2016年3月8日火曜日

ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる

主にメモ。

まず、ラカンのセミネールⅤから名高い箇所を画像のまま貼り付ける。




これは少しでもラカンに関心があるものは、誰でも掠め読んだか、解説書などによって聞き知っているか箇所だろう。


たとえば、向井雅明氏によって、次のように説明されている(向井雅明「精神分析と心理学」 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

つまり母親のファルスとなる。だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。
漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。
これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。






今、引用した向井雅明氏とほぼ同じように、ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲはこう書く。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ c’est le désir de la mère(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(S.17)(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995 PDF

他にも、ネット上で拾える文から抜き出せば、藤田博史氏は、向井氏の記す「大きなファルス(Φ)」がうまく機能しない場合(倒錯)をも含めた説明のなかで、「母の欲望」を次ぎのように記している(『入れ墨、フェティシスム、男性同性愛』)。

……「母なしでは生き延びてゆけない」という絶対的無力を抱えたヒトの子は、結局死ぬまで「(母に)愛されたい」という願望を抱き続ける不思議な動物だ。発達のごく初期(生後六〜十八ヵ月)に、つまり言葉の世界に巻き込まれる以前に母と二人だけで過ごした蜜月の期間は、ヒトという哺乳類に或る特殊な情念の世界を賦与する。精神分析において「想像界」と呼ばれるこの言葉以前の世界では、唯一であろうとする自我にとって「母=自我の鏡像」は愛の対象であると同時に憎しみの対象でもある。これは母の殺害がそのままそれが自分の死を意味するような矛盾に満ちた関係である。  

母にしてみれば、子は自らの身体像に欠けている「あるもの」を補ってくれる対象なのであり、だからこそ母は子をあたかも自らの身体の一部であるかのように愛して止まない。想像界のなかで母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている。つまり子の欲望は母の欲望を求める欲望として相乗されている。しかし母の場所には決定的に「あるもの」が欠けており、これに対し、子はこの欠如の場所から母の欲望が生じていることを受け入れることができず、幻想のなかで、母の場所における欠如を補填せざるを得なくなる。つまり子は自らの幻想のなかで母にペニスを賦与する。しかしこのような幻想はまもなく挫折することになる。なぜなら子は早晩母の股間にペニスがないことを目撃してしまうからである。この「母にペニスがない」という現実を受け入れることは失望と痛みをともなうが、通常、子はこの堪え難き現実を認め、ペニスの有無に基づく基本的な判断基準を心的な構造のなかに導入する。つまりここで「去勢コンプレックス」が導入される。  

以上のような一般的な経過に反し、この現実を「否認」する子が表われる。このような子は、母におけるペニスの欠如を最終的に認めることができない。このような子は自らの幻想のなかで母のペニスの欠如している場所に「それに代わるもの」を設置して「母にペニスがない」という堪えがたき現実を否認し続けている。このとき、そこに設置された対象が「ペニスの代理人」としての「自己の鏡像」であるならば、子は母が自分を愛したように自分の愛の対象を選択して男性同性愛者となる。また、設置された対象が「ペニスの代理物」としての「モノ(=フェティッシュ)」であるならば、その子はフェティシストの道を歩むことになるだろう。  

「なにかが足らない」という視覚的現実に対して、この現実を「認めない」という心的機制が働き、不足しているものの代わりに同性の人物や代理のモノを愛の対象として選択してしまうこと、これが男性同性愛やフェティシスムという倒錯を生み出している基本的なメカニズムである。(「現実の否認 déni de la réalité」

※倒錯の機制のやや詳細については、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)」を参照のこと。

上の藤田氏の文にある、《母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている》に関しては、ラカンのセミネールⅤに次の文がある。

原象徴化 première symbolisation のなかで、子どもの欲望は確証され、未来の全ての象徴化が始まる、《(子どもは)母の欲望の欲望 であるil est désir du désir de la mère……

Dans cette première symbolisation, le désir de l'enfant s'affirme, amorce toutes complications ultérieures de la symbolisation en ceci qu'il est désir du désir de la mère et ……(S.5)


これらのネット上にある短い論であり、著書にはより精緻に記されていることだろうが、一般的に、ラカン派の「母の欲望」とは、このように語られることが多いだろう。


ところでツイッターセミネールをやっておられる小笠原晋也氏 @ogswrs には、次ぎのような文がある。

母の欲望」と呼ばれたものは,その本有において,他 Ⱥ の欲望であり,そしてそれは,その本有においては,存在欠如である.つまり,抹消された存在です: https://pic.twitter.com/Z2OAWDFr17(2016.1.25)
存在の在処に関する問い,それは,他の欲望 Ⱥ に関する問いでもあります.なぜなら,ex-sistence としての存在は Lacan が manque-à-être[存在欠如]と呼ぶところのものであり,それは Freud が無意識のなかに見出した欲望の正体であるからです.(2015.11.11)
Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です.Lacan の概念では,欲望です.(2014.9.4) 

