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2020年11月21日土曜日

愛といふ言葉は、多分キリスト教から来たものであらう

以前、《 愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。》という文をネット上で拾ったことがあるのだが、三島由紀夫はこの前後で何を言っているのかと探ってみたら、自死の2年前の次の文に行き当たった。


「愛国心――官製のいやなことば」(朝日新聞夕刊 1968年1月8日)

実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。


この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。


では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。


また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。


ふたたび愛国心の問題にかへると、愛国心は国境を以て閉ざされた愛が、「愛」といふ言葉で普遍的な擬装をしてゐて、それがただちに人類愛につながつたり、アメリカ人もフランス人も日本人も愛国心においては変りがない、といふ風に大ざつぱに普遍化されたりする。


これはどうもをかしい。もし愛国心が国境のところで終るものならば、それぞれの国の愛国心は、人類普遍の感情に基づくものではなくて、辛うじて類推で結びつくものだと言はなくてはならぬ。アメリカ人の愛国心と日本人の愛国心が全く同種のものならば、何だつて日米戦争が起つたのであらう。「愛国心」といふ言葉は、この種の陥穽を含んでゐる。

(中略)


日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。


アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。


アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。


そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。


われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間にこの心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。


恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。(三島由紀夫「愛国心――官製のいやなことば」1968年)


こう引用したからといって、今はとくに何がいいたいわけでもない。

ここでは柄谷や、ニーチェ、フロイトを引用しておくだけにする。

三島の考えでは、昭和天皇は、その当時の天皇主義者が予期したように、昭和二十年で死ぬはずであり、それによって「神」となるべきだった。ととろが、天皇は「人間宣言」をし国民統合の象徴として生き延びた。三島はこの天皇個人を軽蔑していた。戦後に「転生」した天皇はにせものにすぎないからだ。しかし、それは、「世界最終戦争」となるべき戦争のあとにも生き延びている自らを軽蔑していたのと同じである。それが真に絶対的な「美」()であるためには、「金開寺」と同様に焼かれなければならない。彼の自殺は、戦後の天皇の殺害と同じことを意味する。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」初出1988年『終焉をめぐって』所収)




ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである。(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)

愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、幻想の力がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』1888年)


愛しているときのわたしはいたって排他的になる。(フロイト『書簡集』)

教会、つまり信者の共同体…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)




中井久夫も引用しておこう。三島の話題から大きく外れるかも知れないが、私には、愛の宗教の信者だけでなく、なんらかへの信念の人は今でもみな魔女狩り気質をもっていると感じられることが多いから。



魔女狩りが宗教戦争によって激化された面はあっても二次的なものである。この問題に関してだけはカトリックとプロテスタントがその立場を越えて互いに協力するという現象がみられるからである。互いに相手の文献や記述を引用しながら魔女狩りの根拠としてさえいる。さらに教会人も世俗人もともに協力しあった。つまり魔女狩りは非常に広範な ”合意" "共同戦線"によって行なわれた。そして組織的な警察などの治安維持機構のないところで、新知識のロー マ法的手続きで武装した大学卒の法官たちは、民衆の名ざすままに判決を下していった。市民法のローマ法化たとえばニュルンベルク法の成立と魔女狩りの開始は時期を一にする。


