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2016年7月19日火曜日

主体の生活の真のパートナーは、人間ではなく言語自体である

ある子供が怪我をして、泣き喚く。すると、大人たちがその子に話しかけ、叫ぶことを教え、さらに後に、文を教える。彼らは子供に、痛いときの新しい振る舞い方を教えるのである。  

「すると、『痛み』という語は実際には泣き喚くことを意味していると仰有るのですか?」――逆である。すなわち、痛みの言葉による表現は、泣き声の代わりなのであって、それを記述しているのではないのだ。 (ウィトゲンシュタイン『探究』244)

…………

私はここで、Jean-Louis Gault の談話に言及しようと思う。それは、主体のパートナーに関するものだ。彼は言う、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である、と。あなたがたは、主体のなかに、他者たちの世界の独自の谺を観察しうる。…しかし、あなたがたは、それらの他者たちによって生み出された烙印のような何かを持っている。とすれば、事実上、それは言語との基本的な関係のような何かである。人間との関係ではない。(Ordinary Psychosis Revisited Jacques-Alain Miller ,2008、PDF
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDFーー「お父さんのようにはならないで下さいお願いだから」)

後期ラカンは、フロイトの「無意識」という言葉を「言存在parlêtre」に置き換えている。« le sujet se supportant du parlêtre, qui est ce que je désigne comme étant l'inconscient »(S.23)

※Jacques-Alain Miller も Geneviève Morel も言語の物質性をふくめて「言語」と言っているはず(参照:純シニフィアンの物質性

…………

人間は自分じしんの歴史をつくる。だが、思う儘にではない。自分でえらんだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、あたえられ、持越されてきた環境のもとでつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊をよびいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語(スローガン)と衣装をかり、この由緒ある扮装と借物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。かくてルッターは使徒パウロに仮装し、一七八九年から一八一四年までの革命はローマ共和国とローマ帝国の衣裳をつぎつぎに身にまとい、そして一八四八年の革命は、あるときは一七八九年をもじり他のときは一七九三年から一七九五年にいたる革命的伝統をもじるぐらいのことしかできはしなかったのである。(マルクス『ルイ・ポナパルドのブリュメール一八日』)

ーーこの時期の諸党派を支配していたのは、過去の亡霊であり観念であった。彼らは現にやっている行為をそれらの言葉で了解していたのであり、すなわち言葉が彼らを支配していたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

…………

《われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。》(プルースト)

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。

なるほど、私の一家の人たちは、自分で組みたててしまったスワン像のなかに、彼の社交生活の無数の特徴をふくませることを、その事情に暗いために、怠ってしまった、一方他の人たちは、そんな特徴を知っていたから、彼のまえに出たとき、エレガンスが彼の顔に領域をひろげていて鷲鼻のところで自然の境界のようにストップしているのを、目にとめたのであった、しかしまた、私の一家の人たちは、彼の威信を落としている、空虚な、だだっぴろいその顔のなかや、彼の評価をさげているその目の奥に、私たちが田舎のよい隣人として生活していたあいだ、毎週私の家の夕食後に、カルタ・テーブルのまわりや庭で、彼といっしょに過ごしたひまな時間の、漠然とした、甘美な残留物――なかばは記憶、なかばは忘却――を沈殿させることができたのであった。

私たちのこの友人の肉体の膜は、そうした残留物や、また彼の両親に関するいくつかの回想で、ぎっしり詰まっていたから、そんなスワンがかえって生きた完全な存在のようになってしまったのだし、またそののち私が正確に知ったスワンから、私の記憶のなかで、この最初のスワンに移るときには、一人の人物とわかれて、それとは異なるもう一人の人物のところへ行くような印象を私はもつのである。この最初のスワンーーそんな彼のなかに私は自分の少年時代のかわいらしい過失を見出すのであるが、その彼はまた、のちのスワンよりもむしろこの当時に私が知った他の人々に似ているのであって、この人生にあっては、あたかも一つの美術館のように、そこにあるおなじ時代の肖像画はすべて同一の調子をもち、同一家族のように見えるものなのだーーこの最初のスワンは、ひまな時間に満ち、大きなマロニエの匂、フランボワーズのかごの匂、タラゴンの若芽の匂をただよわせていた。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

