,チンパンジーでは,発情というのは排卵を伴う発情サイクルに入っていることに限られるのに対し,ボノボでは,発情メスの大半は妊娠期・授乳期にある排卵を伴わないニセ発情をしているメスになる。つまりボノボのオスにとっては,苦労して発情メスを独占したとしても,得られる利益はかなり小さいことになる。ボノボのオスが順位にそれほどこだわりなく見えるのも,発情メスとの交尾を巡る競争にあまり意味がないからなのかもしれない。 

こうした発情における違いは,オスとメスとの社会関係にも影響しているようだ。チンパンジーでは,オスがメスをめぐって順位を争い,時には高順位オスが発情メスを囲い込んでしまう。 オスたちが命がけでメスをめぐって争う状況では,メス側の好みが入り込む余地はあまりなく,メスは基本的には高順位のオスを受け入れるしかない。高順位のオスの目を盗んで低順位のオスと交尾したり,低順位のオスと駆け落ちしたりといった行動も見られるが,いずれもメスにとって危険な行為である。 

一方,ボノボでは,交尾の最終的な選択権はメスにある。順位に関係なく,多くのオスが自由にメスを交尾に誘えるとなると,メスは誘いかけてくるオスの中から気に入ったオスと交尾をすればよい。 メスが応じなければ交尾は成り立たず,オスたちはメスに好まれるように努力するしかない。ボノボのメスたちが,オスたちに対して優位に行動できるのは,こういった事情による可能性が大きい。




人間のメスは、性皮は腫脹しないにしても(たぶん?)常時ニセ発情してるみたいなものなのかな、それでなければ《ヒトのように年中セックスをしている動物は、他に実験動物のマウスぐらいではないだろうか。》(中井久夫「赤と青と緑とヒト」1997年)なんてありえないからな。

もっともボノボがいくらヒトに近いと言ったって、基本的にはやっぱり種の保存のために、「正しい」相手に対する、時宜にかなった、「正しい」性行動をする本能の動物だろう。他方、ヒトはの保存とは関係なしに時宜かまわず手当たりしだいに性交する「本能の壊れた動物」だ。この奇怪な多形倒錯的特徴の力を、フロイトは「欲動Trieb」あるいは「衝迫Drang 」と呼んだ。

こういった面はあるが、ボノボの特徴の一つとされるオスたちはメスに好まれるように努力するしかない》は、男女平等社会におけるヒト族の宿命じゃないだろうかね。

ヒト族のなかの最近の日本種についてはどうだか知らないが。



 この記事の元データは➡︎「日本成人における異性間性交渉未経験の割合の推移について: 出生動向基本調査の分析, 1987 – 2015年」PDF

ーーオスのほうはどうでもいいが、メスのほうの処女率ってのはボクの感覚からすると信じがたいね。上の表を30歳までで換算しても30パーセント以上が処女となり、どんな統計とってんだろと疑いたくなるね。もしこれが正しかったら人類史上の異変だよ、アアモッタイナイ!

世界は女たちのものに決まってるんだから、遠慮せずにデルタ力でせっせと男たちをたぶらかしたらいいのに。

世界は女たちのものだ Le monde appartient aux femmes、いるのは女たちだけ il n'y a que des femmes、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』鈴木創士訳、原著1983年)





遠くからやってくるもの


音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。(グレン・グールド 孤独のアリア』)


◼️「Wie Aus Der Ferne 遠くからのように」




そのとき肩に手の置かれるのを感じた。技師は彼女の手から本を取り上げ、黙ったまま書棚にもどし、 彼女をソファペッドのほうへと導いた。

テレザにペトシーンでの執行人にいったことばがふたたび浮かんできた。彼女は今それを声に出していった。「でもこれは私の希望ではないんです!」

状況をあっという間に変える魔法の文句だと信じていたが、この部屋ではことばは魔力を失った。それどころか、彼女は男をよりしっかりと決意させたように思える。彼女を引き寄せ、手を乳房に置いた。

不思議なことに、その感触により急に彼女の恐怖感が失せた。技師の手が彼女の身体に触れた瞬間、彼女は彼女が(彼女の心が)問題なのではまったくなく、ただひたすら身体が問題であることを意識した。彼女を裏切り、世間の他の身体の中へと追い出した身体が。

技師はテレザのプラウスのボタンを一つはずすと、残りを自分ではずすように身ぶりで示した。しかし彼女はこの命令に応じなかった。 自分の身体を世間へと追い出したが、そのためのいかなる責任もとりたくなかった。抵抗もしなかったが、彼を助けもしなかった。心は今行われていることに同意しておらず、どっちつかずであると決めたことを、明らかにしようとしていた。

彼は彼女を脱がせたが、彼女のほうはほとんど不動であった。彼がキスをしたとき、彼女の唇は彼の唇の接触に応えなかった。しかし、そのあと急に自分のデルタがうるんでいるのを感じて、うろたえた。Puis elle s’apeçut soudain que son sexe était humide et elle en fut consternée.

