私は何度か、柄谷行人はフロイトの二種類の超自我の区別がないと言ってきたが(たとえば➤「あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。ーー柄谷行人の超自我と欲動」)、これはある意味でやむえないのであって、たとえば精神分析プロパの中井久夫でさえその区別ができていない。 以下、それが鮮明に現れている文を掲げよう。 |
◼️中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年『家族の深淵』所収 |
1 「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。「歴史の発展段階説」などでは説明しにくい現象である。 では何が同時的だろうかと考えた。それはまず第二次世界大戦からの時間的距離である。1945年の戦争終結の前後に生まれた人間が成年に達する時点である。つまり、彼らは戦死した父の子であった。あるいは戦争から還ってきた父が生ませた子であった。しかも、この第二次世界大戦から帰ってきた父親たちは第一次大戦中あるいは戦後の混乱期に生まれて恐慌時代に青少年期を送っている人が多い計算になる。ひょっとすると、そのまた父は第一次大戦が当時の西欧知識人に与えた、(われわれが過小評価しがちな)知的衝撃を受けた世代であるかもしれない。 二回の世界大戦(と世界大不況と冷戦と)は世界の各部分を強制的に同期化した。数において戦死者を凌駕する死者を出した大戦末期のインフルエンザ大流行も世界同期的である。また結核もある。これらもこの同期性を強める因子となったろうか。 |
2 では、異議申立ての内容を与えたものは何であろうか。精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。実際、彼らの父は、敗戦に打ちひしがれた父、あるいは戦勝国でも戦傷者なりの失望と憂鬱とにさいなまれた父である。戦後の流砂の中で生活に追われながら子育てをした父である。古い「父」の像は消滅し、新しい「父」は見えてこなかった。戦時の行為への罪悪感があるものも多かったであろう。戦勝国民であっても、戦場あるいは都市で生き残るためにおかしたやましいことの一つや二つがあって不思議ではない。二回の大戦によってもっともひどく損傷されたのは「父」である。であるとすれば、その子である「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。さらに、この世代が強く共感した人の中に第一次大戦の戦死者の子があることを特筆したい。特にアルベール・カミュ、ロラン・バルトは不遇な戦死者の子である。カミュの父は西部戦線の小戦闘で、バルトの父は漁船改造の哨戒艇の艇長として詳しい戦史に二行ばかり出てくる無名の小海戦で戦死している。 |
異議申立ての対象である「体制」とは「父的なもの」の総称である。「父なるもの」は「言語による専制」を意味するから、マルクス主義政党も含まれる道理である。もっとも、ここで「子どもは真の権威には反抗しない。反抗するのはバカバカしい権威 silly authority だけである」という精神科医サリヴァンの言葉を思い起こす。第二次大戦とそれに続く冷戦ほど言語的詐術が横行した時代はない。もっとも、その化けの皮は1960年代にすべて剥がれてしまった。 |
この続きは、➤「学園紛争は何であったか(中井久夫)」 |
この文自体はすばらしいのだが、ひとつだけ問題がある、《「紛争世代」は「父なき世代」である。「超自我なき世代」といおうか。》とあるが、この超自我はエディプス的超自我であり(ラカンの父の名と等価[参照])、フロイトにはそれ以外に前エディプス的超自我がある。父なき世代にて露顕するのは、エディプス的超自我の底部にある前エディプス的超自我であり、これは決してなくならない。つまり父なき世代とは「前エディプス的超自我の世代」なのである。 |
![]() |
エディプス的超自我と前エディプス的超自我 |
そして、フロイトのエディプス的超自我は、文化的超自我であり、自我理想である。 |
|||
エディプスコンプレクスの代理となる超自我[das Über-Ich, der Ersatz des Ödipuskomplexes](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年) |
|||
文化的超自我は理想を発展させてきた[Das Kultur-Über-Ich hat seine Ideale ausgebildet](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年) |
|||
自我理想は指導者のなかに具現化された集団の理想と交換される[Ichideal…es gegen das im Führer verkörperte Massenideal vertauscht.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年) |
|||
つまり父なき世代とは理想なき世代、あるいは理念なき世代なのである。
|
ーーこれが現在、日本だけでなく、少なくとも西側世界で起こっていることである。
この父なき世代とは家父長制なき世代でもあり、ドゥルーズ&ガタリの『アンチオイディプス』によって「オイディプスの彼岸には自由がある」という二十世紀後半思想界の最悪の不幸のひとつである「酷い誤謬」が拡散されたがーーフェミニズムもこの誤謬に大いに影響されたーー、まったくそうではなく、むしろ最悪の時代が訪れている(自由というなら排外主義の自由、レイシズムの自由等でしかない)。 ラカンは学園紛争時、先の中井久夫と同じく《父の蒸発 [évaporation du père]》 (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)、《エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe]》(Lacan, S18, 16 Juin 1971)としつつ、《レイシズム勃興の予言[prophétiser la montée du racisme]》(Lacan, AE534, 1973)をしている。 |
今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕 私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…) nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021) |
|