→ 岩井克人版「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」


2015年8月24日月曜日

ラカン派の三種類の他者、あるいはデリダの猫

以下、ほぼ資料の列挙。

唯一ヘーゲルだけである、欲望の根源的で構成的な「再帰性reflexivity」を考慮したのは(欲望とはいつも-すでに欲望の欲望、欲望のための欲望である。すなわちその用語のありとあらゆるヴェリエーションの下の「〈他者〉の欲望」である。私は私の〈他者〉が欲望することを欲望する。私は私の〈他者〉によって欲望されたい。私の欲望は大文字の〈他者〉――私が埋め込まれている象徴的領野――によって構造化されている。私の欲望はリアルな〈他者―モノ〉の深淵によって支えられている)。 (ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ジジェクはヘーゲリアンとしてこのように言っている。通常、ヘーゲルの他者はイマジネールな(想像的)他者とされてきたが(コジューヴ、ラカンなどによる)、ジジェクは、いやそうではない、ヘーゲルの他者には象徴的な他者もあれば、リアルな他者もあるといっていることになる。

ヘーゲルの他者は欲望する者として主体も同様の欲望をもつことを必要とします。主体から承認を受けるためです。他者が欲するものはaです。ここにあらゆる袋小路の元凶があります。「わたしが対象として承認されるのであれば、そしてこの対象は見てのとおりそもそも意識、自己意識ですから、暴力以外による解決はありえません … ふたつの意識のあいだで裁断を下すことがどうしても必要になる」からです。(……)

何度も指摘してきましたが、倒錯は政治の領域にまで及んでしまうのです。想像界にだけ捕われてそこから出発するとそうなるのです。というのもこう言えば的を得ているでしょう。つまり、奴隷の隷属は影響力大で、これは絶対知にまでも影響を及ぼすのです。言い換えれば、奴隷は世の果てまで奴隷で居続けることになるのです。ヘーゲルさんへマをやらかしました!ヘーゲルの定式の真の姿、これをキルケゴールはちゃんとした形で表します。これはヘーゲルの真理ではなく不安の真理となります。不安こそが分析でいう欲望についての考察へとわれわれを導くのです。(ラカン「不安」のセミネール)

ジジェクによるヘーゲルの他者理解は、とても難解である。それは「否定の否定」にかかわり、わたくしにはいまだ手に負えていない(参照:難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))。今はただヘーゲル他者の可能性の中心はここにある、--ジジェク解釈ならばーーとだけ言っておく。

さて一般的なヘーゲル他者理解については、たとえば80年代の柄谷行人は次ぎのように説明している。そしていまでもこの理解が標準的だろう。

私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、“文脈”があり、また“言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができるーー規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ“神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。

この《他者》は、サルトルのいうような他者とは区別されねばならない。後者は、もともと、ヘーゲルの「主人と奴隷」にかんする考察――すなわち自己意識ともう一つの自己意識との相克――に発している。そして、この場合、一つの自己意識ともう一つの自己意識は、互に置きかえ可能であり、同質的なのである。いいかえれば、対称的な関係にある。しかるに、われわれのいう《他者》は、異質であり、われわれが“考えている”ように考えているという保証はない。相克に終始しようと、妥協や和解に終ろうと、そもそも《他者》との間に、「ゲーム」が成立するか否かが不明なのだ。

サルトルは、他者の眼差がわれわれ(対自存在)を凝固させるという。しかし、たとえば猫の眼差ではなぜそうならないのだろうか。そこでは「言語ゲーム」がほとんど成立しないからだ。比喩的にいえば、《他者》は猫に似ているといってよいかもしれない。われわれに時たま関心をよせるかと思えば、まったく無関心であるような猫に。

