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2022年11月15日火曜日

柄谷の「神の力」とニーチェの「至高の力」

 

柄谷行人が『世界史の構造』の核心を自ら概説した「交換様式論入門」(2017 年、PDF)には次の図が最後に掲げられている。



私に言わせれば、この区分の「3 交換と力の諸関係」はいくらか問題がある。なぜ柄谷は交換様式Cの場に貨幣物神崇拝、つまり「貨幣フェティッシュ」をおいてしまったのか。むしろこの場は「資本フェティッシュ」ではないか。そうすれば「5 近代世界システム」における資本・ネーション・国家の区分に合致する。

そもそもマルクスにとって貨幣フェティッシュは商品フェティッシュのめくらましに過ぎない、《貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs. 》(マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)

そして資本の最も純粋な形態は「資本フェティッシュ」である。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

 Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G′ で持つのは、資本の中身なき形態 [begriffslose Form]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[ die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.]である。


 Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 Veräußerlichung des Kapitalverhältnisses usw.)


要するに「交換と力の諸関係」図はこう置き直すべきだ。




政治的権力はそもそも権力のフェティシズム、厳密にいえば、権力の場のフェティシズムだ。このフェティシズムは、柄谷が何度も引用してきたマルクスの次の文に最も明瞭に現れている、ーー《この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが彼らは逆に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと信じているのだ。Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist.》(マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章註)


とはいえ、ひょっとしたら政治的権力の場が「貨幣フェティッシュ」に置き直されるのは奇妙に思う人がいるかもしれないので補っておくが、貨幣は言語だ。このところ記してきた「言語はフェティッシュ」のヴァリエーションに他ならない。

これは岩井克人が実に明晰に示している。


「言語、法、貨幣」という話だ。


言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。


言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。


また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。


そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。


人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)


これは何よりもまず、「言語、法、貨幣」は人間関係を結びつける同じ機能があるということを言っている。


ここでさらにいくらか補おう。


ラカンに準拠したジャック=アラン・ミレールの「言語、法、ファルス」というのがある。

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


岩井克人の「言語、法、貨幣」とミレールの「言語、法、ファルス」。


ラカンにとってファルスは言語である。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)


つまり言語の貨幣はファルスである。


この意味で貨幣はラカンの象徴界にある。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


これを些細な相違だと捉える人がいるかもしれないが、貨幣フェティッシュと資本フェティッシュを混同しては決してならない。柄谷は筆が滑っただけだと思うけれど。

より厳密にボロメオの環に代入すればそれぞれのフェティッシュのポジションはこうだ。




で、交換様式D「神の力」はこの上に被さって三つの環を一応は繋ぐ。




重要なのは神だよ、そんなのは最初から決まっている。

問題となっている女なるものは、神の別の名である。その理由で女なるものは存在しないのである[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas](Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


ラカンは「存在しない」と言ってるが、そんなことはないさ、神は存在しなくたって至高の力はある。



柄谷が神の力と言っているのは事実上、ニーチェの至高の力のことだ。

神性はある。つまり神たちはいる。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年)

私は多くの種類の神たちがいることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente)

神は至高の力である。これで充分だ![Gott die höchste Macht - das genügt! ](ニーチェ遺稿、1887)


神の至高の力は、欲動の聖なる力、力への意志のことだ。

欲動は聖なるものとなる、つまり「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht".  (ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887)

すべての欲動力は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888



神の至高の力は、ラカン派的には、S(Ⱥ)の力だ、ーー《穴の表象S(Ⱥ)というシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]…ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ]》(J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)


ここは微妙なところで説明し出すとトッテモ長くなるんだが、S(Ⱥ)は子供を孕む女たちの力のシンボルだ、それだけは間違いない。



私のS(Ⱥ)、それは「大他者はない」ということである。無意識の場処としての大他者の補填を除いては。mon S(Ⱥ).   C'est parce qu'il n'y a pas d'Autre, non pas là  où il y a suppléance… à savoir l'Autre comme lieu de l'inconscient〔・・・〕

人間のすべての必要性、それは大他者の大他者があることである。これを一般的に神と呼ぶ。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».   

