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2022年2月6日日曜日

おれは六十で/君は、十六だが、/ それでも、君は/ おれのお母さん。


ネットで金子光晴の或る詩句の前後はどうなっているのだろうと探っていたら、それだけではまったくなく膨大な引用に行き当たった。『定本金子光晴全詩集』がすべて引用されているように見える(敢えてリンクは貼り付けない)。

昨晩その三分の一程度は飛ばし飛ばし読んでみたのだが、ここではそのなかから気に入った箇所のサワリをいくつか列挙。

…………


 『君、すべての男は……すべての男だよ。一人でも多く異つた種類の女を欲するものなのだ。もし、さうでない男が在るとしたら、その男は無智識であるか、或ひは、臆病で自信がないといふことだけなのだ……』

と、Mが云つた。


『あなた、ちつとも女に就いて御存じがないのネ。女は、あなたのやうな物質的に貧弱なものの御考方に御相伴したがらないものよ。え、一人殘らず……贅澤な飼猫になりたいのよ。誰だつて妾になりうるのよ。もしさうでない女があるとしたら、その女は、そんな世界をしらないとか、或ひは、自分の力に就いて、魅惑に就いて自信がないとかいふこと丈なのですわ……』


とH子が、正面から私のSimpletonを揶揄した。


ーー海邊日記  金子光晴





愛情 1


 愛情のめかたは

二百グラム。


 僕の胸のなかを

茶匙でかき廻しても

かまわない。

どう? からつぽだらう。


――愛情をさがすには

熟練がいるのだ。

錠前を、そつと

あけるやうな。


――愛情をつかまへるには

辛抱が要る。

 狐のわなを

しかけるやうな。


 ――つまり、愛情をおのがものにするには大そうな覺悟が要るのさ。

愛情とひきかへにして、

ただより安く、おのれをくれてやる勇氣もいる。


 おのれ。そいつのねだんは

十三ルピ。




愛情 2


 おれは六十で

君は、十六だが、

それでも、君は

おれのお母さん。


 おお、おれの小さな耳搔きさん。

いとしいちりれんげ。


 海邊の白砂の

しめつたはだを、

さざなみがよせ

さざなみが退く。


さざなみが退き

さざなみがよせ、

いつかは、君はゐない。

いつかはおれもゐない。


 ありし日の君の

その頰は菫いろで

くちびるのいろは白。


 君のおへその蜘蛛の巢から

 はるばるきこえてくる

それは

むかしの子守唄。


 君のなげだした兩ももの

おくに

なにがあつても

どうでもいい。




つい最近引用したばかりだが、ここでも挿入しておこう。


ーー《quoad matrem(母として)、つまり女なるものは、母として以外には性関係へ入ることはない[quoad matrem, c'est-à-dire que La femme n'entre en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que la mère ]》(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)




愛情 4


 S・S孃よ、

その卵のやうなお尻を

すこしばかり

さすらせておくれ


 ほんのすこしばかり

君が氣にならぬほどでいいのだ。

ゆめゆめエロティスムなどと

いふやうなものではないのだから。


 君なら、そんなことを

すぐ忘れてくれられるだらう。

刑法などといふ

むづかしい問題ではない


 S・S孃よ。君のお尻の

なめらかさは、すばらしい。

きつと、僕の陰氣なこころが

あかるい方へ辷りだすのに

手をかしてくれるにちがひない。



ーー愛情69    金子光晴



犀星の《君は十四歳の膝といふものを僕に見せてくれたことがあるか》ってのも思い起こすね。


でもこういったのは理論的にはーーあくまで「理論的には」だけだがーーエディプス人格だと起こらないから、女性のみなさん、母親役がイヤだったら、家父長制ガチガチ男とのみとお付き合いなさることをオススメします。



父の隠喩は母を女に変える。La métaphore paternelle transforme la mère en femme…


(隠喩なき)父の機能は(隠喩とは反対に)女を母にするように見える。La fonction paternelle semble alors faire (contrairement à la métaphore) d’une femme une mère. (Sylvette PERAZZI , LES TROIS PERES ou la fonction paternelle, 2019)


ーー父の隠喩と父の機能が対比されていますが、後者は事実上、母の穴の境界表象に過ぎず隠喩機能はありません。父の隠喩こそ正統的なエディプス的父の名(家父長制システム)の効果をもっています。