また、《他者》は、超越的な神、あるいは全知の神の如きものではない。たとえば、神秘的体験において、ひとは、それに対して抗いようのないような神の声を“聞く”。あるいは、強迫的妄想(作為体験)において、ひとは他者の声をありありと聞き、そこからのがれることができない。しかし、そのような他者の声は、実のところ自分の声である。「自分が話すのを聞く」(デリダ)のに、それを「他人が話すのを聞く」かのように受けとっているのだ。その場合、他者に対する通常の“距離”はありえない。その他者は、私をすべて見透しており、私はそこから隠れる余地がない。

ビンスワンガーは、「共同世界から注目されない(見られない、聴かれない、一般的にいえば、捉えられない)ような在り方で実存したいという願望は、私には分裂病的実存様式の根本問題の一つをふくんでいるように思われる」といっている(「精神分裂病」)。そのような患者は、「他者に対して自己を隠そうとする願望」をもちながら、そうすることができない。すべてが見透されているので、自分であることができない。しかし、私が共同世界から隠れられないというのは、私が私自身から隠れられないというのと同じことである。

このような極端な例は、右のような他者が、結局自己意識にほかならないことを示している。他者(神)が全知なのは、私が私の考えていることを知っていることと同じである。しかし、私は私の考えることを知っているのだろうか? というより、「内的な過程」が実在するだろうか?

そのような「聞く立場」の明証性をくつがえすものこそ、《他者》である。《他者》は、私の「心の中」を隈なく見通すどころか、それをまったく疑わしいものとする。ウィトゲンシュタインのもちだす懐疑論者は、そのような《他者》にほかならない。それは、「内省」から出発する、あるいは事後的に見出される規則から出発する思考(哲学)に対する、またその内部で他者や外部を考えてしまう思考に対する、根本的な異議申し立てである。(柄谷行人『探求 Ⅰ』pp.40-42)

柄谷行人解釈のヘーゲル=サルトルの他者理解は黒字強調した通り、「自己意識」とありこれは想像的他者のことである。

ここでの柄谷行人の区分けに従えば、ヴィトゲンシュタインの《他者》がリアルな他者、ヘーゲルの他者がイマジネールな他者、そしてさらに言えばーー厳密さを期さずに敢えて言えば、ということであり、柄谷行人の他者解釈をラカン派の他者概念枠に収めるとすれば、という意味であるーー超越的な神という他者が象徴的他者となるかもしれない(フロイト用語ならヘーゲルの他者が理想自我、神という他者は自我理想か?)。

ジジェクの説明ならこうなる。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級……((『ラカンはこう読め』2006)

さてもう一度柄谷行人の文に戻れば、そこには、ヴィトゲンシュタインの《他者》は猫に似ているともある。

ここでデリダの遺著『動物ゆえにわれあり(L’animal que donc je suis)』の猫の話をめぐるジジェクの文を抜き出そう。

……デリダはこのくすんだ「薄明ゾーン」の踏査を、ある種の原光景におけるレポートを以て始める。すなわち、目覚めた後、彼はバスルームで裸になるが、猫がついて来ている。そこで気まずい心持に襲われる瞬間が起こる。それは彼の裸を見詰めている猫の前に立っているという瞬間だ。

この状況に耐えられなく、デリダは腰の周りにタオルをつけて猫を追い払ってからシャワーを浴びる。猫の眼差しは〈他者〉の眼差しーー非人間的眼差しを表す。だがこの理由でいっそうあらゆる深淵的な不可解さをもった〈他者〉の眼差しなのだ。

動物に見られている己れを見ることは〈他者〉の眼差しとの深淵的遭遇である。というのはーーまさに我々の内的経験を動物にたんに投影すべきではないためーー何かが根源的な〈他者〉であるところの眼差しを回帰させているからだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ジジェクは、デリダの猫の眼差しはリアルな他者の眼差しである、と言っていることになる。とすればヴィトゲンシュタインの《他者》と同質なものなのだろうか。それは超越論的、あるいは物自体にかかわるはずだがーーとはいえ柄谷行人によるヴィトゲンシュタインの《他者》の説明はややそれとはニュアンスが異なるようにも感じられるーー、いまは断言は慎んでおく。


