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2015年6月28日日曜日

実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって

前回、唯名論と実在論のメモをして、柄谷行人の著作をひさしぶりに覗いてみたので、ここでも柄谷行人から、いくらかの備忘メモ。


【批評と批判】


柄谷) 僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある。

その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。しかし、これは「自己意識」とは別だと思う。小林秀雄はそれを自己意識にしてしまった。(……)僕は、以前に」ゲーテル的問題」とか「自己言及のパラドックス」ということをいっていましたが、それは自己意識とはちがいます。形式的なものにかかわるからです。ウィトゲンシュタインは「論理学は超越論的である」といっている。論理学は言語に対して自己関係するものだからです。(柄谷行人/蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988)
カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。(柄谷行人『探求Ⅱ』)


ここで柄谷行人は、「脱構築」はカントの「批判」の言い換えに過ぎないよ、と言っている。またこの『探求Ⅱ』の前に書かれた『探求Ⅰ』では、脱構築はソクラテスの「イロニー」の言い換えだよ、と言っている。

【イロニーと脱構築】


イロニーはソクラテスに於ては弁証法の主観的形態である。それは交際に際しての振舞いの仕方である。弁証法は事象の根拠であるが、イロニーは人間の人間に対する特殊な振舞いの仕方である。彼がイロニーによって意図したところは、人々をして自己を言表せしめ、自己の根本的な見解を提示せすめるにあった。そして一切の特定の命題からして、彼はその命題が表現していることの反対のものを展開せしめた。即ち彼は、その命題ないし定義に対して反対の主張をなしたのではなく、その規定をそのままとりあげて、その規定そのものに即して、いかにそれ自身と反対のものがそのうちにふくまれているかを指摘したのである。――かくしてソクラテスは、彼の交友たちに対して、彼らが何も知っていないということを知ることを教えたのである。(ヘーゲル『哲学史講義』)

ヘーゲルがいうように、ある命題を、いったん受け入れた上で、そこからそれに反対の命題を導き出して「決定不能性」に追いこみ、それを自壊させるというイロニーは、今日ではディコンストラクションとよばれている。というより、ディコンストラクショニストは、イロニーという語を避けることによって、自らの新しさを誇示してきたにすぎない。(『探求Ⅰ』)

【女は不朽のイロニーである】

ここでジジェクによるラカン的プロソポピーアLACANIAN PROSOPOPOEIAの叙述を抜き出してみよう。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により対話者の立場の矛盾を露わにし、相手の立場を彼自身によって崩壊させる。(……)ヘーゲルが女は“コミュニティの不朽のイロニーである”と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を“プロソポピーア”に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者はおのれの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになり、彼らが権威化のありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威化は崩れおちる。それはまるでイロニーの聴きとれえない反響が、彼らの会話につけ加えられたかのようなのだ。その反響とは、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の解任destitution subjective”と呼んだ。

プロソポピーアとは、“不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法”と定義される。(……)ラカンにとってこれは会話の性格そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの言表行為の主体と言表内容の主体の区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭いindirect”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

【イロニーとユーモア】

かつては、イロニーはユーモアに対照されて語られることが多かった。それはおそらくドゥルーズのマゾッホ論に起源がある。そこでは、イロニーは超越的、ユーモアは超越論的だとされた(参照:「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)。

ドゥルーズの『マゾッホとサド』には次のような表現がある。

法は、もはや原理への遡行によってイロニックにくつがえされるのではなく、帰結を深く究明することによって、ユーモラスなかたちで斜めによじまげられる。(p112)

このようにして、イロニーがサド、ユーモアがマゾッホという形で書かれており、こうもある。

サディズムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。(p163)

すなわち、ドゥルーズの叙述からすれば、サディズムが超越的、マゾヒスムが超越論的と捉えていいだろう。

超越的/超越論的は、ラカンの男の論理/女の論理でもある。すなわち、男性的アンチノミーが〈例外〉を伴う〈不完全性〉、女性的アンチノミーは境界を欠いた〈非全体〉の表層における〈矛盾(非一貫性)〉である(参照)。

だが、ジジェクは上の文で、《ヘーゲルが女は“コミュニティの不朽のイロニーである”と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか?》と記して、イロニーの女性的性格を主張し、かつて流通した見解をひっくりかえしているように思える。これは柄谷行人がイロニーを《メタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくもの》としていることと同じであり、むしろイロニーはたんに超越的とはしがたいということだろう。


上の文にはまた、主体の解任destitution subjectiveという用語が出てきている(参照:ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって)。

ラカンにはbouchon/trou(コルク/穴 )というのがある(S.XVII(pp. 56‒57)やSXIの英語版序文など)。

「〈他者〉の〈他者〉はある」の時代(セミネールⅥ以前)はしっかりしたコルク(父の名)だったが(参照:簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」)、「〈他者〉の〈他者〉は無い」になって、穴を塞ぐコルクは柔になった(父の諸名(複数形)、S1、対象a等)。

神経症治療の場合、コルクを除去するのが当面の目的(主体の解任)だとしても、それだけではシャンパンの泡(死の欲動)が噴出してしまう。主体独自のコルクを、無から(イデオロギー的にならずに)創造するのがサントームΣである。