冒頭の文のみに「母の欲望」が出てくるが、この三つの文はすべて同じことを言っている。つまり母の欲望は、存在欠如であり、死の本能(死の欲動)だといっていることになる。

わたくしはこの小笠原晋也氏のツイートを、ここで難詰するつもりはない(彼の「欲望」という語の取り扱いにひどく違和がある身ではあるが。彼が「欲望」と口に出すとき、そのおおくは「純粋欲望」ではないか、という疑念がある。--そして、純粋欲望の状態 l'état de pur désir をめぐって、次のように指摘する論者がいる、《主体の解任、すなわち欲望の根源的顕現は、逆説的に、欲望の終結を引き起こす》Lorenzo Chiesa 2007ーー結局、純粋欲望とは欲動のことである)。

とはいえ、彼の上のツイートは、父の名の介入によって父の隠喩作用が成立する以前の「母の欲望」に焦点を絞っており、それほど文句を言うつもりはない。

ただし、彼は、母の欲望をȺと言ってしまっている(「その本有において」が二度反復されて曖昧化されてはいるが)。だが、わたくしの今のところの理解では、隠喩化以前の「母の欲望」désir de la mèreとは、Ⱥ がシニフィアン化された(原象徴化された)のちのS(Ⱥ)であるはずだ。そこがわたくしには抵抗がある。

事実、ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独特のしにから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配さえされする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

このミレールの叙述さえ、20年前のものということもあるせいもあり、今読むといささか違和がないでもないが、ここでそれに触れるつもりはない。

(原初の)〈母の欲望〉とは、おそらく、母なる〈他者〉の享楽の侵入にかかわるのではないか(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.(S.17)

すなわち、最初のシニフィアンtrait unaire(「一」の徴)の機能は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源である》であり、これが享楽の侵入の原初形態である。

享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

これは純シニフィアンにもかかわるはずであり、純シニフィアン signifiant pur とは、もちろん Ⱥ ではなく、S(Ⱥ)の領野にある(参照:純シニフィアンの物質性)。

…………

母の欲望はシニフィアンであろうことは、たとえば、若きラカン派の松本卓也氏のツイートを拾えば、次の通り。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアン…

…であって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです(分裂病急性期)。(松本卓也,2012、ツイート)
Pierre Naveau: Sur le déclenchement de la psychose. Ornicar ?, 44 : 77-87, 1988  ラカンが「精神病は〈父の名〉の隠喩がない」と言った意味を,ものすごく明瞭に説明してくれている.すこし引用する.

「ラカンは,〈父の名〉の隠喩が排除されたときの効果について述べている.もし〈父の名〉が排除されていなければ,そこで隠喩によって生産される意味作用は,ファルス的意味作用である ….このことは,x=(―φ)という式で示される

精神病の発病時には, …隠喩によって生産されていた意味作用すなわちファルス的意味作用の代わりに,穴( trou)が現れる.こうして隠喩は失敗し,〔母の欲望に対する〕代理の操作が生じない. …DM/x.母の欲望のシニフィアンによって生産された意味作用は謎めいたままにとどまる.x=?」

フロイトの発見は,神経症の症状は,すべて隠喩として構成されており,そのために性的な(ファルス的な)意味を持つということであった.それをラカンは継承している.つまり,隠喩は意味が(+)であり,換喩は意味が(ー)である(「文字の審級」).

そして,神経症を支配している最大の隠喩こそが,〈父の名〉の隠喩である.母の欲望は,何を欲望しているか分からない( DM/?).母の欲望のシニフィアンを,〈父の名〉で代理すること( NP/DM )によって父性隠喩が成立し,症状や夢,機知といったあらゆる象徴表現の可能性がうまれる.

E557 の父性隠喩の式の読み方はこれで分かる. NP/DM ・DM/x=+ファルス.父の名が母の欲望を代理することによって,ファルス的意味作用が成立する,ということ.( ※NP=父の名,DM =母の欲望)

精神病では〈父の名〉が排除されているということは,隠喩が作れず,よって神経症症状も形成されず,母の欲望があらわすものが謎のxのままにとどまるということ.だから,精神病の発病時には,世界の総体がひとつの大きな謎として主体に立ち現れるのである.