法官は、サタンが契約によってその軍勢である魔女をどんどんふやして全人類のためのキリストの儀牲を空無に帰せしめようとしている、と観念した。多くの者の危機感はほんものであり、「焼けども焼けども魔女は増える一方である」との嘆声がきこえる。独裁者が被害妄想を病むことは稀れでないが、支配階層の相当部分がかくも強烈な集団被害妄想にかかることは稀れであって、次は『魔女の槌』に代わって四○○年後に『我が闘争』をテキストにした人たちまで待たなければならない。法における正義を追求したジャン・ポーダンのような戦闘的啓蒙主義者が、同時に苛烈な魔女狩り追求者であったことをどう理解すべきであろうか。おそらく共通項は、ほとんど儀式的・強道的なまでの「清浄性」の追求にあるだろう。世界は、不正と同じく魔女のようないかがわしく不潔なものからクリーンでなければならなかったのである。死刑執行費がか遺族に請求されたが、その書類の形式まで四○○年後のナチスと酷似しているのは、民衆の求めた祝祭的・豊饒儀礼的な面とは全く別のシニカルなまでに強迫的な面である。また、科学に類比的な面もないではなかった。すべての魔女を火刑にする酷薄さには、ペストに対してとられた、同様に酷薄な手段、すなわち患者を放置し患者の入市や看護を死刑をもって禁ずるという方法が有効であったことが影響を与えているだろう。


魔女狩りの個々の内容については多くの成書に譲ってここでは詳述しない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、p128)




2020年11月20日金曜日

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ!

 

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、S18, 10 Mars 1971)


ラカンはこのように冗談を言っているぐらいで、終生、超自我のことを思考し続けていた。そもそも1930年代におそらく初めてフロイト概念を正式に取り上げたのは超自我だ、《太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, 》(ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)


そして最晩年に次のように言うことになる。


要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、自我理想は何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、私に教えを促す魔性の力、それは超自我だ。

l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi  j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi.  (ラカン、S24, 08 Février 1977)


ーーフロイトの自我理想とは、ラカンの父の名のことである。


なぜ超自我がこのようにラカンを悩ませたのかと言えば、フロイト自身が曖昧なままだったから。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。


daß die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. 

こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーー最も強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護が破綻するというような量的な契機である。


Von diesen Hintergründen und Vorstufen der Verdrängung ist noch viel zu wenig bekannt. Man kommt leicht in Gefahr, die Rolle des Über-Ichs bei der Verdrängung zu überschätzen. Man kann es derzeit nicht beurteilen, ob etwa das Auftreten des Über-Ichs die Abgrenzung zwischen Urverdrängung und Nachdrängen schafft. Die ersten – sehr intensiven – Angstausbrüche erfolgen jedenfalls vor der Differenzierung des Über-Ichs. Es ist durchaus plausibel, daß quantitative Momente, wie die übergroße Stärke der Erregung und der Durchbruch des Reizschutzes, die nächsten Anlässe der Urverdrängungen sind. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


この1926年、フロイト70歳のときの記述以降も、フロイトは原抑圧と超自我とのあいだの関係について終生はっきりしたことは言っていない。


こういった流れのなかでラカンのセミネールを引き継いだ、まだ30代のジャック=アラン・ミレールの最初のセミネールでの、いささか気負いが感じられないでもない言明がある、ーー《私は断固としてそう言い、署名するーー超自我と原抑圧との一致 solidarité du surmoi et du refoulement originaire》と。


超自我は多くの特徴がある。ラカンはこの超自我を二項シニフィアンと同一のものとした。le surmoi a bien des traits que Lacan a repérés avec son signifiant binaire〔・・・〕


二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。Le résultat de repérer le surmoi sur ce signifiant binaire, c'est de rapprocher le surmoi et le refoulement originaire. Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕


あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.    . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)




少し前、「原抑圧つまり固着と超自我の一致」というミレールに見解を支持する具体的論拠として掲げた文は次のものだ。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


ラカンからもこれを裏付けうる発言を拾ってみた。


私は大文字のAに斜線を記す、Ⱥと。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966)


対象aは超自我とのみ関係があると言っているが、この対象aは穴のことである。


対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)


他方、原抑圧も穴と関係があると言っている。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975



こうしてエス=穴の境界表象であるS(Ⱥ)が超自我とともに原抑圧=固着のマテームだという観点が支持できる(原症状としてサントームも固着である)。


大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

フロイトの原抑圧は何よりもまず固着である。この固着とは、身体的なものが心的なものの領野外に置き残されるということである。〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる[Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)




