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2021年7月24日土曜日

芸術・宗教・科学(哲学)による穴埋め

 


このところ「宗教」について考えていたので、長いあいだ読み返さずにいたフロイトの宗教論のひとつ『トーテムとタブー』を読んでみた。


この『トーテムとタブー』は四論文がある。


Ⅰ.  近親性交忌避[Die Inzestscheu

Ⅱ. タブーと感情のアンビヴァレンス[Das Tabu und die Ambivalenz der Gefühlsregungen

Ⅲ.アニミズム・呪術および観念の万能[Animismus, Magie und Allmacht der Gedanken

Ⅳ.トーテミズムの幼児期回帰[Die infantile Wiederkehr des Totemismus


であり、最後の論文で評判のよくないエディプスコンプレクスを前面に出したせいもあり、読み返すのにいくらか抵抗があった。


さて私はきわめて簡略に述べてきたこの研究を結ぶに当たって次の結論をいっておきたい。すなわち、宗教、道徳、社会、芸術の起源がエディプスコンプレクスにおいて出あうということである。

So möchte ich denn zum Schlusse dieser mit äußerster Verkürzung geführten Untersuchung das Ergebnis aussprechen, daß im Ödipuskomplex die Anfänge von Religion, Sittlichkeit, Gesellschaft und Kunst zusammentreffen,(フロイト『トーテムとタブー』第4論文「トーテミズムの幼児性回帰」第7章)


とはいえよく読んでみると、フロイトは本文では父コンプレクス[ Vaterkomplex ]と記しながら、注にて、父と母コンプレクス[Respektive Elternkomplex]としたり、本文でも次のように書いている。


この発展において、おそらくは一般的に父なる神に先行したと思われる母なる神の地位がどこにあるか、それを私は述べることができない。Wo sich in dieser Entwicklung die Stelle für die großen Muttergottheiten findet, die vielleicht allgemein den Vatergöttern vorhergegangen sind, weiß ich nicht anzugeben. (第4論文「トーテミズムの幼児性回帰」第6章)


フロイトはこの当時はまだ、父の底にありうる母については躊躇していただけであり示唆はあるのである。だからラカンが次のように言ったのは、いくらか過剰である。


実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。

これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère.  ]。(Lacan, S17, February 18, 1970

エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant  un rêve de FREUD.  ( Lacan, S17, 11 Mars 1970


さらにフロイトは晩年の宗教論では明瞭に次のように言っているのだから。


歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)



宗教論以外の文脈でも、1921年と1923年の記述を同時に読めば、フロイトは事実上、母との同一化が父との同一化よりも先行することを示している。


父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母への依存型の本格的対象備給を向け始める。Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年)

個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった。Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. (フロイト『自我とエス』第3章、1923年)



タブーやコンプレクスについては、ここでは文脈抜きで、フロイトには次の記述や表現があることも示したおこう。


われわれはほとんど言いうる、すべての女はタブーだと[beinahe könnte man sagen, das Weib sei im ganzen tabu]。(フロイト『処女性のタブー Das Tabu der Virginitat1918年)

マザーコンプレクス Mutterkomplex(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年)


少なくとも宗教の起源にあるのは母なる女であり、マザーコンプレクスである。父ではない(参照:母は神である)。


一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (Lacan, S17, 18 Février 1970

問題となっている女というものは神の別の名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,](Lacan, S23, 18 Novembre 1975





…………………


という話は前段であり、ここでは「ああこのラカンはフロイトにあるのか」と気付いたことを備忘する。


ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science。(ラカン, S7, 03  Février  1960


フロイトは第2論文で次のように記している。


一方で神経症は、芸術・宗教・哲学の偉大な社会的所産との顕著にして深い一致を示しているが、他方でそれらのもののいわば歪曲化されたものであるようにも思われる。ヒステリーは芸術創造のカリカチュア、強迫神経症は宗教のカリカチュア、パラノイアは哲学体系のカリカチュアであると、あえて言うこともできよう。


