さる理由でジジェクにはあまり触れたくないのだが、ここではヤムエズ引用する。 |
如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものがそのメンバー自身にとって謎の意味するものである[the master signifier that guarantees the community's consistency is a signifier whose signified is an enigma for the members themselves]。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。 この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく、ラカン派コミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン(専門用語)の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」[ “symbolic castration” or “divided subject”]など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である[what binds the group together is ultimately their shared ignorance](ジジェク、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004) |
ま、ジジェクが言っているように、集団を結束させるものは、場合によっては、共有された無知なんだよ。例えば、宇露戦争における国際政治学者集団ーー、連中は「ルールに基づく国際秩序」という表現を通して結束してロシアを批判したが、その内実には事実上、無知あるいは知らないふりをしているね、➡︎「ルールに基づく国際秩序は二重基準の別名」。 フロイトラカン派集団でも同じだよ、例えば最も基本的概念「無意識」でさえ、本来の無意識と前意識の区別がついていないヤツらがいまだウヨウヨいる。ラカンの《無意識は言語のように構造化されている》の無意識が本来の無意識ではなく前意識であることに無知のヤツらの結束が見られるんだな、➡︎ 「言語のように構造化されていない」本来の無意識 …………… さて冒頭のジジェク文をいくらか注釈しておこう、先の文でジジェクが「主人のシニフィアン」と言っているのは、事実上、フロイトの自我理想であり、かつまた父の名である。 |
S1、ラカンが「主人」を指標化するものとして選んだこの最初の形態は、自我理想の核である。Le S1, qui est quand même la forme initiale que Lacan a choisie comme indiquant, indexant le maître,…qui est le noyau de l'idéal du moi. (J.-A. Miller, Tout le monde est fou, 16 janvier 2008) |
自我理想は父の代理である[Ichideals …ist ihnen ein Vaterersatz].(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、摘要、1921年) |
フロイトの『集団心理学と自我の分析』には、自我理想をめぐる比較的よく知られている図がある。 |
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この図の最も基本的な読み方は次の通り。 |
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原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年) |
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この自我理想による同一化は言語自体がその機能をもつともされている。 |
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言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年) |
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これは父の名や大他者が言語であるのと同様である。 |
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言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96) |
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大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98) |
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つまり父の名も自我理想も象徴界なのである。
フロイトは先に挙げた文で、自我理想との同一化と各自我間の同一化を言っているが、ラカン派ではより厳密に前者を象徴的同一化、後者をフロイト用語の「理想自我」を使い想像的同一化とする。 |
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理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le moi-Idéal [ i'(a) ] est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier l963) |
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理想自我との同一化は想像的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986) |
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この理想自我はフロイトの定義においてナルシシズムである。 |
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理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
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他方、自我理想は象徴的同一化に関わる。 |
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ラカンの象徴的同一化のマテーム I(A)は、フロイトの『集団心理学』からの自我理想である[le mathème de l'identification symbolique de Lacan, I(A) …l'idéal du moi …à partir de la Massenpsychologie](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) |
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この想像的理想自我と象徴的自我理想との同一化は、投射(投影)と取り入れの区別がある。 |
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投射は想像界の機能であり、取り入れは象徴界に関係する機能である[La projection est fonction de l'imaginaire, tandis que l'introjection est en relation au symbolique.](J.-A. MILLER, Extimité II - 20 novembre 1985) |
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したがって次のように置くことができる。 この自我理想図を簡易化させて、コレット・ソレールは"What Lacan Said about Women (Ce que lacan disait des femmes:2003)"にて、次の図を示している。 これを活用して冒頭のジジェク文を図式化しておこう。 日本フロイトラカン派なら、この個人に十川・立木・原、そして主人S1に「抑圧」と入れてもよいのである。➡︎「日本フロイトラカン派三馬鹿トリオ」。さらに2020年の前二者ならS1に「自己愛」を代入しうる、➡︎「十川幸司と立木康介の反フロイト・反ラカン的発言」
……………
したがってラカンはこう言ったのである。
例えば日本のきわめて民主的なムラ社会のムラ八分がシュミットのいう「異質なものの排除または殲滅」でなくて何だろう?
そう、われわれは昨年の4月初め、国際政治学者ムラによる映画監督河瀬直美さんの東大入学式祝辞発言に対する「集団いじめ」を見たところである。 |