ここでジジェクが三つの他者の次元(想像的他者、象徴的他者、リアルな他者)をより詳しく説明している文を抜き出してみよう。

他者をめぐる話題は、他者の想像的〔イマジナリー〕、象徴的〔シンボリック〕、現実界的〔リアル〕側面を目に見えるようにする一種のスペクトル的分析の対象となるはずだ。そうした分析はおそらく、これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例となるだろう。

第一に、想像的他者が存在するーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちである。

次に、象徴的(大他者)が存在するーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体である。

最後に、<現実的なもの〔リアル〕>としての<他者>、不可能な<モノ>、非人間的パートナー、象徴的<他者>に媒介された対称的な対話など不可能な<他者>、が存在する。

そして、これらの三つの次元がいかにして繋ぎ留められているかを理解することは決定的に重要である。<モノ>としての隣人は次のようなことを意味している。私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵が潜んでいるということだ。ラカンはこの次元をセミネール第三巻で指摘している。

《どうして〔<他者>を〕大文字のA〔<他者>(Autre)を表す〕とするのでしょうか。言語によって与えられる記号を補足(代補)する記号を導入しなければならないときはいつもそうなのですが、妄想的な[mad]理由があるからです。妄想的な理由とは次のようなものです。「君は僕の妻だ」、これについて皆さんは結局何を知っているのでしょうか。「あなたは私の師だ」、このことについて実際それほど確信が持てますか。これらのことばに創設的な価値を持たせているものは次のことです。つまり、このメッセージにおいて目指されていることはーーそれはメッセージが見せかけの場合でもはっきりしていることですがーー絶対的な<他者>としての他者がそこに存在しているということです。絶対的とは、この他者は再認(recognaized)されてはいるが、知られてはいないということです。同様に、見せかけを見せかけたらしめているもの、それは結局、見せかけか否かを皆さんは知らないということです。発話が他者へと向けられる水準での発話関係を特徴づけているのは、本質的には他者の他性(alterity)に在るこの未知の要素なのです。》

価値を創設することば(the founding word)―――あなたに象徴的な肩書きを与え、そうやってあなたをあなた(妻、師)たらしめる言明――というラカンの概念は、五〇年代初頭から、パフォーマティヴ〔行為遂行的言明〕の理論(ラカンとパフォーマティヴという概念の作者であるJ.L.オースティンとのリンクは、エミール・バンヴェニストだった)の影響を受けたものとして通常は理解されてきた。しかしながら、ラカンがそれ以上のものを目指していることは先の引用から明らかだ。われわれが出会う他者は、想像的似姿であるだけでなく、相互的交換が成り立たない<現実的なモノ>〔Real Thing〕としての、捕らえ所のない絶対的<他者>でもあり、まさしくそうしたことを前提としたときのみ、パフォーマティヴィティ〔行為遂行性〕や象徴的なものの関与〔媒介〕に頼る必要が生じるのである。<モノ>と共存する耐え難さを最小限に抑えるためには、<第三者>としての象徴的秩序、すなわち調停役の媒介者the symbolic order qua Third, the pacifying mediatorが介入しなければならない。<他者―モノ>を飼いならして普通の人間にするには、<他者―モノ>の双方が従う第三の審級the third agencyがまず必要になるーー非人称的な象徴<秩序>なくして、相互主観性(人間同士が共有する対称的な関係)は存在しない。だから、第三項なくして二つの項を結ぶ軸は存在しえないのだ。大文字の<他者>の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な<モノ>へと早変わりする(アンティゴネーの場合)。人間的なパートナーとして関係を結べる隣人がいなければ、象徴<秩序>そのものが怪物的な<モノ>となって直接私に寄生する(ダニエル・パウル・シュレーバーの神のように、私を直接支配し、享楽(jouissance)の光線で私を貫く)。象徴的に規制された、他者たちとの日常的交換を下から支える<モノ>がなければ、われわれはハーバマス的宇宙、平板で活気のない〔無菌状態の〕宇宙の住人となる。そこでは、主体は、過剰な情熱から成る傲慢さを奪われ、コミュニケーションという規制されたゲームにおける死んだ駒になってしまう。アンティゴネーーシュレーバーーハーバマス。本当に不気味な三角形だ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

