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2019年1月19日土曜日

二つの症例

やあきみ、さっそく言ってくるんだな、ああ、なるほどと思ったよ。斎藤環が「症例チバ」を指摘しているわけだ。チバだけじゃないだろうが、『欲望会議』の面子のなかでは精神分析的知が一番あるだろうチバを代表した症例をね。

斎藤環@pentaxxx千葉雅也・二村ヒトシ・柴田恵理『欲望会議』(角川書店)すごく面白いし読みやすい。ポリコレ批判は痛快だし傷と交換の話とかもいい。なんとなく後半から読み出したのでこれから前半に戻ります。

最終章でオープンダイアローグについて触れてくれているのはありがたい。いままで批判がなさすぎたので、こうした機会は尊重したい。ただ残念ながらこの批判は実践家には届きにくいのではないか。それは何点か、ODについての誤解があるからのように思う。思考の整理を兼ねて、それについて記したい。

・僕が誤解と思った部分を箇条書きにしてみる。
・統合失調症は秘密が病理の中心にあり、秘密をなくせば寛解する。
・オープンダイアローグのポイントは秘密を作らせないこと
・ODは無意識と向き合わない
・ODはなんでもシェアする
・ODはコミュニケーションから「深さ」を消滅させる

統合失調症と秘密について言えば、精神病理学的には「秘密が守れない病気」とされていた(土居健郎ら)。正門はがっちり守りを固めているのに、通用門から秘密がだだ漏れ、みたいな状況。秘密をなくせば寛解、というのはいくらなんでも。

ODでは「秘密をなくすこと」は目的ではない。言いたくなことを言わない権利は、まず最初に保証される。そもそも治療において秘密を暴く必要はない。ここで想定されている無意識はユング的な「心の深層」のイメージのように思う。確かにそういう無意識はODでは扱わない。

ODは、精神分析の主要なツールである「転移」「解釈」「徹底操作」を捨てた。いずれも患者の不安を喚起する恐れがあるからだ。精神分析家が「無意識の真理に近づくためなら少々の不安はしかたない」と考えるなら、ODは「安全と安心を確保しつつ、無意識の治療的作用を最大限に活用しよう」と考える。

ODではクライアントとセラピスト双方の主観世界の言語化を行う。この過程において、複数の無意識の協働、のような現象が起こってくる。無意識の作用は常に想定外の場所に生成するので、何が起こるかわからない。個人的にはODくらい無意識の潜在力をフル活用している治療も少ないと思う。

ODについて歓迎したくないイメージは、すべての主体を溶融させる「つながりによるケア」というもの。「生物都市」や「エヴァンゲリオン劇場版」的な。そういった多幸的な一体感をOD実践家は嫌悪する。エンカウンター・グループを悪用したカルトの手口だから。それはせいぜい「シンフォニー」止まり。

なぜODが繰り返し「ポリフォニー」を強調するのか。それは対話こそが主体化の契機にほかならないから。対話は調和のためではなく、差異の掘り下げをもたらす(“深い”コミュニケーション)。ODが交換不可能な「他者の他者性」を強調するのはそのため。

あるOD実践家の言葉で印象的だったのは「(対話の中で)あなたが主体的に振る舞える場所を創りなさい」というもの。國分功一郎さんの言う「欲望形成支援」はここに該当すると思う。

もし精神分析が「無意識に埋もれている真理を見出す技法」であるとすれば、いわばODは「無意識を援用して個の物語を生成する手法」。そして僕にとっては、真理よりも物語のほうに主体化の希望がある。真理は強者の占有物だが物語は万人が共有可能だから。

おそらくラカン派的文脈では「物語による治癒」は、自己愛的な治癒の幻想、すなわち真理の忘却に過ぎず、自我の整形手術まがいの代物、という位置づけになるかと。

大切なのは、精神分析プロパでない批評家や評論家の発言は、話半分、いやときに話十分の一ぐらいで読むことだね。ボクももちろんプロパじゃないからな、ここで記すのは、ほぼ引用に終始するのはそのためだ。

