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2018年12月28日金曜日

佐々木中のボロメオの環

女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」にて記したことについて、2010年前後に書かれた佐々木中の「女性の享楽」や「剰余享楽」の解釈と異なるが、「どう捉えたらいいのでしょう?」という質問を頂いているのだが(二度)、応答が遅くなった。すこし書きにくいのだよ。

ボクは彼の書を読んでいないからあまりエラそうなことを言いたくない。けれども頂いた二つの図をみるかぎり、現在の主流臨床ラカン派観点からみれば、いささかの問題があると考える。すくなくとも三人の臨床家(ジャック=アラン・ミレール、コレット・ソレール、ポール・バーハウ)を読むかぎりではそう感じる。




ーーこの図表については、大他者の享楽が斜線を引かれていないこと以外は問題はない。ラカンにおいては、JAからへの移行がサントームのセミネール23にてある。

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975

これを示していないこと以外は大きな問題はない。だが次の図の解釈は、剰余享楽についての混乱があるーーこの図をみた限りだがーーとわたくしは考える。






現在ラカン派の解釈では、le plus-de-jouirは次のように図示しうる意味内容をもっている。


ーーより詳しくは、引用の仮置き場に記してある。→「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性


そして自体性愛=原症状(「サントーム」=フロイトの「リビドー固着」)としての女性の享楽というミレールの解釈からは佐々木中は限りなく遠くにある。

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (miller, 9 du 30 mars 2011)


おそらく佐々木中の解釈は主に、アンコールまでのラカンであり、 他方、現在のミレールやソレール等はアンコール以後にラカンは変貌したという立場によって貫かれている(参照:「二つの現実界」についての当面の結論)。

たとえば「女性の享楽」概念が明示的に提出されたアンコールセミネール20における「性別化の式のデフレーション」をミレールは指摘している。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

実際、この立場をとらないと、晩年のラカンの言明は理解しがたい。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)


すなわち、身体の出来事(固着としてのトラウマ)の原症状は書かれることを止めない、となる。

この症状は、ひとりの女=他の身体の症状でもある。

次の四文はほとんど同じ意味をもっていると捉えうる。

ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
穴(トラウマ)を作るものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)

ーーラカンの言う「異者としての身体」とは、フロイトによるリビドー固着の残存物(異物)のことである(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。

穴とは《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」》(S21,1974)のことである。

他の身体の症状とは、他の享楽(=女性の享楽)にかかわる。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーいま通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

アルゼンチンの女流ラカン派 Florencia Farìas は、次のように記しているが、これは現在の(まともな)臨床ラカン派のほぼコンセンサスであるようにみえる。

女性性をめぐって問い彷徨うなか、ラカンは症状としての女 une femme comme symptôme について語る。その症状のなかに、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す。後期ラカンの教えにおいて、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin が見られる。

女la femme は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに同意する。…彼女の身体を他の身体の享楽に貸し与えるのである elle prête son corps à la jouissance d'un autre corps。他方、ヒステリーはその身体を貸さない l'hystérique ne prête pas son corps。(Florencia Farìas 、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)

これらから分かるように、上に引用したミレールの「自ら享楽する身体 corps qui se jouit」(自閉症的享楽)=「女性の享楽 jouissance féminine 」と解釈されているのである。

女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽


このサントームの享楽をミレールは中毒の享楽(身体の自動享楽)とも呼んでいる。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

さらにミレールはこうも言っている。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )

ここでのトラウマとは言語外のものを示す。そして言語外の享楽が女性の享楽である(言語内の享楽がファルス享楽)。

「同化されない」の意味は、ラカンはセミネール11の時点ですでに語っている。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

したがって現在ラカン派の考え方においては「トラウマへの固着」による反復強迫が女性の享楽である。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

フロイト用語でいえば、女性の享楽は外傷神経症と等置しうる(参照:リビドーのトラウマへの固着)。

ミレールの言う《「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé 》( J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)とは、この文脈で捉えうる。

人はみな、言語内の享楽の彼岸(ファルスの彼岸)には、構造的トラウマによる「受動的=女性的な[参照]」反復強迫の症状があるのである(参照)。


(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)


