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2021年1月30日土曜日

これはいつまで続くんだろうね

 「これはいつまで続くんだろうね」とは20年前の中井久夫の発言だが、あともう少しだよ。そうしたらいくらかはスッキリするさ。


◼️「批評空間」2001 Ⅲ-1 斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」

浅田)マクルーハンの言うグローバル・ヴィレッジではなくローカル・ヴィレッジがおびたたしく分立して、その内部で…馴れ合っているかと思うと、とつぜんキレる。そういう1か0かのコミュニケーションが多いですね。


斉藤)コミュニケーション・チャンネルは複数が並行して使われ、会って話し、携帯で話し、メールを送り、手紙を渡してと、非常に密に使われている一方、内容には深まりがない。とくに個人的な葛藤がほとんど語られなくなっている。もちろん恋愛などの対人葛藤は出てくるのですが、個人の内面的葛藤は、相手がまったく受け入れないことが分かっているので、出てこない。出そうとしない。


浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、そのー方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。


斎藤)ただ、数十万の規模で存在するひきこもりの人々に向かって、「君たちは間違っている」とは言えない。間違いであることを承知しつつ、そういう人たちを一旦は受け入れなければいけないでしょう。PTSDについても同じで、「小さな傷を事々しく言い立てているだけではないか」とは言えない。まず、本人にとっての真実、すなわち「心的現実」を享け入れるところから始めざるを得ないんですね。


浅田)治療者としての立場からそう言われるのはよく分かります。ただ、社会一般の現象として見た場合、一方で浅いコミュニケーションが全面化し、他方でありもしない深いコミュニケーションを求めたあげくひきこもりに帰着するという現状は、不毛な二極分解と言わざるを得ないですね。


斎藤)ラカン的に言うと、言葉によるコミュニケーションというのは、コミュニケーションの不可能性の方が先にあって、その上で成り立っている奇跡的なものとしてのコミュニケーションであるわけですから、そういう捉えかたのほうが真っ当だとは思います。しかし、治療の場面では「それを言っちゃあおしまい」ですから(笑)。


浅田)まあ、ラカンのように難しいことを言うまでもなく、人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたらまったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。


斎藤)ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいてもやはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。


中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。


斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。


中井)これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。


斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。


浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。

斎藤)もうひとつ、われわれの世代が子どもを持つようになって、親による児童虐待の比率がものすごく高まってきています。


中井)そのようなんだよね。


斎藤)すると、今の50代から60代の親たちのように、たとえ殴られても自分の子だからと言って大切に抱え込んでしまうケースは、今後は確実に減っていくでしょう。それを考えると、ひきこもりは今後減るだろうという予測もできるわけです。


浅田)むしろ、幼児虐待の方が心配ですね。


斎藤)もうひとつ、むしろ心配なのは、四六時中浅いコミュニケーションを続けながら自我を維持している若者が、果たしてそのコミュニティからはずれてしまったとき一体どうなるだろうということです。浅田さんが以前に「アーバン・トライバリズム」とおっしゃっていたけれど、まさにそのとおりで、みな村人なんです。近くに住んでいるということだけで、貧富の差も、勉強のできるできないもない、みな同じようなジャージを着、毎日のように集まってお喋りしている。非常に均質化されて素朴な、どこか先祖帰りしてようなコミュニティです。池袋の若者は渋谷や新宿に行くと疲れると言います、文化が違うのか(笑)。せっかく携帯端末を持っているんだから、グローバルにつながればいいじゃないかと思うのですが、結局は、数百メートル四方の知った顔同士のつながりです。携帯というのは、そういうトライバリズムを強化しているツール、閉じた共同体の浅いコミュニケーションを延々と続けるためのツールなんです。


浅田)まあ、平和な村の暮らしがつづいている間はいいんだろうけれど…。

(「批評空間」2001 Ⅲ-1 斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より)