神経症では,〈父の名〉( Nom-du-Père)と出会い,ファルス的意味作用( signification phallique)が成立する.一方,精神病では,父なるもの( Un-Père)と出会い,謎の意味作用 (signification énigmatique)が成立する.(同上)

…………

※附記

別途投稿しようと思ったが、ここに貼り付けておこう。以下には、 Pierre BrunoのPhallus et fonction phalliqueに依拠しての松本卓也氏のツイートの内容といささか齟齬がある内容がある。

《たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。》(松本卓也)に対して、

……事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。 (Lorenzo Chiesa 2007)

Pierre Brunoがどんな文脈で語っているのかはしらないが、わたくしの今のところの理解では、上のロレンツォ・キエーザやポール・ヴェルハーゲの立場(参照)をとる。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007)
……父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。 実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。  (PAUL VERHAEGHE『New studies of old villains』2009


松本卓也氏もこのあたりのことが分かっていないはずはないので(参照:『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』抜粋)、上に抜き出されたツイートのみを捉えた場合の齟齬としてよいだろう。

寄り道したが、ここでの関心の焦点は、冒頭からの「母の欲望」である。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFより

(1) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、ラカンにとって、全体としての原象徴的 protosymbolic 母-子関係の一般的呼称である。あるいは、よりうまく言えば、母子関係を構成する・母子関係において構成される、原象徴的 protosymbolic「諸シニフィアンsignifiers」の呼称である。

(2) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、いまだ組織内されず、あるいはグループ化されていない対立する「諸シニフィアンsignifiers」の流れである。

(3) より正確に言えば、これらの「諸シニフィアン signifiers」は、(絶え間なく変化する不確かな代理としての)母の欲望 mother's desire の換喩的対象に相当する。…

したがって、それらの諸シニフィアンは対立的である。というのは、不在の背景に対して、換喩的対象の場を一時的に占めるどんな対象にも当てられるから(既に象徴的対象として経験されたというゆえに)。

平行して、それらの諸シニフィアンは、流れ flow を表象すると言いうる。というのは、集合化されていないにもかかわらず、換喩的鎖を形作るから。そのような流れは、要求の永続的不満足によって支えられている。集合化は、後に、最初の父の隠喩によってもたらされる。

(4) 「原-諸シニフィアン」Primordial signifiers とは、なによりもまず、想像的シニフィアンであり、それ自体、記号 signsである。もし、一方で、それらの対立的側面ーー「いないないばあ Fort!–Da!」のような発声を伴ったーーは、それらを「諸シニフィアン」として考えさせてくれるとしたら、他方で、それらはまた、フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」の意味での、記号 (Zeichen)でもある。

※「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」(仏語 représentant-représentation,英語 ideational-representative )。表象代理とは、「主体の生活史をつうじて欲動 Triebe の固着の対象となり、また、心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群」。

ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における(子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィアン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子どもが、要求のなかで、彼の欲求を表明 articulate し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子どもは抑圧をこうむる。

ここから、我々は結論づけることができる。フロイトとは異なり、ラカンにとって、すべての「表象代理」Vorstellungsrepräsentanz は、それ自体、原無意識 proto-unconscious のなかに、必然的に抑圧/刻印される。いったん無意識が、父の隠喩の作用によって、自己意識から正しく区別されたら、そのような表象代理の絶え間ない刻印が続いてゆく。この理由で、我々は言うことだできる、ラカンにとって、正当な原抑圧が起こった後、すべてのシニフィアンは二重に刻印される、と(意識的な通時的鎖 diachronic chain と無意識的な共時的鎖 synchronic chains のなかに)。
〈母の欲望〉の複合的な徴示 signifying 機能は、必然的に、〈父の名〉の地位にとって重要な飛び火をもたらす。

両方ともシニフィアンと考えられる範囲において、二つのあいだの置換作用は、正しく(父の)隠喩と呼びうる。他方で、〈母の欲望〉は、同時に、ただの原シニフィアン protosignifier 、表象代理の組織化されていない流れーーその想像的-象徴的徴示要素は、まだ何らかの形で、トラウマの現実界 Real of a trauma と直かの接触があるーーであることを考えれば、〈父の名〉はまた、記号として捉えうる。

我々は、少し前、やや異なった視点から結論づけたように、ファルスの意味作用を促進することによって、〈父の名〉は、両-一義的に bi- univocally 、謎めいた「彼女は何を欲しているのか?」ーー子どもは(完全には)象徴化しえるどころではない謎--を徴示する。まさにこの意味で、ファルスは、主人のシニフィアン (S1)と見なされるべきだ、うまくエディプス・コンプレックスに入場し崩壊させた主体たちの無意識のS1として。

セミネールVから、ラカンの最も有効な表現のひとつを使えば、ファルスは、結局、「signe constituant」である。興味深いことに、この段階におけるラカンは、この表現を、記号/想像的シニフィアンーーたとえば鞭や棒などーーのみに適用しているように見える。「異常な」エディプス関係において、それは、「代替的な」形で、子どもを能動的に象徴秩序に入場させる、と(マゾヒズム的倒錯によって徴づけられるものとして)。