【理論的な態度と実践的な態度の交替】

さてここでまた柄谷行人に戻る。

……カントの倫理性は、道徳論においてのみ見てはならない。理論的であることと同時に実践的であること、この超越論的な態度そのものが倫理的なのだ。われわれは、ここで、戦後のフランスで生じた実存主義、構造主義、ポスト構造主義という変遷を別の観点から見てみよう。たとえば、実存主義者(サルトル)は、人間が構造論的に規定されていることを認めながら、なお、自由があることを主張した。それはある意味で「実践的」観点である。一方、構造主義者が主体を疑いそれを構造の「効果」(結果)として見たとき、「理論的」な態度をとったのである。彼らがスピノザに遡行したのは無理もない。先に述べたように、カントの第三アンチノミーにおける正命題は、スピノザの考えーーすべてが原因によって決定されており、ひとが自由だと思うのは、原因があまりに複雑であるからだーーに帰着する。そうした自然必然性を超える自由意志や人格神は想像物であり、それこそ自然的、社会的に規定されている。ただしその原因はけっして単純ではない。そこではしばしば原因は結果によって遡及的に構成されている。

だが、このような考えに驚くべきではない。それは一つの括弧入れによって生じる「理論的」立場に固有のものである。実存主義と構造主義、あるいは主体と構造というかたちで問われた問題は、すこしも新しくない。それはカントが第三アンチノミーとして語った事柄の変奏にすぎない。構造主義的な視点に対して、主体を強調すること、あるいはそこに主体を見出そうとすることは無意味である。なぜなら、それを括弧に入れることによってのみ、構造論的決定論が見出されるのだから。逆に、構造論的な決定を括弧に入れた時点で、はじめて主体と責任の次元が出現する。ポスト構造主義者が道徳性を再導入しようとしたのは、当然である。しかし、それが何か新たな思想でもあるわけではない。実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす。カントが明らかにしたのは、この二つの姿勢を同時にもたねばならないということである。わかりやすくいえば、われわれは括弧に入れると同時に、括弧をはずすことを知っていなければならないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P184)
注)構造主義が、むしろ、主体や責任から逃れようとしている人々によって歓迎されたことを見逃してはならない。彼らがこぞってサルトルに敵対したことに注意すべきである。彼らはサルトルを古くさいブルジョ的ヒューマニストに仕立て上げようとした。しかし、戦前『存在と無』で人間のあらゆる行為は挫折に終わると主張していたサルトルが、戦後において「ヒューマニズム」を唱えたのは、あるいは「倫理学」を書くことを試みたのは、ナチによる占領下の体験からである。戦後に人々は、露骨なナチ協力者を糾弾するとともに、レジスタンスの神話を信じようとした。しかし、サルトルは共産党以外にレジスタンスなど事実上なかったこと、彼自身もレジスタンスと呼ぶに値することなど何もしていなかったことを自認したのである。さらに、彼は、共産党もふくめてフランスの知識人たちが無視した戦前及び戦後の植民地主義の過去をまともに取り上げた。このような歴史的文脈において、主体性を否定する反サルトル的構造主義は、フランスにおける過去への責任意識を払拭する役割を果たし、またその結果、フランスの「自由と人権」の伝統を誇る自己欺瞞的で凡庸な「新哲学者」たちが登場したのである。

《実存主義、構造主義、ポスト構造主義という通時的過程に眼を奪われている者は、それが理論的な態度と実践的な態度の交替にすぎないことを見落とす》とある。これはおそらく現在流通しつつあるポスト・ポスト構造主義にもあてはまるのではないか(全く無知な身ではあるが)。

もっとも彼らが《自己欺瞞的で凡庸な「新哲学者」たち》などというつもりは毛ほどもない・・・

@cbfn: 送られて来た雑誌を見ると「ポスト・ポスト−構造主義」の字が躍る。いつこんな「アウフヘーベン」が起こったのかしらと、大体がテーゼもアンチテーゼも起動した記憶がないのに。思想の握手会みたいなもんなんでしょう。ガードマン不要、ってあたりがちとさみしいか、或いは自己防衛に覚えがあるか。

@cbfn: メイヤスーなんて、パンク気取りのエコール・ノルマル・エリートの御用達思想家みたいな人、そのうち翻訳攻勢がかかるのか、翻訳なんて業績にも換算してくれない手間仕事、もう誰もやらないか。(丹生谷貴志)

とはいえ柄谷行人、あるいはジジェク、丹生谷貴志氏のような言説自体さえもが、ある枠組みのなかでの言説であることを忘れてはならないだろう。

【われわれの問いは、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられていること】
人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、 きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、 本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているとい う事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』 講談社版1983)

…………

※附記

【形式化の問題】

……ペレルマンは『レトリックの帝国』のなかで、伝統的レトリックではほとんどとりあつかわれない議論技術として「概念の分割」をあげている。「現象/実在」という対象概念は、その最も代表的な例であり、偶然/本質、相対/絶対、個別的/普遍的、抽象的/具体的、行為/本質、理論/実践といった二項対立もおなじみのものだ。ペレルマンはこれを「第一項/第二項」とよび、さらにそれらがたんなる二項対立ではないことをつぎのように説明している。

《現象/実在という対概念を手本として、哲学的概念を第一項/第二項の形で表すことができる。第一項は現象的なもの、最初に出てくるもの、現実的なもの、直接的なもの、直接に認識されるものを表わす。第二項は第一項との間には区別があるが、この区別は第一項に関連づけてのみ理解される区別であって、第一項の諸様相間に現れた不両立関係を除かんがため第一項内で行われた分割の産物が第一項と第二項との区別である。第二項は第一項の諸様相内で価値あるものと無価値なものとを区別することを可能にする基準、規範を示している。第二項はたんに与えられてそこにあるものではなく、第一項を分割するにあたってその諸様相間に上下関係を設定することを可能にする規則のための構成物(コンストラクション)でもある。何が実在であるかを決定する第二項の規則に合致しないものが、見かけのもの、誤っているもの、悪い意味で現象的なものである。第二項は第一項に対して規範であり、同時に説明でもあるのである。》(ペルレマン「説得の論理学」)