Die Neurosen zeigen einerseits auffallige und tiefreichende Übereinstimmungen mit den großen sozialen Produktionen der Kunst, der Religion und der Philosophie, anderseits erscheinen sie wie Verzerrungen derselben. Man könnte den Ausspruch wagen, eine Hysterie sei ein Zerrbild einer Kunstschöpfung, eine Zwangsneurose ein Zerrbild einer Religion, ein paranoischer Wahn ein Zerrbild eines philosophischen Systems. (フロイト『トーテムとタブー』第2論文、1913年)


フロイトの「パラノイア=哲学」がラカンにおいて「パラノイア=科学」に変わっているだけである。


そして、科学とはよく知られているように(?)、形而上学である。


科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht (ニーチェ『 悦ばしき知 』第344番、1882年)

我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知』第112番、1882年)


物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung(ニーチェ『善悪の彼岸』第14番、1886年)

物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraireLacan, S16, 20 Novembre 1968

.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)


というわけで、科学は哲学に置き換えうる。


宗教=強迫神経症については、1927年の宗教論においても繰り返されている。


宗教は人類全体がかかっている強迫神経症である。Die Religion wäre die allgemein menschliche Zwangsneurose,(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第8 章、1927年)


芸術=ヒステリーについては、『トーテムとタブー』の第三論文にこうある。


現代文化においても、ある分野だけは「観念の万能」Allmacht der Gedanken が維持されている。つまり芸術の分野である。願望に胸をこがす人間が満足に似たものを創りだし、こうした行為がーー芸術的イリュージョン[künstlerischen Illusion のおかげでーーまるで実在のものででもあるかのように感情的効果を生みだすということは、芸術においてのみ行われることである。人が芸術の魔術[Zauber der Kunst]を語ったり、芸術家を魔法使いに比べたりするのも、もっともなことである。しかしこの比較はおそらく、それが要求する以上に意味ぶかいものなのであろう。芸術はむろん芸術のための芸術[l'art pour l'art として始まったのではなく、もともと、今日ではその大部分が消滅してしまった諸傾向に奉仕するものであった。これらの傾向の中には、さまざまの呪術的意図[magische Absichten]概念想像されるのである。(フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)


そしてこの前段にヒステリー における「観念の万能」の記述がある。


こうして基本的には、ヒステリー =芸術、強迫神経症=宗教、パラノイア=哲学(科学)となる。


フロイトにおいて強迫神経症はヒステリーの方言であり、神経症のベースはヒステリー である。

強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache(フロイト 『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年)


神経症は基本的には、自らのうちにある欲動を大他者に投射する症状である。ーー《投射の特徴…それは内部にある欲動的危険を外部にある知覚しうる危険に置き換えるのである。Charakter einer Projektion …indem sie eine innere Triebgefahr durch eine äußere Wahrnehmungsgefahr ersetzt. 》(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


神経症とは、内的な欲動を大他者に帰することによって取り扱う方法である。ヒステリーとは、口唇ファルスと融合欲動を取り扱うすべてである。強迫神経症とは、肛門ファルスと分離欲動に執拗に専念することである。(ポール・バーハウ Paul VerhaegheOBSESSIONAL NEUROSIS, 2001)

標準的症状は社会的症状である。その症状において人は社会的規範に従う。どの社会も制度を構築する。この制度とは、宗教から科学までの信念の象徴的システムである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, 2009


もっともパラノイア(妄想)も、最後のラカンにおいては神経症的幻想とメカニズムとしては変わらない。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire]〔・・・〕


ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. ](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009


妄想とは人がみなもつ穴に対する穴埋めである。例えば、《父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]》  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)とあるが、これは父の名は穴埋めという妄想ということである。父の名とは最も形式的観点からは「言語」であり、母の身体という享楽に対して父の言語という欲望がある。


「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé … ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010


ラカンは《身体は穴である[corps…C'est un trou]》( 1974, Nice)と言ったが、この身体の穴を、言語で穴埋めし秩序化するのが妄想である。


実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的お話だ。妄想はまた世界を秩序づけうる。En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009

言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


フロイトはこれを、回復の試み・再構成と言った。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)