もっとも一神教国でないと父の隠喩は事実上、機能していないという話もあるので、母親役をやりたくない女性は、東洋の男性はすべて避けたほうがよいかもしれません。弘法大師も昔から言っています、ーー《一切女人是我母(一切の女人これ我が母なり)》(弘法大師空海『教王経開題』)


さらにより厳密にラカン的に言えば、学園紛争前後に、父の蒸発[évaporation du père]あるいはエディプスの失墜[déclin de l'Œdipe ]が欧米先進国では起こっています。とすれば母親役がオキライな女性は結婚自体をおやめになったほうがいいか、アフリカあたりの父権的部族社会の男を探すべきです。おおむねオチンチンが硬くてデッカイから一石二鳥になることでしょう。







もっともアフリカといっても、若年からのコテカ(ペニスケース)常用習慣のある部族は見掛け倒しで、オチンチンの生育がひどく悪いという噂があるのでお気をつけを。









2020年8月4日火曜日

上海の酸っぱい人間臭




朋子は、男というものが嫌悪だった。だんだん彼女にとって、生きるための便宜になってゆくのが腹立たしいのだった。ーー上海というところがいけないのだ。上海が私をこんな私にしてしまったのだ。と、彼女は考えた。だが、それまでにしても立去りがたい魅力が上海にはあった。ーーなんだろう? と、彼女は考えた。なんだかよくわからないが、人間的な哀しい臭気がしみついて忘れられないようでもあり、徹底の魅力のようでもあった。古田は一口に、「海外だからさ。自由なんだよ。」と、片付けた。そうかもしれない、と彼女はおもった。 (森三千代「髑髏杯」)
街の体臭も強くなった。その臭気は、性(セックス)と、生死の不安を底につきまぜた、蕩尽にまかせた欲望の、たえず亡びながら滲んでくる悩乱するような、酸っぱい人間臭であった。いつのまにか、私のからだから白い根が生えて、この土地の精神の不毛に、石畳のあいだから分け入って、だんだん身うごきが出来なくなっていくのを私はひそかに感じとっていた。上海ゴロという名が、私のみずおちのへんに、金印(やきいん)となっ てはっきりあらわれ出るのをおぼえ、私の屍体の土嚢のような重たさが日に日に加わっていて、よそには運び出せないものになってゆくのを、ひとごとのように眺めているよりほかはなかった。(金子光晴『どくろ杯』)




この連中の青春は、成長するよりも先に、すり減ってしまった青春であった。彼らのアナルシズムは、無気力とでたらめの破滅の淵ということに尽きていた。たまたま、女をつれて駈落してきたものも、その女を手放して、まわし持ちという結果になるに決っていた。男がそうさせまいとしても、女がはやくも周囲の感化を受けて、勝手放題にうごきだす。歯止めのきかない第一の理由は、そもそも上海というところが、アナルシズムでできた町であるからだ。( 金子光晴『どくろ杯』) 
そんなに自由はいいものにちがいないのだが、それを味わうのはわずかな瞬間だった。須貝と苦労したり、小柳にぶらさがったり、ハンチンスンに囲われたり、劉の妻になったり、斎田と自滅的な共同生活をしたり、やっていることとはすべて、自由を自分でしばりつけて、狭い在留邦人の間で噂の種になって、どこまでおっこってゆくかわからない、そして、男達と別れた瞬間丈、のびのびと呼吸をするにすぎなかった。だが、すぐ、これからどうしよう、ということがあった。 (森三千代「髑髏杯」)







日本の旅館や、商店が並んで、門口に笹を立て、かたちばかりの正月飾りをしていた。 呉服屋の店窓には、大きな押絵の羽子板がかざってあり、初春めいた駘蕩とした気分が、わずかにこの街のへんだけにながれていた。平静にはちがいがなかったが、その底に反日の気運が盛りあがって、次の歳、一九三二年は、あんまりいい年では なさそうだという予感を誰もが抱いていた。そんな浮き立たない気分が反映しているせいか、年のくれらしく活気がなく、ひっそりとしていた。遊興の巷だけが、不景気しらずな顔をしてどんちゃん騒ぎ立っているのさえ不自然な感をふかくした。 あそんで、昼前から酔っぱらっている人達の顔ぶれ、職業を点検すれば、アブノーマルな世相のうごきがよくわかった。呉淞路の大通りを、三人の紳士が肩を組み、上海の在留邦人達は、続々とあがってくる陸戦隊の行進を迎えて、熱狂した。閘北 一帯には、蔡廷楷のひきいる十九路軍の精英が集結していて、一触即発の危機が眼の前に迫っていた。( 森三千代「根なし草」)