21世紀の象徴秩序…それはフロイトが「文化の中の居心地の悪さ」と呼んだものの成長、ラカンが「文明の行き詰まり」として解読したものの成長とともにある。 それは20世紀を置き去りにし、世界における我々の実践を更新し、二つの歴史的要因によって存分に再構成された。つまり科学の言説と資本の言説である。現代のこの支配的言説は、その出現以来、人間の経験の伝統的構造を破壊し始めている。それぞれが他方に依存しているこれら 2 つの言説の複合的な支配は、伝統の最も深い基盤を破壊し、おそらく粉砕することに成功するほどの規模になった。 我々が目にしているのは、象徴秩序に起こった大変動にともなう、その礎である父の名のひび割れである。ラカンが極めて正確に述べたように、伝統による父の名は、科学と資本主義の二つの言説の組み合わせによって影響を受け、価値を下げられたのである。 |
L'ordre symbolique au XXIème siècle …de ses coordonnées inédites au XXIème siècle, au moment où se développe ce que Freud appelle : « Le malaise dans la culture », que Lacan lira comme les impasses de la civilisation. Il s'agit de laisser derrière soi le XXème siècle, pour renouveler notre pratique dans le monde, lui-même suffisamment restructuré par deux facteurs historiques, deux discours : le discours de la science et le discours du capitalisme. Ces discours dominants de la modernité ont commencé, depuis leur apparition, à détruire la structure traditionnelle de l'expérience humaine. La domination combinée de ces deux discours, chacun s'appuyant sur l'autre, a pris une telle ampleur qu'elle a réussi à détruire, et peut-être à briser, les fondements les plus profonds de la tradition. Nous l'avons vu, …avec le bouleversement survenu dans l'ordre symbolique, dont la pierre angulaire, le Nom-du-Père, s'est fissurée. Et, comme le dit Lacan avec une extrême précision, le Nom-du-Père selon la tradition, a été touché, dévalué, par la combinaison des deux discours, celui de la science et celui du capitalisme. |
(ジャック=アラン・ミレール、21世紀における現実界 JACQUES-ALAIN MILLER, LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE , 27 avril 2012 ) |
というわけだが、先に戻って言えば、フロイトの超自我概念は鬼門だよ。ドゥルーズや柄谷行人、中井久夫でさえも二種類の超自我を識別しておらず、そのあたりのちょろちょろした「学者」や「知識人」ーー敢えて「名」を挙げないでおくが、いわゆる「一流」とみなされている人物たちーーはいまでもトンデモ寝言を言い続けている。
その点、ラカンは早い段階から掴んでいた。 |
「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel : […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958) |
ラカニアン語彙では、父なる超自我は「言語の大他者」、母なる超自我は「身体の大他者」である。そしてフロイトの言い方なら、この身体は何をしでかすかわからない暗黒の要素である。
このような内部興奮の最大の根源は、いわゆる有機体の欲動[Triebe des Organismus]であり、身体内部[Körperinnern]から派生し、心的装置に伝達されたあらゆる力作用の代表であり、心理学的研究のもっとも重要な、またもっとも暗黒の要素 [dunkelste Element]でもある。 Die ausgiebigsten Quellen solch innerer Erregung sind die sogenannten Triebe des Organismus, die Repräsentanten aller aus dem Körperinnern stammenden, auf den seelischen Apparat übertragenen Kraftwirkungen, selbst das wichtigste wie das dunkelste Element der psychologischen Forschung. (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
フロイトにおいてエディプスは「言語の自我」、前エディプスは「身体のエス」に関わり、言語は身体の下男、つまりエディプスは前エディプスの下男に過ぎない。 |
自我はただ単にエスの助力者であるだけでなく、エスに服従する下男であり、主人の愛をこいねがう[das Ich ist nicht nur der Helfer des Es, auch sein unterwürfiger Knecht, der um die Liebe seines Herrn wirbt]。できることなら、自我はエスとのよい間柄をもとうとし、エスの無意識的な命令を自我の前意識的な合理化でおおい、たとえエスが頑固でゆずらないときでも、現実の警告にたいしてエスが従順なようにみせかける。〔・・・〕自我はエスと現実との中間の位置をしめるので、しばしば、追従者、日和見主義者、嘘言者[liebedienerisch, opportunistisch und lügnerisch]になろうとする誘惑に負けてしまう。ちょうど、政治家がりっぱな識見をもちながら、公衆の意見をばかって主張を変えるようなものである。(フロイト『自我とエス』第5章、1923年) |
《追従者、日和見主義者、嘘言者》とあるが、エディプス的超自我はある意味で嘘なんだよ、時に必要不可欠な嘘だがね。穏やかに言えば、カントの統整的理念[regulatives Prinzip]としての仮象だ。