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2017年10月30日月曜日

基本版:人間の生の図式




上の図式は、ラカンの四つの言説の基盤となる図式を、巷間にもいくらか馴染みのある用語に置き換えたものである(四つの言説それぞれの基本については、「基本版:「四つの言説 quatre discours」」を見よ)。

まずこの図をこう読んでおこう、ーー「トラウマに駆り立てられた欲望の主体は、エロス(他者との融合)を目指すが、究極のエロスは不可能である。ゆえに残滓が生じる。そして永続的にこの運動を繰返す」。

⋯⋯⋯⋯

ラカンの言説とは社会的つながり lien social のことである。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)


この社会的つながりの基本構造図にはいくつかのヴァリエーションがある。




①左上の agent(代理人)の箇所が、semblant(見せかけ・仮象)や désir(欲望)となっている図がある。冒頭の図では、これを「欲望」とした。正確に言えば、欲望の主体である。

とはいえ欲望の主体とは、ラカンにとって、幻想の主体のことである。

欲望の主体はない il n 'y a pas de sujet du désir。あるのは幻想の主体 Il y a le sujet du fantasme である。 ( Lacan,REPONSES A DES ETUDIANTS EN PIDLOSOPFIE,1966)

ラカンの幻想の式は $ ◊ a であり、この代表的な読み方は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主体$(幻想の主体)は、対象 a と関係する」である。冒頭の図は、この幻想の式の詳述版として捉えうる。


②右上の Autre(大他者)の箇所が、jouissane(享楽)となっている図がある。享楽は、不可能としてのエロスである。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体がひとつになりっこない qu'en aucun cas deux corps ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 le sens de l'élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーーもちろん生身の他者(典型的には異性)との融合だけを考えなくてもよい。 言語との融合、大地との融合、偉大な理論や芸術との融合、さらには神との融合も、大他者との融合である(プルースト的な時との融合も同様)。

だがこれらの大他者と真に「融合=エロス」してしまえば、主体の死である。すなわち究極の享楽=死。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)


③ 右下の produit(生産物)の箇所は、剰余享楽 plus de jouir である。これはエロスの不可能性のために生産される「残滓」である。

剰余享楽 plus-de-jouir とは⋯⋯享楽の欠片 lichettes de la jouissanceである(LACAN, S17、11 Mars 1970)
彷徨える過剰は存在の現実界である。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ]

剰余享楽とは、フロイトの快の獲得と等価とされる。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(ラカン、S21、20 Novembre 1973)
まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud『Abriss der Psychoanalyse 精神分析学概説』草稿、死後出版1940年)

「快の獲得」自体、エロスの不可能性のための反復運動であるだろう。ラカン派ではこれを「享楽欠如 manque à jouir」(S17)の享楽とも呼ぶ。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を享楽することが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール2013, Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)


④左下の vérité(真理)が、穴 trou=トラウマ trauma(ラカン曰くの「穴ウマ troumatisme」)であるのは、「安吾の「無頼・アモラル・非意味」」にていくらか入念に記した。

なぜトラウマなのか。最も簡潔に言えば、言語を使用する存在は、われわれの根から切り離されてしまうからである。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

すなわち言語使用は《物の殺害 meurtre de la chose》(ラカン、E319)である。これは実は誰もが知っている「トラウマ」である。《われわれは皆、トラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ミレール、2013-2014セミネール)。ニーチェも既に繰り返して強調している(参照:言語による「物の殺害」)。

坂口安吾の《アモラルな、この突き放した》云々というくり返される表現を、この観点から捉えると、より「豊か」でありうる。

逆説的だが、「根を下ろす」ということは、「根」から突き放されることであり、いいかえればそのようにして「根」を感知することである。 (坂口安吾『坂口安吾と中上健次』)

「根」とは、ここでの文脈においては、トラウマ=穴であるだろう。ジジェクの表現なら、人は言語によって、《世界のなかの根を失う》である。

⋯⋯⋯

ところで「人間の生の図式」には、エロスという言葉があって、タナトスがない。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「分解 aufzulösen」 することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

エロスが融合・統一に向かう動きであるのはいいだろう。だがタナトスは、フロイトによれば分離・分解である。

わたくしの現在理解する限りでは、冒頭の図式における循環運動自体がタナトスである。《私は…欲動Triebを「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。》(ラカン、S20、08 Mai 1973)

人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort) …もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23 16 Mars 1976)

ラカン派における死の欲動とは、実際は永遠の循環運動であり、「不死の欲動」である(参照:「死の欲動」という「不死の欲動」)。

ニーチェの永遠回帰、権力への意志とは、実はこの循環運動のことでありうる。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年ーー「享楽という原マゾヒズム」)