「説得の技術」としてみられているかぎり、どんなレトリック論も不毛である。(中略)「説得の技術」であるかぎり、レトリックは二次的であり、それはペレルマン自身のいい方でいえば、{(レトリック/哲学)哲学}という構図のなかにある。すなわち、レトリックと哲学の対立はメタレベルとしての哲学によって支えれれている、しかし、今日いわれている「レトリックの復権」は、そのような構図の“逆転”としてあらわれたのである。つまりレトリックそのものがレトリカルに逆転されたのであって、この自己言及性に注意しなければならない。それがもはやたんなる“逆転”でありえないことはいうまでもない。ペレルマンは、西洋哲学がそのような二項対立のなかにあると同時に、“独創的思想”が、これらの対概念の上下を逆転することによって生じてきたこと、しかしたんなる“逆転”にはとどまりえないことを、次のように説明している。

《独創的思考はためらうことなくこれら対概念の上下をひっくり返すものだが、しかし、その逆転も、対概念の二項のいずれかを手直しすることなしに起こることはまれである。逆転を正当化する理由を言う必要があるからである。こうしてたとえば個別的/普遍的という伝統的形而上学の特徴的な対概念を逆転すると、抽象的/具体的という対概念になる。なぜなら普遍がプラトン的イデアの如き高度の実在でなく、具体的なものから派生した抽象物とみなされるところでは、唯一の具体的存在でる個別的なものの方にこそ価値があるとされるからである。その場合直接に与えられたものの方が実在であり、抽象物は理論/実在の対概念に対応した派生的理論的産物にすぎないものとなる。》

そこからみれば、「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。

すでにのべたように、十九世紀後半からの「形式化」は、「知覚/想像力」・「実存/本質」・「不在/現前性」・「シニフィアン/シニフィエ」・「文字/音声」・「狂気/理性」・「精神/身体(知覚)」、その他ありとあらゆる二項対立(副次的なもの/一次的・本質的なもの)の“逆転”としてあらわれている。それが実存主義とよばれようと、構造主義とよばれようと、また当人がそのような名称を拒絶しようと、重要なのはそのような“逆転”ではない。むしろわれわれが問うべきなのは、いかにして“逆転”が可能なのかということだ。そのことは、すでにペレルマンが「分割」についてのべたことのなかに示唆されている。 すなわち、第二項は、「第一項/第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。つまり、プラトン以来の哲学は、たんなる二分法によるのではなく、この対立がもつ自己言及的なパラドックスを“禁止”するところにあった。しかし、それはけっして“禁止”できない、というのは、それは形式的にコンシステントであろうとするかぎり、「決定不能性」におちいるからである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』(講談社版)P115-119)


2015年2月13日金曜日

翻訳文と原文、あるいは原翻訳

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳ーー「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない」より)

書物は原文で読んだほうがいいに決まっている。だが、たとえばヴァレリーはフランスにおける最初期のニーチェの読者だった(ジイドとともに)が、友人アンリ・アリベールの仏語訳を待ち構えるようにして読んでいる。当時の標準的なドイツの学者や知識人たちとヴァレリーの読解のどちらが現在珍重されるかをすこしでも問うてみたら、原語至上主義者の言い草がいかに馬鹿気たものかが分かるだろう(もっとも日本的環境ではとてつもない悪訳が流通してしまうということはある)。

…………

翻訳を探しに行く暇のない弁解のようだがね、思想的な、あるいは信仰に近い思索が書かれている本は、やはり原書を読むほかないのじゃないだろうか? 隔靴掻痒というか、ここをしっかり掴みたい、というところにかぎって、翻訳ではあいまいで苦しむことがある。日本語とフランス語の構造の差で、原書の力点のある所が翻訳では前後にズレてしまってね、その結果、付随的な文章に引きずれらてしまうことはしばしばあるんだ。

原書の言葉が読めない時は、日本語の翻訳に別の外国語によるそれを並べて読むのが、次善の策。ともかくテキストを相対化することができて、自発的な受けとめをなしやすい。結局は、自分の言葉でどう捉えなおすということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)

…………

晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」)
……しかし彼らは、現今世界にまだ残っている一切の高いもの繊細なものを所有している。こうした精神のフランス、それはペシミズムのフランスでもあるが、そこでは今日はすでにショーペンハウアーは、彼がかつてドイツにおいて居着いていた以上に居着いている。彼の主著はすでに二回翻訳され、第二回目のものは卓抜な出来ばえであったので、私はいまではショーペンハウアーをむしろフランス語で読むことにしている(――彼はドイツ人のあいだでは一つの偶然であった、ちょうど私がそうした偶然であるようにーードイツ人は私たちをつまむ指をもってはいない、彼らは総じていかなる指ももってはいない、彼らがもっているのはたんに前足にすぎない)。(ニーチェ『ニーチェ対ワーグナー』茅野良男訳)


上に掲げた中井久夫の文は次のような文脈のなかで書かれている。とくに《いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない》との文の前後に注目しよう。

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。

また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(「訳詩の生理学」)

…………

※附記

上の文とは、あまり関係がないが、上の文を抜き出すなか、ーー新しく筆写したのはニーチェ=ショーペンハウアーだけであるーー、たまたま以前のメモのなかで行き当たった文章を、ここに併せて掲げておく。

凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)
そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)


この「空虚さ」を「réel」と読むこともできるだろう。わたくしもラカン派の文章などを読んでいると、安易にやりがちなのだ。--トラウマ、裂け目、傷などと書いてそれですませてしまう。

……映画批評が存在しなければいけないという決定的な原理はなにもありません。なにごとについてもそうだといえばそれまでですが、映画批評というものが存在しなければいけないということを原理的に説明しようとすると、比較の問題としてないよりあったほうがいいんじゃないということぐらいで、絶対になければならないということは誰もいえずにいる。じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。

これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

だから、「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2


浅田彰はすでに80年代の初頭に、蓮實重彦を引きつつ、次ぎのように書いている。


……クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千言万語を費しているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略だとしたら? それは措くとしても、デリダの戦略は侵犯のエネルギーを中性化してしまうという、クリスティヴァの弱々しい批判を、簡単に黙殺するわけにはいかないだろう。ともあれ、デリダの恐るべき手がそうした言葉たちを敢えて書きつけてしまった時から、我々はそれを避けて通ることができなくなったのである。(浅田彰『構造と力』PP.97-98


上に掲げた蓮實重彦の文は、映画批評だけをめぐっているわけではない。それはほとんど同じ内容のことが、別の書の「あとがき」に次ぎのように書かれていることからも判然とする。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

くどくなるかもしれないが、二つの文を並べておこう。

・批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

・とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)

というわけだが、今ではツイッターをやめてしまった佐々木中氏の印象的なツイートをも掲げておこう。

@AtaruSasaki: 古井由吉さんが自分の小説を「存在しない原典の翻訳」と呼んでいた。全く驚くべき、含蓄が深すぎてめまいがするような表現。確かに小説を書いている時には、「存在しないものに対して正確であろう」として藻搔いている感じがする。

@AtaruSasaki: 逆に、翻訳をするときには「テクストが現に目の前に存在してしまう」という、顫えが来るような異物感を前にして戸惑い続けるという感じか。まったく別の感触、だが正確であろうとする意志だけが切り無く空転を余儀なくされていく、というか……。

@AtaruSasaki: だから小説は「存在しない原典」を創り出す劣化した翻訳を書くことで、……これで正確に翻訳できている筈だ。だが何に対して正確なのか?原典がないどころか、その翻訳だけがかすかに原典を存在させているのだから、なぜその文章が正確だなどと呼べるのか?この自問自答の声が、余所から響く様になる。

作家ではなく、たんなる感想文の書き手でしかないわれわれには関係がない、と受けとられるかもしれない。とはいえ、やはりヴィトゲンシュタインの言葉は、ときには反芻する必要があるだろう。《凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである》、と。そうでなければ、「銭湯の壁画」のような文章ばかり書くことになってしまう。


三島由紀夫の死後、大岡昇平は三島の文体に時折露骨なかたちで現れる奇妙なメカニズムを指摘している。三島の文体全般に言えることだが、時折唖然とするほどに空疎な措辞を用いた文章が現れるという点である。例えば、と大岡は『天人五衰』の一文を挙げる。…「宇治市へ入ると、山々の青さがはじめて目に滴った」。…「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだ、ということである。(丹生谷貴志ーー大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ



おそらく銭湯の壁画文、あるいはジャーナリスト風の非文体を避けるには、どもることが、どもることができるようになることが、肝腎なのだろう。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)

ーーだが今は、銭湯の壁画やら非文体ばかりが跳梁跋扈しているではないか、そしてそんな文章しか読まれなくなってしまったのではないか。

《ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。》(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。

もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。

傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫 「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて)

…………

わたくしは佐々木中という作家の小説を読んだことがないのだが、彼のどもりようというのは次ぎの文章に読んだことがある。

知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。

この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。

まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。

それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)






2015年2月11日水曜日

「アイデンティティ」という語の濫用/復活

詰まらぬ私事。「アイデンティティ」という語の濫用(?)はエリック・エリクソンを引用した江藤淳さんあたりからか、或いは戦後の通俗アメリカン心理学の流布からか、未だに学生さんたちが生真面目な(?)便利さでこの語を使うのに出会うと溜め息が出てしまう。(丹生谷貴志ツイート)
……現実をいかにして回避しつつ生をなし崩しに消費してゆくかという退屈きわまりない自分自身の物語がくり返されている(……)。この罠という善意の虚構装置が、時代によって、またその無意識の捏造者が属する文化形態によっていくつもの異なった名前を持っているという点も、また衆知の事実であろう。もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話も、そんな名前の一つであったはずだ。個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、されとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない。物語は、間違いなく勝利するのだ。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)

…………

以下は、ポール・ヴェルハーゲによる「アイデンティティ」のレクチャアの冒頭の私訳。

『Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities”』 http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf(Uppsala, 2 december 2013. Paul.Verhaeghe)

※This lecture is based on a book, originally published in Dutch: Verhaeghe, Paul (2012). Identiteit. Amsterdam

この冒頭の文以降に、現代の大学制度への痛烈な批判--いくらかの参照としては「大学人の踊る音楽「新自由主義」」にそのメモがあるーーが展開されるのだが、それはここでは割愛している。

ヴェルハーゲは、いまでは評判のわるい「アイデンティティ」概念ーー評判のわるいのは、「社会の心理学化」の猖獗にもかかわるだろうーー、を、ラカン派的な立場から(同一化と分離概念)、あらためて取り上げていることになる。もっとも同一化という用語は、ラカン的には疎外である。そしてヴェルハーゲの使用する分離は、標準的ラカン派によって流通する「分離」とはやや異なる(参照:ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)。

ヴェルハーゲの疎外と分離について知りたければ、コロンビア大学で行なわれた次のレクチャアにあまりにも明晰に、目が醒めるような独自の見解が語られている。

Verhaeghe, P., Social bond and authority: everyone is the same in front of the law of difference. To be published in: Journal for The Psychoanalysis of Culture & Society. Paper orginally presented at the fifth annual conference of the APCS, NY, Columbia University, Oct.99, “Social Symptom”.http://www.psychoanalysis.ugent.be/pages/nl/artikels/artikels%20Paul%20Verhaeghe/Socialbond.pdf