もうひとつ超自我と穴(エス)との関係を言っている文を掲げよう。


「享楽せよ!」と命令する超自我は、去勢と関係がある。それは、大他者の享楽、他者の身体の享楽の徴だ。le surmoi, … du « jouis ! »,  corrélat de la castration qui est le signe …que la jouissance de l'Autre, du corps de l'autre,   (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 )


まず去勢とは穴のことである。


疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration.. (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)


そして享楽を命令する超自我とは、享楽の意志のことである。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


このミレールの「超自我の真の価値は欲動の主体」とは、これまた彼の最初のセミネールの次の発言とともに読むことができる。


超自我は斜線を引かれた主体と書きうる le surmoi peut s'écrire $ (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



以上を受け入れるなら、ラカン的主体とは超自我の主体ということになる。最初は半信半疑だったが、フロイトの構造論とラカンのマテームを比較する限り、たしかにこの主体のポジションはーーもしエスでなければーー超自我の場にしかないように今は思う。




そしてなんとこの超自我の主体をラカンは「ひとりの女」と呼んでいるのである➡︎ 「ひとりの女は、男のなかにもいる「固着としての症状」である


(もっとも今ここで言おうとしている超自我の主体は、「言語のように構造化されている」無意識の主体ではなく、「言語に構造化されていない」原無意識の存在であり、これを晩年のラカンは「話す身体 corps parlant」あるいは「話す存在 parlêtre」と命名した。したがって後期ラカン用語からすれば「主体」という語は本来は相応しくなく、現代ラカン派が「話す存在のサントーム le sinthome d'un parlêtre」「サントームの身体Le corps du sinthome」等と呼ぶものに近い「欲動の主体」を示そうとしている。フロイト自身、「原無意識 eigentliche Unbewußte」という用語を、固着によってエスに置き残された「異者身体 Fremdkörper」という意味合いで使っている)。




神の仮説

 

すべてを疑え!(デー・オムニブス・ドゥビタンドゥム De omnibus dubitandum)(マルクス(妹とたちの問いに答えて)1865)

すべてを疑おうとする者は、どんな疑いにも辿りつけない。疑いのゲーム自体、すでに確実性を前提としている。Wer an allem zweifeln wollte, der würde auch nicht bis zum Zweifel kommen. Das Spiel des Zweifelns selbst setzt schon die Gewißheit voraus(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』115番)



…………


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. -](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1886年)

言葉のうえだけの「理性」、おお、なんたる年老いた誤魔化しの女であることか! 私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを・・・Die »Vernunft« in der Sprache: o was für eine alte betrügerische Weibsperson! Ich fürchte, wir werden Gott nicht los, weil wir noch an die Grammatik glauben...(ニーチェ「哲学における「理性」」5『偶像の黄昏』所収)


ーーここでニーチェは何を言っているのか? 文法は神だと言っていないだろうか? 文法なる神が存在しなかったら人は疑いえない。


フロイトラカンにとって言語は我々の支配者である。


フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン, S3, 16 mai 1956)



この支配者は神と呼んでもよろしい。


イヴァン・カラマーゾフの父は、イヴァンに向けてこう言う、《もし神が存在しないなら、すべては許される [Si Dieu n'existe pas - dit le père - alors tout est permis]》


これは明らかにナイーヴである。われわれ分析家はよく知っている、《もし神が存在しないなら、もはや何もかも許されなくなる [si Dieu n'existe pas,  alors rien n'est plus permis du tout]》ことを。神経症者は毎日、われわれにこれを実証している[Les névrosés nous le démontrent tous les jours]。(ラカン, S2, 16 Février 1955)    

無神論の真の公式 は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的」である。la véritable formule de l'athéisme n'est pas que  « Dieu est mort »… la véritable formule de l'athéisme c'est que « Dieu est inconscient ». (ラカン, S11, 12 Février 1964)



