2018年2月18日日曜日

ひとりの女は異者として暗闇のなかに蔓延る

「ひとつの生」une vie のほうが、「生というもの 」 la vie よりも重要であり、「ひとつの死」une mort のほうが「死というもの」 la mortよりも重要だというところなど、ドゥルーズはゴダールといちばん感性が響き合っているなと思いますね。ゴダールが不定冠詞についてほとんど同じことを言っている。《Une femme mariée》という映画があって、そこを《La femme mariée》にするかしないかをめぐって検閲でもめたときに、彼は《Une femme mariée》にしちゃった。そのほうが広いのだ、と。(蓮實重彦、共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間1996Ⅱ―9[ポジとネガ])  




ラカンにとって、ゴダールやドゥルーズの考え方と近似して(まずは女にかんして)定冠詞の女 La femme は存在しない。だがひとりの女 une femme はもちろんいる。

◆まず「女というもの La femme」について。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

S(Ⱥ)とある。このマテームは「大他者はない」というシニフィアンであると同時に、《S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions 》(ミレール Jacques-Alain Miller  Première séance du Cours 2011)

あるいは、より分かりやすく単純にいえば、

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienneである。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)

◆次に「ひとりの女 une femme」について。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は…他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)



以上、「女というもの」と「ひとりの女」のラカンの発言からこう言える。

ーー女というものは存在しない。だがひとりの女はいる、他の身体の症状として。

だが「他の身体」とは何か。《われわれにとって異者としての身体(異物としての身体) un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)(参照)に相当する。

そして《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》とはフロイト概念「異物Fremdkörper」のことである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

「異物 Fremdkörper」とは、ラカンの「外密 Extimité」である。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

そして《対象a とは外密である。l'objet(a) est extime》(ラカン、S16、26 Mars 1969)

さらにまた「外密 Unheimliche 」とは、フロイトの「不気味なもの Unheimliche 」をラカンが書き換えた言葉である(参照)。

事実、《最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある》という「外密」の定義は、「不気味なもの=親密なもの」の定義と相同的である。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なものUnheimlicheとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

ここではーータマニハーー、女性器などということにかかずらわないで「お品よく」記述することにしよう。




さて「他の身体の症状」とは、ファルス秩序の外部にある「他の享楽(女性の享楽)」のことでもある。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

※ この文にある{他の享楽」(通常は「大他者の享楽」と訳されてしまう)とは、女性の享楽のことである(参照:女性の享楽と身体の出来事

 ようは他の身体の症状とは女性の享楽の症状である。

身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011、pdf

「固着」とある。これはフロイトの原抑圧(引力=エロス)にかかわる語彙である(参照)。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧(放逐)により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

ひとりの女は、異物あるいは異者として暗闇のなかに蔓延るのである。 そして男も女もその「引力」に惑わされる。





ここまでで記述はおわりにしようかと思ったが、いくらか付加的にもうすこし記しておこう。


ラカンの「症状」には大きく二つの意味がある。

①象徴界的症状、すなわち抑圧されたシニフィアン、あるいは欲動の心的表象

②現実界的症状、すなわち欲動自体にかかわるもの(Frederic Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE、2004)

ラカンが「ひとりの女」というとき、それは現実界の症状である。

だが通常の現実界の定義である不可能性:「書かれぬ事を止めぬもの l'impossible:ne cesse pas de ne pas s'écrire」ではない。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女La Troisième、1974)

「女というもののシニフィアンはない」つまり「女というものは存在しない」については、「「ソーセージ/蝦蟇口」問題」にていくらか詳述したが、ここでは次の核心的文をふたつ再掲しよう。

本源的に抑圧(放逐)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose.(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert , 2018

女が象徴界から放逐されているのは、男にとってだけではない。言語を使って生きざるをえないすべての人間にとって女は放逐されている。

女は、女にとっても抑圧(放逐)されている。男にとってと同じように。La femme est aussi refoulée pour la femme que pour l'homme.(Miller J.-A., Ce qui fait insigne,1987 )

象徴界から放逐されているのだから、現実界に現れる。

象徴界に拒絶されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)

あるいは、

Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)

この初期ラカンの精神病をめぐるセミネールの言葉は、すべての人間に当てはまる。われわれは女のシニフィアンの排除をかならずしているのだから、この点にかんしては(ある意味で)みな精神病的なのである。

ゆえに最晩年のラカンは、「人はみな妄想する」と言い放った。

人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant(ラカン、1978

そして、

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 ーー「人はみな穴埋めする」

この意味は、

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。

Tout un chacun est obligé d'inventer ce qu'il peut, standard ou pas, universel ou particulier, pour parer au trou de la forclusion généralisée. (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité, 2018)

すなわち女は存在しないという現実界、その穴Ⱥに対する防衛のために切磋琢磨しているのが、われわれ人間である。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるcombler le trou dans le Réel ために何かを発明する inventons のだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。 (ラカン、S21、19 Février 1974 )
身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice)
穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

 別の角度から言えば、《シニフィアンが穴を作る  le signifiant fait trou》(ラカン、S22, 15 Avril 1975)、すなわち表象が穴を作る、象徴界が穴を作るのである、《象徴界によって構成される穴 trou constitué par le Symbolique》(同上)

これが言語を使用する人間の宿命である。

ジジェク組(ドラーやジュパンチッチ)が繰り返して強調している「表象は非全体」とは、この文脈のなかで読むことができる。

「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)

とはいえこの哲学的ラカン派の捉え方は、臨床ラカン主流派とのあいだに(2010年前後から)軋轢があるようにみえる(すくなくとも表面的には)。それについては、わたくしは曖昧なままである(参照:臨床的ー哲学的ラカン派のあいだの軋轢)。




ジジェクは次のように言っている。

女というものは存在しない。だが女たちはいる la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

いままでの記述に則って、ジジェクをこう変奏してみよう。

女というものは存在しない。だがひとりの女あるいは女たちは暗闇のなかに幻想的幽霊として蔓延る。

女の問題とは、(……)空虚な理想ーー象徴的機能――empty ideal‐symbolic function— を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻影的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象 a である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

カフカの「幽霊との交わり」は、こういった文脈のなかで(も)読むことができる。

手紙は…幽霊との交わり Verkehr mit Gespenstern でありしかも受取人の幽霊だけではなく、自分自身の幽霊との交わりでもあります。…

手紙を書くとは…むさぼり尽くそうと待っている幽霊たちの前で裸になることです Briefe schreiben aber heißt, sich vor den Gespenstern entblößen, worauf, sie gierig warten.。書かれた接吻は到着せず、幽霊たちによって途中で飲み干されてしまいます。(カフカ、1922年 3 月末 ミレナ宛)