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2022年5月31日火曜日

教師とは分析される者であり、分析する者ではない

 

私が、あなたが、語ったことは、《それががどのように受け取られるか、決してわからない》。「私はそんなことを言っていない」と反論しても徒労である。


私が教師だとしよう。私は、しゃべらない者の前で、また、しゃべらない者のために、際限なくしゃべる。私は私と言う者である〔・・・〕。私は、知識を披露する〔外に置く〕という口実のもと、言説を提出する〔前に置く〕者である。それがどのように受け取られるか、私には決してわからない。したがって、私は、私を構成するような、決定的な、しかも、腹立たしくさえあるイメージで安心することが決してできない。 人が思っている以上にうまい呼び方だが、発表〔外に置くこと〕において、披露されるのは知識ではない。主体である。


Imaginons que je sois professeur : je parle, sans fin, devant et pour quelqu'un qui ne parle pas. Je suis celui qui dit je (…). Je suis celui qui, sous couvert d'exposer un savoir, propose un discours, dont je ne sais jamais comment il est reçu, en sorte que je ne peux jamais me rassurer d'une image définitive, même offensante, qui me constituerait : dans l'exposé, mieux nommé qu'on n'y croit, ce n'est pas le savoir qui s'expose, c'est le sujet. Roland Barthes, Ecrivains, intellectuels, professeurs, 1971 Tel Quel)




ここでバルトが言っている「主体」とは、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]、あるいは《シニフィアン私[le signifiant « je » ]》(Lacan, S14, 24  Mai  1967)であり、見せかけの主体である、《見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ]》(Lacan, S18, 13 Janvier 1971)


そしてラカンが《現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet.]》 (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)と言ったとき、この主体は斜線を引かれた主体である、《穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

[A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $]]》(J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


人はみなシニフィアンという幻想にて主体の穴を穴埋めして生きている。


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet]   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


だがリアルな穴は充分には埋まらない。ふとした弾みでその穴は現れる。穴とは欲動の現実界の穴、欲動の身体の穴である。欲動の身体、すなわち、《私の享楽の身体[mon corps de jouissance]》(バルト『テキストの快楽』)である。



欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)



私が語り続ければ、必ず穴が開く。あなたが語り続ければ、私はあなたの穴の声を聴く、ーー《私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]》(Lacan, S20. 15 Mai 1973)



精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。


しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけに一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971年)



バルトは教師についてこう言っているが、これは教師に限らない。ただ話すことが職業である教師にテキメンに観察される。話し続ける教師とは分析される者であり、分析する者ではない。


これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるように要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ、教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分にあたえられるものであり、剰余である。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971,Tel Quel)



……………


ここで、上に記した内容とはいくらか理論的水準が異なるとは言え、今まで何回か掲げてきた「大学人の言説」についていくらか簡単に触れておこう。

 ラカンの四つの言説理論[参照]のうちのひとつの大学人の言説ーーこの大学人とは教育機関としての大学に限らず、知の言説、専門家の言説だがーー、次のような欠陥がある。

大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、ドグマと仮定 (S1)の受容に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(剰余享楽)の場に置かれる。これは不満($)を生み、さらなる知の創出(S2)を促す。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)



この言説の核心はドグマを隠蔽しつつの中立を装った言説であり、飼い馴らされていない仔羊たちに知を発布する。





構造的にはどの知の言説もこうなっている筈である。もっとも最近の若い知の言説の受け手には、不満も感じない徹底的な仔羊がいるようだが。例えばウクライナ戦争における国際政治学者やら軍事評論家の紋切型言説にまったく不満を抱かずひたすら頷いている輩が3カ月もたつというのにまだウヨウヨいるようだから。



主人の言説では、一つのシニフィアン(S1)が、他のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)に対して斜線を引かれた主体($)を代表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余、ある残滓、あるいは「排泄物」[some disturbing surplus, some leftover or "excrement,"]を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残滓aと「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。


大学人の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。The discourse of the university immediately takes this leftover for its object, its "other," and tries to transform it into a "subject" by applying to it the network of "knowledge" (S2). This is the elementary logic of the pedagogical process: 


「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子供)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。out of an "untamed" object (the "unsocialized" child), we produce a subject by means of an implantation of knowledge.


この言説の「抑圧」された真理は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見せかけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである[The "repressed" truth of this discourse is that behind the semblance of the neutral "knowledge" that we try to impart to the other, we can always locate the gesture of the master. ](ジジェク『斜めから見る』1991 年)



ここでジジェクが言っている抑圧された主人の身振りの代表的なものが先に掲げたStijn Vanheuleの言うドグマである。


人はみな、教師が、例えば国際政治学者たちが、ツイッターやYouTubeなどで中立を装って語っているのを眺めるのなら、隠蔽されているその主人(支配者)の身振りを、そのドグマを見透かす習慣を持たねばならない。