2016年2月14日日曜日

第一次象徴的去勢/第二次象徴的去勢

十川) …立木さんが「去勢」と言う場合、それは言語の中に入るという意味での去勢を意味しているのですか?

立木) 一方ではそうです。 しかしラカンの場合、 臨床的には母の去勢のほうが重要だという言い方をしている個所もあります。例えば「ファルスの意味作用」(1958 年)がそうですね。 母の去勢はむしろ大文字の他者の欠如を翻訳するものだから、 主体が象徴界に入るということには還元できません。(「来るべき精神分析のために」(座談会、十川幸司/原 和之/立木康介、2009

立木氏が、《十川さんは、ラカンが与えているような重要性を「去勢」という言葉に与えていらっしゃらないようにお見受けするのですが。》と十川氏を「攻撃」しているなかで、十川氏が「反撃」にでた箇所であり、なかなかオモシロイ。

おまえさん、「象徴的去勢」ってなんだかわかってんのか?--というわけだ。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

事実、ラカン派内でも最も基本的な概念「象徴的去勢」を明確に語れる人はいまだすくない。ラカン派の重鎮たち(M、F、O)ーーそれぞれラカニアンコミュニティの総師たち!ーーの文をネット上で覗いてみたが……、まあ、あまりいわないでおこう、ネット上だけであり、わたくしは彼らの著作を読んだことがないのだから。

どうだろ? シニフィアンによる「物の殺害」を、「第一次象徴的去勢」、エディプス段階で介入する父の隠喩による去勢を「第二次象徴的去勢」とでも呼んだら? ーーフロイトにも第一次ナルシシズム/第二次ナルシシズムがあるではないか。

ラカンのセミネールⅣに、象徴的去勢の定義めいたものはある(詳細は失念したが)。




若き「すぐれて聡明な」松本卓也氏によれば、去勢とは《現実的父を動作主とする想像的対象の象徴的負債」だそうだ(「エディプスコンプレクスの構造論」,2011)。これは松本氏がいっているというより、この時期のラカンがこういっているのだろう、--あれっ、以前ネット上からPDFを拾ったのだが、現在は見当たらないな、ナゼダロウ?


ところで、ラカンはセミネールⅩⅦでこういっている。

・la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante, p.180

・la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant p.188

この二文から、象徴的去勢は、シニフィアンの効果である、とすることができないか。とすれば、これはローマ講演1953のラカンーーシニフィアンとは「物の殺害」ーーとともに読むことができる。

ところで、最初のシニフィアンとは、trait unaire(一つの特徴)である(参照:「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire」)。

この trait unaire の介入がーーわたくしに言わせればーー、第一次象徴的去勢であり、母の去勢のほうは第二次象徴的去勢である(参照:「母のファルスの去勢ーー象徴的ファルスによる想像的ファルスの去勢」)。

もちろん、たんなるディレタントの身として、半ばジョークだが、半ばはホンキである。

…………

※附記

「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない」より再掲。

主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,p.55 原文PDF)
何が主体を分割するのか? ラカンの答は、シンプルかつラディカルである。すなわち、それは(象徴的)アイデンティティだ。異なった精神構造(神経症、精神病、倒錯)のあいだで分割されるよりも先に、主体はすでに分割される。一方で、そのコギトの空虚(言表行為の厳密な純粋主体)と、他方で、大他者のなかに或は大他者にとっての主体を同一化する象徴的特徴(他のシニフィアンに対して主体を表象するシニフィアン)ーー、この二つのあいだで分割される。 (同上、ジジェク、2012,p.488)

ジジェクはここで何を言っているのか。ロレンツォ・キエーザの叙述が理解の助けになる。

父性隠喩が成立する以前に、言語(非統合的 nonsyntagmatic 換喩としての)は既に幼児の要求を疎外している。(……)

幼児が、最初の音素を形成し、自らの要求を伝え始めるとき、疑いもなく、ある抑圧が既に起こる。彼の要求することは、定義上、言語のなかに疎外される。…その要求は、必ず誤解釈される。したがって、常に増え続ける欲求不満に陥るよう運命づけられている。(ロレンツォ・キエーザ 『主体性と他者性』Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007)

たとえば、乳幼児は、「寒い、温めて!」と喃語で要求したのに、母はお腹が減ったと誤解釈する。

人はこのように「言語」を使用することによって、「疎外」される。「言い得ぬもの」は、象徴界(快原理)の彼岸にあるのではなく、言語固有のものだ。こうして、$(分割された主体の空虚)は、《「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」》だ、と語られることになる。これは言語を使用する人間の宿命である。

…………

わたくしが依拠する「象徴的去勢」解釈は、次ぎの文に端を発する。

フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。…(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)

※1、最後にある、ラカン理論の「理解可能性」をめぐるヴェルハーゲ解釈・困惑は、「"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」」を見よ。

※2、かつまた、上記文の詳述はーー侵入、刻印等々ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」や「子どもを誘惑する母(フロイト)」やら見よ。

…………

「象徴的去勢」、「想像的去勢」と出てきたが、もちろん、「現実界的去勢(原去勢)」も、捉え方によっては、ないわけではないだろう(参照:「融合と分離、愛と闘争、 Zoë とBios(永遠の生と個人の生)」)


永遠の生の喪失は、ひどく逆説的だが、性的存在としての出産の刻限に失われる。(ラカン「セミネールⅩⅠ」ーーラメラ神話の箇所摘要)