須貝の友人のコムミュニストやアナキストの仲間から戦争の悪をきかされて一応 納得していた朋子は、一方浪人組の小柳達から、戦争による以外日本民族の活路は ないことを説かれ、それももっともとおもうようなありさまで、正直を言うとどっちだかよくわからなかった。ただ、生活がにっちもさっちもゆかず停滞している現在、そこになにか、新しいはけくちがみつかりそうな、あてのないながらかすかな期待があった。案外、多くの人の気持も、大同小異におもわれるのであった。人垣のうしろから行軍をみながら、彼女も、心強さとときめきをおぼえないわけにはゆかなかっ た。( 森三千代「根なし草」)





建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた私は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。(芥川龍之介『上海游記』)




問。仏蘭西租界なぞへも行ったかい? 
答。あの住宅地は愉快だった。柳がもう煙っていたり、鳩がかすかに啼いていたり、桃がまだ咲いていたり、支那の民家が残っていたり、―― 
問。あの辺は殆西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いじゃないか? 
答。西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだった。
問。君がそんな西洋嫌いとは、夢にも僕は思わなかったが、―― 
答。僕は西洋が嫌いなのじゃない。俗悪なものが嫌いなのだ。
(…)
問。すると君は上海の西洋には、全然興味を感じないのかい?
答。いや、大いに感じているのだ。上海は君の云う通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ悪かれ西洋を見るのは、面白い事に違いないじゃないか? 唯此処の西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違いのような気がするのだ。(芥川龍之介『上海游記』)




何でもXと云う日本人があった。Xは上海に二十年住んでいた。結婚したのも上海である。子が出来たのも上海である。金がたまったのも上海である。その為かXは上海に熱烈な愛着を持っていた。たまに日本から客が来ると、何時も上海の自慢をした。建築、道路、料理、娯楽、――いずれも日本は上海に若かない。上海は西洋も同然である。日本なぞに齷齪しているより、一日も早く上海に来給え。――そう客を促しさえした。そのXが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあった。――「骨は如何なる事情ありとも、必日本に埋むべし。……」 

私は或日ホテルの窓に、火のついたハヴァナを啣えながら、こんな話を想像した。Xの矛盾は笑うべきものじゃない。我々はこう云う点になると、大抵Xの仲間なのである。(芥川龍之介『上海游記』)






今日でも上海は、漆喰と煉瓦と、赤甍の屋根とでできた、横ひろがりにひろがっただけの、なんの面白味もない街ではあるが、雑多な風俗の混淆や、世界の屑、ながれものの落ちてあつまるところとしてのやくざな魅力で衆目を寄せ、干いた赤いかさぶたのようにそれにつづいていた。かさぶたのしたの痛さや、血や、膿でぶよぶ よしている街の鋪石は、石炭殻や、赤さびにまみれ、糞便やなま痰でよごれたうえを、落日で焼かれ、なが雨で叩かれ、生きていることの酷さとつらさを、いやがうえに、人の身に沁み,こころにこたえさせる。(金子光晴『どくろ杯』)




2020年8月3日月曜日

女の一生を詩ふ

引き続き金子光晴の引用(ネット上から拾ったもの)。

じぶんが苦しんで、あひての苦しみの肩代りをしたつもりでも、それは、むだなことだ。あひてがそれで助かるわけでもない。それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、おなじものを別の感性で受けとり、おなじことばで、別のなかみを喋るその齟齬(くひちがい)に気付かぬあひだは安泰だが、たがひの足並みが乱れ、ふたつのこころの隙間や、がたつきが気になりだしたら、それこそ百年目で、男の人生では、女の生きかたが無意味にみえるし、女の人生では、男の生きかたが非道としかおもはれない。それにしても、男にも、女にも生きるといふことは難儀なことだ。とりわけ、男にとつては潔白に、女にとつてはうつくしく生きることは。男と女がよりあつて、愛情の像を築きあげることはもつとむづかしい。 ひきはなされてゐて、たがひにもとめあふこころのなかだけで湧くきよらかな泉。 男と女とで編む日常の一目 一目が生きるといふことで, そのほかはおほむねむなしいことを、人は忘れがちだ。(略)