で、「症例タマキン」はどうかというと、やっぱりあるんだな。もし彼を「まだ」ラカン研究者のひとりと見た場合だが。斎藤環は「もはや」ラカン派を下りているという立場に立てば問題ない。ようするに彼を、ラカンをめぐっての「現在知」がほとんどない者とみなせば問題ない。ボクはオープンダイアローグを率先して提案している斎藤環を「尊敬」しているからな。

三年ほどまえ「最近、斎藤環氏が提唱している「オープンダイアローグ」についてもーーわたくしは寡聞にしてほとんどその内容を知らないがーー「象徴界の再象徴化・再刻印」の文脈で捉えうるものなのではないだろうか」(参照)と記しているけど、これが正統的な立場だよ、現在の「資本の言説」の時代の臨床においては。


そもそもオープンダイアローグに近似した手法は、すでに20年ぐらい前からラカン派臨床家によって示されている。

倒錯構造の患者の「自由連想」と治療者の「自由に漂う」注意力は、次の状況を起こしがちである。すなわち倒錯者が(神経症的)治療者を取り扱う(治療する treat)という状況である。何の不思議なことでもない、頻繁に倒錯者を扱う分析家は集団療法を提案しているのは。それは転移的関係性を制御できるようにするためである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、2001年)

これは父の名の斜陽の時代は、前エディプス的主体(倒錯的主体、精神病的主体)が多くなるという文脈のなかで読む必要がある。現在の社会構造的環境では、旧来のフロイト的臨床手法は機能することが少なくなっているのである。

一神教ではない日本ーー前エディプス的主体が多い日本ーーでは、もともとフロイトの「自由連想」「寝椅子」療法は、うまく機能しないという立場もかねてからある。

… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収  p85)


なにはともあれ、斎藤環が、《おそらくラカン派的文脈では「物語による治癒」は、自己愛的な治癒の幻想、すなわち真理の忘却に過ぎず、自我の整形手術まがいの代物、という位置づけになる》と言っているのは、現在のラカン臨床派の動きに無知であることを示している。

現在の「まともな」ラカン派においては、真理にかかわる「幻想の横断 traversée du fantasme」(斎藤環のいっている「徹底操作durcharbeiten」)はお釈迦に近づいている。「真理」にかかわるラカン派的諸概念は、ジャック=アラン・ミレールが2005年のセミネール冒頭にて示した左側の項である。21世紀前後から、右項に移行しているのである。




だが問題は、日本においては「まともな」ラカン派臨床家が稀有ということがある。つまり日本ではいまだ「幻想の横断」をマガオで言っている臨床家が多すぎる環境にある。その意味では、斎藤環の「誤解」は、日本のフロイト・ラカン的臨床家大半にたいしては十分な機能をはたしており、日本的環境だけを視野のなかに入れるなら、難詰する必要はまったくない。ただ斎藤環は、現在ラカン派の動きとはひどく異なる誤解をしている、ということはある。古典的な旧套のラカンのままなのである。

三人の「まともな」臨床家の文を列挙しよう。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013)
ラカンはその教えの最後で、父の名と症状とのあいだの観点を徹底的に反転させた。彼の命題は、父の名の「善き」法にもかかわらず症状があるのではなく、父の名自体が、あまたある症状のなかの潜在的症状ーーとくに神経症の症状--以外の何ものでもない、というものだ。ヒステリーの女性たちとともにフロイトによって発明された精神分析は、まずは、父によってつくり出された神経症的な症状に光を当てた。だが、精神分析をこれに限るどんな理由もない。事実、精神病においてーーそれは格別、我々に役立つ--、主体は、母から分離するために、別の種類の症状を置こうと努める。

この新しい概念化において、症状は、たとえ主体がそれについて不平を言おうとも、母から分離し、母の享楽の虜にならないための、必要不可欠な支えなのだ。分析は、症状の病理的で過度に制限的な側面を削減する。すなわち、症状を緩和するが、主体の支えとしての必要不可欠な機能を除去はしない。そして時に、主体が以前には支えを仕込んでいない場合、患者が適切な症状を発明するよう手助けさえする。(Geneviève Morel 、Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law、2009)
ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、2009)


これらの文は、最晩年のラカンの次の発言を基盤としている。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。
En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)
分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体 analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” 1976)