これを読めば、おそらくいままでのオイディプス解釈がーードゥルーズ&ガタリの「アンチ・オイディプス」も含めて、かつまた標準的なラカン派のそれをも含めてーーいかにピントを外したものであったかが判然とする(すくなくともヴェルハーゲの解釈によれば、ということだが)。

だが、いまは別の論文からである。

さて“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities”の冒頭を掲げる。


…………


個人的な質問から始めさせて下さい、「あなたは誰?」と。これは昔からある問いです。そしてことさら現代では、答えるのにとても難しいものです。どうして難しいのかといえば、アイデンティティとはどのようなものかについて、全く間違った考え方が見出されるからです。数多くの歴史的理由で、私たちは考えています、私たちのアイデンティティとは、なにか実体的なもので、私たちのなかに深く根ざしたほとんど不変のエッセンスのようなもの、生得の、遺伝的、などなどの、なにかだと。私は最初から私自身であり、その後いささかの変化はあるにもかかわらず、私は、生涯、私自身のままだろう、と。

これは完全に間違っています。あなたはその考えから、出来るだけはやく逃れれば逃れるほどよいでしょう。これが間違っているのを明らかにする最も簡単な仕方は、養子について考えてみることです。インドのラジュスタンで生まれた女児で、スウェーデン人の親によってウプサラで育ったのなら、スウェーデンの女性になります。同じ子どもがフランス人の親の養子になりパリで育ったのなら、パリジェンヌになります。逆もまた真です。おそらくいっそう受け入れがたいでしょうが。もしあなたが、赤子として、スーダンのムスリムカップルによって養子にされてハルツームで育ったのなら、あなたはスーダンアイデンティティをもつようになります。つまり、あなたはまったく異なった誰かになります。

 結論としては、アイデンティティとは構築constructionに帰着するのです。そこでは文化が決定的な役割を果たします。これは私たちに別の二つの問いをもたらします、どうやって構築されるのか、そしてこの構築の内容はなんなのだろう、と。この問いに答えるための十分な科学的根拠があります。そこには二つの過程が働いています。すなわち同一化dentificationと分離separationです。

 同一化は今ではミラーリングmirroring(鏡に反映すること)と呼ばれます。そして、それは同一化を言い換えるとても相応しい仕方です。このミラーリングは私たちの生の最初の日から始まります。赤子はお腹がへったり寒かったりして泣き叫びます。そして魔法のように、ママが現れます。彼女は心地よい声を立て、赤ちゃんに話しかけます、彼女が考えるところの、なにが上手くいってないのかを乳児に向けて語り、彼女自身の顔でその感情を真似てみせます。このシンプルな相互作用、何百回とくり返される効果のなんと重要なことでしょう。私たちは、何を感じているのか、なぜこの感情をもつのか、そしてもっと一般的には、私たちは誰なのか、を他者が告げ私たちに示してくれるのです。空腹とオシメから先に進み、世話をやく人から子どもへのメッセージは、すぐに、よりいっそう入り組んだものになり、かつ幅広くなります。

幼児期以降、私たちは継続的に、なにを感じ、なぜそう感じ、これらの感じをどのように取り扱うか、取り扱うべきでないかを教えられています。私たちは聞くのです、良い子なのかいたずらっ子なのか、美しいのか醜いのか、おばあちゃんのように頑固なのか、パパのように賢いのか、と。同時に、自分のカラダや他人のカカラダで何ができて何ができないのかを聞かされます(すこしは大人しく座ってなさい! あなたの弟にかまいすぎないで! ダメよ、耳にピースなんてしたら!)こういったことすべては、私たちは誰で、どうすべきで、どうすべきではないかを明らかにします。

どの心理学理論も認めています、これらの乳幼児と母のあいだの最初のやり取り、そして子どもと親たちのあいだのそれの重要性を。それはアイデンティティの構築のためのものなのです。とはいえ、この重要性はある片寄った観点を導き入れます。私たちは忘れがちになってしまうのです、両親はただ彼ら自身が受け取ったもののみを鏡に反映するということを。彼らのメッセージは無からは生まれません。私たちの家族は、自分の文化、ーー地方の、宗教の、国民の等々ーーの重要な考え方を鏡に反映させるのです。物語や考え方、それは、家族や私たちが所属する社会階級、わたしたちがその部分である文化によって、私たちに手渡されるのですがーー、こういったものすべての鏡が、混じりあって、象徴的秩序、より大きな集団の偉大なる語りthe Great Narrative を作り上げるのです。それが多かれ少なかれ共通のアイデンティティを生みます。より多くの語り(ナラティヴ)が共有されれば、よりいっそう私たちは似たもの同士になります。

 この共有された語りの重要性は計り知れません。というのは、それは私たちの存在の関するexistential問いに答えてくれるからです。「真の」男とはなに? あるいは「真の」女とは? 男女の関係はどうあるべきか? キャリアと親であることの場と意義とはなんだろう? 男にとってと、女にとっての違いは? 権威への態度はどうあるべきか? どうやって取り扱うべきか、性、病い、死を? 私たちは答えを探すなか、象徴秩序symbolic orderや偉大なる語りたちthe great narrativesに頼ります。それは複数形です。というのは、異なった語りがあり、異なった答えがあるからです。たとえばあなたがスウェーデンで育ったなら、デンマークで育った誰かとは異なります。鏡に反映するものがやはりわずかにでも異なるのですから。より高いレベルでは、両者ともスカンジナビアンです。その意味は、南ヨーロッパ人とは異なるということです。さらに高いレベルでは、西ヨーロッパ人です。アメリカ人等々とは異なるということです。そして確かなことは、これは人種とはまったく関係ないことです。もう一度、養子について考えてみてください。