女なるものを"La"として示すことを許容する唯一のことは、「女なるものは存在しない」ということである。女なるものを許容する唯一のことは神のように子供を身籠ることである。La seule chose qui permette de la désigner comme La…  puisque je vous ai dit que « La femme » n'ex-sistait pas, …la seule chose qui permette de supposer La femme,  c'est que - comme Dieu - elle soit pondeuse. 

唯一、分析が我々に導く進展は、"La"の神話のすべては唯一の母から生じることだ。すなわちイヴから。子供を孕む固有の女たちである。

Seulement c'est là le progrès que l'analyse nous fait  aire, c'est de nous apercevoir qu'encore que le mythe la fasse toute sortir d'une seule mère  - à savoir d'EVE - ben il n'y a que des pondeuses particulières.   (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


なんたって女の力が大事に決まっている。これをジョークだと思う人が多いだろうが、そうではまったくない。この認識は何もラカンから始まっているわけではない。ニーチェフロイトに十全にある。ラカンはそれを形式化、構造化しただけだ。

交換様式ABCを繋ぐ神の力は女の至高の力Dだ、柄谷もーー少なくとも無意識的にはーー分かっている筈だ。もっともこう記すと語弊があるかもしれない。女の本来の力は穴Ⱥであり、それをシニフィアン化したものが穴の表象S(Ⱥ)だ。実はこのシンボルは超自我でもある。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)


事実、ラカンはこう言っている。

一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. ](ラカン, S17, 18 Février 1970)


柄谷が交換様式Dを語るなかでしきりにフロイトの超自我に触れている理由はここにある。もっとも柄谷には言語の超自我(父の名)と身体の超自我(母の名)を区別していないという、いくらかの落ち度があるが。


基本区分の用語群は次のものである[参照]。




こうやって批判(吟味)するのはたやすいが、柄谷は偉大だよ、少なくとも1990年以降、柄谷は事実上、交換様式Dーーこの表現自体は2010年前後に初めて提出されるがーーをいかに実現したらいいのかを考え続けて、そのモデルを提示してきた(私には柄谷の耳の垢ほどの力もないね、巷間の「思想家」だってそうだ)。



ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。


しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年)







ボロメオの環が揚棄が交換様式Dであり、自由平等平和の実現モデルに他ならない。



新著『力と交換様式』に関わるこの図で柄谷は自由主義でもダメ、民主主義でもダメ、ましてや自由主義と民主主義の結婚など、資本に囚われるだけだと言っているのだ。安易に「自由主義」「民主主義」というシニフィアンを使いたがる連中への警告でもある[参照]。



現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


(この文は、自らを中道と捉えて自己満足している輩に、「そうか、キミは不平等不自由主義者なんだな」とシニカルに応答するツールとして役立つね。)


交換様式Dが実現不可能であってもカントの統整的理念(die regulative Idee) として機能する。それは支配の論理に陥りがちな構成的理念(die konstruktive Idee)ではけっしてない。これを捉え損なってはならない。柄谷はDにコミュニズムをも置いているが、実はこれはスピノザのコモンだ[参照]。思想家がコモンに思いを馳せ、コモンを目指さずして何をすべきだというのか?



コミュニズムとは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を揚棄する現実の運動を、コミュニズムと名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生じる。Der Kommunismus ist für uns nicht ein Zustand, der hergestellt werden soll, ein Ideal, wonach die Wirklichkeit sich zu richten haben [wird]. Wir nennen Kommunismus die wirkliche Bewegung, welche den jetzigen Zustand aufhebt. Die Bedingungen dieser Bewegung ergeben sich aus der jetzt bestehenden Voraussetzung (マルクス&エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』1845-1846 )


いまの現状とは、自由主義・民主主義・資本主義の結婚だよ、これを揚棄する運動モデルが交換様式Dであり、コミュニズムだ。これは左翼やら右翼やらのシニフィアンとは関係がない。もし「翼」に関係するとしたら、現状無批判の下翼に対する上翼の思考だ。別の言い方をすれば、後は野となれ山となれ派に対する「闘争のエチカ」だ。


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)