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2022年1月30日日曜日

オープンレター対アンチOL

 


「オープンレター」講解 【しらなみのかげ特別号】|雁琳の『晦暝手帖』 を読む限りで、そして與那覇氏が十何回かに分けて書いていた内容をおぼろに想起する限りでの理解だが、オープンレター対アンチOLとは、純粋にラカンの「四つの言説」のなかの「大学人の言説」と「ヒステリーの言説」とのあいだの闘いに見えるね。





オープンレター側は大学人の言説だ。




大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、ドグマと仮定 (S1)の受容に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生み、さらなる知の創出(S2)を促す。



この隠蔽されているドグマ(S1)は、OLにおいては、何よりもまずフェミニズムイデオロギーだろう。


そして雁琳氏側はヒステリーの言説だ。






ヒステリーの言説に中心的なあり方は、不平不満 ($) の能動的形成である。そして、主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める。この言説は「真理」を抑圧している、すべての欲望は癒されえない欠如(a)の上に宿っているという真理を。そして典型的には、ナラティブ(S2) の「生産物」を生み出す。それは根源的欠如(a)を解決せず、さらなる苛立ち ($)を引き起こす。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)


Stijn Vanheuleは、主体$の宛先をS1を《主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める》としているが、これはいくらか別の形に解釈してもよい。例えばS1というイデオロギーに対して、《「どうして私はあなたがいうような私なの?」、あるいは、シェイクスピアのジュリエットを引用するなら、「どうして私はその名前なの?」と。》(ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.」2004)という主体$として。


ラカンのヒステリーの言説のヒステリーは標準的に捉えられているだろう「ヒステリー」とは異なることに注意。


ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」1982)

私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ[je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan, S24, 14 Décembre 1976)



大学人の言説自体、大学教師の言説に限らず、「知の言説」と言い換えてもよい。


四つの言説のベースにある基礎構造の基本的読み方は次の通り。



もういくらか詳しくは、「四つの言説基本版」を参照。