これを読むと、斎藤環は共同体内部の人に過ぎないとあらためて思うね、今はいっそうそうなんじゃないか。浅田に倣って、ムラ社会内部の「治療者としての立場」としてはやむえないが、と言っておくが。


たとえばこれだけ見れば共同体内部の治療者としては実に正当的主張だ。





とはいえ斎藤環自身、ムラビトなのであって、彼には外部がない。最近のツイートを見る限りだが、既存のシステムが存続するという前提でしかものを言っていない。中井久夫や浅田彰はそこだけに止まっていないのは上に見た通り。


ここで30年以上前の柄谷を引用しておこう。


柄谷行人) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。


文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)



ここで「現在の左翼は「人間の顔をした世界資本主義者」に過ぎない」からこうも再掲しておこうか。


一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、〔・・・〕我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。〔・・・〕


現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ZIZEK, A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)



私は斎藤環の発言にはときに大きな違和感を覚えることがあるのだが、ムラビトの当面の治療に専念しているムラのお医者さんだという前提に立って許容しなくちゃいけないんだろううよ。医者とはそういうものだということかも知れないし、ああいう人物が必要なのは間違いないのだから。







レミング的悲劇ーー日本文化論をめぐる

 日本文化論はかつてから種々あるが、今も歴然として生きているだろう日本社会論としては、次の文章群を思い出すね。今回のコロナ禍でもやはりこういったことが現れているんじゃないだろうか。迫り来る財政危機への反応も同様だろうし。➡︎「インテリという名の「知的障害者たち」


◼️ムラ社会

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)

カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する〔・・・〕。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』第2章、1982年)




◼️共感の共同体

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)

事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年『ヒューモアとしての唯物論』所収)

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)




◼️庶民的正義感とおみこしの熱狂


被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。


社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)



こういった見方以外に日本語という言語自体が日本的症状を生んでいるのではないかという観点もあるが ➡︎「日本人は右も左も似たようなもんだな


ま、文句言っても始まらないので、事実上これらの特徴を引き受けて生きていく以外ないんじゃないだろうか、たとえば「レミング的悲劇」の可能性が常にあることを。






野蛮人と農民と田舎者


自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。 Il n'y a rien au monde que les Sauvages, les paysans et les gens de province pour étudier à fond leurs affaires dans tous les sens ; aussi, quand ils arrivent de la Pensée au Fait, trouvez-vous les choses complètes. (H・ド・バルザック「骨董屋」)


と構造主義の始祖レヴィ=ストロースの『野生の思考』のエピグラフにある。野蛮人と農民と田舎者は、通念としては経験論者の筈だが、経験主義を徹底させたら構造主義に反転するのだろうか。


要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって de position 」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)


自らの置かれたポジションを疑うまでになれば、経験論者は構造主義者になりうるのだろうよ。


私は仕事のための場をふたつもっている。ひとつはパリに、そしてもうひとつはいなかに。二ヶ所に、共通の品物はひとつもない。何ひとつとして運んだことがないからだ。それにもかかわらず、これらふたつの場所は同一性をもっている。なぜか? 用具類(用紙、ペン、机、振子時計、灰皿)の配置が同じだからである。空間の同一性を成立させるのはその構造なのだ。この私的な現象を見ただけでも十分に、構造主義というものがはっきりわかるだろう。すなわち、体系は事物の存在より重要である、ということだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


レヴィ=ストロースは別に自伝『悲しき熱帯』で、「私の二人の師」として、マルクスとフロイトを挙げている。ラカンの言説-社会関係理論は、フロイトをさらに構造化して四つの場(空箱)に四つの要素を入れるというものだ。






いまさら構造主義でもあるまいと言う人もいるだろうが、日本には不徹底な経験論者ばかりが跳梁跋扈しているのは確かだ。


『資本論』が考察するのは…関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


どうだい、そこのきみ。つごうよく自らを正当化ばかりしてないでさ。少しは自らを「途方に暮れさせる」思考法を身につけたら? 


