超自我かい?「「言語と身体」なる「自我とエス」」では敢えて外したんだよ、 超自我はとっても難しいんから。ラカンは冗談を言ってるぐらいで。 |
私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)[la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] ](Lacan, S18, 10 Mars 1971) |
この意味は逆に、ラカンはフロイトの超自我のことばっかり考えてたということだ。 |
私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]( Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977) |
上の文はマジだが、先のラカンが冗談を言っているのは、フロイトの超自我の記述がひどく曖昧で捉え難いということもある。例えば、フロイトは、超自我概念を初めて提出した『自我とエス』第3章で次のように記している。 |
自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる[eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist](フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
この記述からは通常は超自我は自我理想と等価と捉えがちであり、例えばドゥルーズはそう捉えた[参照]。日本なら柄谷行人の憲法超自我論もそうだし、中井久夫も超自我と自我理想の区別ができていない。世界的にも、フロイト研究者でさえ、現在に至るまでほとんど同様。 でも同じ『自我とエス』第5章には、超自我はエスの代理とある。 |
超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代理としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
他方、自我理想はどうか? |
自我理想は父の代理である[Ichideals …ist ihnen ein Vaterersatz.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、摘要、1921年) |
エスの代理としての超自我と父の代理としての自我理想はまったく異なった審級にある。 ここからは真にマジのラカン。 |
要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。 l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (Lacan, S24, 08 Février 1977) |
《自我理想は象徴界で終わる》とは、自我理想は言語の審級にあるということだ。 |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
他方、超自我は現実界であり、対象aの穴。 |
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
穴とは身体(欲動の身体)のことであり、超自我は身体の審級にあるということだ。 |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
とはいえ、欲動とはエスの欲動ということなのだから、じゃあエスと超自我はどう違うんだい?という話になる。ここからが説明するのがひどく難しい。僕は何度も超自我をめぐって記しているが、ああ、これでは誰もワカンネエだろうな、と思いつつ書いているところがある。 ま、鍵用語は固着なんだけどな、当面➡︎「超自我文献:超自我原抑圧固着の一致」。でもこれでは足りず、さらに固着ってなんだい、という話になる。「固着とは何か」? これもフロイトラカンプロパーでさえほとんどワカッテネエよ、少なくとも日本フロイトラカン派は全滅だね、唯一、蚊居肢子だけさ(笑) |