《Il y en a parmi ces signes qui sont des signes constituants, je veux dire par où la création de la valeur est assurée, je veux dire par où ce quelque chose de réel qui est engagé à chaque instant dans cette économie est frappé de cette barre qui en fait un signe.》(S.5)

…もっと一般的に言えば、我々は強調しなければならない。父の法の超越性が、象徴的〈他者〉の自己充足性を与える限り、ラカンは、標準的なファルス幻想ーーそれはエディプス・コンプレックスの成功した施行にかかわる--を、あからさまには explicitly 認めていないことを。幻想は、倒錯の領野のなかに隔離されている。…

だが事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。

言い換えれば、S1としての、父の名/象徴的ファルスは、どんな場合でも、象徴界のなかの欠如に対する最も標準の幻想的代償、あるいは防衛として考えられるようになり、「倒錯的」主人のシニフィアンと区別されるどんな構造的相違もない。父の名は、もはや大他者を「取り囲み encircle」はしない。それは、大他者の欠如を「ヴェール」することによって、単に「縫合 suture」するだけである。

結果として、諸主人のシニフィアン S1s は、それら各自の諸シニフィアンS2 が依拠する、平等に特権化されたシニフィアンとして定義される。しかしながら、そうした依拠は、意味作用のレヴェルに限られる。シニフィアン S2 は、所定の S1 に依拠するーーS2 は、彼の S1 に対して無意識の主体を表象、あるいは徴示するーーという事実は、S1 はその S2s を徴示することをもはや意味しない。

もはや諸シニフィアンのどんなシニフィアンもない。ただ相互に排他的なーー潜在的な無限性を通しての--諸シニフィアン S1 の複数性があるだけだ。それは、基本的幻想のなかで主体の無意識を固定することにより、シニフィエをシニフィアンする(意味されるものを徴示する)。

代数的なの幻想の式 $◇a ーーこれは、「去勢された主体の、原トラウマとしての現実界への(遡及的な)関係」と読まれるーーにかんして言えば、S1 はまさにこの二つの要素($、a)を結びつけるものである。

ーーここでの抜粋私訳は、ロレンツォのラカンセミネールⅤ解釈にもとづいているが、彼は別にセミネールⅩ(不安)にも依拠しつつ、「母の欲望」について詳細な記述がなされているが、ここでは割愛(わたくしにはいまだ納得できていない箇所がある、ということもある。彼の著書の核心そのものは、セミネールⅩⅩⅢの核心的記述(その一つは、この文)から、遡及的に過去のセミネールを読むという態度である)。

以下、いくらかラカン自身の文から引用しておこう。

ロレンツォの議論の核心の議論の一つは「欠如の欠如」である。すなわち、the lack is lacking” / “le manque vient à manquer” (1962)。まず、このリンク先には記載されていない文をひとつ抜き出しておく。

Ceci que ce sur quoi on met un accent qui n'est pas bien centré… à savoir que soi-disant l'angoisse serait liée à l'interdiction par la mère des pratiques masturbatoires …est vécu, perçu, par l'enfant comme présence du désir de la mère s'exerçant à son endroit.

Qu'est-ce que l'angoisse en général dans le rapport avec l'objet du désir ? Qu'est ce que nous apprend ici l'expérience si ce n'est qu'elle est tentation, non pas perte de l'objet, mais justement présence de ceci : que les objets ça ne manque pas !

Et pour passer à l'étape suivante, celle de l'amour du surmoi avec tout ce qu'il est censé poser dans la voie dite de l'échec, qu'est-ce que ça veut dire sinon que ce qui est craint, c'est la réussite, c'est toujours le : « ça ne manque pas ». P.91 S.10

あるいは、ロレンツォの論には、「不安」セミネールからの下記の文にからんだ解釈がある。

Il у а, au stade oral, un certain rapport de la demande au désir voilé de la mère.

Il у а au stade anal, l'entrée en jeu pour le désir, de la demande de la mère.

Il у а au stade de la castration phallique, le moins phallus (-φ), l'entrée de la négativité quant à l'instrument du désir, au moment du surgissement du désir sexuel comme tel dans le champ de l'autre.(Lacan,S.10)

・口唇期には、要求とヴェールされた母の欲望とのあいだある関係。

・肛門期には、母の要求の欲望にとっての機能開始がある。

・ファルスの去勢期には、マイナス-ファルス(-φ)、性欲望の興奮の瞬間に、欲望機構にかかわる否定性の登場、 …………という意味合いのことが記されている。