ボクは引用しすぎるからわからなくなるのかな。 ラカンは次のように言っているわけで、主体(斜線を引かれた主体$)は対象aだよ。 |
現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965) |
まさに対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。この穴としての対象aは、主体との関係において我々に問いを呼び起こす[C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. ](ラカン、S16, 27 Novembre 1968) |
穴=主体=対象aだ。したがって「穴としての対象aは主体」ということになる。 |
ラカンは言っている、対象aは大他者のトポロジー的構造であり、対象aは主体自体だと。Lacan peut dire du petit a qu'il est la structure topologique du grand Autre, et dire ensuite que le petit a est le sujet lui-même.(J.-A. Miller, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2006/3) |
別の言い方なら「異者としての身体は主体」としてもよい。 |
この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté](Lacan, S16, 14 Mai 1969) |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
フロイトの定義において異者(異者としての身体)はトラウマだ。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者(異者としての身体 [Fremdkörper] )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年) |
そしてラカンの定義において穴=トラウマである。 |
現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
つまり「異者は主体」ということは、先程示した「穴としての対象aは主体」というのと同じことだ。 |
要するに「対象a=異者=享楽=主体」である。 |
現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004) |
ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007) |
最も簡潔に言えば、主体はトラウマということ。 |
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
主体はトラウマだということは、主体は自ら気づかずに何ものかを反復強迫しているということだ。この何ものかが「固着」である(参照)。 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)] |
私は、分析経験の基盤はフロイトが固着と呼んだものだと考えている。je le suppose, …est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
このあたりは中井久夫が阪神大震災被災後にトラウマ研究に没頭した中で言っているのと基本的には同じことだ(参照)。 |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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※付記
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示され他ない。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
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ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) ](J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986) |
前回引用した「斜線を引かれた享楽」とは穴としての享楽のことであり、これがラカンの主体(斜線を引かれた主体$)だ。 |
私は、斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする。le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer […]- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008) |
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われわれが通常、"対象a"と呼ぶものは、たんに対象aの形式の支えあるいは化身に過ぎない。… 眼差しはまさに対象aの化身[incarnation de l'objet a]である。…ルーベンスの『鏡を見るヴィーナス』は対象aの論理的機能に実体を与えることを可能にするブリリアントな要素を際立たせている… |
対象aには、構造的省略がある。対象aは補填 supplément(穴埋め)によってのみ代表象されうる。穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]。それは鏡とは逆である。対象aは捕まえられない。特に鏡には。長いあいだ鏡像段階をめぐって時を費やしたラカンは、それを強調している。対象aは窓である。われわれが目を開くために自ら構築した窓である[ Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux.] |
(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環運動している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016ーーL'image reine, qui s'est tenue les 29 et 30 avril 1995 à Rio de Janeiro) |
要するに黒い窓が《主体の穴 le trou du sujet 》(Lacan, S13, 1965)だ。
そしてこの穴の穴埋め[Bouchon]としての剰余享楽が、通常の言い方なら「幻想」であり、後期ラカンの言い方なら「妄想」ということになる。 |
幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982) |
ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕あなた方自身の世界は妄想的だ。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant.(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
というわけで、この記事自体、妄想である。 |
実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的オハナシだ。妄想はまた世界を秩序づけうる。En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト「症例シュレーバー」1911年) |
また引用しすぎたかな、ボクの脳髄のなかではこれらの引用群は写真のようになっていて、エロ画像を貼り付けるのともはや変わりがないんだよ、千枚ぐらいある画像のなかから選別するだけなんだ。最近は芋づる式に連鎖してどのエロを貼り付けないでおこうかのほうに悩むんだ。そっちのほうで苦労するよ。