だが無意識的な神としての支配者とは、ある時期以降のラカンにとって超自我となってゆく。


一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)


ラカンは「神の仮説」を語っている。


神は、間違いなく次の場にある、すなわち、もし私にこの言葉遊びが許されるのなら、le dieu―le dieur―le dire (神ー神語るー語る)がそれ自体を生みだす。話すことは無から神を創りだす。何かが言われる限り、神の仮説[l'hypothèse Dieu ]はそこにあるだろう。


Dieu est proprement le lieu où si vous m'en permettez le terme, se produit le dieu, le dieur, le dire. Pour un rien, le dire ça fait Dieu.  Aussi longtemps que se dira quelque chose, « l'hypothèse Dieu » sera là.  (ラカン, S20, 16 Janvier 1973)

(私が「神の仮説」を言ったことにより)自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、斜線を引かれた女性の享楽を信じているんだよMoyennant quoi naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu : je crois à la jouissance de « L femme » 」(ラカン, S20, 20 Février 1973)

なぜ人は「大他者の顔」、つまり「神の顔」を、女性の享楽によって支えられているものとして解釈しないのか?Et pourquoi ne pas interpréter une face de l'Autre, la face de Dieu…une face de Dieu comme supportée par la jouissance féminine, hein.  (Lacan, S20, 20 Février 1973)

S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。たしかにこの理由で、神はいまだ退出していないと私は指摘する。S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de LȺ Femme, c'est bien assurément parce que c'est là que je pointe que Dieu n'a pas encore fait son exit. (ラカン, S20, 13 Mars 1973)


これらから読み取れるのは、ラカンは「神の仮説」と「女性の享楽」を等置していることだ。そして神とは実際は「超自我」であるなら、女性の享楽=超自我となる。


さらにこうもある。


女というものは神の別の名である。それゆえに女というものは存在しないのである。La femme […] est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas. (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…


「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。


il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…


La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン, S23, 16 Mars 1976)

大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ)(ラカン, S24, 08 Mars 1977)


女というものは存在しない神である。だが存在しないとは象徴秩序(言語秩序)には存在しないということであり、言語外、つまりリアル(現実界)における有無は言っていない。


女というものは存在しない。女たちはいる。La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)




こうしてラカンは次のように言うことになる。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)

穴を為すものしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)


ーー《現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».》(ラカン、S21、19 Février 1974)


ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


これらの「ひとりの女」とは、現実界の水準にある「原抑圧=固着」のことである。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


要するにひとりの女は解剖学的女ではけっしてない。


そしてこの原抑圧=固着が、原大他者としての母=母なる超自我による身体の上への刻印なのである。ーー《超自我と原抑圧との一致がある。 il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.  》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



さらに「ひとりの女は、男のなかにもいる「固着としての症状」である」で示したように、ひとりの女の症状、あるいは女性の享楽は、フロイトの「無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]」である。



なんとここで唐突ながら、ふたたびニーチェに回帰するのである。フロイトの無意識のエスの反復強迫こそ、ニーチェの永遠回帰である(参照:永遠回帰は異者のレミニサンスである)。


フロイトのエスはもちろんニーチェのエス=悦である。


ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜の眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!


ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! 

(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第3節、1885年)

悦 Lustが欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――


- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)


「もちろん」と記したが、もちろんほとんどの人、ニーチェ学者たちも含め、それをいまだ知らない。


いやシツレイしました、みなさんにまったく興味がないだろうことを記してしまって。このブログはーー・・・


この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうして私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。


人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]、七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわける新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・


いざよし![Wohlan! ]このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわありがあろうか? ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって[durch Kraft]、魂の高さによって[durch Höhe der Seele]、凌駕していなければならない、――軽蔑 [Verachtung]によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)