このバーハウの1999年の書の図式で、フロイトの《受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung》(『終りある分析と終りなき分析』1937年)と等置されているのが女性の享楽S(Ⱥ)である。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)

女性の享楽の理解にとって、これがすべてではないにしろ、多くのことがこの図式を基準にすれば鮮明になる。

彼の構造的トラウマ論からも引用しておこう。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

⋯⋯⋯⋯


佐々木中の議論は約10年前のものであり、ソレールがラカンの変貌を強く主張しだしたのは、2009年である。時期的にある程度の誤謬はやむえないし、ひょっとして現在雌伏中の本人も今はそのことを悟っているんじゃないかな。もっとも彼の(中井久夫に準拠した)「ララング(母の言葉)」(≒女性の享楽)の議論はいまでも十二分に生きているけどね(参照)。

そもそも、後期ラカンの真の読解は21世紀にはいって始まったばかりだよ、だから10年以上前に書かれた内容が仮に「間違い」だとしても、それを難詰したくないね。彼はその時点で、ラカンの可能性の中心を提示したんだろうし。

もっともいまだって現代ラカン主流臨床派が間違った方向に行ってしまっているという観点もあるだろう(例えばジジェクの観点)。とはいえ現在は、ソレールの言うアンコールまでの「現実界のデフレ」と「二つの現実界」を視野におさめることが肝腎(参照:「二つの現実界」についての当面の結論)。

現実界 Le Réel は外立する ex-siste。外部における外立 Ex-sistence。この外立は、象徴的形式化の限界 limite de la formalisationに偶然に出会うこととは大きく異なる。…

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会いとは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)

あるいは冒頭近くに引用したミレールの言う「性別化の式のデフレ」と格闘しないと、女性の享楽についてはたいしたことは言えない筈だよ。

繰り返せば、たとえば現在「思想家・批評家」の流行児である千葉雅也ーーファストフード的知的消費者向けの精神分析を連発している彼ーーも、アンコールまでのラカンの女性の享楽に留まってしまっていて、上に記したミレールやソレールの議論には殆どトンチンカンのようだから、2010年前後に佐々木中に対しては批判はまったくできないね。

千葉雅也@masayachiba

・ラカンの性別化の式がだいたいのところ生物学的性別に一致してるのだとしても、必ずしも、男性・女性の享楽が生物学的基盤を持つことにはならないか。歴史的ないし政治的に成立した生物学的男女の非対称的関係が、享楽の区別の理由なのかもしれない。そういう読みもありうる。

・ならば、歴史的に成立した男性=強者という体制が、男性はファルス享楽しか持たないことの理由である、となる。政治的な弱者の側にある女性が、ファルス享楽以外に他の享楽も持つ、と。強者にファルス享楽が、弱者に他の享楽がある。仮説です。どうなのだろう。(2018年5月26日)


➡ 補足:快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽




2015年2月13日金曜日

翻訳文と原文、あるいは原翻訳

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳ーー「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない」より)

書物は原文で読んだほうがいいに決まっている。だが、たとえばヴァレリーはフランスにおける最初期のニーチェの読者だった(ジイドとともに)が、友人アンリ・アリベールの仏語訳を待ち構えるようにして読んでいる。当時の標準的なドイツの学者や知識人たちとヴァレリーの読解のどちらが現在珍重されるかをすこしでも問うてみたら、原語至上主義者の言い草がいかに馬鹿気たものかが分かるだろう(もっとも日本的環境ではとてつもない悪訳が流通してしまうということはある)。

…………

翻訳を探しに行く暇のない弁解のようだがね、思想的な、あるいは信仰に近い思索が書かれている本は、やはり原書を読むほかないのじゃないだろうか? 隔靴掻痒というか、ここをしっかり掴みたい、というところにかぎって、翻訳ではあいまいで苦しむことがある。日本語とフランス語の構造の差で、原書の力点のある所が翻訳では前後にズレてしまってね、その結果、付随的な文章に引きずれらてしまうことはしばしばあるんだ。

原書の言葉が読めない時は、日本語の翻訳に別の外国語によるそれを並べて読むのが、次善の策。ともかくテキストを相対化することができて、自発的な受けとめをなしやすい。結局は、自分の言葉でどう捉えなおすということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)

