ボクは折に触れてクンデラの四つの視線のカテゴリーを示してるんだけどさ
四つの視線のカテゴリー |
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誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』) |
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① |
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。(…)政治家になる道を選ぶ人間は、その人間が大衆の好意を得るという、素朴でむき出しの信仰を持って、自らすすんで大衆を自分の判定者にする。 |
政治家、スター、TV キャスター等 |
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② |
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。…この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。 |
社交家 |
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③ |
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。 |
愛する人 |
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④ |
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。 |
夢想家、理念家、死者 |
ボクが一人称単数代名詞「ボク」を使うときは、意識的に②③のレベルで書いているときだな。「私」とか「蚊居肢子」とか使う場合はそこから逃れたいあるいは逃れているつもりだけどなかなか難しいね。ま、凡人は②③のレベルから容易には逃れられないんだな。
ツイッターなんかで書くとことさらそうなっちまうな。もっとも万単位のフォロワーを抱えるようになったら、たぶん②③の領域から徐々に①の領域に移行する人が多いだろうけどさ、でも十万単位のフォロワー抱えてても②の人はいるね。で、④というのは構造上、ツイッターではほとんどあり得ないんじゃないか。
フロイトラカンの区分はクンデラ 区分とは厳密には一致しないけれど、②③ってのは、ほぼ理想自我(鏡像自我)だろうな。
理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す。[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le moi-Idéal [ i'(a) ] est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier l963) |
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理想自我との同一化はイマジネールな同一化(想像的同一化)である。 l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire. (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986) |
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009) |
想像界から来る対象、自己のイマージュ[image de soi]によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。 c'est un objet qui vient tout de même de l'imaginaire, c'est un objet qu'on met en valeur à partir de l'image de soi, c'est-à-dire de la théorie du narcissisme, l'image de soi chez Lacan, s'appelle i de petit a. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011) |
私は大他者に斜線を記す、穴Ⱥと。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。 (Lacan, S13, 09 Février 1966) |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968) |
超自我の形態は、声としての対象aの形態にて現れる。la forme du Surmoi …apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. (ラカン, S10, 19 Juin 1963、摘要) |
ラカンの命題は、沈黙することが対象aとしての声と呼ばれるものに値することを意味する。la thèse de Lacan comporte que c'est pour faire taire ce qui mérite de s'appeler la voix comme objet a (J.-A. Miller, Jacques Lacan et la voix, 1988) |
ーー動作主のところに$ があるという意味は、ヒステリー の言説の新種ということだろうな。要するにこの時代の変種超自我aに「もっと罵倒せよ!」と命令されている主体さ。ま、でもこのあたりははっきりしないな、ジジェクあたりはごく最近になってさえ(2016年)、この父なき時代においても先の四つの言説の形式は居残っていると言ってたりして、これはこれで説得的(参照)。
でも少なくともラカンは学園紛争を契機に次の移行があると示している。
中井久夫もラカンに関係なしにこう言っているし、一般大衆の傾向はこうだろう。 |
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰) |
われわれは時折、われわれから離れて休息しなければならないーー自分のことを眺めたり見下ろしたり、芸術的な遠方künstlerischen Ferneから、自分を笑い飛ばしたり嘆き悲しんだりする über uns lachen oder über uns weinen ことによってーー。われわれは、われわれの認識の情熱の内に潜む英雄と同様に、道化をも発見しなければならない。 われわれは、われわれの知恵を楽しみつづけることができるためには、 われわれの愚かしさをも時として楽しまなければならない!(ニーチェ『悦ばしき知』第107番、1882年) |
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で、なんでこんなこと書いてるか分かるかい? 悪い臭いを嗅いじゃったせいだよ、誰のって、ひょっとして自分のかも知れないけどさ。 |
最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』) |