たとえば斎藤環はOD(オープンダイアローグ)は「無意識を援用して個の物語を生成する手法」としているが、これは、ラカン主流派における「脚立 escabeau 臨床」と相同的である。すくなくともわたくしはそう判断している。

そもそもラカン主流派(フロイト大義派)のボス、ジャック=アラン・ミレールは、2014年には、斎藤環がいう《おそらくラカン派的文脈では「物語による治癒」は、自己愛的な治癒の幻想、すなわち真理の忘却に過ぎず、自我の整形手術まがいの代物、という位置づけになる》ーーこの自己愛的な手法を顕揚しているである。もうすでに5年前というべきか、まだ5年しか経っていないというべきかは知らず。

脚立 escabeau は梯子 échelle ではない。梯子より小さい。しかし踏み段がある。

escabeau とは何か。私が言っているのは、精神分析の脚立であり、図書館で本を取るために使う脚立ではない。…

脚立は横断的概念である。それはフロイトの昇華の生き生きとした翻訳であるが、ナルシシズムと相交わっている  L'escabeau, c'est un concept transversal. Cela traduit d'une façon imagée la sublimation freudienne, mais à son croisement avec le narcissisme. 
私は自問した、サントームと脚立とにあいだに線を引くことを試みようかと je me disais que je pourrais essayer un parallèle entre le sinthome et l'escabeau。脚立を促進 fomente するのものは何か。それはパロール享楽 jouissance de la parole の見地からの言存在 parlêtre である。パロール享楽は「善真美」の大いなる理想 grands idéaux du Bien, du Vrai et du Beauをもたらす。

他方、サントーム sinthome は、言存在のサントームとして、言存在の身体に固着 tient au corps du parlêtre している。症状(サントーム)は、パロールがくり抜いた徴 marque que creuse la parole から起こる。…それは身体のなかの出来事 événement dans le corpsである。

脚立は、意味を包含したパロール享楽 jouissance de la parole qui inclut le sens の側にある。他方、サントームの固有の享楽 jouissance propre au sinthomeは、意味を排除する exclut le sens 。…(JACQUES-ALAIN MILLER, 4/15/2014, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)


⋯⋯⋯⋯

わたくしは臨床にはまったく無知であるが、わたくしのラカンは基本的には、英語圏では最もよく知られたラカン派臨床家のひとり、ポール・バーハウのラカンであることはくり返している(参照:三人のラカン注釈者)。

エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、症状のない主体はないと。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化(そしてその症状から距離をとること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)

上の文は非専門家の方にはひょっとしてわかりにくいかもしれない。だがバーハウの2011年のインタヴューを読めば、現在の「まともな」臨床ラカン派がどの方向に向かっているかが専門知識がなくてもある程度わかるだろう。この流れは、上に引用した仏系の臨床家たちも同様である。

――無意識にかんして質問します。無意識概念は新しい病理、新しいアイデンティティと主体性において役割があるのでしょうか、それともないのでしょうか?

異なった視点が必要です。我々が無意識を概念的に吟味するなら、フロイトが「システム無意識」・核(夢の臍、菌糸体等)と呼んだものと、「抑圧された無意識」がある。無意識の核に、フロイトはリビドー的なもの、構成的なもの、かつまたトラウマ的なものを含めています。この理由で、これらは明確には決して言葉で言い表されない。はっきりした象徴化は不可能です。

「抑圧された無意識」、それは力動的無意識とも言われますが、それは再構築されうるし、言葉で言い表されうる。神経症とは抑圧された無意識の病理です。この理由で古典的な技法ーー自由連想ーーの効果がある。けれどもわたしたちは現在、以前に比べてとてもしばしば無意識の核(システム無意識)に直面しています。すなわちトラウマ的なもの、リビドー的なものであり、この理由で快と不安の病理があります。

