フロイトの宗教論は一般には、1912年の『トーテムとタブー』、最晩年1939年の『モーセと一神教』が代表的なものとされるが、ここではもう一つの傑出した宗教論である1927年に書かれた論文を中心としてフロイトの宗教についての思考を示す。
その宗教論、人文書院旧訳では『ある幻想の未来』、岩波新訳では『ある錯覚の未来』と訳されている"Die Zukunft einer Illusion" の "Illusion" をここではそのまま「イリュージョン」と訳して引用抽出する。 |
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宗教的教理はすべてイリュージョンであり、証明不可能で、何人もそれを真理だと思ったり信じたりするように強制されてはならない。 den religiösen Lehren, …Sie sind sämtlich Illusionen, unbeweisbar. Niemand darf ge-zwungen werden, sie für wahr zu halten, an sie zu glauben..(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第6 章、1927年) |
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フロイトは宗教的観念ーー宗教的表象[ die religiösen Vorstellungen]ーーを次のように定義している。 |
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宗教的観念は、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。daß die religiösen Vorstellungen aus demselben Bereich hervorgegangen sind wie alle anderen Errungenschaften der Kultur, aus der Notwendigkeit, sich gegen die erdrückende Übermacht der Natur zu verteidigen.(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第4章、1927年) |
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「自然の圧倒的な優位」とあるが、フロイトはこれについて地震、津波、ウイルス、そして死を挙げている。 |
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震動し、引き裂き、すべての人間や人間の手になるものを埋没してしまう大地、いったん氾濫すれば万物を押し流し溺れさせてしまう水、他の生物からの攻撃によって起こることがつい最近ようやく分かってきたかずかずの病気、そして最後に、死という、これまでいかなる薬によっても対抗することができず、おそらく将来とても対抗することはできないと思われる、悲惨な謎めいた現象がある。とのような暴威をもって自然は、残忍かつ容赦なく圧倒的な力でわれわれに挑戦し、われわれが文化作業によって免れようと考えている自分の弱さと無力さ(寄る辺なさ)[unsere Schwäche und Hilflosigkeit] を、改めてわれわれの眼前に突きつける。。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第3章、1927年) |
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ーー《自分の弱さと無力さ(寄る辺なさ)unsere Schwäche und Hilflosigkeit 》とあるが、宗教だけにかかわらず、フロイトの思考において、Hilflosigkeit[無力さ(寄る辺なさ)]という語は最も重要なキーワードのひとつである(後述)。 |
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宗教的観念の価値は何なのかとフロイトは問うて、第一に「自然の人格化」としている。 |
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いったい、宗教的観念の独特の価値はどこにあるのか[Worin liegt der besondere Wert der religiösen Vorstellungen?] 〔・・・〕 文化は人間を自然から守るというその使命の遂行を一時停止するのではなく、ただこれまでとは違った手段を用いてその使命の遂行を継続するだけである。この場合、文化の使命はいくつかある。ほとんど自信を失いそうになっている人類は慰めを要求しているし、自然界や人生が見せる恐ろしい相貌は取り払われなければならず、さらには、人類の知識欲ーーここにも非常に強い現実的な関心が働いていることはもちろんであるー一にも一応の返答が与えられなければならない。 第一歩を踏み出しただけでも、はや非常に大きな収穫がえられる。その第一歩とは、自然を人格化することである[die Natur zu vermenschlichen]。 |
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人格を持たない力や運命などは、永遠に異者で、近づこうにも近づきようがない。[An die unpersönlichen Kräfte und Schicksale kann man nicht heran, sie bleiben ewig fremd. ] ところが、自然現象の中にもある自分の胸の中と同じさまざまの情熱が荒れ狂っていると考え、死すらも偶発的なものではなくなにかある悪意を持った存在による暴力行為だと考え、また、自然界のどこにいても自分のまわりにあるのけは自分たちの社会を構成しているのと同じような存在だと考えるとーーわれわれはほっと息をつき、不気味ななかにも親密さを感じ[fühlt sich heimisch im Unheimlichen]、自分の馬鹿げた不安を心理的に処理できるようになる。 |
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無防備という点ではおそらくまだもとのままであろうが、もはや寄辺のない虚脱状態にあるのではなく、少なくとも、反応するだけの力は回復している。それどころか、おそらくは無防備状態すら脱しており、外部の乱暴な超人間[gewalttätigen Übermenschen draußen] にたいしても、自分が住んでいる社会で使うのと同じ手段を応用することが可能で、頼みこむこともできれば、慰撫や龍絡という手もあり[kann versuchen, sie zu beschwören, beschwichtigen, bestechen, raubt ihnen] 、この種の手段によって相手の力の一部を奪い取るのである。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第3章、1927年) |
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もし究極的な自然が上に見たように死であるなら、「神とは死の人格化」とすることさえでき、その死を慰撫や籠絡ことが究極のイリュージョンとしての神観念かもしれない。フロイトラカンにおいてその思考の痕跡フロイトありすぎるほどあるが、ここでは示唆だけに止めておく。
さて話を戻して繰り返せば、自然の人格化が宗教的観念の起源だというのがフロイトの思考である。 |
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このようにして、人間の寄辺なさ[die menschliche Hilflosigkeit]を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄辺なさへの追憶[der Erinnerungen an die Hilflosigkeit der eigenen und der Kindheit des Menschengeschlechts]を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第3章、1927年) |
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ところで、幼児ーー、一歳までは他の動物の胎児なみの保護が必要な状態の未熟児として生まれる人間ーーの原初にある寄る辺なさ[Hilflosigkeit]を飼い馴らしてくれる原保護者は、母(もしくは最初の世話役)である。これは誰もが認めることだろう。 フロイトは次のように記している。 |
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空腹を満たしてくれる母が最初の愛の対象になる。そしてたしかにまた、幼児をおびやかしているありとあらゆる外界の危険にたいする保護者ーー人間が抱く不安にたいする最初の保護者と言ってもよいであろうーーともなる。この母の役割はやがてより強力な父によってとってかわられる。 So wird die Mutter, die den Hunger befriedigt, zum ersten Liebesobjekt und gewiß auch zum ersten Schutz gegen alle die unbestimmten, in der Außenwelt drohenden Gefahren, zum ersten Angstschutz, dürfen wir sagen.In dieser Funktion wird die Mutter bald von dem stärkeren Vater abgelöst (フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』第4章、1927年) |
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この文は『モーセと一神教』の次の文とともに読むべきである。 |
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歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年) |
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この母なる神はラカン的には、たとえば次のように表現される。 |
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ロバート・グレーヴスが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神(母なる神)の諸名のひとつに過ぎない comme le formule Robert Graves, le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche,(ラカン、AE563, 1974) |