 というわけで、私たちのアイデンティティの構成の最初の過程は同一化です。まだラテン語をご存知の方にとっては、アイデンティティと同一化は同じ語源を共有しているのがお分かりでしょう、“IDEM”の意味、それは、“同じ”、“相似”です。私たちは他者と同類になることによって己れのアイデンティティを築いてゆくのです。そしてこれはふつう気づかれていません、私たちは皆異なると思っているのです。これは Monty Pythonによって美しく描写されています。「The life of Brian」です。






さて、「私はそうではない“I am not 」と人が言うとき、私たち二番目の過程に導かれます。分離、それは相違を導入します。私たちは異なったようになります、というのは、初期の段階以降、私たちはある同一化のモデルを拒絶し、他のモデルを好むようになるからです。どの親も経験します、二歳のよちよち歩きの子どもがムズカシクなり、自分の意志を示すようになります。そのとき彼もしくは彼女が、同時に二つの新しい単語を発見するのは偶然ではありません。その単語とは、「イヤno」と「自分me」であり、とてもしばしば、その二語を組み合わせて使います。自立の要求がふたたびほとばしり出るのは思春期で、それはその時期のホルモン分泌の強度のなかでです。今度は独立心の錯覚を伴っています(ぼくが自分自身で決めるよ!)。ある範囲で、この独立心は錯覚なのです。というのは基本的には、分離は、ある同一化を拒絶し、他の代替を選ぶことに帰結するからです。その意味は別の鏡に反映させるということです。同一化と分離の組み合せが意味するのは、最初期から、私たちのアイデンティティは、類似と相違のあいだの天秤だということです。私たちは引き裂かれるのです、他者に溶け込む促しと、他者から距離をとる促しのあいだで。

最初の過程はいかにも逃れようがありません。二番目の過程はもっと自由があります。というのは自身で選択できるからです。注意しましょう、変化の可能性そのものが、まさに私たちのアイデンティティを構成する仕方なのです。変化は二つの方向からやって来ます。鏡が変わるかもしれないこと、あるいは私たち自身が異なった選択をすること。さてこれから以降の話は、現代の鏡に集中します。そしてその鏡が私たちのアイデンティティに齎すものについて。

今度は、二番目の問いに関わります。私たちのアイデンティティの内容についてです。ここでふたたび、私は「私は誰なのか」についての直感的な考え方を訂正しなくてはなりません。個人主義のこの時代、私たちは数多くのパーソナリティーの特徴をもって、その質問に応答するでしょう。そして忽ち、それでは満足させてくれるものからほど遠いのを見出します。より格段に興味深く、かつ私たちのアイデンティティを表わすために訂正したほうがいいことは、数多くの鍵となる点における「私たちは誰なのか」――それを明らかにする基礎的な関係fundamental relationshipsの見地です。

基本的に、「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子man-sonになるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。

ジェンダーの関係についての社会の信念は、二番目の重要な他者との係わりにそのすべてがあります。その他者と私たちは多かれ少なかれ継続的な関係を打ち立てます、その名は権威としての他者です。私たちの権威の人姿figureへの態度は、私たちのアイデンティティの別の重要な部分を形作ります。批評的かつ反抗的? 服従的かつ支持的? 攻撃的かつ競争的? これもまた、私たちの同一化を通して獲得されたなにかです。私のアイデンティティの三番目の重要な内容は、私の同輩、はじめは兄妹、のちには同僚や隣人との関係にかかわります。嫉妬的? 支持的? 競争的? 私たちのほとんどは、同輩との関係の典型的な仕方を持っています、しばしば十分に、そして自らそれに気づかないままで。

これらの三つの関係に、私たちのアイデンティティが構成される仕方を容易に認めることができます。でもまだ四番目があります。それは驚くかもしれませんが、私たち自身と持つ関係です。一見びっくりするように思えるかもしれませんが、それを描写するのはたいして難しくありません。毎朝、バスルームの鏡で、私たちは私たち自身と対話を交わすことから始め、それは終日続きます。私は私自身に怒っているかもしれません。喜んでいるかも、失望しているかも。というのは「私 me' 」を判定する「私 I' 」は、判定される「 私me' 」とは異なった同一化を基盤にしているからです。「私たち自身 ourselves'」への怒りや満足は、継続することもあり得ます。すると、それは自己嫌悪や自己愛self-hatred or self-loveに導かれます。自己敬愛と自己尊重self-esteem and self-respectの高い低い、等々。これらの語彙の接頭辞 自己self' が生み出すのは、私たちのアイデンティティはある本質的な生得の個性を構成するという印象です。私たちは忘れています、そのような個性は、他者が私たちの振舞いを解釈し鏡に反映させる仕方によって決定されていることを。他者が決定するのです、私が私自身について考える仕方を。自己信頼、自己敬愛、自己尊重はよりよく理解されるでしょう、他者の信頼、他者の敬愛、他者の尊重というもともとの文脈で。すなわち、他者が私たちを信頼し、敬愛し、尊重した範囲が、私たちの自己信頼、自己敬愛、自己尊重に反映されるのです。