…………

晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」)
……しかし彼らは、現今世界にまだ残っている一切の高いもの繊細なものを所有している。こうした精神のフランス、それはペシミズムのフランスでもあるが、そこでは今日はすでにショーペンハウアーは、彼がかつてドイツにおいて居着いていた以上に居着いている。彼の主著はすでに二回翻訳され、第二回目のものは卓抜な出来ばえであったので、私はいまではショーペンハウアーをむしろフランス語で読むことにしている(――彼はドイツ人のあいだでは一つの偶然であった、ちょうど私がそうした偶然であるようにーードイツ人は私たちをつまむ指をもってはいない、彼らは総じていかなる指ももってはいない、彼らがもっているのはたんに前足にすぎない)。(ニーチェ『ニーチェ対ワーグナー』茅野良男訳)


上に掲げた中井久夫の文は次のような文脈のなかで書かれている。とくに《いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない》との文の前後に注目しよう。

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。

また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(「訳詩の生理学」)

…………

※附記

上の文とは、あまり関係がないが、上の文を抜き出すなか、ーー新しく筆写したのはニーチェ=ショーペンハウアーだけであるーー、たまたま以前のメモのなかで行き当たった文章を、ここに併せて掲げておく。

凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)
そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)


この「空虚さ」を「réel」と読むこともできるだろう。わたくしもラカン派の文章などを読んでいると、安易にやりがちなのだ。--トラウマ、裂け目、傷などと書いてそれですませてしまう。

……映画批評が存在しなければいけないという決定的な原理はなにもありません。なにごとについてもそうだといえばそれまでですが、映画批評というものが存在しなければいけないということを原理的に説明しようとすると、比較の問題としてないよりあったほうがいいんじゃないということぐらいで、絶対になければならないということは誰もいえずにいる。じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。

これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

だから、「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2


浅田彰はすでに80年代の初頭に、蓮實重彦を引きつつ、次ぎのように書いている。


……クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千言万語を費しているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略だとしたら? それは措くとしても、デリダの戦略は侵犯のエネルギーを中性化してしまうという、クリスティヴァの弱々しい批判を、簡単に黙殺するわけにはいかないだろう。ともあれ、デリダの恐るべき手がそうした言葉たちを敢えて書きつけてしまった時から、我々はそれを避けて通ることができなくなったのである。(浅田彰『構造と力』PP.97-98


上に掲げた蓮實重彦の文は、映画批評だけをめぐっているわけではない。それはほとんど同じ内容のことが、別の書の「あとがき」に次ぎのように書かれていることからも判然とする。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

くどくなるかもしれないが、二つの文を並べておこう。

・批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

・とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)

というわけだが、今ではツイッターをやめてしまった佐々木中氏の印象的なツイートをも掲げておこう。

@AtaruSasaki: 古井由吉さんが自分の小説を「存在しない原典の翻訳」と呼んでいた。全く驚くべき、含蓄が深すぎてめまいがするような表現。確かに小説を書いている時には、「存在しないものに対して正確であろう」として藻搔いている感じがする。

@AtaruSasaki: 逆に、翻訳をするときには「テクストが現に目の前に存在してしまう」という、顫えが来るような異物感を前にして戸惑い続けるという感じか。まったく別の感触、だが正確であろうとする意志だけが切り無く空転を余儀なくされていく、というか……。

@AtaruSasaki: だから小説は「存在しない原典」を創り出す劣化した翻訳を書くことで、……これで正確に翻訳できている筈だ。だが何に対して正確なのか?原典がないどころか、その翻訳だけがかすかに原典を存在させているのだから、なぜその文章が正確だなどと呼べるのか?この自問自答の声が、余所から響く様になる。

作家ではなく、たんなる感想文の書き手でしかないわれわれには関係がない、と受けとられるかもしれない。とはいえ、やはりヴィトゲンシュタインの言葉は、ときには反芻する必要があるだろう。《凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである》、と。そうでなければ、「銭湯の壁画」のような文章ばかり書くことになってしまう。


三島由紀夫の死後、大岡昇平は三島の文体に時折露骨なかたちで現れる奇妙なメカニズムを指摘している。三島の文体全般に言えることだが、時折唖然とするほどに空疎な措辞を用いた文章が現れるという点である。例えば、と大岡は『天人五衰』の一文を挙げる。…「宇治市へ入ると、山々の青さがはじめて目に滴った」。…「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだ、ということである。(丹生谷貴志ーー大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ



おそらく銭湯の壁画文、あるいはジャーナリスト風の非文体を避けるには、どもることが、どもることができるようになることが、肝腎なのだろう。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)

ーーだが今は、銭湯の壁画やら非文体ばかりが跳梁跋扈しているではないか、そしてそんな文章しか読まれなくなってしまったのではないか。

《ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。》(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。

もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。

傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫 「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて)

…………

わたくしは佐々木中という作家の小説を読んだことがないのだが、彼のどもりようというのは次ぎの文章に読んだことがある。

知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。

この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。

まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。

それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)






2014年12月30日火曜日

ボランティア、あるいは「わずらわしい大義の人」

まずボランティア、あるいは無償の慈善活動をめぐる示唆溢れるーーそしてまずは共感したくなるーーツイートに昨日出合ったので、ここに掲げる。

@Kino_Toshiki: 「無償で慈善活動やっている人がいると粗探しして否定しないと死ぬ病」の奴らってさ、やっぱり「無償で他人を思いやって助ける人」なんてのが世の中に実在するとは信じられないんだと思う。「そんな人間いるはずがない、自分と同じで下衆な奴に違いない」ってことにしたいんでしょう。死ねばいいのに。

@Kino_Toshiki: ある種の心苦しさなんじゃないのかな。「まさかこの世に、善意でわざわざ金と時間使ってホームレス支援やる人間なんているはずがない、あいつら宗教か政治活動目的に違いない、そんな立派な人間は存在しない、俺と同じで皆下衆なはずだ」ってことにしておかないと困るのではないかと。

@Kino_Toshiki: 在特会への抗議活動への反応も似たようなものだったよね。「お前らどこからか金もらっているんだろう?左翼団体へのオルグのために弱者を利用しているんだろう?」とかさ。「善意で、無償で何らかの行動を起こす人」なんてのが存在することが本当に信じられない、存在することを認めたくない、という。

@Kino_Toshiki: 世の中には意外に「まあ年末くらい野宿者支援するか」「たまにはボランティア活動でもやるか」みたいな人はそこそこいたりするのだが、そんなことを認めたくないわけですよ。「あいつらは宗教、政治活動家、偽善者」ってことにしておいてくれないと、下衆な自分の心性に直面して、苦しいんだろうな。

「死ねばいいのに」ともあり、これはいささか余分かもしれないが、わたくしも心の底のなかではかすかにでもそんなことを呟いている時があるので、これもとりあえず批判するつもりはない。そもそもツイッターなどを眺めていると、あるいは稀に自分のツイートが大量RTなどされ湿った瞳を送られたり「短絡的」な頷きの輪が拡がったりすると、こんな気分になってしまう場合がある。

@Cioran_Jp: 街に出て人間どもを目にすると、まっさきに思いつくのは「皆殺し」という言葉だ。(シオラン『四つ裂きの刑』)
《おれの曲に拍手する奴らを機銃掃射で/ひとり残らずぶっ殺してやりたい」と酔っぱらって作曲家は言うのだ》(谷川俊太郎「北軽井沢日録」より『世間シラズ』所収)

たんに湿った瞳を送りあったり頷き合ったりするのではなく、われわれに必要なのはまずは次のような姿勢ではないか。

・気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる外部の力学
・共感とは異質のある種の齟齬感
・同調からくる納得ではにわかに処理しかねる違和感
・親密さではなく、むしろそれをこばんでいるかにみえる隔たり

平成10年度入学式における蓮實重彦総長の式辞


さて木野トシキさんの発言は、もちろんツイッターからであるが、彼のtwitterではなくtumblrのプロフィール欄にはこうある。

木野トシキです。社会人学生です。今年で4年生になります。卒業後は欧州の大学院に進学しようと考えています。ジャズ・トランペッターでもあります。ビ・バップ大好きっ子。

とはいえ、この方がどんな人であるかはいまはどうでもよい。ただボランティアに向かう人とそうでない人が世の中にはおり、この違いはどこからくるのか、との問いはかねてからあり、かついまでも宙吊りのままだ。

