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2015年3月27日金曜日

「なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように」(ゴダール=ブレッソン)

ゴダールが『映画史』で引用したブレッソンの言葉“Ne change rien, pour que tout soit différent”を松浦寿輝が『シネマトグラフ覚書』で「何一つ変更を加えず、かつすべてが違ったものとなるように」としているそうだ。

標準的な訳なら、何も変えるな、あるいはなにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように、だろう。

といっても別に松浦寿輝の訳に文句をつけるつもりはない。なにかの意図があるのだろうが、その書の前後を読んでいない者がなにをいえるわけでもない。

ーーなどと書いているのは、ジジェクの『LESS THAN NOTHING』 (2012)に次ぎの文を見い出したからだ。

Jean‐Luc Godard proposed the motto “Ne change rien pour que tout soit différent” (“Change nothing so that everything will be different”), a reversal of “Some things must change so that everything remains the same.”

この《なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように》と、ジジェクによる反転、《何かが変わらなければならない、すべてが同じままであるために》は、ドゥルーズの「新しいもの」と「反復」の文脈で書かれている。

Deleuze’s thesis according to which New and repetition are not opposed, for the New arises only from repetition, must be read against the background of the difference between the virtual and the actual:changes which concern only the actual aspect of things are only changes within the existing frame, not the emergence of something really Newthe New only emerges when the virtual support of the actual changes, and this change occurs precisely in the guise of a repetition in which a thing remains the same in its actuality. In other words, things really change not when A transforms itself into B, but when, while A remains exactly the same with regard to its actual properties, it “totally changes” imperceptibly. This change is the minimal difference, and the task of theory is to subtract this minimal difference from the given field of multiplicities.

ここに記されているのは、現勢的な変化は、すでに存在する枠組みのなかでの変化であり、真の「新しいもの」ではない。真の「新しいもの」は、同じものの反復のなかで生じる、というドゥルーズの考え方だ。the virtualともあるが、これは潜勢性とか潜在性と訳されるドゥルーズ哲学の中心的概念(すくなくともその一つ)であり、それは、ドゥルーズがプルーストから導きだした「純粋過去」や、エリオットの「伝統」概念にもかかわるが、何度も触れたのでここでは割愛(参照:「過去を変えることは不可能であるという思い込み」、「「関係構造」は事物の存在より重要である」など)。

結局、座標軸を変えるかどうかにかかわるといってよいだろう。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収

反対に、既成の枠組みのなかで変化の選択(疑似行為)は、枠組み自体を強化することになりかねないのだ。


いずれにせよ、ジジェク曰くの《何かが変わらなければならない、すべてが同じままであるために》が、われわれ凡人たちの変化であろう、すなわち《十中八、九、新しいことは新奇さのステレオタイプでしかない》(ロラン・バルト『テクストの快楽』)。

逆に、《反復は、反復する対象に、何の変化ももたらさないが、その反復を観照する精神には何らかの変化をもたらす。》(ドゥルーズ 差異と反復)

ゴダールの《なにも変えてはならない。すべてが違ったものとなるように》と、ジジェクによる反転、《何かが変わらなければならない、すべてが同じままであるために》に関しては、蓮實重彦による変奏ーー列挙(引用)/要約、あるいは反復/流通がある。

僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)

僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。
……みんな、批評というものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)

批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(『闘争のエチカ』

 もっとも、どこかのダボハゼのような評論文であるなら、要約したってかまわないさ。そんなものを列挙したって、いつまでたっても、なんの新しいものは生まれはしないだろうから。

要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種の能記〔シニフィアン〕の実践)が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」)

だが、《列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるような》エクリチュールを、《共同体が容認する物語への翻訳》しちゃあな、それこそ反復の抑圧であり、すべてを同じままにするために、何かを変えるってヤツだ。「わかりたいあなた」たちの典型的な症状だぜ。

「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。(佐々木敦『ニッポンの思想』

「わかったつもりになれて」とは「何かを理解したような気分」になることである。

何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そう することで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解し たかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥り がちなのです。

だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態たといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な 意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、む なしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にす ぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦の『齟齬の誘惑』序文ーー「この「私」に何の価値があるのでしょう?」)

とはいえ好きなようにやればいいさ、知のスタイルはとっくの昔に変化してしまったのだし、どこかの馬の骨のようなヤツラが、いまさらゴダールやらドゥルーズやらエクリチュールでもないだろ?

そもそも、列挙するに値する書物自体が、現代の書き手のあいだでは稀少になってしまったんじゃないか、ーーこれは、この「私」をなんとか価値あらしめようとする時代の典型的な「症候」さ。

《徹底した観客無視……私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなもの》(蓮實重彦)を作ろうとしているヤツなんか、もうどこにもいないんじゃないか。せめて恰好つけて「背中で語ろうとするヤツさえ稀になった。

(グールドは)演奏家、作曲家、聴衆が分れていない黄金時代を夢みた。

グレゴリア聖歌を唱う者にとって、聴衆のための演奏など思いもよらぬことであった。彼らが唱うとき、彼らを通して神の声が唱う。あるいはそれは天使の声であるかもしれない。しかしそこに集う者たちは聴くためだけではなく秘儀をとりおこなうために来ているのだ。音楽は信徒に語りかけるのではない。彼らに代わって唱われるのであり、しかも聖歌は誰もそれを聴く人間がいなかったとしてもまったく変わることはないはずだ。それは物理的な顕現でしかない。仮りに音楽が聴く者に外部から触れるとしても、そのほんとうの源は聴く者の内部にある。聖歌は音響に姿を変えた祈りとなるのだ。(ミシェル・シュネデール)

ここでは、いまではめったに聴かなくなってしまったグレゴリア聖歌を恰好つけて貼り付けるのはやめてーーいま少し聴いてみたのだが、どうもぴったりくるものにぶつからないーー、バッハのBWV12(カール・リヒター指揮)を掲げておく。





長いあいだ、このリヒターで聴いてきたのだが、たとえばニ曲目のコラールを聴き比べると、最近はリヒターだけではないという感が強くなってきたな・ ・ ・

Ton Koopman