《私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵が潜んでいる》とある。私の似姿、鏡像としての隣人とはイマジネールな他者であり、《根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵》とはリアルな他者である。

これはラカンのボロメオ結びのR(リアル)とI(イマジネール)の重な合いの場所にあるJȺ (jouissance de l'Ⱥutre)もしくはaということになるのだろうか(参照:「享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!」)





いやそれ以外にもジジェクは《大文字の<他者>の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な<モノ>へと早変わりする》としている。とすれば、SとRの重なり場所には、JΦ(jouissance phallique)もしくはaがある。両方の記述を重ね合わせれば、結局対象aにかかわることになる(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。

いや漠然と対象aというよりーー比較的頻繁に使用される語でありながら多くの場合よく理解されているとは思えないーーextimate(外密)やEx-sistenz(外立)と言っておくほうがいいかもしれない。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothby)
Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(塚越敏)

※より詳しくは「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照。

とはいえ、このボロメオ結びはラカン派内でも納得できる形で説明している論者は稀である。わたくしが漸く見出したジジェクの弟子筋のLorenzo Chiesaに目が覚めるような解釈はあるがいまだ納得するというところまでは言っていない(参照:「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)

そもそもボロメオ結びについては次ぎのような見解さえある。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也)

だがジジェクがいうように他者の様態に思いを馳せれば、《これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例》であるに相違なく、そう簡単に捨て去るわけにはいかない。なぜなら、われわれは日常的にも、どの他者に向けて語っているか、想像的他者なのか象徴的他者なのか、それとも現実界的な他者なのか、ーーそしてそれがどんな具合に重なり合っているのか、とはまさにボロメオ結びが参照点になるからだ。

ほかにも例えば、ジジェクは ラカンのボロメオ結びを援用して“the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy”ともかつては言っている(Zizek Iraq)。イデオロギー・ヘゲモニー・エコノミーが、想像界・象徴界・現実界とされれば、これまた柄谷行人のネーション・ステート・資本を想起することもできる(他にも柄谷はカントの仮象・形式・物自体をラカンの三位一体と結びつけている(参照:「仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)」)。

資本=ネーション=ステートは、人間の「交換」がとる必然的な形態に根ざしている。容易に、この環を出ることはできない。マルクスがその出口を見いだしたのは、第四の交換のタイプ、すなわち、アソシエーションである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

こう引用すればーー今気づいたのだがーー、マルクスのアソシエーションは、ラカンのサントームに近づけて解釈できないかという問いも生れる(参照:「ラカン派の二種類のサントーム・症状」).。




さてここではジジェクとLorenzo Chiesaは次のように現実界(リアル)を言っていることだけ示しておく。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

柄谷行人はどうなのか。彼にとっては物自体がリアルである。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。(『トランスクリティーク』)

この文だけを抜き出せば、柄谷行人とジジェクとLorenzo Chiesaの三者のリアルの理解はほぼ同じであるということがいえる。デリダの猫もウィトゲンシュタインの《他者》もこの視点から捉えうるかどうか、--そのあたりがわたくしには曖昧なままである。

最後にジジェク解釈のヘーゲルをもう一度持ち出せば、核心(のひとつ)は次ぎの文にあるように思う。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)




2015年2月13日金曜日

翻訳文と原文、あるいは原翻訳

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳をもたないのだ。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような体験ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい経験を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳ーー「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない」より)