こういうわけで、私たちのアイデンティティの内容は、重要な他者との継続的な関係というタームでもっともよく理解することができます。でも、これは、説明としては、いささか控え目すぎるようにきこえます。私はつけ加えなければなりません、なにかもっとリアルに響くような重要なことを。異性という他者、権威、同輩、そして最終的には私たち自身との関係は、けっして偏らないものではありません。権威の人物は、最初の段階で、私たちに告げます、私たちはなにができるのか、私たちの体や他者の体でなにができないのか、と。それは楽しみが犠牲にされたり、また犠牲にされなかったりします。こういったことすべては、していいこととしてはいけないことの議論へまっすぐに餌を与えますfeed。この意味で、規範や価値観は、私たちのアイデンティティの全面的な部分なのです。そんなに昔のことではありません、こういった特徴が美徳という形で表現されたのは。たとえば、注意深さ、正義、自己コントロール、忍耐深さ。あるいは逆に基本的な悪として。たとえば、傲慢、強欲、好色、憤怒、等々。これは驚きをもって聞かれるかもしれない結論を引き起します。すなわち、私たちのアイデンティティは、個人の特徴の中立的な盛り合わせではけっしてないのです。そうではなく、私たちが同一化した(あるいは同一化しなかった)道徳的な、なにをするべきか、なにをすべきではないのかにすべてかかわるのです。

これが意味するのは、どのアイデンティティも地層にあるイデオロギーを基礎としているということです。そのイデオロギーという用語は、私がとても幅広く解釈する意味では、人間関係、そしてその関係を調節する異なった仕方についての考え方の集合体ということです。歴史は示してくれます、イデオロギーは他のイデオロギーに対抗して考案されることを。その結果、私たちのなかに他のイデオロギーに反対する思考態度を生み出します。異なった特色のある規範と価値観をともなう異なったイデオロギーは、異なったアイデンティティを決定づけます。考えてみてください、“本当の”社会主義者、“典型的な”カソリック、さらには“本当のフィンランド人”さえをも。言い換えれば、彼らのイデオロギーとそれに付随したアイデンティティは、重要な他者にむかっての、“標準的な”、あるいは“正しい”態度として見なされることの異なった解釈にあるのです。

さてここで、これまで説明してきたことを要約してみましょう。私たちのアイデンティティは構築物です。それは私たちの文化の支配的な語りを基礎としています。その語りとは、他の性、権威、私たちの同輩、私たち自身に向けて基本的な関係の立場を定めます。これはけっして中立的なものではなく、つねに倫理的に操られています。私は想像することができます、あなた方はこれらすべてにおいて遺伝学の場所について思いを巡らしているのを。答えはまったく単純です。遺伝子それ自体のレベルでは、私たちの心理学的なアイデンティティの内容が遺伝的に決定されているなんの証拠もないのです、けれども、この点に関して、格段に重要な別の遺伝的形質の形式があります。進化生物学は、私たちは社会的な動物であることを教えてくれます。その意味は、私たちは集団にて生きていくことになっていることです。もし私たちが独りだけになった社会種族を見出すのなら、可能な答えは二つしかありまでん。病気か、集団から追い払われたか。そしてふつうはその両方です。

霊長類の研究からの二番目の発見、なかんずくオランダの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールFrans de Waalによれば、私たちは二つの異なった振舞いにあらかじめ配置されているのです。一方では、協調と連帯。他方では、競争的個人主義とエゴイズム。そして彼の調査から得られるさらにいっそう重要な結論があります。それは、どの振舞いが優位になるかを決定するのは環境だということです。

あなた方がこれらの二つの振舞いについて考えるのなら、アイデンティティの構築の二つの過程をその二つの振舞いに戻って見出すのはそんなに難しくはないでしょう。同一化は集団への傾向にかかわり、分離は個人主義の必要にかかわる、と。けれども、ーーふたたび強調しますがーー私たちはまずなによりも忘れるべきではありません、私たちが社会的動物であることを。フランス・ドゥ・ヴァールによる美しい実験があります、それは私たちの生得の公正への感情を明らかにしています。それは相互作用と感情移入のより大きな研究の部分です。あなた方は見るでしょう、それはすべてモラルについてなのです。すなわちアイデンティティについて、という意味です。






…………



ヴェルハーゲは、ここではフロイトやラカンの名を出さずに語っている。だが《同一化は集団への傾向にかかわり、分離は個人主義の必要にかかわる》と語られるとき、フロイトのエロスとタナトス概念を想起しつつ語っていることは明らかである。

※参照:「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より。

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER. From subject to drive』)
アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳)



2014年12月12日金曜日

理想の女

まず丹生谷貴志氏のツイートから始めよう。

@cbfn: ”文学嫌い”を標榜する者の或る類型「文学は空虚な夢物語の玩弄にすぎない」という言い草。間抜けな文学教育の裏返し、文学はあらゆる夢物語への否定であることを知らない連中の愚妹にすぎない。ネルヴァルの「夢の物語」すら本質にあるのは「現実という夢を現実だと思っている夢想家への憎悪」である
@cbfn: 誰もが知るように、「現実主義者」とは「現実は夢ではない」と思い込んでいる最悪の夢想家に過ぎない。実際かれらの大方は妙に夢見がちな目つきをしている。
@cbfn: 「芸術などなんの役にも立たない」という発話は論理の基礎からいって「芸術とよばれるもの」の存在を信じている人間によってのみ発話される。従って芸術を擁護するという無意味な動作を維持せねばならないなら、答えは簡単で、「芸術というものは存在する」と思い込んでいる者を笑うことである。

「文学は空虚な夢物語の玩弄にすぎない」--たとえばこの文を「文学は理想の女の玩弄にすぎない」と言い換えてみよう。ひとは実は「理想の女」を書きたいのではないか。これはなにも文学の話でなくてもよい。真の思想家は、たとえば「理想の民主主義」を書きたいのではないか、としてもよい。だが、書くことはそれを裏切ってしまう。もちろんそれは「理想」でなくてもよい。中上健次はその『枯木灘』で途中までは父を殺すつもりの「物語」を書いていただろう。だが殺せない。書いているうちにその「物語」を廃棄せざるをえなくなる。