さらに「もちろん」、ここでの「迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]」とは、例の「運命愛」ーー性格の悪いフロイトは「運命強迫」と言い換えていますーー、ディオニソス、アリアドネ、迷宮[Dionysos, Ariadne, Labyrinth]の三幅対であり、これこそ永遠回帰である・・・






「もちろん」、女性の享楽こそ永遠回帰であることをニーチェは告白している・・・

しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)




と記していたら「母の名」を思い出したので、ここで「参考のために」貼り付けておこう。



ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神 la déesse maternelle だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名Le Nom de Mère である。(J.-A. Miller, The Non-existent Seminar 、1991)





ロバート・グレーヴスが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神の諸名のひとつに過ぎない。comme le formule Robert Graves, le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche, (ラカン、AE563, Le 1er septembre 1974)


シツレイしました、明らかにイミフだろう図を貼りつけて。でも原症状としての女性の享楽はよくありません。穴に吸い込まれます(穴の深淵には死しかありません)。神経症的父の隠喩もよくありません。大他者の信者やら愛の信者やらになってしまいます(騙されて痛い目に遭います)。みなさん、間にある「父の版の倒錯」に励みましょう・・・これこそ原症状=固着としてのサントームから距離を置く別のサントームです(参照)。


倒錯とは、父に向かうヴァージョン [version vers le père]以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である[le père est un symptôme]。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい [ou un sinthome, comme vous le voudrez]。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)



と記していたらまた思い出した、ツァラトゥストラの信者になってもニーチェの信者になってもダメです。



わたしを離れて去れ geht fort von mir 

弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。


Allein gehe ich nun, meine Jünger! Auch ihr geht nun davon und allein! So will ich es.


まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたのかもしれぬ。


Wahrlich, ich rathe euch: geht fort von mir und wehrt euch gegen Zarathustra! Und besser noch: schämt euch seiner! Vielleicht betrog er euch. 

認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。


Der Mensch der Erkenntnis muß nicht nur seine Feinde lieben, sondern auch seine Freunde hassen können.


いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。


Man vergilt einem Lehrer schlecht, wenn man immer nur der Schüler bleibt. Und warum wollt ihr nicht an meinem Kranze rupfen?


君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないように気をつけよ。


Ihr verehrt mich; aber wie, wenn eure Verehrung eines Tages umfällt? Hütet euch, daß euch nicht eine Bildsäule erschlage!


君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信じると。しかし、ツァラトゥストラそのものに何の意味があるのか。君たちはわたしの信徒だ。だが、およそ信仰というものに何の意味があるのか。


Ihr sagt, ihr glaubt an Zarathustra? Aber was liegt an Zarathustra? Ihr seid meine Gläubigen: aber was liegt an allen Gläubigen!


君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。さがし求めぬうちにわたしを見いだした。信徒はいつもそうなのだ。だから、信ずるというのはつまらないことだ。


Ihr hattet euch noch nicht gesucht: da fandet ihr mich. So tun alle Gläubigen; darum ist es so wenig mit allem Glauben.


いまわたしは君たちに命令する。わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして、君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……


Nun heisse ich euch, mich verlieren und euch finden; und erst, wenn ihr mich Alle verleugnet habt, will ich euch wiederkehren...


(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「贈り与える徳 Von der schenkenden Tugend 」1883年)


ところで「わたしを離れて去れ」と言っておけば、人はさらにいっそう信者になってしまうのです。これこそ至高の誘惑方法です・・・フーコー、ドゥルーズ、デリダ等、仏現代思想のコモノたちはみんなこれにひっかかりました・・・この手口にくれぐれもお気をつけを!



