このブログを検索

2021年6月25日金曜日

蜘蛛・ファリックマザー・私の恐ろしい女主人

こういうのを引用すると精神分析音痴の人に嫌われるだろうよ、ニーチェファンにも。ごくあたりまえのことなんだがな。ファンってのはなんとなく好きなだけで、愛してはいないのさ。ニーチェ学者もそうだが。


◼️蜘蛛・ファリックマザー・女性器・メドゥーサの首

アブラハム(1922)によれば、夢のなかの蜘蛛は、母のシンボルである。だが恐ろしいファリックマザーのシンボルである。したがって蜘蛛の不安は母親相姦の怖れと女性器の恐怖を表現する。おそらくあなたがたがご存知のように、神話における創造物、メドゥーサの首は、同じ去勢恐怖のモチーフに由来する。


Nach Abraham 1922 ist die Spinne im Traum ein Symbol der Mutter, aber der phallischen Mutter, vor der man sich fürchtet, so daß die Angst vor der Spinne den Schrecken vor dem Mutterinzest und das Grauen vor dem weiblichen Genitale ausdrückt. Sie wissen vielleicht, daß das mythologische Gebilde des Medusenhaupts auf dasselbe Motiv des Kastrationsschrecks zurückzuführen ist. (フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)


まず蜘蛛だ。


◼️蜘蛛と深い泉

ああ、せつなや! 時間はどこへ行ってしまったのか。わたしは深い泉のなかへ沈んでしまったのではなかろうか。世界は眠るーーWehe mir! Wo ist die Zeit hin? Sank ich nicht in tiefe Brunnen? Die Welt schläft -〔・・・〕


わたしは既に死んだ。事はおわった。蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ! ああ! 露が降りてくる。時がせまる。Nun starb ich schon. Es ist dahin. Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach! der Thau fällt, die Stunde kommt -  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)

おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?[wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags1885)


ーーより詳しくは、「蜘蛛の回帰」を見よ。



そしてファリックマザー。


◼️わたしの恐ろしい女主人とエス

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin. 〔・・・〕


そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーーDann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` -


このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。Und ich schrie vor Schrecken bei diesem Flüstern, und das Blut wich aus meinem Gesichte: aber ich schwieg.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde1884年)


メドゥーサについては、ノートにこっそり書かれている。


◼️メドゥーサの首と母なる深淵

ツァラトゥストラノート:「メドゥーサの首」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は硬直する。「凍りついた死の首 In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85]

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif ]そのものがあるすべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955




なんでわかんねえんだろうな、学者たちって。ニーチェは自白してんのにさ。



わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙って[in meinen höchsten Augenblicken]くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした予定不調和[disharmonia praestabilita]を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)



何よりももまず永遠回帰の意味さえいまだわかってないせいだろうよ。何度も言ってるが、精神の中流階級の人たちは蚊居肢ブログを読まないほうがいいよ。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)




………………………


◼️橋:子宮から子宮へ

フェレンツィ(1921–1922)が説き明した橋[der Brücke. Ferenczi hat es 1921–1922 aufgeklärt.]。橋は何よりもまず、両親が性交において結びつく男根を意味する[der Brücke…Es bedeutet ursprünglich das männliche Glied, das das Elternpaar beim Geschlechtsverkehr miteinander verbindet]。


だがそこからさらに別の意味への展開がある。その意味は、橋は、他の世界(未生の状態、子宮)からこの世界(生)への越境である。さらに橋は母胎回帰(羊水への回帰)としての死をもイメージする[wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterleib (ins Wasser) vorstellt, ](フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)



◼️橋:過渡と没落(大地へ身を捧げる)

人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落であるということである。


Was gross ist am Menschen, das ist, dass er eine Brücke und kein Zweck ist: was geliebt werden kann am Menschen, das ist, dass er ein _Übergang_ und ein _Untergang_ ist.  


わたしは愛する、没落する者として生きるほかには、生きるすべをもたない者たちを。それはかなたを目ざして超えてゆく者だからである。Ich liebe Die, welche nicht zu leben wissen, es sei denn als Untergehende, denn es sind die Hinübergehenden.  


わたしは愛する、大いなる軽蔑者を。かれは大いなる尊敬者であり、かなたの岸への憧れの矢であるからだ。Ich liebe die grossen Verachtenden, weil sie die grossen Verehrenden sind und Pfeile der Sehnsucht nach dem andern Ufer.  


わたしは愛する、没落し、身をささげる根拠を、わざわざ星空のかなたに求めることをせず、いつの日か大地が超人のものとなるように、大地に身をささげる者を。Ich liebe Die, welche nicht erst hinter den Sternen einen Grund suchen, unterzugehen und Opfer zu sein: sondern die sich der Erde opfern, dass die Erde einst der Übermenschen werde.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「序41883年)



◼️母なる大地:沈黙の死の女神

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 Vderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt:


すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。


そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)