わたくしは一度だけボランティアめいた活動を一週間ばかりしたことがある。だがそれも余儀なく、あるいは偶然の機会に、である。阪神大震災のおり、京都に住んでいたのだが、離婚直後の前妻と娘が西宮に住んでいた。そのため「やむえず」駆けつけたというわけだ。そこで多くのボランティアの人々を見た。髪を金髪に染めた若者が率先して、まるで水を得た魚のように、活発に動き回っているのがひどく印象的だった。それに刺激を受け、その爪の垢でも煎じて飲むようなぐあいに、しばらくボランティアめいた行動をしたというだけである。

・それにしても、神戸を一時は埋めつくしたボランティアたちは、どのような事業によらず、毛細血管のように、すみずみまで救援を行き渡らせた。ボランティアなくして、行政の救援だけならば、全国の行政が集まってもああは行かなかったはずだ。老人の荷物を担ぐとか、家をちょっと直すとか、救援物資を配るとか……。

・奈良女子大では、地震と聞いてさっと出発したのは外国人留学生で、日本人学生は、これにはっと気づいて数日後に後を追ったそうである。(中井久夫「阪神大震災後四ヶ月」)


なぜ奈良女子大のような外国人留学生/日本人学生の差異が出てしまうのか。たとえば外国人留学生にとっては仲間が神戸に住んで被災したから、「さっと出発した」だけなのかーーでは日本人学生の仲間は神戸にひとりも住んでいなかったのかーーこれもわたくしにはいまだ判然としていない。

ところで今はツイッターをやめてしまった小説家・思想家の佐々木中氏が以前つぎのようなツイートをしている。

@AtaruSasaki: 中井=サリヴァン曰く「昇華は潜在的に病であり妄想に近く、偏執狂的になりうる」。自分の欲望を誰からも文句がつかない世のため人のための行為に「昇華」する人は、他人をするべき事をしていない様に見えてきて「わずらわしい大義の人」になる。これはボランティアも治療者も同じ、と中井氏は語る。

@AtaruSasaki: ここで中井氏が「治療者」を自戒を込めて含めていることが重要だ。われらも誰かからは病的に上から目線の「わずらわしい大義の人」なのかもしれぬ。この自己懐疑を持っているだけで違うのでは。また自分の凡夫としての欲望から目を逸らさないことが肝要ではないか。(これ、実は拙著『切手』の裏主題)

彼も、「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」としてあるツイッターという場において、「皆殺し」気分に襲われる仲間の一人であったのではないかと想像しうる人材である。

@AtaruSasaki: 知人のプログラマによると、もうギークたちはFacebookにもTwitterにもいない、Github Gistで日記書くのもやめてリアルで会ってる。が、TwitterにはまだRSSリーダの代替としての、そして市民運動の連絡ツールとしての役割が残ってる。

@AtaruSasaki: おっと、もうひとつ役割がありました。それは「市民運動を斜に構えてヘラヘラ見下し仲間内で冷笑する社交場」としての機能です。どっちもどっち論者、そこまでやらなくても論者、内容はいいがやってる人間が気に食わない論者。内心にあるのは既得権益を失いたくないという自己保身。東電か。

@AtaruSasaki: 繰り返しますが、人種差別などの歴とした不正が目前で行われているのに、客観中立を装ったり党派的に日和見をしたりするのは、そのような不正に積極的に加担していることになります。その理由が狭い業界での保身ともなれば、思っているより遙かにあなたはあなたの敵だと思っていたものに酷似している。

@AtaruSasaki: 自分の信念を貫くこと、しかしこの社会で生き延びること。この二つをなんとか両立するために、ネゴシエーションというものがある。ギリギリの交渉はストレスフルで疲れます。が、いつも逃げ回っていれば、信念や既得権どころか、正義も生命もすべて失うことになる。