誘惑の神 der Versucher-Gott 

あの世に隠れた偉大な者に比すべき心情の天才。かれは、誘惑の神であり、良心というネズミをとることにかけては、生まれながらの名人である。その声は、あらゆる魂の深層にまで降ってゆくことができる。かれが一語を洩らすとき、一暫を投げるとき、そこにはかならず誘惑をたくらむ心のひだがある。彼の至芸の一つは、自分をあれこれに見せかける術であるーー彼の本体を見せるのではない。その上、彼に従う者たちに強制的な力をおよぼして、ますます彼の身辺に殺到し、ますます徹底して、かれに信服するようにさせるのである……


Das Genie des Herzens, wie es jener grosse Verborgene hat, der Versucher-Gott und geborene Rattenfaenger der Gewissen, dessen Stimme bis in die Unterwelt jeder Seele hinabzusteigen weiss, welcher nicht ein Wort sagt, nicht einen Blick blickt, in dem nicht eine Ruecksicht und Falte der Lockung laege, zu dessen Meisterschaft es gehoert, dass er zu scheinen versteht - und nicht Das, was er ist, sondern was Denen, die ihm folgen, ein Zwang mehr ist, um sich immer naeher an ihn zu draengen, um ihm immer innerlicher und gruendlicher zu folgen:


こういう心情の天才。かれは、すべての声高なもの、うぬぼれているものを黙らせて、かれに傾聴させる。粗暴な魂をなめらかにし、それに新しい願望ーー鏡のように静かに横たわって、深い空を映したいという願望を つくづくと味わわせる……。


-das Genie des Herzens, das alles Laute und Selbstgefaellige verstummen macht und horchen lehrt, das die rauhen Seelen glaettet und ihnen ein neues Verlangen zu kosten giebt, - still zu liegen wie ein Spiegel, dass sich der tiefe Himmel auf ihnen spiegele -; 


こういう心情の天才。かれは、 武骨で性急な手に、ためらうこと、もっとしなやかに掴むことを教える。かれは、隠され忘れられていた宝、一滴の慈愛と甘美な霊性を、にごった厚い氷の下にかぎあてる。多量の泥と砂の牢獄のなかに久しくうずもれていた黄金の粒を、一つぶもあまさず探り当てる魔法の杖に似ている。…


das Genie des Herzens, das die toelpische und ueberrasche Hand zoegern und zierlicher greifen lehrt; das den verborgenen und vergessenen Schatz, den Tropfen Guete und suesser Geistigkeit unter truebem dickem Eise erraeth und eine Wuenschelruthe fuer jedes Korn Goldes ist, welches lange im Kerker vielen Schlamms und Sandes begraben lag; 


こういう心情の天才。かれに触れた者は誰しも、豊かさを増して帰ってゆく。思いがけず恩龍にあずかったというふうにではなく、他人から財宝を恵まれて、それが重荷になるというふうにでもない。そうではなくて、自分自身がいっそう豊かになり、新しい自分になり、うち開かれ、氷雪をとかす暖風に吹かれて胸の秘密をもらし、おそらくは今までよりいっそいおぼつかなく、いっそう感じやすく、いっそうもろく、いっそう打ちくだかれた状態にはなるが、しかし、また名付けようもない希望にみち、新しい意志と奔流にみち、新しい不満と逆流にみちてくる……


das Genie des Herzens, von dessen Beruehrung jeder reicher fortgeht, nicht begnadet und ueberrascht, nicht wie von fremdem Gute beglueckt und bedrueckt, sondern reicher an sich selber, sich neuer als zuvor, aufgebrochen, von einem Thauwinde angeweht und ausgehorcht, unsicherer vielleicht, zaertlicher zerbrechlicher zerbrochener, aber voll Hoffnungen, die noch keinen Namen haben, voll neuen Willens und Stroemens, voll neuen Unwillens und Zurueckstroemens......

