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2021年1月27日水曜日

エディプス的父と差別

 「エディプス的父と差別」としたが、エディプス的父の消滅による差別の猖獗という意味である。

人間の顔をしたルペン主義」の末尾に記したラカン曰くの、父の蒸発[évaporation du père]あるいはエディプスの失墜[déclin de l'Œdipe ]による《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(Lacan, AE534, 1973)とは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』の記述からの論理的帰結である。


(自我が同一化する際の或る場合)同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りてくる。die Identifizierung eine partielle, höchst beschränkte ist, nur einen einzigen Zug von der Objektperson entlehnt. 〔・・・〕

共感は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。〔・・・〕


要約しよう。第一に、同一化は対象への最も原初的感情結合である。第二に、同一化は退行の道を辿り、自我に対象を取り入れることにより、リビドー的対象結合の代理物になる。第三に、同一化は性的欲動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じうる。


wir dahin zusammenfassen, daß erstens die Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist, zweitens, daß sie auf regressivem Wege zum Ersatz für eine libidinöse Objektbindung wird, gleichsam durch Introjektion des Objekts ins Ich, und daß sie drittens bei jeder neu wahrgenommenen Gemeinsamkeit mit einer Person, die nicht Objekt der Sexualtriebe ist, entstehen kann. entstehen kann.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


同一化にはよい面も悪い面もある。よい面は、人々のあいだに共感を生むーーフロイトは「愛の結びつきLiebesbeziehungen」とも言っているーー。悪い面は、退行を生み、たとえば批判精神の喪失、知的活動の制限を受ける場合がある。


ここでは良い面の話を取り上げる。



唯一の徴はは理想として機能することになる原同一化の徴である。le trait unaire, la marque d'une identification primaire qui fonctionnera comme idéal.(Lacan, PROBLEMES CRUCIAUX POUR LA PSYCHANALYSE 5 avril 1966)





原初の集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)


フロイトの上図を縦にしてさらに簡潔化して示そう。この「自我理想」ーーラカンの「父の名」(参照)ーーが失墜すれば、社会構造は左から右へ移行する。




すなわちアーレントのいう自由を保持する権威がなくなれば、社会の構成員は支えがなくなり、ダイレクトな競合関係に陥る。


権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)



たとえばノーベル文学賞作家ドリス・レッシングはその自伝で次のように言っている。


子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 (ドリス・レッシング Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994)



これらは、「権威なき権力」の社会関係構造を意味する。



差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの糸』所収)

重要なことは、権力と権威[power and authority]の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Social bond and authority, 1999)



以下、基本的には同じ内容だが、「三者関係から二者関係へ」の意味を確認しておこう。


三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)




「一方が善であれば他方は悪である」、これが「権威なき権力」の社会構造の特徴である。多くの人は権威がなくなれば、自由な社会になると誤認してきた。だがそうではまったくないのである。



二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)



アンチオイディプスの実現、これが差別の時代の内実である。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。


A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)



「三者関係から二者関係へ」とは、勝ち組と負け組をあからさまに作る環境に我々は生きているという意味でもある。


今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009)