さて、佐々木中氏の最初に掲げたツイートに戻れば、そこにあるのは「昇華」である。ボランティアを昇華と捉える中井久夫=サリヴァンの観点が要約されている。

サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫 「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』所収)
妄想の類似現象は意外なところにある。またしてもサリヴァンであるが、彼は昇華と妄想とが近縁であると言っている。昇華によって、たとえば慈善事業に打ち込んでいると、他のことをしている人間は皆すべきことをしていない人間に見えて来て、自分の仕事に参加すべきだと考えるようになり、「わずらわしい大義の人」になるという例を挙げているが、これは確かに妄想症の一歩手前である(中井久夫「説き語り『妄想症』」『世に棲む患者』ちくま」学芸文庫、2012年(初出1986年))。

ーーこうやって引用してくると、冒頭の木野トシキ氏のいう《無償で慈善活動やっている人がいると粗探しして否定しないと死ぬ病」の奴ら》の一員になりかねないが、しかしながら《「わが仏尊し」的な視野狭窄》に陥らないためには、あるいは「わずらわしい大義の人」にならないためには、つねに自己懐疑が必要であるには違いない。


ここでもうひとつ付け加えれば、中井久夫は、苦渋に陥っている人びとへの共感をもつか否かは、ーーここでの文脈では、ヴォランティアを率先して行なう人とそうではない人との相違はーー、過去のトラウマの有無にかかわるのではないかと読みとれる文章を書いている。

……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」『徴候・記憶・外傷』所収P93

…………

さて、中井久夫の文に「超自我」という語彙が出現しているが、それへのヒントとして、ここで90年代初頭に書かれたジジェクの「昇華」をめぐる文章を掲げる。


昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。 ラカンの出発点は、直接的で「野蛮な」満足とされているものの対象ではなく、その反対、すなわち原初的な空無である。原初的な空無とは、そのまわりを欲動がぐるぐる回っている空無であり、<物自体 the Thing>(フロイト的な das Ding。不可能にして獲得不能な享楽の実体)の形のない形としてポジティヴな存在形態をとる欠如である。崇高な対象とはまさしく「<物自体>の気高さまで高められた対象」である。(ジジェク『斜めから見る』)

この物自体das Dingの場には何があるというのか。

幻想は、われわれ各人が、想像のシナリオによって、非整合的な<大他者>、すなわち象徴的秩序の根本的行き詰まりを解消し、かつ/あるいは隠蔽する、そのやり方である。 <対象a>、すなわち剰余享楽を具現化している欲望の対象=原因を、まさしく、普遍的交換のネットワークを擦り抜ける剰余として定義づけることができる。 普遍的「人権」の領域は、ある一つの権利(享楽の権利)の排除の上に成立している。この特殊な権利を含めたとたん、普遍的権利の領域全体が均衡を失う。 主体は、まさに「それ自身のまわりだけを回り」ながら、「それ自身の中にあってそれ自身以上のもの」、すなわちラカンが das Ding というドイツ語であらわしている外傷的な享楽の核のまわりを回っている。主体とはおそらく、この循環運動の、すなわちもっと近くに寄るには「熱すぎる」、この<物自体>との距離の、別名である。この<物自体>があるゆえに、主体は普遍化に抵抗し、象徴的秩序内の場所――たとえ空っぽの場所だとしても――に還元することはできない。 (同)

こうして、これらの「昇華」の例として、無償の愛ーーここでは敢えてそれを無償のボランティア行為と読み替えてもよいーー 、それは「最も淫らな強迫観念」ではないかと読みうる文章が書かれる。

……無条件の義務の哲学者であるカントが知らなかったものを、通俗的でセンチメンタルな文学、今日のキッチュはよく知っている。このことは別に驚くにあたらない。というのも、〈意中の婦人〉への愛を至高の義務と見なす「宮廷恋愛(騎士道恋愛)」の伝統が今なお生きているのは、まさしくそうした文学の世界なのである。コリーン・マッカロウの『淫らな強迫観念』には、宮廷恋愛ジャンルの典型的な例が見られる。この小説はまったく読むに耐えないもので、そのためにフランスでは叢書「ジェ・リュ(私はもう読んでしまった)」の一冊として出版された。この小説の時代は第二次世界大戦の末期、主人公は、太平洋岸にある小さな病院で精神病者の世話をしている看護婦である。彼女は職業上の義務と、ひとりの患者への愛との葛藤に引き裂かれている。小説の結末で、彼女は自分の欲望を理解し、愛を断念して、義務へと戻る。一見すると、なんの面白みもまにモラリズムのように見える。義務が恋愛感情に打ち勝ち、義務のために「病的な」恋愛が断念されるのだから。しかしながら、この断念にいたる動機の描写はもう少し複雑で微妙である。小説の結びは次のようになっているーー

