@cbfn: ”文学嫌い”を標榜する者の或る類型「文学は空虚な夢物語の玩弄にすぎない」という言い草。間抜けな文学教育の裏返し、文学はあらゆる夢物語への否定であることを知らない連中の愚妹にすぎない。ネルヴァルの「夢の物語」すら本質にあるのは「現実という夢を現実だと思っている夢想家への憎悪」である
@cbfn: 誰もが知るように、「現実主義者」とは「現実は夢ではない」と思い込んでいる最悪の夢想家に過ぎない。実際かれらの大方は妙に夢見がちな目つきをしている。
@cbfn: 「芸術などなんの役にも立たない」という発話は論理の基礎からいって「芸術とよばれるもの」の存在を信じている人間によってのみ発話される。従って芸術を擁護するという無意味な動作を維持せねばならないなら、答えは簡単で、「芸術というものは存在する」と思い込んでいる者を笑うことである。
「文学は空虚な夢物語の玩弄にすぎない」--たとえばこの文を「文学は理想の女の玩弄にすぎない」と言い換えてみよう。ひとは実は「理想の女」を書きたいのではないか。これはなにも文学の話でなくてもよい。真の思想家は、たとえば「理想の民主主義」を書きたいのではないか、としてもよい。だが、書くことはそれを裏切ってしまう。もちろんそれは「理想」でなくてもよい。中上健次はその『枯木灘』で途中までは父を殺すつもりの「物語」を書いていただろう。だが殺せない。書いているうちにその「物語」を廃棄せざるをえなくなる。
確かなことは、根拠を放棄するという身振りを前提として『枯木灘』の筆が起こされたのではないという事実だろう。中上健次が物語から身を引き離すのは、書くという実践的な過程そのものを通してであり、いわばエクリチュールによる根拠の放棄がテクストとして生成されているという点に、この長篇の優位と困難とが認められるということなのだ。『枯木灘』の文章のある種の読みにくさは、その証言でしかない。つまり、勝算があっての上で物語の廃棄を試みているわけではなく、むしろ物語的な構造の安定性に進んで埋没するという誘惑をたえず実感しながら、おそらくは一字書き、一行書き綴るというほとんど肉体的な作業によって誘惑を回避するものであったに違いない事態の推移そのものが、この長篇の言葉にただならぬ震えや脈動を与えているのだと思う。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)
たまたまツイッターで拾ったのだが(すなわち出典不明)、蓮實重彦はこうも言っているようだ、「よく知っていると思い込んでいることにかぎって、誰もほとんど何も知らずにいることがしばしばある」「とりわけ複雑なものとも思えない問いではあるが、いったん律儀に答えを準備しようとすると、それがかえって問うことの根拠まで吟味させざるをえないことに誰もが当惑するしかない」
中上健次は、父への殺意をよく知っていると思い込んでいた。だが書き進めるうちに、その根拠を疑わざるを得なくなる。これがエクリチュールというものだ。物語を綴ることは決してエクリチュール(書くこと)ではない。それは綴り方にすぎない。
坂口安吾のエッセイを読んでいると、彼はそのことばかり言っているようにみえる。小説そのものは、彼の場合眼高手低気味で、その多くの小説がよくできたものであるとは言い難いと感じてしまうことがある。だが、ときに言葉は震え脈動を伝える。それが尊い。坂口安吾の書き物に、「なつかしい」という言葉がふと呟かれるとき、それが彼なりの「理想」であることは間違いない。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られたような空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。その余白の中にくりひろげられ、私の耳に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。(……)
そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。(坂口安吾『文学のふるさと』)
柄谷行人はこの文を引用して次のように書いている。
彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』P189)
フロイトはわれわれを ab-sens [非-意味]が性を指し示すということに同意させる。このsens-absexe のふくらみにおいて、語が決するところで一つのトポロジーが展開する。(Il n'y a pas de rapport sexuel ---Deux leçons sur <<L'Étourdit>> de Lacan Fayard, 2010)
ここでバディウついでに、文脈からは外れるが、ジジェクが引用する次ぎの言葉を引用しておこう。
現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義であるというバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の急進−根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳)
ーー民主主義の理想を考えていったら、自ずとこのような結論になるということではないか。
さて、安吾の小説の「名品」から、「なつかしい」と書かれる文をひとつだけ抜き出しておこう。
坂口安吾の1948(昭和23)年に書かれた「わが思想の息吹」にはこうある。
次ぎの文は、上に引用した蓮實重彦や丹生谷貴志の批評の言葉の内実、あるいは中上健次がやった「エクリチュール」の実践のあり方について、安吾らしいインティメートな言葉で書き綴っている。
◆ 理想の女(坂口安吾)より
私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」)
坂口安吾の1948(昭和23)年に書かれた「わが思想の息吹」にはこうある。
「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)
「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。
このことは、私の自伝的な作品に就ても云えることで、たとえば「二十七」は河上徹太郎とか、中原中也とか、実在の人が登場するけれども、そして、あそこに描かれていることに偽りはないのであるが、然し、それゆえ、これを実話と見るのは間違っている。これは小説なのである。
なぜなら、あれは、いわゆる私小説とは趣きを異にしている。私小説というものは、事実を主体とするものであるが、私の自伝的作品の場合は、一つの生き方によって歪められた角度から構成された「作品」であって、事実ということに主点がない。
だから、何を書いたか、何を選びだして、作品を構成したか、ということに主点があり、これを逆にすると、何を選ばなかったか、何を書かなかったか、ということにも主点があるわけだ。
然し、何を書かなかったか、ということは、私と、書かれた当人しか分らない。読者には分らないのである。私の作品に書かれた実在の人々の多くは、私にザンコクに露出せしめられたということより、あるいはむしろ、私に「いたわられている」という印象を受けはしないかと思う。
その意味に於て、私の作品はアマイという批評も有りうると思うが、これが、また、問題のあるところで、作品人物をいたわっている、いたわるためにいたわるのではなくて、かくいたわること自体、いたわり方自体に、私の生き方がある、私の思想の地盤がある、そのことを先ず第一に気付き、考えていたゞかねばならぬ。
次ぎの文は、上に引用した蓮實重彦や丹生谷貴志の批評の言葉の内実、あるいは中上健次がやった「エクリチュール」の実践のあり方について、安吾らしいインティメートな言葉で書き綴っている。
◆ 理想の女(坂口安吾)より
ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。
誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。
だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。
誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。
我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。
ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。
だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。
私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。
だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。
単にわが人生を複写するのは綴方の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に純粋だの、深遠だの、神聖だなどゝ途方もないことを言つてゐた。
小説といふものは、わが理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいといふ意慾の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きすることによつて、上昇しつゝあるものなのである。
けれども、小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用ひるといふ便宜的なものではない。即ち、芸術といふものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によつてしかわが思想を語り得ないといふ先天的な資質を必要とする。
小説は、思想を語るものではあつても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説といふものは、思想する人と、小説する戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によつて、思想自体が発育伸展する性質のものである。