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2022年6月27日月曜日

人はメガネをかけ変えて、「乙女のように」彷徨わなければならない

 3ヶ月ほど前、「メガネについてーーあるいは屍体は視線を分節化する装置である」でメガネをめぐる一連の文章をあげたが、何よりもまず最もわかりやすい丸山真男の「めがね」でよろしい。


めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕


われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山真男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5)



ものを見るめがねは《われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきた》とあるが、これを現在の出来事につなげて言えば、冷戦終了後に学んだ世代は、それ以前に学んだ世代とは別のめがねをかけている。例えば「新しい国際政治学者」は、冷戦終了後の米国一極集中のめがねをかけて国際政治を見ている、ほとんど常に。だがこのメガネは何も新しくない。たんに彼らが受けた教育のせいだ。他方、冷戦の二極構造のなかで育った者たちはメガネをかけ変える習慣をもっている人が少なからず存在する。冷戦後の世代はこれがひどく不得手のようだが、それでは先入観の無思想に陥ってしまうーー《重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。》(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)

もちろん別のメガネをかければ真理が現れてくるわけではない。でもひとつのメガネをかけ続けていれば、丸山真男曰くの《新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になる》。

最も重要なのはパララックスだ。

以前に私は一般的人間理解を単に私の悟性[Verstand]の立場から考察した。今私は自分を自分のでない外的な理性[ äußeren Vernunft ]の位置において、自分の判断をその最もひそかなる動機もろとも、他人の視点[Gesichtspunkte anderer] から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差[starke Parallaxen] (パララックス)を生じはするが、それは光学的欺瞞[optischen Betrug] を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢Träume eines Geistersehers』1766年)



繰り返せば、強い視差[starke Parallaxen]をもってしても、真理が現れてくるわけではない。そもそも人間はメガネなしでものを見ることはできない。言語はメガネだ。英語使いと日本語使いは世界が異なって見える、仏語、独語、中国語、韓国語、露語使い等々も同様。

とはいえ、ひとつのメガネをかけ続けていると固定観念の虜になってしまう。ネトウヨとは典型的なこの種族であるだろう。最も重要なのは、人はときにメガネをかけ変えて、「乙女のように」彷徨わなければならないことだ。


人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。


この<あれかこれか>のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』)



われわれの取らなければならない立場はまずこの「不確実性の知恵」である。少なくとも出発点はここからだ。この意味で「どっちもどっち論」に集団ヒステリー的な非難をした「新しい国際政治学者」たちは、学者としてーーいや人生を生きる者としてーー致命的だったし、今も致命的であり続けている、➡︎「正義の翼を持つセンセたち」。

もちろん彼らだけではない。西側の政治家、西側の主流メディアが「致命的」4ヶ月を送ったし、現在、わずかな軌道修正はあるようには一見みえるが、油断してはならない。

絆や寄り添うことを大切にする共感の共同体の「蛸壺民」はこの軌道修正が最も下手糞な民族集団のひとつでありうる。


国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)


この期に及んでも、輿がひどく傾いているのがまだ見えないだろうか。もしそうであるなら、あなたは共感の共同体の典型的ムラビトである。