淑徳や、貞操にしばられた非力な女たちの念珠を繰るやうな日々の倦さは、狡猾で、わが儘で、うぬぼれのつよい私達男のしむけた結果ではあるが (略) 愛情もまた、喰ひつ喰はれつするものだ。喰はれることで、喰つたものよりもゆたかになることもあるし、喰つたために阿修羅道に墜ちる人間もゐる。 男と女の別々なエネルギーは, 永遠に理解することのむづかしい双方の宿命から、どちらかを荒廃させる結果となることがわかつてゐればこそ、なほさら二つのいのちが牽かれあひ、一つにならうとする。 その破滅的な接触の瞬間をおいては、男と女がエゴをはなれ、肝胆を照らしあへる機会はないといふ。(略)
いつの時代にも女の人は、そのときのはやりを身につけて、変身(メタモルフオーゼ)しながら、ほのぼのとした肌あかりで存在の中心部をうきあがらせてみせた。私達男は、一生の大部分を、女の人への関心とかかはりあひで、むなしくつかひすててきた。(略)

敗戦後のアマゾンは、学校で、家庭で、職場で、男たちと対等にはりあふやうになりはしたが、それはただ、男たちに背丈が届くといふだけのことで、女の虚落は、埋めやうもない。むなしい故にひとしほに、あえかにうつくしい女の開花。産みおとしたいのちを、むざんに殺める男たちの専断への女のかなしい憤り。娘や、妻や、母の切れ目のない行列はどこまでもつづいて、晴れの若さでかがやく美貌が、つぎつぎに受けわたされる。それをながめては見送るだけで、しらぬまに十年、二十年が、私の一生が過ぎてしまひさうだ。(金子光晴「女の一生を詩ふ」)


これもとってもいい、とくに《男と女とは、人間であることでは平等だが、おなじものを別の感性で受けとり、おなじことばで、別のなかみを喋る。その齟齬(くひちがい)に気付かぬあひだは安泰だが、たがひの足並みが乱れ、ふたつのこころの隙間や、がたつきが気になりだしたら、それこそ百年目で、男の人生では、女の生きかたが無意味にみえるし、女の人生では、男の生きかたが非道としかおもはれない。》なんて。

何度か引用しているクンデラ よりずっといい。

ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)

金子光晴の「女の一生」は、究極的には「人間の一生」なんだろうけど。マグリット的に言えば、「「人間の条件 La condition humaine」( 1933)だ。







部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。これが、我々が世界を見る仕方である。我々は己れの外側にある世界を見る。だが同時に、己れ自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。(ルネ・マグリット, “Life Lines”ーー人はみなフェティシストである


イマージュ(事物表象)自体、言語によって構造化されているわけで、あるいは「絵画は他の言葉では表現することができない言語活動だ」(バルテュス)であり、これらは言語を使用して生きている人間の宿命だな。

なんだろう、伝達の言語ゲームとは?

わたくしは言いたい、あなたは、ひとが誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。すなわち、われわれは会話における言語を通したコミュニケーションにあまりにも慣れすぎているから、コミュニケーションの全眼目が、わたくしのことばの意味ー-何か心的なもの-ーを他人が把握し、いわばそれを自分の精神の中へ拾い上げることのうちにあるように,われわれには思える。そのときかれがそのことによってさらに何かやり始めるとしても,それはもはや言語の直接目的の一部ではないのだ,と。

Was ist das Sprachspiel des Mitteilens?

Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. Wenn er dann auch noch etwas damit anfängt, so gehört das nicht mehr zum unmittelbaren Zweck der Sprache.(ウィトゲンシュタイン 『哲学探究 Philosophische Untersuchungen』 363節、死後出版1953年)


とはいえーー「そっくり騙されてゐたとしても」ーー、ヒト族はこの宿命を楽しむ他ないね。

生きてゐるなんてことは、いかほど合理化してみても、むごたらしいことにかはりない。犠牲なく一日も生きることはできないのだ。僕の自叙傳はおほむね、凡庸な一人の矮人(せひくおとこ)が多くの同類のあひだに挟まつて、不意打ちな『死』の訪れるまでを、どうやつてお茶をにごし、目をふさぎ、耳をふさぎ、どうやつて真相と当面するのを避けて、じぶんたちの別な神、別な哲学、別な思想で、どん帳芝居にうつつをぬかしたかといふこととなるのだ。(金子光晴『人間の悲劇』1954年ーー



この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。

ーー金子光晴、79歳 死の前年(吉行淳之介対談集『やわらかい話』より)





2020年8月2日日曜日

そっくり騙されてゐたとしても


おもうふこと。―あゝ、けふまでのわしの一生が、
そっくり騙されてゐたとしてもこの夕栄のうつくしさ    金子光晴


とてもよい詩句だな、なんという名の詩か、いつ書かれたものかもわからないが。たぶん最晩年じゃないだろうか。

才うすくして詩などにとり憑かれたことは、性のわるい女郎に入れあげて、尻の毛まで抜かれるのと、いずれが甲乙をきめがたい。(金子光晴『どくろ杯』1971年)

 葉うら、薬おもてにうみつけられた卵は孵り、幼蟲は八方にわたりゆき、芽をくらひ、葉を穿つて、綠をはぎ取つて糧とし、『昇天のよき日』にそなへるために、いまの身のみにくさのかぎりを悟つてゐる。毛で蔽はれた蟲、裸の蟲、毒の細鱗、ふるへる觸手、うすい殻で、かたい甲で、織毛の銀で、卷づるのぜんまいで、粘膜で、竹紙のやうなうすい脈翅で、さらりとした皮膚で、ぬらつとした肌で、糞土の地から黑徽の天まで、一分一秒のすきまもなく、おしのけ、からみ、首をしめ、肥え、ふくれ、漲り、ふりそそぎ、瞑眩し、朦朧となり、一つの血管から、よその血管に生血がうつされ、あひてのいのちが衰へることで他のいのちが榮え、不断に輪廻し、循環し、分泌し、排池し、射精し、炭酸瓦斯を發散し、恥もしらずに姦淫し、繁殖し、時空の外まで氾濫しながらも、全體がひしげたかたちに大きくゆがみ、それ自身の『業』の重量(おもみ)で、解體の方向へ傾いてゆくありさまは、もはや、地球がこれ以上の生命をのせきれない極點をみてゐるやうである。

 生きてゐるなんてことは、いかほど合理化してみても、むごたらしいことにかはりない。犠牲なく一日も生きることはできないのだ。僕の自叙傳はおほむね、凡庸な一人の矮人(せひくおとこ)が多くの同類のあひだに挟まつて、不意打ちな『死』の訪れるまでを、どうやつてお茶をにごし、目をふさぎ、耳をふさぎ、どうやつて真相と当面するのを避けて、じぶんたちの別な神、別な哲学、別な思想で、どん帳芝居にうつつをぬかしたかといふこととなるのだ。(金子光晴『人間の悲劇』1954年)

老人のゐるところはどこでも地底に通ふが、僕らがはじめて生をうけた女胎の内襞も、どこかで地底のくらさとつながり、そのおなじやはらかい壁をへだてて、いつも焔の燃えあがるやうな、生活のどよめき、太鼓の音が、股々と踏みとどろいてゐる。そのくらやみの猩々緋が、たとえ墓穴に似てゐても、早合点は禁物で、人間に死の安楽などはない。一旦身を横へれば、僕らのまわりで眠つてるた蛇、蠍が早速、首をもちあげ、毒針の尾を巻きあげて、物の煮えるような音をさせてくつくつとさわだちはじめるのである。(金子光晴『IL』1965年)


2016年4月14日木曜日

スフィンクスの謎の崩壊

いやあ、まいったね
なにげに引用したけどさ
エロ画像や動画が人を変えてるってのはな
じつにそうかもしれないってわけでさ

オレが早かったのか遅かったのか
それとも生得の変態だったのか
よくわからないが
中学一年にはSMマガジンに目が眩んでさ
とくに団鬼六の愛読者でさ

あの頃は女の股のあいだがどんな具合で
どんな反応しておつゆが滲んだり滴るのか
その探求に人生賭けてたんじゃないか
この少年のオレは





でも最近の若いヤツは
ネットのワンクリックで具合が分かるんだろ
あっさり分かっちまったら
人が変わるのも当然さ
フロイトのスフィクスの謎
影が薄くなるに決まってる


とすれば金子光晴や荒木経惟の衝迫も
若い連中にはたいして縁のないものとなるんだろうか

「この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している」

「目もだいぶみえなくなってきたが、
女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい」

ーー金子光晴、対談当時、79歳ーー吉行淳之介対談集『やわらかい話』)




おい、どうなんだい?
ふるさとの具合に思春期から馴染んでいるらしいきみたちよ!

