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2022年6月9日木曜日

もうマトモに相手にするつもりはない

 ボクは折に触れて何度か言ってきたがね、千葉雅也くんの現代思想のたぐいとか彼のラカンについての戯言なんてのは、もうマトモに相手にするつもりはないね。よくあんな誤謬をマガオで言ってられるのかと思うよ。例えば「不気味なもの」、例えば「無意識」。


千葉雅也@masayachiba May 24, 2021

ざっくりした言い方だが、ある時期までのラカンは無意識は言語のように構造化されていると言ったのに対し、ドゥルーズ+ガタリがやりたかったのは、無意識は数学のように構造化されている、というふうに抽象化を進め、無意識的「意味」の範囲を拡げることだったのではと思う。

Replying to @masayachiba 

後期ラカンもその方向だったのだろう。


こんなのってトンデモだぜ。

以下の二つを見ろ、「知的銃殺刑」に値するのがよく分かるから。


道に迷ったラカン・夢を見たラカン

原無意識ーー話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]=異者身体[Fremdkörper]


現在のボクの問いがあるとしたら、千葉雅也ではなく、彼と友人関係にある松本卓也くんだよ、なぜマツタクはチバとしばしば顔を合わせている筈なのに、このトンデモを放っておくのかだ。なぜなのかね、チバに売り出してもらった義理がまだあるのかね、もしそうならマツタクも知的銃殺刑の対象だな

ま、彼らに限らず冷戦終了後の大学人ってのは最悪のヤツがほとんどだな

私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



ボクもいくらか「美学的な」ところはあるから、柄谷やジジェクのように全面的に否定するつもりはないが、時代のイデオロギーと馬鍬っているのみのとっても恥ずかしいヤツらだよ、連中は。



ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械[constant self-revolutionizing]である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)


《「去勢なき享楽への要求」ーー思い起こそう、1968年の有名な落書きを。「vivre sans temps mort, jouir sans entraves 無為の時なき生、そして制約なき享楽」ーー、これはシステムの享楽にとってのプロダクティブな基盤だ。退屈なき生、そして制約なき享楽(去勢なき享楽)は(後期資本主義社会の)新しい、よりラディカルで不可視の形態、搾取の形態を創出する。もちろん、労働の「創造性、機動性、柔軟性 creativity, mobility and flexibilit」の必定の形態とは、支配の資本主義形態の「創造性、機動性、柔軟性」である。》(サモ・トムシッチSamo Tomšič『資本家の無意識The Capitalist Unconscious MARX AND LACAN 』2015)


人は注意しなければならない。絶えまない「創造性、機動性、柔軟性」というこのスタンス、労働と享楽がぴったり合致するというこのスタンスは、後期資本主義の主体によって共有されていることを。それと同時にドゥルーズ派や草の根直接民主主義運動によっても共有されている。(ジジェク 、Incontinence of the Void: Economico-Philosophical Spandrels、2017年)



どうしようもないな、➡︎新自由主義社会の時代の「不幸な」学者たち


前にも一度引用したことがあるが、次のカミール・パーリアは今のリベラル学者を言い表すのにピッタンコだね


わたしにいわせれば、七〇年代にフランス思想がアメリカの大学を侵略したのは、六〇年代の革命のつづきなどではさらさらなく、むしろそこからの逃避だったのだ。ロジャー・キンボードの『終身在職権をもったラディカルたち』には、最近の流行にのった軽簿な教授たちの姿がそれにふさわしい軽蔑の念をこめて描かれているが、わたしはその中の一節に修正を加えたい。キンボールによると、六〇年代のラディカルはいまや一流大学の要職についているという。これでは甘すぎる。いまのアメリカの大学に在職する左翼にくらべたら、うちのハッティーおばちゃんのほうがよほどラディカルだ。


六〇年代の真のラディカルたちはほとんどが大学院に進まなかった。たとえ進んだとしても途中でドロップアウトした。たとえなんとか卒業しても、仕事につくのに苦労したり、勤めをまっとうできなかったりした。彼らはあくまでも一匹狼で、孤立し、中心から外れている。いまの大学に巣食う左翼たちは、かっこつけの出世亡者、臆病者の点取り虫だ。単位をとるのに躍起になって図書館通いをしたり、先輩教授にごまをすったりするのに忙しくて、そのあいだに六〇年代は過ぎてしまった。


彼らの政治的な主張はあとからとってつけたもの、手垢にまみれた中古品、パリから輸入された思想に熱中した七〇年代の流行をそのままとりいれたものにすぎない。そういう人びとがトップの座についたのは、システムに異議を申し立てたからではなく、システムにうまく順応したからだ。そういう連中は社畜と同じ。ローゼンクランツとギルデンスターンだ。特権に甘んじるオポチュニスト、流行の波に乗る人びと。

七〇年代を席巻したフランスの侵略は、左翼主義やほんものの政治意識とは関係なく、古き良き時代のアメリカの資本主義──リベラルな学者たちが軽蔑しているふりをしているもの──に根ざしている。ベビー・ブーム時代がすぎたあとの景気後退と大学の予算削減が原因で、求人市場が崩壊したことから経済的なヒステリーが起こった。教授への手当てがきりつめられるにつれ、金儲けのための自己宣伝や売り込みが優先されるようになった。

偽りの進歩主義にかりたてられた大学教授は、熱に浮かされたようにダンスのステップを踏む。急げ、しっかりやれ、遅れをとるな、最先端から脱落するな。だが、人文学は医学や海洋生物学や宇宙物理学とちがって、人間の永遠の真理について研究するものだ。実際のところ、その真理はけっして変わることなく、だが何度もくりかえし発見されるものなのだ。


人文学とは人間の洞察力、閃き、叡智についての学問である。空虚な言葉遊びにふけるフランス人の理論から生まれるのはへりくつ屋、立身出世に汲々として現世での報いを追い求める学者バカだ。そこで幅をきかすのは60年代の左翼主義の延長ではなく、50年代のプレップスクール気質、いやみでこすっからいスタイル、冷たく、いやらしいほどにきどった鼻声、アイビーリーグの俗物性だ。フランス人の思想家はブランドネームをひけらかす。(カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』野中邦子訳)



いやあホントにピッタンコだ、


・かっこつけの出世亡者、臆病者の点取り虫

・金儲けのための自己宣伝や売り込みが優先

・空虚な言葉遊びにふけるへりくつ屋

・立身出世に汲々として現世での報いを追い求める学者バカ



な、そうだろ。まずここから始めなければならない、連中を扱うには。