《彼女にはそこに義務があった。(……)それはたんなる仕事ではなかった。そこには彼女の心がこもっていた。しかも奥深く。それが彼女が本当に願っていたことだった。(……)看護婦ラングトリーはふたたび歩きはじめた。颯爽と、恐れることなく、彼女はついに自分自身を理解した。そして、義務こそ、最も淫らな強迫観念であり、愛の別名であることを理解した》。

このように、ここにあるのは真に弁証法的・ヘーゲル的反転である。義務そのものを「愛の別名にすぎない」と感じたとき、愛と義務の対立が「止揚される」。このどんでん返しーー「否定の否定」――によって、最初は愛の否定であった義務が、世俗的な対象に対する他のすべての「病的な」愛を廃棄する至高の愛と合致し、ラカンの用語を使えば、他のすべての「ふつうの」愛の〈クッションの綴じ目 point de caption〉として機能する。義務そのものが根源的に猥褻なのだということを経験した瞬間、義務と愛との拮抗、すなわち義務の純粋性と恋愛感情の病的な猥褻性あるいは淫乱性との拮抗は解消する。

小説の最初のほうでは、義務は純粋で普遍的であり、恋愛感情は病的で、個別的で、淫らである。ところが最後のほうになると、義務こそが「最も淫らな強迫観念」であることが明らかになる。ラカンのテーゼ、すなわち、〈善〉とは根源的・絶対的〈悪〉の仮面にすぎない、〈物自体 das Ding〉、つまり残虐で猥褻な〈物自体〉による「淫らな強迫観念」の仮面にすぎない、というテーゼは、そのように理解しなければならないのである。〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である。〈悪〉は特定の「病的な」位置をもたないのである。〈物自体 das Ding〉、が淫らな形でわれわれに取り巻き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれは自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである。「善」は、この邪悪な〈物自体〉に対して一定の距離を保つための唯一の方法であり、その距離のおかげでわれわれは〈物自体〉に耐えられるのである。(ジジェク『斜めから見る』P299-300)


〈善〉の背後には根源的な〈悪〉があり、〈善〉とは「〈悪〉の別名」である、とあるが、これがフロイト=ラカン派のテーゼのひとつである。もっとも上の比較的若い時期に書かれたジジェクの「挑発的」とさえ読みうる文はいささか分かりにくいかもしれない。

引き続きジジェクによって最近書かれた書(2012年)における超自我をめぐる文を掲げる。この文と上の文を併せて読めば、無償の慈善的行為の裏にはどんなものが隠されているのかという精神分析的な視点がより鮮明になるのではないか。これが正しいとはわたくしは言わない。だがこういった自己懐疑はつねに必要であるには相違ない。

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十分に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。だが同時に、彼らは“非合理的な”罪の意識にとり憑かれる(それは単にそれ以上のようにして)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやるのだ。これが露わにしているのは、最も純粋な超自我の審級である。不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を途方に暮れさせることにある。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。現実界のトラウマ的な固い核、――そこから昇華がわれわれを保護してくれるーーその核であるどころか、超自我そのものが現実界を仕切っている仮面なのである。

レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 (ZIZEK"LESS THAN NOTHING"私訳)

ここでも中井久夫の文と同様に、肝腎なのは「トラウマ的な固い核」である。とはいえ中井久夫の見解とラカン派の見解とのニュアンスの相違、--おそらくそれが「超自我」を考えるのにもっとも肝要なことであるのではないかと思われるがーー、それはここでは、いや、いまだわたくしにはどこであっても、問い切れていない。そのニュアンスの相違とは、フロイト的に超自我≒自我理想とするかーーこれはわたくしの誤読でないかぎり、中井久夫だけでなく柄谷行人もそうである(参照:「ユーモア」と「超自我」(柄谷行人とフロイト))ーー、ラカン派的に超自我を現実界の審級、自我理想を象徴界の審級とする立場をとるかの差異に由来し、後者では超自我の非合理性、ドイツ観念論者による理性の欲動、その猥雑な面が強調される。