自分の意志に逆らって興奮した。それだけより大きな興奮を感じていた。心はすでにおこったことすべてとひそかに同意していたが、その大きな興奮をさらに統けようとするならば、心の同意をロに出してはならないことを知っていた。もしその承諾を口に出していったなら、もし自由意志でラブシーンに加わろうと望むなら、興奮は静まるであろう。なぜなら心が高まっているのは、身体が意志に反して作用しているからで、身体は意志を裏切り、意志はその裏切りを見ているからなのである。

Elle sentait son excitation qui était  d’autant plus grande qu’elle était excitée contre son gré. Déjà, son âme consentait secrétement à tout ce qui était en train de se passer, mais elle savait aussi que pour prolonger cette grande excitation, son acquiescement devait rester tacite. Si elle avait dit oui à voix haute, si elle avait accepté de participer de plein gré à la scène d’amour, l’excitation serait retombée. Car ce qui excitait l’âme, c’était justement d’être trahie par le corps qui agissait contre sa volonté, et d’assister à cette trahison.

技師はテレザのパンティを引きずりおろし、彼女は生まれたままの姿になった。心が、見知らぬ男の腕に抱かれた裸の身体を見て、まるで近くから火星を見ているかのように、信じがたい思いがした。信じがたさという光の中で初めてテレザは自分の身体が陳腐さを失うのを見、初めてそれをうっとりと眺め、身体の前面に身体のあらゆる個性や、ユニークさや、模倣を許さぬ性格があらわれてきた。それは(これまで見てきたような)ごくありふれたものではなく、もっと特別なものであった。心はデルタの毛のすぐ上のところにある丸い、褐色の点、ほくろから目を離すことができなかった。テレザはこのほくろを彼女自身(心)が身体に印したものと見なしていたが、この聖なる刻印の冒滑的ともいえる近さで見知らぬ男の局部が今動きまわっていたのである。

そして、テレザが技師の顔を見たとき、テレザの心は自分のサインをした身体が、知りもしないし、知りたくもない誰かの腕の中で喜ぶのを許したことは一度もないということを意識した。彼女をぞくぞくするような憎悪感が満たした。その見知らぬ男の顔につばを吐きかけるために、ロにつばをためた。その男も彼女を、彼女が彼を観察していたのと同じ熱心さで見ていた。彼は彼女の怒りを認め、彼女の身体の上で動きを速めた。

テレザは遠くのほうから彼女に官能のうずきが迫ってくるのを感じて、「いや、いや、いや」と、叫び始めていた。彼女はやってきつつある享楽をこらえていたが、それをこらえることで、抑えられた享楽がながながと彼女の身体に広がっていった。というのもその官能は静脈に注射されたモルヒネのように彼女の中で広がり、どこへも逃れていくことができなかったからである。彼女は彼の腕の中でもがき、両手を振りまわし、彼の顔につばを吐きかけた。

Tereza, sentant de loin la volupté la gagner, se mit à crier : « Non, non, non », elle résistait à la jouissance qui approchait, et comme elle lui résistait, la jouissance réprimée irradiait longuement dans tout son corps n’ayant aucune issue par où s’échapper ; la volupté se propageait comme de la morphine injectée dans une veine. Elle se débattait dans les bras de l’homme, frappait en aveugle et lui crachait au visage. (クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)







2020年8月12日水曜日

偽善と露悪


何度か引用しているが、漱石の『三四郎』には、偽善と露悪の話がある。

近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(…)

昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。(夏目漱石『三四郎』1908年)

漱石の時代でもこうであった。つまり《君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位》、要は権威が失墜して、個人の露悪が露出した。とくに一神教的でない日本はかつてからこうなりがちである。

この漱石を受けて、柄谷と浅田は次のように言っている。

柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。(……)

日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)

だが漱石の偽善と露悪の話はこれだけではなく、いっそう微妙なことが言われている。「最も優美な露悪家」の話である。

「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」
「どんなのです」
「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(夏目漱石『三四郎』1908年)

この露悪家は、《人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる》意識的な振舞いだが、現在、ツイッターなどのSNSでの「正義派」はどうだろう? 

少なくともツイッターでのかなりの割合の正義派言説は、それが意識的であれ無意識的であれ、「優美な露悪家」たちによる攻撃性発露の姿にみえる。

誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)
あなたが義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務を個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の中立性という観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその背後にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)


わたくしは《人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる》意識的な「優雅な露悪家」のところがある。だが、《人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる》無意識的な露悪家に対しては、ごく標準的に「素朴な露悪家」としてのボクが現れる。どうも無意識的な「偽善=露悪」連中こそもっともタチが悪いという先入観がある。

あるいは《自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせ》て、他人への攻撃性を無意識的に享楽しているのが明らかであるようにみえる連中をみると、どうにも我慢ができなくなり、ナイーブな露悪家として振る舞ってしまう。

これは悪癖だとはいえ、なんとかならないもんか、あれら「ほどよく聡明な=凡庸な」ツイッターリベラルインテリの正義面は、と常々考えてしまうのである。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )


「ほどよく聡明な=凡庸な」リベラルインテリとは、たとえば次の意味合いも含意している。

どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)