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』)

アポリネール読んだってだって
たいしてワクワクしないんだろうか、きみたちは

階段から落ちたショツクと恐怖のために、 彼女はまるで落雷に打たれたようだった。ぼくはといえば、 姉がぼくをびっくりさせようとしているのだ、 とばかり信じていたし、 それにぼくの心中では、 かわいそうにという気持ちよりも好奇心のほうが先に立っていた。

彼女の下半身むき出しになった部分から、ぼくは目をそらすことができなかった。ぼくは彼女の下腹が太腿と合流する場所、奇妙な台地、ブロンドの下草がチョロチョロとのぞいている、三角地帯《デルタ》の、脂ののった丘に目を凝らしていた。 ほとんど、 二本の太腿が合流するあたりの部分で、 丘はほぼ三センチメートルばかりの太い裂け目で両翼に分断され、 二つの唇で分けられていた。 姉が起き上がろうと、 一所懸命骨を折っているときに、 ぼくはこの裂け目が消えてなくなる部分に目を凝らしていた。

おそらく彼女のほうは、 自分の下半身がむき出しになっているなどとはまったく考えてもみなかったにちがいない。 というのは、 それでなければ彼女にしてもめくれた洋服の裾を下ろしただろう。 ところが彼女はやにわに、 足を下に下げながら太腿を開いた。 そこでぼくには、 太腿をつぼめていたときに見えていた前端の部分が、 尻の近くで合流するのにどんなふうにして流れを描いてゆくか、 その有様がはっきりと見えた。(アポリネール『若きドン・ジュアンの冒険』須賀慣訳)





ところで若い女たちの電マやバイブの使用率って
どうなってんだろ
すこし調べてみたが信憑性がうたがわしいんだな
働く女性の66%が使用している」ってのはな、
いくらなんでも多すぎるんじゃないか?

オレは三十過ぎにはじめて
ペニス状のシリコンバイブ使ってみたけどさ
三人の女性だな
一人は潮吹いちゃったよ
しかもそれがまだ若い女の子なんだな
高校卒業したての食堂バイトの女の子
性交ではそんなことは一度もなかったのに

で、きみら若い男たちは女たちに常用するんだろうか
オレはすぐ退屈したが
退屈したってのは嘘だな
これ使い続けたらオレのオチンチンなんだって感じだったな







2014年12月3日水曜日

ガガンボに尼っ子の肢腫れあがる

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
 大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)


私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。悪人は――悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独といふ必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないといふ崖があるのだ。善人尚もて往生を遂ぐ況や悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、然し、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、そして、又、私自身神サマにならうなどと夢にも考へてゐないけれども、孤独の性格の故に私は悪人を愛してをり、又、私自身が悪人でもあるのである。けれどもそれは孤独の性格の故であり、悪人の悪自体を正気で愛し得るものではない。(坂口安吾『蟹の泡』)



男はたしかに凡夫にすぎない。ソノ子のお尻の行雲流水の境地には比すべくもないのである。水もとまらず、影も宿らず、そのお尻は醇乎としてお尻そのものであり、明鏡止水とは、又、これである。 

乳くさい子供の香がまだプンプン匂うような、しかし、精気たくましくもりあがった形の可愛いゝお乳とお尻を考えて、和尚は途方にくれたのである。お釈迦様はウソをついてござる。男が悟りをひらくなんて、考えられることだろうかと。(坂口安吾『行雲流水』)




恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで 
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼蟲どもに
くすぐられてゐる。 

あなたにのこりなく消化され、 
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しずみながら
あなたをみあげてもよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ぱたんと出て行ってしまった。

   金子光晴 「もう一篇の詩」『人間の悲劇』