人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(…)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)
カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。

カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

◆附記:これはラカン派の若く有能な精神科医のツイートのはずだが、鍵アカウントになっているので敢えて彼の名を掲げない。

RT 鍵 : ネトウヨ=底辺説と同じように、レイシスト=人格障害説も、彼らを他者化して考えてるだけなんでダメ議論ですよね。むしろ、どうして私たちがネトウヨやレイシストにならないですんでいるのかを考えるべき。つまり、私たちもそうなりうるものとして。現状、それを論じてるのはラカン派 

とはいえこういう考え方はラカン派だけではないとすることもできる、たとえばニーチェの「権力の意志」は、フロイト=ラカン派の「死の欲動」と類似したものと読みうる→ Encore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸

…………

最後に権力の意志≒死の欲動(あるいは享楽)などといささか厄介な話ではなく、ここでは『道徳の系譜』から、「理想」をめぐるニーチェの「愉快」な叙述を抜き出しておこう。なによりも大切なのは、〈あなた〉の理想を、あるいは脊髄反射的=「身体的」に出てしまうつもりになっている〈あなた〉の善意や良心を、ときに疑うことである。それが視野狭窄に陥らない、「わずらわしい大義の人」の臭気をまぬがれるほとんど唯一の道ではないか(参照:Homo homini lupus、あるいは攻撃欲動(ニーチェとフロイト))。

地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その勇気をもっている者が誰かあるか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険家君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるのか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえーー今度は私が聴き役だ。――

――「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞えてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱さを嘘でごまかして手柄に変えようというのですーー確かにそうに違いありませんーー全くあなたのおっしゃるとおりです。」

――それから!

――「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病そのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐をすることができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕さえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなりーーかれらの為すところを知るはただわれらのみ!』)。その上、『敵への愛』を説きーーそしてそれを説きながら汗だくになっています。」

――それから!

――「すべてこららの陰謀家や隠れ場の贋金造りどもは惨めです。それは疑いありません。奴らは一緒に蹲まって温まり合ってはいるのですけれどーーしかし奴らの言うところによりますと、奴らの惨めさは神意によって選ばれた特別の扱いであって、一番可愛がられる犬が打ちゃく(手偏+鄭)されるのと変わりがない。恐らくこの惨めさもまた一つの準備、一つの試練、一つの訓練なのだろう。のみならず恐らくーーやがては償われ、莫大な利子を附けて、黄金で、いや幸福で払い渡される代物なのだろう、というのです。それを奴らは『至福』と呼んでいます。」

――それから!

――「今度は、私にこんなことを仄めかします。奴らはその唾を舐めていなければならない(恐怖からではない、断じて恐怖からではない! むしろ、神がおよそお上〔かみ〕を敬えと命じたまうたからだ)あの地上の有力者、支配者たちより、単により善いばかりではない。――単に『より善い』ばかりでなく、更に『より幸福』でもある。少なくともいつかはより幸福になるだろう、と。だが、もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」

――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《反感〔ルサンチマン〕》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……

――「わかりました。もう一度耳を欹てましょう(ああ! これは! どうだ! 鼻をつまもう)。奴らがすでに幾たびとなく繰り返したあの言葉が今やっと聞えます。『われわれ善き者――そのわれわれこそ正しき者だ』と。奴らの欲するもの、それを奴らは報復と呼ばず、却って『正義の祝勝』と呼びます。奴らの憎むもの、それは奴らの敵ではないのです。そうです! 奴らは『不正』を憎み、『背神』を憎むのです。奴らが信じかつ望むもの、それは復讐への希望、甘美な復讐(――『蜜より甘き』とすでにホメロスが呼んだ)の陶酔ではなくして、むしろ『神を無みする者に対する、神の、義しき神の勝利』なのです。奴らにとって愛すべきものとして地上に残されているもの、それは憎悪における同胞ではなくして、むしろ『愛における同胞』であり、奴らの言うところによれば、地上におけるすべての善くかつ正しい者なのです。」

――では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の至福――、それを奴らは何と呼んでいるか。

――「どうでしょうか。私の耳に間違いないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。――しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。」

――もう沢山だ! もう沢山だ! (ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫P52)