場に置かれたら、《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)のさ。ボクも海外在で、日本人の生態を客観的に観察するーーあるいはバカにするーー「田舎者の」場に置かれてるんだけどさ。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)


ま、誰もが実は難しいんだが。レヴィ=ストロースでさえ晩年はメタレイシズムに陥ってしまったのだし。


でも最低限、超越論的批評は欠かせないよ。


カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


2021年1月29日金曜日

人権は偽善

 何度か引用しているが、柄谷は「人権なんて言っている連中は偽善に決まっている」と言っている。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)



偽善によって理念が統整的に働くとはどういう意味か。柄谷は詰将棋の話をしている。


カントは、ある種の超越論的仮象は、実践的に有益であり、不可欠だと考えた。その場合、彼はそのような仮象を「理念」と呼んだ。ゆえに、理念とは、そもそも、仮象である。


例:詰め碁や詰め将棋では、実戦でならば解けないような問題が解ける。それは詰むということがわかっているからだ。サイバネティックスの創始者ウィーナーは、自ら参加したマンハッタン・プロジェクトで原爆を作ったあと、厳重な情報管理をしたという。それは原爆の作り方を秘密にすることではない。原爆を作ったということを秘密にすることだ。作れるということがわかれば、ドイツでも日本でもすぐにできてしまうからだ。いわば、原爆の作り方が構成的理念だとしたら、原爆を必ず作れるという考えが統整的理念である。


ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。(第一回 長池講義 講義録 柄谷行人  2007/11/7)



もうひとつ統整的理念について、著書からではなくわかりやすい語りを引いておこう。


僕はよくいうんですが、カントが理念を、二つに分けたことが大事だと思います。彼は、構成的理念と統整的理念を、あるいは理性の構成的使用と理性の統整的使用を区別した。構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。


僕はマルクスにおけるコミュニズムを、そのような統整的理念だと考えています。しかし、ロシア革命以後とくにそうですが、コミュニズムを、人間が理性的に設計し構築する社会だと考えるようになりました。それは、「構成的理念」としてのコミュニズムです。それは「理性の構成的使用」です。つまり、「理性の暴力」になる。だから、ポストモダンの哲学者は、理性の批判、理念の批判を叫んだわけです。

しかし、それは「統整的理念」とは別です。マルクスが構成的理念の類を嫌ったことは明らかです。未来について語る者は反動的だ、といっているほどですから。ただ、彼が統整的理念としての共産主義をキープしたことはまちがいないのです。それはどういうものか。たとえば、「階級が無い社会」といっても、別にまちがいではないと思います。しかし、もっと厳密にいうと、第一に、労働力商品(賃労働)がない社会、第二に、国家がない社会です。(柄谷行人「柄谷行人と生活クラブとの対話ーー世界危機の中のアソシエーション・協同組合」2009年)



で、ここでは柄谷の「格調高い」話を脇にやり卑近な話をするが、何よりもまず、ネトウヨ、あるいは嫌中嫌韓やらの愛国者はホンネ主義者だな。でもホンネを徹底したら認めるよ、たとえば嫌中の連中は、中国製部品を使った製品をいっさい使わないとか、中国とビジネスをしてる企業の製品をボイコットするとか、さらに漢字の使用を止めるとか、いくらでもあるだろ、徹底化が。


ネトサヨ、というかリベサヨ全般、彼らも徹底化がまったく足りない。「リベサヨは未来の庶民に対する虐待者である」(参照)ことは繰り返したのでここでは触れないでおくが。とはいえ私の気づいた範囲でも、日本的デマゴーグ、つまり大衆を導くインテリとして振る舞いたいらしい内田樹やら想田和弘、佐々木中やらは未来の他者に対する差別主義者であることは歴然としている(参照)。


要するに疑問符の打ち方がまったく足りない連中である。


いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)








2021年1月28日木曜日

欲動と享楽の相違

フロイトの欲動とラカンの享楽は厳密には違うんだよ。享楽は欲動よりもずっと広い概念で、むしろフロイトのリビドーとほぼ等価。享楽もリビドー もリアル、シンボリック、イマジネールの審級がある。



