このブログを検索

2019年6月30日日曜日

治癒不能の「母の裸」

フロイトは汽車恐怖症(旅行不安 Reiseangst)に終生悩まされたそうだが、フリース宛書簡には核心語彙をラテン語(matrem、nudam)を使用しつつこうある。

後に(二歳か二歳半のころ)、私の母へのリビドーは目を覚ました meine Libidogegen matrem erwacht ist。ライプツィヒからウィーンへの旅行の時だった。その汽車旅行のあいだに、私は母と一緒の夜を過ごしたに違いない。そして母の裸を見る機会 Gelegenheit, sie nudam zu sehenがあったに違いない。…私の旅行不安 Reiseangst が咲き乱れるのをあなたでさえ見たでしょう。

daß später (zwischen 2 und 2 1/2 Jahren) meine Libidogegen matrem erwacht ist, und zwar aus Anlaß der Reise mir ihr von Leipzig nach Wien, auf welcher eb gemeinsames Übernachten und Gelegenheit, sie nudam zu sehen, vorge fallen sein muß…Meine Reiseangst hast Du noch selbst b Blüte gesehen.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fliess、4.10.1897)

フロイトというと通念としては「エディプスコンプレクス」と言うことになっているが、エディプスコンプレクスとは「マザーコンプレクス Mutterkomplex 」(『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年)、あるいは「母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter」に対する防衛に過ぎない。

母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

これを別名、リビドー固着、あるいはトラウマへの固着等(原症状)と呼ぶのである。




ようするにリビドー固着(≒原抑圧)は、治療不能である。フロイト自身がそうであったのだから間違いない。すくなくとも自由連想などまったく効果がない。


この固着とは事実上、外傷神経症である。固着とは「身体の上への刻印」という意味であり、エスのなかに身体的なものが居残るのである。初期フロイトはこれを不安神経症と呼んだ(後年、自由連想が機能する精神神経症 psychoneurose に対して自由連想がまったく機能しない現勢神経症 Aktualneurose とも呼ぶようになる)。

不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能 nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能 nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)

この固着(原抑圧)こそラカンのサントーム(享楽の固着 fixation de la jouissance)である。

四番目の用語(サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

フロイト・ラカンとも還元不能という表現を使っているが、この外傷神経症と構造的には等価の原症状は、中井久夫も言う通り、治癒不能なのである。

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)

ところでリビドー固着に悩まされたフロイトは、この相において自閉症的である。

ここではエキス語彙だけ抜き出した図表を掲げるが、次の語彙群は事実上、すべての同じ意味内容をもっている(参照)。




ーーブロイラーの4A(参照)に対して、フロイトの3Aである(ラカン派概念をふくめて5A).。


(もっともブロイアーの4Aは意味内容が等価というわけではない)。


そしてフロイトのリビドー固着とはラカンのサントームである。サントームについては、たとえばPierre-Gilles Guéguenはこう言っている。

サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


上の表でしめしたフロイトにおける自体性愛とは原ナルシシズムのことであり(ラカンは原ナルシシズム=自体性愛=自閉症的享楽としている[参照])、フロイトが「原ナルシズム的」というとき「自閉症的」と置き換えてもよいのである。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

人はみな「母への自閉症的リビドー備給」をもっている。これが、幼児期のトラウマへの固着、つまり身体的なものがエスのなかへの居残ることの典型事例であり、固着による反復強迫が発生する。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

そしてこれを(構造的)外傷神経症と呼んでもよい。

(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーにもまつわりつかれている(備給されているbesetzt)こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。

ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)

⋯⋯⋯⋯

以上、このところ「自閉症」という語彙を頻用したが、現在、DSMで使われている「自閉症」と、フロイト・ラカン派における「自閉症」とは、かなり異なる内実をもっているだろうことを示してきた。それを明瞭に示さないままでラカン派が自閉症という語彙を使うのは知的犯罪行為である。

現在のDSMにおける「自閉症」は、ネット上にあるものでは熊谷晋一郎『当事者研究に関する理論構築と自閉症スペクトラム障害研究への適用』の冒頭に比較的詳しく書かれている。

統合失調症における自閉症という言葉の使われかたと、カナーやアスペルガーが用いた自閉症とは意味するものが異なる。後者の自閉症は発達不全であって、退行ではなく、幻覚妄想はあったとしても統合失調症と比べて貧しい。同一の用語を二つの異なる状況を表すのに使ったせいで、統合失調症と自閉症との関係について、初期は混乱が起きた。カナーの著作では「自閉」という用語の使用の由来について触れられていないが、アスペルガーの著作では丁寧にブロイラーの用語との異同が記述されている。 (熊谷晋一郎『当事者研究に関する理論構築と自閉症 スペクトラム障害研究への適用』)