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになります。それは古典的な神経症の治療とは全く逆なものです。かつての神経症では象徴化があまりにも多くありそれを剥ぎとらなければならなかった。(An Interview With Paul Verhaeghe (Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens, 2011)
ほぼ 15 年前ほどから私は感じはじめた、私の仕事のやり方、私の伝統的な精神分析的方法がもはやフィットしないようになってしまったと。私はとても具体的にこれが確かだとすることさえできる。あなたが分析的に仕事をしているとき、いわゆる予備会話をするだろう。この意味は誰かを寝椅子に横たえる瞬間をあとに延ばすということだ。あなたはいつ始めるかの目安をつかむ。あなたが言うことが出来る段階のね。さあ私は患者を寝椅子に横たえるときが来た、と。ところが多くの患者はこの段階までに決してならない。というのは、彼らが訪れてくる問題は、寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっているから。

それで私は自問した、これはなんだろうと。ここで扱っているのはなんの問題なんだろう? と。どの診断分類なのだろう? あらゆる診断用語のニュアンスを以て、どの鑑別的構造に 直面しているのだろう? 私が思いついた最初の答、それによって擁護しようと思った何か、 いまもまだ擁護しようとしているものは、フロイトのカテゴリーAktualpathologie(現勢病理≒ 現勢神経症)だった。

ここに私はこれらの患者たちのあいだに現れる数多くの症状の処方箋を見出した、まずは パニック障害と身体化 somatisation だった、不十分な象徴化能力、徹底操作や何かを言 葉にする能力の不足とともに。これが我々の最も重要な道具、「自由連想」を無能にしたのだ。

古典的な精神神経症のグループは意味の過剰に苦しんだ、ヒストリー=ヒステリーの過剰、 イマジネールなものの過剰に。そしてこれがあなたが脱構築しなければならないものだっ た。新しいグループは全てのレヴェルでこれらが欠けている。かつまた彼らは他者を信頼 しない。転移があるなら陰性転移しかない。象徴化の能力はほとんどない。ヒストリー(歴史)も同じく。

いや彼らにヒストリーはある。だがそのヒストリーを言語化できない。…私はなんと逆の方向に仕事をしなければならないのだ。

社会的側面に戻れば、私が自問したのはなぜこのようなラディカルな移行が起こったのか、 ということだ。なぜ古典的なヒステリーや強迫神経症者が少なくなったのか?…

答えは母と関係がある。母と子どものあいだの反映、つまり鏡(像)の過程にある。… 結果として我々は視界を拡げなければならない。母が以前に機能したようにはもはや機能していないのなら、異なった社会的文脈にかかわるにちがいない。そのときあなたは試みなくてはならないーーこれは古典的な分析家/心理学者にとってはひどく難しいのだが ーー何を試みるべきかといえば社会的要因への洞察を得ようとすることだ。

さらに、あなたはイメージを形成するようにしなくてはならない、素朴な解決法に陥らないようにしながら。だから私は母親非難 mother-blaming モデルの考え方を捨て去った瞬間をとてもよく覚えている。私はとても素早くそうした。そのモデルには別の危険が潜んでいる、 すなわち保守主義だ。…

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになる。 それは古典的な神経症の治療とは全く逆だ。かつての神経症では象徴化があまりにも多くありそれを剥ぎとらなければならなかった。(同上ポール・バーハウ インタヴュー、2011)

もちろんこの立場は偏り過ぎているという見方もあるだろう。だが現在のラカン派分析臨床の動きはこの方向にあるのは間違いない。日本においても、中井久夫がポール・バーハウのいう「現勢神経症」を1990年代半ばからしきりに強調するようになっている。

⋯⋯⋯⋯

結局、あらゆる人間は、こうである。

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている[Human being cannot endure very much reality ](中井久夫超訳エリオット『四つの四重奏』)

たとえば、自らの立場を強調し顕揚するために、別の対象ーーそれが名高ければ名高いほどよいーーを誤解しつつ貶めるのである。今記しているわたくしも例外ではない。

最後に、ラカン派でいう「症状のない主体はない」を、その本来の意味からやや離れて、ここでの「症例」に対して言い放っておくよ。

ラカンの教えにおいて、症状概念は進化することを止めない。そして最後のラカンは断定する、症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptômeと。この意味は、症状は単に障害であるどころか、また解決法 aussi une solution であるということである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

というわけで、二つの症例ではなく「症例蚊居肢」もふくめて「三つの症例」でした。