(ニーチェ『善悪の彼岸』295番、1886年)





2020年11月19日木曜日

男は女からけっして自由になれない

ボクはちょっとしたカミール・パーリアのファンなんだけどーー彼女の書を多く読んでいるわけではないがーー何よりもまずパーリアが『性のペルソナ』で次のように言ったのは、実に正しい。

どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男はそこから完全には決して自由になれない。(カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)



前回示したボロメオの環の通りだね、これは。





超自我=女性の享楽のポジションは、原大他者という母なる超自我による身体の上への刻印を通した無意識のエスの反復強迫なのだから、パーリアの言っていることとピッタンコだ。男も女もこの母なる女の徴の反復享楽をもっている。結局、ラカン的主体とは母なる超自我であるーー、次の初期ミレールは正しい、《超自我は斜線を引かれた主体と書きうる、le surmoi peut s'écrire $  》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)。


たとえば人がツイッターでパクパクやっている根には母なる超自我がある。そう見てみるとエラそうだったりおバカそうだったりする囀りも愉快に見えてくるよ。もちろん蚊居肢ブログの記述も同様。蚊居肢とは母なる肢の間をウロウロ旋回している蚊のことだ。


話を戻せば、パーリアが1990年に言ったことは、現代ラカン派においては、ようやく2010年前後からこれが鮮明化されてきたのだから、20年遅れだな。


彼女はニーチェとフロイトーーそれにサドーーの熱心な読者であり、次のように言っている「フェミニスト」だ。


ラカンなんか読んだら、あんたたちを脳軟化症にするわ! if you read Lacan…Your brain turns to pudding! (Camille Paglia、Crisis In The American Universities, 1992)

フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

ニーチェの後継者としてのフロイト Freud, Nietzsche's heir (カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)



パーリアの言っていることを穏やかに翻訳すれば、ラカンなんか読んでないで、ニーチェとフロイトをしっかり読みなさい、ってことだ。


何はともあれ、21世紀の男女関係を考える上にフェミニズムを外したらまったくダメだ。フェミニズムにまったく関係がないように見えるテキストでさえ、その底にはフェミニズムがある、つまりある時期以降の支配的イデオロギーとしてのフェミニズムが秘かに大きな影響を与えている。とくに70年以降のテキストを読む上ではこの認識が欠かせない。現代の学者たちのテキストは、ことごとくフェミニズムによって去勢されている。これはラカン派のテキストでももちろんそうだ。だいたいフェミに遠慮して書かないと本は売れなくなる。仕事がし辛くなる。


重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)



少し前、女やら女の身体やらを語っておきながら、アタシはフェミニズムなんかにに関心がないわ、などというひとがいたが、こういった人はたんなる阿呆鳥にすぎない。物心ついた年以降、学校などで《我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられている》フェミニズムに支配されて我々は生きている。





反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。(…)

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』1876年)


真のフェミニストであるためには、ドグマフェミニズムを徹底的に叩かねばならない。そこにしか来るべき男女関係の模索への道はない。


私は全きフェミニストだ。

他のフェミニストたちが私を嫌う理由は、私が、フェミニスト運動を修正が必要だと批判しているからだ。

フェミニズムは女たちを裏切った。男と女を疎外し、ポリティカルコレクトネス討論にて代替したのである。(カミール・パーリア 、プレイボーイインタヴュー、1995年)


フェミニズムは死んだ。運動は完全に死んでいる。女性解放運動は反対者の声を制圧しようとする道をあまりにも遠くまで進んだ。異をとなえる者を受け入れる余地はまったくない。まさに意地悪女 Mean Girls のようだ。彼女たちが私のいうことを聞いていたなら、船は正しい方向に舵をとったのだが。…(連中は)私のことをフェミニストではないとまだ言っている⋯⋯フェミニストのイデオロギーは、数多くの神経症女の新しい宗教のようなものだ。(Camille Paglia on Rob Ford, Rihanna and rape culture、2013)


女性研究は、チャレンジなきグループ思考という居ごこちよい仲良し同士の沼沢地である。それは、稀な例外を除き、まったく学問的でない。アカデミックなフェミニストたちは、男たちだけでなく異をとなえる女たちを黙らせてきた。(Camille Paglia, Free Women, Free Men: Sex, Gender, Feminism, 2018)