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偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い神性」、父の諸宗教に先立つ神である。la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME 2015) |
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ラカンは言っている、おそらく最も根源的父の諸名は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である。Lacan says that perhaps the most fundamental of The Names of the Father might be that of the Mother Goddess, which belong to the cults that precede the Names of the Father. The Jewish cult of the Names of the Father superseded the Mother Goddess. Perhaps the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother(J.-A. Miller,The Non-existent Seminar, 1991) |
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※ラカン派観点の詳細は、「母は神である」を参照のこと。 |
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つまりは父なる神は母なる神の代理人に過ぎない。それは歴史的にみても、個人の発達段階史においても同様である。ラカンの表現なら、母なる原大他者は全能の力をもち原支配者である。
フロイトは次の文では父ーー大文字の父Vatersーーを強調している。だが原初には母なる神があるのは上に見た通り。 |
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宗教的観念の起源 Genese der religiösen Vorstellungen… みずから教義と名乗っているこれらの観念は、経験の集積や思考の最終結果ではなくイリュージョンであり、人類が抱いているもっとも古く、もっとも強く、もっとも差し迫った願望の実現である。Diese die sich als Lehrsätze ausgeben, sind nicht Niederschläge der Erfahrung oder Endresultate des Denkens, es sind Illusionen, Erfüllungen der ältesten, stärksten, dringendsten Wünsche der Menschheit; |
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宗教的観念の強さの秘密は、これらの願望の強さにある。すでに述べたように、自分が寄辺ない存在であることにおびえた幼児の心に保護ーー愛による保護ーーへの欲求が目ざめ、この欲求に答えてくれたのが父であったが、この寄辺ない状態が一生つづくこに気づいたことから人類は、一人の父ーーそれも、今度はもっと強大な父ーーの存在にしがみつくことになった。 das Geheimnis ihrer Stärke ist die Stärke dieser Wünsche. Wir wissen schon, der schreckende Eindruck der kindlichen Hilflosigkeit hat das Bedürfnis nach Schutz – Schutz durch Liebe – erweckt, dem der Vater abgeholfen hat, die Erkenntnis von der Fortdauer dieser Hilflosigkeit durchs ganze Leben hat das Festhalten an der Existenz eines – aber nun mächtigeren – Vaters verursacht. (フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第6 章、1927年) |
さてどうだろうか。これだけでは納得しない人が多かろうが、今は宗教的観念の起源についての思考の種としてここまでを提示するのみにしておく。
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最後に上の引用にも頻出したフロイトの"Hilflosigkeit"である。1927年の『あるイリュージョンの未来』の前年の論文『制止、症状、不安』にはこうある。 |
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寄る辺なさ(トラウマ)[Hilflosigkeit (Trauma)](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ。Heißen wir eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (フロイト『制止、症状、不安』第11章B) |
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上にあるように寄る辺なさ Hilflosigkeitとは、トラウマのことである。 |
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この論ーー《フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。》(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )と言われ、実際、後期ラカン読み解く上で欠かせない。 |
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ここではごく簡単に示すが、「寄る辺なさ=トラウマ」とはラカンの現実界である。 |
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現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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troumatismeという造語をラカンは提示しているるように、トラウマ=穴である。 |
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ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011) |
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人はみなトラウマ化されている。この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010) |
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そして享楽自体、トラウマである。 |
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享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976) |
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享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
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われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009) |
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フロイトはこう言っている。 |
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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この不安とは不快と等価である、《不快(不安)[ Unlust-(Angst).]》(『制止、症状、不安』第2章) |
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この前提で、ジャック=アラン・ミレールの次の文を読もう。 |
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フロイトの観点では、享楽と不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve]としてある。 欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快がある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse. ]。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004) |
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モノとある、繰り返せば、《モノは母である。das Ding, qui est la mère》 (ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
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以上、もうこれ以上は記述せず、フロイトの「寄る辺なさ Hilflosigkeit、つまりトラウマ(ラカンの穴)は、ラカン理論の核心が読み取れるほど重要な概念だとだけ言っておこう。 とはいえラカンマテームを使っての基本図を示しておこう。穴はȺであり、穴の境界表象[Grenzvorstellung ]はS(Ⱥ)である。このS(Ⱥ)は母なる超自我=母なる神のマテームでもあり、他方、フロイトの自我理想(ラカンの父の名)のマテームはI(A)だが、これを父なる神のマテームとしよう。 要するに一般的に神と呼ばれてきたもの、つまり父なる神は、母なる神のヴェールに過ぎない。
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