欲動とは原ナルシシズム的リビドー (自体性愛=自己身体の享楽)のこと。

後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. . (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)


自体性愛的欲動は原初的である。Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、(本来の)享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。


Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


とはいえこの話を厳密にするとかなりややこしいのでーーたとえば自体性愛的享楽としての自己身体の享楽における「自己身体」は、実際は去勢された自己身体、つまり自らの身体だと見なしていたが喪われてしまった身体であるーー、ここではもっとシンプルに記そう。

まず欲望も含めて「あくまで中期ラカンの」定義を示せば次のようになる。



これ自体、最晩年の「人はみな妄想する」を視野に入れれば、少なくとも欲望の主体=幻想の主体は、妄想する主体[sujet délirant]、あるいは妄想の主体[le sujet du délire]となる。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。〔・・・〕ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕あなた方の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on dire –, mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


そして妄想とは、フロイト的には必ずしも悪い意味ではない。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)



冒頭図の「享楽の主体 le sujet de la jouissance =原主体 le sujet primitif 」とはあくまで想定として示されてもので、ラカニアンでもこの語を使う人は稀である。この表現はセミネール10に現れる。





このセミネール10の段階では、斜線を引かれた主体$を欲望の主体としているが、現代ラカン派ではもっと広い意味ーー原去勢であれ、現実界的去勢であれ、象徴界的去勢であれーー「去勢された主体」の意味で使う人もいる。ある時期以降のラカン観点からはむしろこの捉え方の方がすっきりする。

要するに斜線を引かれていない「純粋の=架空の」享楽の主体Sとは次の状態である。



そして出生=原去勢とともに次のようになるという捉え方である。





話を戻して、中期ラカンにおける欲動の主体と欲望の主体をそれぞれひとつずつ示しておこう。


欲動の主体…最も根源的な欲動は、無頭の主体の様式としてある。le sujet de la pulsion … la pulsion dans  sa forme radicale,…comme mode d'un sujet acéphale, (Lacan, S11, 13  Mai  1964)

欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである。il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme (ラカン、AE207, 1966)



というわけで、ボクはめんどいから欲動=享楽と記述する場合もあるが、欲動=享楽とするときの享楽とは、穴としての享楽、もしくは斜線を引かれた享楽のこと。

現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

私は、斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする:(- J) ≡ $ [le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)

私は、斜線を引かれた主体を去勢と等価だと記す:$ ≡ (-φ)  [j'écris S barré équivalent à moins phi :  $ ≡ (-φ) ] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XV, 8/avril/2009)




◼️穴としての享楽

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)



◼️去勢としての享楽

享楽は去勢である [la jouissance est la castration](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


ようは生きている存在にとって、享楽とは穴もしくは去勢だが、厄介なのは色々な去勢があり、そこで多くの読み手は混乱する。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire] (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)


さらに穴埋めとしての剰余享楽もあるからいっそう何のことやらわからなくなる。


で、去勢されてない享楽とは死ってことだよ(参照)。




何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ

 少し前こう引用した。

われわれの戦いの相手は、現実の堕落した個人ではなく、権力を手にしている人間全般、彼らの権威、グローバルな秩序とそれを維持するイデオロギー的神秘化である。この戦いに携わることは、バディウの定式 「何も起こらないよりは厄災が起きた方がマシ mieux vaut un désastre qu'un désêtre 」を受け入れることを意味する。つまり、たとえそれが大破局に終わろうとも、あれら終わりなき功利-快楽主義的生き残りの無気力な生を生きるよりは、リスクをとって真理=出来事への忠誠に携わったほうがずっとマシだということだ。この功利-快楽主義的生き残りの仕方こそニーチェが「最後の人間(末人)」と呼んだものだ。(ジジェク『終焉の時代に生きるLiving in the End Times』 2010年)



