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2021年6月10日木曜日

欲望の場の中[dans le lieu du désir]と穴の中[dans un trou]


デュラスは欲望の場の中[dans le lieu du désir]と言っているだけで、欲望とは言っていない。


もし女たちが欲望の場の中で書かないのなら、書かないことと同じ。剽窃しているのよ[quand les femmes n'écrivent pas dans le lieu du désir, elles n'écrivent pas, elles sont dans le plagiat. ](Duras apud Blot-Labarrère, Christiane, Marguerite Duras, 1992)


ところでデュラスはしばしば穴という言葉を口にする。ボクのほんのわずかな読書範囲でも、5、6回の使用を思い浮かべることができる。


比較的よく知られているだろう、代表的なもののひとつは次の文だ。


穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中にいて、書くことだけが救いになるだろうと気づくこと[Se trouver dans un trou, au fond d’un trou, dans une solitude totale, et découvrir que seule l’écriture vous sauvera](マルグリット・デュラス『エクリール Ecrire』1993年)


欲望の場の中[dans le lieu du désir]とは、穴の中[dans un trou]のことじゃないかな、たぶん。


そして究極の穴の中とは、黒い夜の中じゃないかね。


愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ[jamais d'un vouloir].」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る[Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire]。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)


ーーこの蚊居肢子の「歪んだ」解釈は「見出された無」のヴァリエーションだけどさ。


何はともあれ、デュラス の「欲望の場」とは、ラカン派用語なら「欲望の原因」、あるいは欲動の穴、享楽の穴としたいところだ。


後期ラカンの教えには、欲望のデフレ[ une déflation du désir] がある。〔・・・〕


ラカンはその教えで、分析実践の適用ポイントを欲望から享楽へと移行させた。ラカンの最初の教えは、存在欠如[manque-à-être]と存在の欲望[désir d'être]を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認の解釈を指示した。


Lacan déplace aussi le point d'application de  la pratique analytique du désir à la jouissance.  Le premier enseignement repose sur le manque à être et sur le désir d'être et prescrit un certain régime de l'interprétation, disons, l'interprétation de reconnaissance.〔・・・〕

しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因 [la cause du désir]を扱う別の時期がある。それは、存在欠如は、たんなる防衛としての欲望、存在するものに対しての防衛として扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在するのか。それはフロイトが欲動と呼んだもの、ラカンが享楽の名を与えたものである。

Mais il y a un autre régime de l'interprétation qui porte non sur le désir mais sur la cause du désir et ça, c'est une interprétation qui traite le désir comme une défense, qui traite le manque à être comme une défense contre ce qui existe et ce qui existe, au contraire du désir qui est manque à être, ce qui existe, c'est ce que Freud a abordé par les pulsions et à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.  (J.-A. MILLER, L'être et l'un, 11/05/2011)


欲動、享楽のより厳密な言い方は、欲動の穴、享楽の穴である。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


そして現実界の欲動ーーあるいは現実界の享楽[Jouissance du réel]  (Lacan,  S23, 1976)ーーは書かれることを止めない。


現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire](Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)


現実界は穴であり(参照)、穴は書かれることを止めないである。


われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)




蚊居肢子はこれでカタマッテいるんだけどな、3、4年ぐらい前から。根にある享楽の穴、その穴埋めに過ぎない欲望やら愛やらの語彙で劣化させられるのはコリゴリだね。



愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)

父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père ] (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


父の名による穴埋めとは欲望による穴埋めのことだ。


 父の名の真の本質は言語である[la vraie identité du Nom-du-père, c'est le langage ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)     

欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage]  (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


で、穴埋めとは幻想ーー最晩年のラカンにおいて幻想=妄想ーーのことだ。


欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (Lacan, AE207, 1966)

幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)

現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)





幻想としての穴埋めは必要だよ、享楽の穴とは死の欲動、死の病[La maladie de la mort]なんだから。ラカンの言い方なら性的非関係(性関係はない)という徹底的な孤独なんだから。


穴は非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが穴=トラウマを為す。[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)



でも安易に穴埋めに逃げたらダメだ。デュラス曰くの「穴という完璧に近い孤独の中」、その深淵を徹底的に見つめることだよ。デュラス流に書くことがお好きなら。デュラスは一冊の本を書く前に、常に穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中に回帰して自己発見すると言ってんだから。


でもそれに耐えられないから、究極の反デュラス装置ツイッターのたぐいをやってんじゃないかい? もちろん蚊居肢ブログも似たようなもんだけどさ。


つい最近も示したところだが愛と欲望の穴埋めの別名は嘘だよ。




と引用すると脳髄のなかにいくつもの「画像」が揺らめくな、ここでは三枚だけ貼り付けておくよ。


最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である。Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. (ニーチェ『反キリスト』第55番、1888年)

人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからなのである。ce n'est pas qu'à force de mentir aux autres, mais aussi de se mentir à soi-même, qu'on cesse de s'apercevoir qu'on ment, (プルースト「ソドムとゴモラ」1922年)


人はどうして生きたいとねがう勇気がもてようか、どうして死なないための力をふるいたたせることができようか? 相手がつくうそによってしか愛がかきたてられない世界、われわれを苦しめた相手にその苦しみを鎮めてもらいたいという欲求のなかにしか愛が存在しない世界、そういう世界のなかで。comment a-t-on le courage de souhaiter vivre, comment peut- on faire un mouvement pour se préserver de la mort, dans un monde où l'amour n'est provoqué que par le mensonge et consiste seulement dans notre besoin de voir nos souffrances apaisées par l'être qui nous a fait souffrir ?  (プルースト「囚われの女」1923年)



ちょっと待てよ、デュラスの穴を話題にした文脈上、次の四つの「画像」も捨て難いな。


『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの[involontaire ]に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète]。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。


(……)われわれは、無理に[contraints]、強制されて[forcés]、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情の上の嘘のシーニュ[un signe mensonger sur le visage de l'aimé]を読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)


強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)

強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)


無意志的回想のブラックホール[trou noir du souvenir involontaire]。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、 逃れるべきものなのだ[Avant tout, c'est quelque chose dont il faut sortir, à quoi il faut échapper]。プルーストはそのことをよく知っていた。 彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)


ーー無意志的回想のブラックホール[trou noir du souvenir involontaire]、これこそ死の欲動の穴、享楽の穴だよ。



いけねえ、ドゥルーズ は「強制」を連発してるな、画像の連鎖を抑えるのに苦労するよ。

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。

Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 [Fremdkörper] )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こし、人はレミニサンスに苦しむ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004)