基本的にはフロイト・ラカン派の自閉症とは(現在に至るまで)ブロイラーの自閉症に起源がある。事実、ラカン主流派では、分裂病的享楽 jouissance schizophrène と自閉症的享楽はほとんど同じ意味合い使われている場合が多い。後者のほうが重度(起源的)というだけである。《自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet》 (ミレール 、Première séance du Cours、2007)

外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生 Binnenlebens」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症(自閉性Autismus)と呼ぶ。

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.

Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

他方、DSMのほうは、熊谷晋一郎の言うようにカナー、アスペルガーの自閉症に起源がある(もっともこれ自体、異論があるのかもしれないが)。

⋯⋯⋯⋯

※付記

なおフロイトは、わたくしの知る限りでだが、「自閉」という語自体は二度しか使っていない。

外界の刺激から遮断された心的装置の美しい事例、(ブロイラー用語を使えば)栄養欲求さえ「自閉的に autistisch」満足をもたらすこの事例は、殻のなかに包まれて食物供給がなされる鳥の卵である。そこでは母の世話は、保温に限定されている。

Ein schönes Beispiel eines von den Reizen der Außenwelt abgeschlossenen psychischen Systems, welches selbst seine Ernährungsbedürfnisse autistisch (nach einem Worte Bleulers) befriedigen kann, gibt das mit seinem Nahrungsvorrat in die Eischale eingeschlossene Vogelei, für das sich die Mutterpflege auf die Wärmezufuhr einschränkt.; (フロイト『心的生起の二原理に関する定式 Formulierungen über die zwei Prinzipien des psychischen Geschehens』1911)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ーーフロイトには二次ナルシシズムと一次ナルシシズム概念があるが、ここでのナルシシズムは一次ナルシシズム(原ナルシシズム)である。

人間は二つの根源的な性対象 ursprüngliche Sexualobjekte を持つ。すなわち、自分自身と世話してくれる女性 sich selbst und das pflegende Weib である。この二つは、対象選択 Objektwahlにおいて最終的に支配的となる dominierend すべての人間における原ナルシシズム (一次ナルシシズム primären Narzißmus) を前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärerである。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

ーー「自我のナルシシズムは二次的なもの」とは「二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus 」(フロイト『新精神分析入門』1916年)という形でも表現されている。

そして分裂病と自閉症概念の創出者ブロイラーはこう言っている。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)



ドゥルーズ における自閉症の把握

既に何度かくり返し引用しているが、ドゥルーズから三つの文を再掲する。これらの文に(ラカン派の捉える)「自閉症」が既にある。

トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…このコンテキストにおける「自動反復 automatisme」という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

この三つの文からまず、「固着による反復=強制された運動の機械としての死の欲動」と読むことができる。

「自動反復 automatisme」とあるが、これは次のフロイト文からである。

…この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ドゥルーズの冒頭文に「トラウマに伴った固着と退行」とあるが、これもフロイトから抜いておこう。

◼️固着と退行
・リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

・実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917)


◼️トラウマへの固着
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…

これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

ーーこの「トラウマへのリビドー固着」が、ラカンのサントーム(=原症状)である。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,、L'être et l'un、 30/03/2011)

ラカンは、《症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)と言っているが、この症状はサントーム(原症状)のことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)

そしてミレール次の文で 「享楽は身体の出来事」というとき、「享楽はサントーム」と言っていることになる。

享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation (ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

ミレールは2005年のセミネールで次の図を示している。



ーーこれは右項が人の底部にあり、左項が上層部にあるという意味である。たとえば欲望は欲動(享楽)に対する防衛である。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)

ミレール簡潔版なら次の通り。

欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


話を戻せば、現在ラカン派では「トラウマへのリビドー固着」ことを、論者によって「享楽の固着 la fixation de jouissance」とか「享楽への固着 une fixation à une jouissance」等とも言うが、ようするに「享楽=サントーム=固着」である。

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (Jacques-Alain Miller L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、 2011)


さてここで「自閉症」である。

後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)

次の文は上の文の言い換えとしてある。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1 を通した身体の自動享楽 [auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2]に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)

ーー《S2なきS1 を通した身体の自動享楽 [auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2]》とあるが、これが自閉症的享楽である。