この最後の人間(末人)で思い出したのだが、21世紀に入ったばかりのころの浅田彰はウツっぽいね、『批評空間』で一緒に仕事をした柄谷行人のNAMにもついていけなくなり、事実上、浅田彰が日本に導入したジジェクにもついていけなくなる(「パウロ=レーニン的ドグマティズムの復活?一ジジェクの『信仰について』/浅田彰2001)。



◼️浅田彰「鎌田哲哉の公開書簡にふれて」(2002年)

子どもの頃、『ツァラトゥストラはこう言った』でニーチェが侮蔑を込めて描いている「最後の人間(末人)」の像に触れて、「これはまさに自分のことだ」と思ったのを覚えている。もはや想像と破壊のドラマは終わり、すべてが平準化された中にあって、「最後の人間」たちは退屈な幸福を生きるだろう。 


あらゆる情報を記録したテープがリミックスを加えて反復されるのを瞬きして眺めながら、(後の章に出てくる「小人」のように)「およそすべては円環をなして回帰する」などと小賢しく呟いてみせもするだろう・・・。 


『早稲田文学』11月号に出た鎌田哲哉の私に宛てた公開書簡は、そのような「最後の人間」であることに居直る私に対し、「安直なニヒリズムを捨て、人間としてまともに生きよ」と呼びかけるものである と言ってよい。 


その書簡は石川啄木の日記にならってローマ字で綴られている。 「僕は啄木のようにまともに生きる、あなたもまともに生きるべきだ」ということだろう。 


その純粋な熱意は(ありがた迷惑とはいえ)ありがたいと思うし、そこに書かれた私への批判も(いくつかの点で異論があるとはいえ)おおむね受け入れる。 


だが、残念ながら、私はその呼びかけに動かされることがなかった。 


ひとつだけ、私の言葉に対する誤解と思われる部分に触れておこう。鎌田哲哉が部分的に引用している通り、西部すすむに「浅田さんがほとんど書かなくなったのは世界や人類を馬鹿にしてのことですか」と問われて、私は「いや単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、おおいなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、僕は選ばれなかっただけですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に認識していますけど」と答えている (『批評空間』Ⅱ-16)。 


これは、私が本格的なものを書く力がないということ(私の「弱さ」)を、私が明晰に意識しているという意味ではない。書こうとする努力もせずに自分には書けないのだと前もって居直ってしまうことが逃げ口上にすぎないということを、明晰に意識しているという意味だ。 


その意味で、私の立場に論理的な問題はないと思う。 

では、倫理的な問題としてはどうか。 

そのような早すぎる断念は卑怯な逃避として否定されるべきか。 


むろん、私は、自分自身がそうできないだけにいっそう、断念を拒否してなんとか努力しようとする人(鎌田哲哉を含めて)を眩しく見上げ、可能なら助力しようとしてきたが、断念したい人に対して断念するなと言う気はさらさなないし、自分に対してそう言われたくもない。 


努力したい人は努力し、断念したい人は断念する。 

それでいいではないか。 

ここで飛躍を厭わずフランシス・フクヤマが『人間の終り』で論じるバイオテクノロジーの問題ともからめて言えば、20世紀が限りない延命を目指した世紀だったのに対し、21世紀の課題はそれへの反省であり、具体的にいって、たとえば安楽死施設、さらには自殺(幇助)施設の合法化であると思う。 

生きたい人は生き、死にたい人は死ぬ。それでいいではないか。 


ニーチェは「最後の人間」について「少量の毒をときどき飲む。それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。それによって気持ちよく死んでいく」と書いている。 


かれの侮蔑にもかかわらず、私はそれも悪くない選択肢だと思わずにはいられないのだ。 


もちろん、私はいますぐ死にたいというのではない。大江健三郎の『憂い顔の童子』で「母親が生きている間は自殺できない」という主人公の強迫観念が主題化されていたが、これはすでに父を喪った私にも大変よくわかる。 