書物は原文で読んだほうがいいに決まっている。だが、たとえばヴァレリーはフランスにおける最初期のニーチェの読者だった(ジイドとともに)が、友人アンリ・アリベールの仏語訳を待ち構えるようにして読んでいる。当時の標準的なドイツの学者や知識人たちとヴァレリーの読解のどちらが現在珍重されるかをすこしでも問うてみたら、原語至上主義者の言い草がいかに馬鹿気たものかが分かるだろう(もっとも日本的環境ではとてつもない悪訳が流通してしまうということはある)。

…………

翻訳を探しに行く暇のない弁解のようだがね、思想的な、あるいは信仰に近い思索が書かれている本は、やはり原書を読むほかないのじゃないだろうか? 隔靴掻痒というか、ここをしっかり掴みたい、というところにかぎって、翻訳ではあいまいで苦しむことがある。日本語とフランス語の構造の差で、原書の力点のある所が翻訳では前後にズレてしまってね、その結果、付随的な文章に引きずれらてしまうことはしばしばあるんだ。

原書の言葉が読めない時は、日本語の翻訳に別の外国語によるそれを並べて読むのが、次善の策。ともかくテキストを相対化することができて、自発的な受けとめをなしやすい。結局は、自分の言葉でどう捉えなおすということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」より)

…………

晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」)
……しかし彼らは、現今世界にまだ残っている一切の高いもの繊細なものを所有している。こうした精神のフランス、それはペシミズムのフランスでもあるが、そこでは今日はすでにショーペンハウアーは、彼がかつてドイツにおいて居着いていた以上に居着いている。彼の主著はすでに二回翻訳され、第二回目のものは卓抜な出来ばえであったので、私はいまではショーペンハウアーをむしろフランス語で読むことにしている(――彼はドイツ人のあいだでは一つの偶然であった、ちょうど私がそうした偶然であるようにーードイツ人は私たちをつまむ指をもってはいない、彼らは総じていかなる指ももってはいない、彼らがもっているのはたんに前足にすぎない)。(ニーチェ『ニーチェ対ワーグナー』茅野良男訳)


上に掲げた中井久夫の文は次のような文脈のなかで書かれている。とくに《いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない》との文の前後に注目しよう。

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。

また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(「訳詩の生理学」)

…………

※附記

上の文とは、あまり関係がないが、上の文を抜き出すなか、ーー新しく筆写したのはニーチェ=ショーペンハウアーだけであるーー、たまたま以前のメモのなかで行き当たった文章を、ここに併せて掲げておく。

凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)
そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)


この「空虚さ」を「réel」と読むこともできるだろう。わたくしもラカン派の文章などを読んでいると、安易にやりがちなのだ。--トラウマ、裂け目、傷などと書いてそれですませてしまう。

……映画批評が存在しなければいけないという決定的な原理はなにもありません。なにごとについてもそうだといえばそれまでですが、映画批評というものが存在しなければいけないということを原理的に説明しようとすると、比較の問題としてないよりあったほうがいいんじゃないということぐらいで、絶対になければならないということは誰もいえずにいる。じゃあ絶対にやらなければいけないことは何かといったとき、ラカン的な意味での「réel(現実)」について論ずることがそうかというと、そうではないと思う。その種の「réel」について論ずることには形式的にある種の安易さがあって、その安易さは、ニーチェもいうようにカントの「物自体」から始まったといってもいいですけれど、やたらな人間がそれに言及すると、世界を必要以上に単純化してしまう。ですから、許せないのは、私ひとりが許せないっていったってどういう意味もないんですが(笑)、ジジェクの書いている映画論なんか読むと、腹が立ちます。世界も、映画も、それほど単純なものではない。そもそも無限の情報量で充満した画面を、お前さんはくまなく見ているのか。見ているはずがありません。ラカンだって見ていない。にもかかわらず、「réel」という殺し文句を口にしてしまう。そのことの安易さについては、フィクション論の『「赤」の誘惑』でも論じておきました。「表象不可能なもの」について論じるひとの多くもそうですが、ごく単純に言語記号の配置が読めない主体に、仮眠中の記号を目覚めさせる資質も能力もない主体に、「réel」など論じてほしくない。

これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

だから、「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2


浅田彰はすでに80年代の初頭に、蓮實重彦を引きつつ、次ぎのように書いている。


……クリステヴァが差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千言万語を費しているのを後目に、デリダは初めから差異と同一性や共時態と通時態の双対性をとびこえた差延化のたわむれを語ってみせるのである。それにしても、差延化といい、パルマコンといい、hymenといい、デリダがのっけからあからさまに舞台に上せるこれらの言葉たちは、蓮實重彦が述べたように(『事件の現場』)、それを言ってしまえば何もかもおしまいだという類の言葉ではなかったろうか? 口に出して言わずにおいたまま、それに無限に漸進していく長い長い道筋を辿る方が、有効な戦略だとしたら? それは措くとしても、デリダの戦略は侵犯のエネルギーを中性化してしまうという、クリスティヴァの弱々しい批判を、簡単に黙殺するわけにはいかないだろう。ともあれ、デリダの恐るべき手がそうした言葉たちを敢えて書きつけてしまった時から、我々はそれを避けて通ることができなくなったのである。(浅田彰『構造と力』PP.97-98


上に掲げた蓮實重彦の文は、映画批評だけをめぐっているわけではない。それはほとんど同じ内容のことが、別の書の「あとがき」に次ぎのように書かれていることからも判然とする。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

くどくなるかもしれないが、二つの文を並べておこう。

・批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

・とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)

というわけだが、今ではツイッターをやめてしまった佐々木中氏の印象的なツイートをも掲げておこう。

@AtaruSasaki: 古井由吉さんが自分の小説を「存在しない原典の翻訳」と呼んでいた。全く驚くべき、含蓄が深すぎてめまいがするような表現。確かに小説を書いている時には、「存在しないものに対して正確であろう」として藻搔いている感じがする。

@AtaruSasaki: 逆に、翻訳をするときには「テクストが現に目の前に存在してしまう」という、顫えが来るような異物感を前にして戸惑い続けるという感じか。まったく別の感触、だが正確であろうとする意志だけが切り無く空転を余儀なくされていく、というか……。

@AtaruSasaki: だから小説は「存在しない原典」を創り出す劣化した翻訳を書くことで、……これで正確に翻訳できている筈だ。だが何に対して正確なのか?原典がないどころか、その翻訳だけがかすかに原典を存在させているのだから、なぜその文章が正確だなどと呼べるのか?この自問自答の声が、余所から響く様になる。

作家ではなく、たんなる感想文の書き手でしかないわれわれには関係がない、と受けとられるかもしれない。とはいえ、やはりヴィトゲンシュタインの言葉は、ときには反芻する必要があるだろう。《凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである》、と。そうでなければ、「銭湯の壁画」のような文章ばかり書くことになってしまう。


三島由紀夫の死後、大岡昇平は三島の文体に時折露骨なかたちで現れる奇妙なメカニズムを指摘している。三島の文体全般に言えることだが、時折唖然とするほどに空疎な措辞を用いた文章が現れるという点である。例えば、と大岡は『天人五衰』の一文を挙げる。…「宇治市へ入ると、山々の青さがはじめて目に滴った」。…「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだ、ということである。(丹生谷貴志ーー大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ



おそらく銭湯の壁画文、あるいはジャーナリスト風の非文体を避けるには、どもることが、どもることができるようになることが、肝腎なのだろう。《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(ドゥルーズ『ディアローグ---ドゥルーズの思想』)

ーーだが今は、銭湯の壁画やら非文体ばかりが跳梁跋扈しているではないか、そしてそんな文章しか読まれなくなってしまったのではないか。

《ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。》(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。

もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。

傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。

いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫 「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて)

…………

わたくしは佐々木中という作家の小説を読んだことがないのだが、彼のどもりようというのは次ぎの文章に読んだことがある。

知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。

この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。

まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。

それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)