確かなことは、根拠を放棄するという身振りを前提として『枯木灘』の筆が起こされたのではないという事実だろう。中上健次が物語から身を引き離すのは、書くという実践的な過程そのものを通してであり、いわばエクリチュールによる根拠の放棄がテクストとして生成されているという点に、この長篇の優位と困難とが認められるということなのだ。『枯木灘』の文章のある種の読みにくさは、その証言でしかない。つまり、勝算があっての上で物語の廃棄を試みているわけではなく、むしろ物語的な構造の安定性に進んで埋没するという誘惑をたえず実感しながら、おそらくは一字書き、一行書き綴るというほとんど肉体的な作業によって誘惑を回避するものであったに違いない事態の推移そのものが、この長篇の言葉にただならぬ震えや脈動を与えているのだと思う。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)

たまたまツイッターで拾ったのだが(すなわち出典不明)、蓮實重彦はこうも言っているようだ、「よく知っていると思い込んでいることにかぎって、誰もほとんど何も知らずにいることがしばしばある」「とりわけ複雑なものとも思えない問いではあるが、いったん律儀に答えを準備しようとすると、それがかえって問うことの根拠まで吟味させざるをえないことに誰もが当惑するしかない」

中上健次は、父への殺意をよく知っていると思い込んでいた。だが書き進めるうちに、その根拠を疑わざるを得なくなる。これがエクリチュールというものだ。物語を綴ることは決してエクリチュール(書くこと)ではない。それは綴り方にすぎない。

坂口安吾のエッセイを読んでいると、彼はそのことばかり言っているようにみえる。小説そのものは、彼の場合眼高手低気味で、その多くの小説がよくできたものであるとは言い難いと感じてしまうことがある。だが、ときに言葉は震え脈動を伝える。それが尊い。坂口安吾の書き物に、「なつかしい」という言葉がふと呟かれるとき、それが彼なりの「理想」であることは間違いない。

坂口安吾は、「文学のふるさと」で、シャルル・ペロオの童話「赤頭巾」をめぐってj書いているが、この「なつかしい」とは「アモラル」のことでもある。《愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。……まったくただそれだけの話》。

私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られたような空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。その余白の中にくりひろげられ、私の耳に沁みる風景は、可憐な少女がただ狼にムシャムシャ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、然し、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ、であります。(……)

そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体が、モラルなのだ、と。(坂口安吾『文学のふるさと』)

柄谷行人はこの文を引用して次のように書いている。

彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』P189)

非意味であるなら、ラカンの最も難解な論のひとつ『エトゥルディ』をめぐるバディウの言葉を引用することもできる(ジジェクにはかねてから「非意味」が頻出するがここでは割愛)。

フロイトはわれわれを ab-sens [非-意味]が性を指し示すということに同意させる。このsens-absexe のふくらみにおいて、語が決するところで一つのトポロジーが展開する。(Il n'y a pas de rapport sexuel ---Deux leçons sur <<L'Étourdit>> de Lacan  Fayard, 2010)

ここでバディウついでに、文脈からは外れるが、ジジェクが引用する次ぎの言葉を引用しておこう。

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義であるというバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の急進−根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

ーー民主主義の理想を考えていったら、自ずとこのような結論になるということではないか。


さて、安吾の小説の「名品」から、「なつかしい」と書かれる文をひとつだけ抜き出しておこう。

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」)

坂口安吾の1948(昭和23)年に書かれた「わが思想の息吹」にはこうある。

「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。

 このことは、私の自伝的な作品に就ても云えることで、たとえば「二十七」は河上徹太郎とか、中原中也とか、実在の人が登場するけれども、そして、あそこに描かれていることに偽りはないのであるが、然し、それゆえ、これを実話と見るのは間違っている。これは小説なのである。

 なぜなら、あれは、いわゆる私小説とは趣きを異にしている。私小説というものは、事実を主体とするものであるが、私の自伝的作品の場合は、一つの生き方によって歪められた角度から構成された「作品」であって、事実ということに主点がない。

 だから、何を書いたか、何を選びだして、作品を構成したか、ということに主点があり、これを逆にすると、何を選ばなかったか、何を書かなかったか、ということにも主点があるわけだ。

 然し、何を書かなかったか、ということは、私と、書かれた当人しか分らない。読者には分らないのである。私の作品に書かれた実在の人々の多くは、私にザンコクに露出せしめられたということより、あるいはむしろ、私に「いたわられている」という印象を受けはしないかと思う。

 その意味に於て、私の作品はアマイという批評も有りうると思うが、これが、また、問題のあるところで、作品人物をいたわっている、いたわるためにいたわるのではなくて、かくいたわること自体、いたわり方自体に、私の生き方がある、私の思想の地盤がある、そのことを先ず第一に気付き、考えていたゞかねばならぬ。


次ぎの文は、上に引用した蓮實重彦や丹生谷貴志の批評の言葉の内実、あるいは中上健次がやった「エクリチュール」の実践のあり方について、安吾らしいインティメートな言葉で書き綴っている。


◆ 理想の女(坂口安吾)より

 ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

 誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

 だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

 誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

 我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

 ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

 だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

 私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

 だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。
 単にわが人生を複写するのは綴方の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に純粋だの、深遠だの、神聖だなどゝ途方もないことを言つてゐた。

 小説といふものは、わが理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいといふ意慾の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きすることによつて、上昇しつゝあるものなのである。

 けれども、小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用ひるといふ便宜的なものではない。即ち、芸術といふものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によつてしかわが思想を語り得ないといふ先天的な資質を必要とする。

 小説は、思想を語るものではあつても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説といふものは、思想する人と、小説する戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によつて、思想自体が発育伸展する性質のものである。