幸い、私はきわめて凡庸な常識人なので、倫理と言うより礼節の問題として、母より先に自殺するつもりはない。 


そうやって生き延びている間は、「最後の人間」を気取って暇つぶしをしながら「i-modeかなにかでくだらないお喋りを続けること」があってもいいのではないか。 


また生きて努力しようとする人々にささやかながら助力することがあってもいいのではないか。 

だが、鎌田哲哉が、そのようなおせっかいは生の意思を死の病毒で汚染するだけだというのなら、私はそれを断念し、彼の後姿にむけて静かに幸運を祈るばかりである。



もっともほとんどの人は、浅田の言う意味での末人なんだろう、もちろん私も例外ではない、バディウやジジェクの気合はまったくないから。


もっとも逆に浅田のような「末人」でさえまったくいなくなってしまった現在である、と言っておこう。


◼️対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学) 「人文知の現在」2006年

対談でも言ったことだが、わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。相手方のパスを遮断して自分のものにしたボールを、すばやくジグザグにドリブルし、一人、二人、三人と抜き去って、いきなり鋭く長いパスを出す。このパスがなかなか一筋縄で行くような代物ではない。俊足をもって鳴るフォワードの面々も、まずたいていのところは追いつけず、シュートの機会を空しく逃してしまう。浅田氏は無表情のまままた新たにボールを追いはじめるが、なぜあれに追いつけないのか、あれに追いつけないかぎりシュートの機会など永遠にめぐってくるまいと、内心ではチッと舌打ちしているに違いない。一方、フォワードはフォワードで、いきなりあんなところに蹴り出されても困る、そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない。


ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。


四方田犬彦や伊藤俊治と雑誌『GS』を始めたとき、浅田氏はまだ二十七歳くらいだったはずである。「ニューアカ」などと蔑称される二十年前の知的風土は、なるほど軽薄と言えば軽薄、卑俗と言えば卑俗であったが、しかしそこには少なくとも、大学をもジャーナリズムをも巻き込んで制度に幾つもの風穴を開け、そこから新鮮な風を呼び入れようという勢いだけはあった。手堅い研究発表で業績を稼ぎいい子、いい子と褒められたいなどとは彼らの誰も思っておらず、ただ華麗なゲームを組み立てて満場の観客を唸らせたいという野心にのみ突き動かされ、ときにいかがわしい香具師や曲芸師を演じることも恐れずに、とにかくフィールドの端から端まで度胸よく、全力疾走しつづけていたのである。


浅田 彰の衣鉢を継ぐ攻撃的ミッドフィールダーが若い世代から出てくるべきだと思う。むろん、往時と今では様々な条件が異なっていることはわかっている。これまでにないような陰鬱な閉塞状況があたりを覆い尽くしているのに、それを閉塞とも逼塞とも感じさせない巧緻な力学が働いて、若い世代を萎縮させている。社会は大学に目先の有用性のみ求め、人文科学は徹底的に馬鹿にされている。浅田氏自身誰も拾ってくれないパスを出しつづけることにいささか倦んで、後退戦に入りかけているようにも見える。だが、だからこそ、である。こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。


対談で浅田氏は、翌日に予定された研究発表パネルの要旨を見るかぎり、既成のパラダイムの中で動いているにすぎないという印象を否めない、という趣旨の発言をされたが、これもまた彼の出した攻撃的なパスの一つなのではあろう(「攻撃的」というのは敵に対してのみならず、味方に対してもということだ)。ただ、このボールを受けてくれる味方のプレーヤーは誰もいまい、いるはずがあるまいという諦念とともに蹴り出された、やや自棄的なパスのようにわたしには感じられた。


現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。


たしか1990年前後のアメリカだったかフランスだったかのポストモダンのシンポジウムで、浅田彰ともに出席した柄谷行人は、浅田のことを「僕の父」と言っていたように記憶する。10代の頃(高校時代)には蓮實重彦のドゥルーズ『マゾッホとサド』の翻訳に対して誤訳リストを送りつけたという話もある。



