内田樹が里山セカンドハウスの話をして非難轟々のようだが、彼は日本沈没によって飢えないように準備しないとな、と言っている点は評価できるんじゃないか。ただ事実上、生活に余裕がある層への提言であり、そこに強い反発が生まれたということだろう。(実際、余裕層は兼業農家の準備の話をしているのをしばしば見かけるがね)。
私はもともと内田樹に批判的な人間だがーー特に山本太郎応援団としての彼にーー[参照]、この家庭菜園(ダーチャ)については以前少しだけ調べたことがあり、ソ連崩壊後のロシアを救った重要なシステムだったことは間違いない。
もともと内田樹はコミューンの話をしており、この里山セカンドハウスもその一環だろう。
コミューンつまり可能なるコミュニズムだ。
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彼らは叫ぶ。コミューンは、あらゆる文明の基礎である所有を廃止しようとしている、と!いかにも、諸君、コミューンは、多数者の労働を少数者の富と化する、あの階級所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、いまはもっぱら労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本とを、自由でアソーシエイトした労働のたんなる用具に変えることによって、個人的所有を真実にしようと望んだ。 |
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Die Kommune, rufen sie aus, will das Eigentum, die Grundlage aller Zivilisation, abschaffen! Jawohl, meine Herren, die Kommune wollte jenes Klasseneigentum abschaffen, das die Arbeit der vielen in den Reichtum der wenigen verwandelt. Sie beabsichtigte die Enteignung der Enteigner. Sie wollte das individuelle Eigentum zu einer Wahrheit machen, indem sie die Produktionsmittel, den Erdboden und das Kapital, jetzt vor allem die Mittel zur Knechtung und Ausbeutung der Arbeit, in bloße Werkzeuge der freien und assoziierten Arbeit verwandelt. 〔・・・〕 |
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もし協同組合的生産が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキーと周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるコミュニズム」以外の何であろう。 |
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Wenn aber die genossenschaftliche Produktion nicht eitel Schein und Schwindel bleiben, wenn sie das kapitalistische System verdrängen, wenn die Gesamtheit der Genossenschaften die nationale Produktion nach einem gemeinsamen Plan regeln, sie damit unter ihre eigene Leitung nehmen und der beständigen Anarchie und den periodisch wiederkehrenden Konvulsionen, welche das unvermeidliche Schicksal der kapitalistischen Produktion sind, ein Ende machen soll – was wäre das andres, meine Herren, als der Kommunismus, der 'mögliche Kommunismus'? |
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(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1871年) |
なおマルクスは「私的所有」を否定したが「個人的所有」を否定したわけではない、▶︎「俗に知られている共産主義と俗に知られていない共産主義」
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ここでマルチチュードからコモンティスモに以降したアントニオ・ネグリの発言も掲げておこう。 |
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マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018) |
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なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018) |
さて話を戻せば、コミューンであれダーチャであれ、最後は飢え対策だよ、それへの警鐘として安易に馬鹿にする話じゃないと思うがな。