柄谷行人は N A Mから反原発デモにいたる過程で六〇年安保闘争へ先祖返りしたようにも見える。その流れは『批評空間 』が創刊された時点からすでに始まっていたのかもしれない。ただ、ぼく自身は、『批評空間 』が担うべき課題は、署名だデモだといった政治運動 (それはそれでむろん重要だけれど )とは異なる理論的・批評的次元にあるはずだと考えていました。冷戦が終結し、新自由主義という名の下に 、プリミティヴな原型に回帰した資本主義が世界を覆いつくそうとしている。ケインズ主義的妥協の下で労働組合に支えられていた労働者も、マルチチュードへと還元され、そこここでゲリラ戦を展開するほかなくなっている。むろんそれは意味のあることだし、そうしたゲリラ戦の連接を図ることも重要だろう。

しかし 『批評空間 』のなすべきことは、たとえエリート主義と言われようが、アドルノのように「グランドホテル深淵 」に籠っていると見られようが、やはり批判的知性を再構築することだろう、と。この点について柄谷行人と議論を詰めたことはないんですが、「政治に回帰する柄谷とアドルノ的エリート主義に回帰する浅田が呉越同舟で 『批評空間 』に同居していた 」という見立てがあるとすれば、「そう見えたとしてもしかたないだろう 」と答えるべきかもしれません。 (浅田彰2016 年:インタビューゲンロン)







2021年1月27日水曜日

たかがヨシコの棒程度の不快

 ははあ・・・




男の自慰と女の生理と一緒にしてくれるなってわけだな、自慰というより実際は溜まる不快のほうだが。


男ってのは人にもよるし食い物にもよるんだろうが、ボクは中学校から高校あたりまでは「毎日」ひどい目にあったね、あのヨシコに。



むしょうに女がほしかった。股倉に手をやると、ヨシコが棒のようだった。熱い棒のようなヨシコを俺は手で握っていた。ヤチに会いたいとゴロマク(あばれる)ヨシコを俺は手でおさえつけていた。(高見順『いやな感じ』)



侯孝賢『童年往事』



でも長い目でみたら女のほうがずっとめんどくさそうなのは確かだな。


アリストテレスは既にヒステリーを次の事実を基盤とした理論として考えた。すなわち、子宮は女の身体の内部に住む小さな動物であり、何か食べ物を与えないとひどく擾乱すると。Déjà ARISTOTE donnait de l'hystérique une théorie fondée sur le fait que l'utérus était un petit animal qui vivait à l'intérieur du corps de la femme  et qui remuait salement fort quand on ne lui donnait pas de quoi bouffer.   (Lacan, S2, 18 Mai 1955)

女が事実上、男よりもはるかに厄介なのは、子宮あるいは女性器の側に起こるものの現実をそれを満足させる欲望の弁証法に移行させるためである。Si la femme en effet a beaucoup plus de mal que le garçon, […] à faire entrer cette réalité de ce qui se passe du côté de l'utérus ou du vagin, dans une dialectique du désir qui la satisfasse  (Lacan, S4, 27 Février 1957)


最近のひとは、あの動物に何のエサやってんだかはよく知らないけど。


愛は穴を穴埋めする。あなた方は知っているように、そう、ちょっとしたコットンだ。l'amour bouche le trou. Comme vous le voyez, c'est un peu coton.  (Lacan, S21, 18 Décembre 1973)



ひとりの女は異者である。 une femme …c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの 』1919年)


ーー異者(異者としての身体[Fremdkörper])とは、語源的にはエイリアンの身体[corpus alienum ]ということで、ラカンはおちんちんーーフロイトの「少年ハンス症例」のWiwimacherーーも異者と呼んでいるということはあるが、子宮とは異者度が大きく違うんだろうよ。


あの冥界機械を抱えて生まれてきた女たちの苦労を、たかがヨシコの棒程度の不快と比べちゃダメだってことかもな。


女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。〔・・・〕私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。


女に対する歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。〔・・・〕西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)