《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》とは、もちろんドゥルーズ文に出現した「自動反復 automatisme」、フロイトの(身体の)「自動反復 Automatismus」のことである。


ラカンはセミネール10の段階で、自閉症的享楽と身体自体の享楽を等置しているが、ここではミレールの簡潔版を引用する。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000年)

自閉症的享楽とは、自閉症における常同的反復症状という意味である。そもそも自閉症的享楽とは重複語であり、「享楽=自閉症的なもの」である。

ミレール派(フロイト大義派)の、おそらくエリック・ロランに引き続くナンバースリーのポジションにあるPierre-Gilles Guéguenは、これをとても簡潔に表現している。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


冒頭近くに引用した『意味の論理学』に、《強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である》とあったが、サントーム=自閉症的享楽が、反復強迫(死の欲動)であるのは、次の文章群が示している。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

以上、ドゥルーズが1960年代後半に既に「固着による反復=強制された運動の機械としての死の欲動」とフロイトから読み取ったのは、現在のラカン派から見ても、限りなく先見的で限りなく正しい。

⋯⋯⋯⋯

ラカン派観点から言えば、ドゥルーズの問題はガタリと組んだ後の「欲望機械」概念である。



もっともーージジェク等による厳しい批判があるにもかかわらずーー、別の捉え方がないではない。

ラカンには「二種類のサントーム」がある。ひとつは上に記した固着としてのサントーム(原症状)、そしてその原症状から距離を置くサントームである。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme?

症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

たとえばラカンは次のように言っている。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

父の版の倒錯としてのサントーム、ーー「欲望する機械」はひょっとしてこのサントームと捉えられないこともない。

最後のラカンにおいて⋯父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、2013、L'Autre sans Autre)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(JACQUES-ALAIN MILLER L'Autre sans Autre 、2013)

欲望機械はさておいても、1980年のリトルネロ。

リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ラカンにとって、 《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》 (S21, 08 Janvier 1974)である。

そしてこのララングとはサントームΣとほぼ等価である。

ララング lalangueが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは、母の言葉に根がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。(Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

今は簡略化して記すが、ラカン的に言えば、身体から湧き起こる内的カオスを固着するのが、まず原症状としてのサントーム≒リトルネロである。そしてそのサントームから逃げ道を接木するのが、父の名の倒錯としてのサントームである、ーーこう解釈しうるのである(参照:リトルネロとしての女性の享楽)。




⋯⋯⋯⋯

※付記

ここではサントームは死の欲動、つまり自閉症は死の欲動であることをみたが、死の欲動とは、外傷神経症でもある。自閉症は外傷神経症であることについては、「自閉症の最も深い意味」を見よ。




2019年6月29日土曜日

時代の病「DSMと自閉症」

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

⋯⋯⋯⋯

フロイトは『文化の中の居心地の悪さ』(1930年)にて、「文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften」のすすめをしたが、現在の精神医学界のバイブルであるDSM(精神障害の診断と統計の手引き)自体が、時代の病、新自由主義社会の病理でありうるという観点があることを以下に示す。

わたくしに言わせれば、たとえば現在の擬似風土病「自閉症」を流行させている精神医学界自体の病理を人は問わねばならない。





ーーこの図表は、もっともわかりやすいだろうモデル的表であり、調査の仕方によって数字の異同は若干ある。おおむねこの傾向だという形でとらなければならない。

ほかにもたとえばこういう指摘がある。

There has been a phenomenal increase in diagnoses of autism since the 1960s which has attracted the attention of many researchers ranging from psychiatrists and social scientists to literary analysts (e.g. Murray, 2008; Nadesan, 2005; Silverman, 2011). Victor Lotter's first epidemiological study of autism posited a rate of 4.5 per 10,000 children but a 2006 Lancet article claimed a rate of 116.1 per 10,000 children in the UK and this figure continues to rise (Baird et al., 2006; Baron-Cohen et al., 2009). Gil Eyal et al. have argued that, in the USA and many other western countries, diagnoses of autism rose after institutions for the ‘mentally retarded' were closed down in the 1960s and children were integrated into new educational and social settings (Eyal et al., 2010). Changes in diagnostic methods from the 1960s to the 1980s meant that autism came to be associated with ‘profound mental retardation and other developmental or physical disorders' thereby increasing the number of children who were considered to display autistic traits (Wing and Potter, 2002). This explains why diagnostic rates of autism did not increase as much in France, where there was no great release of ‘retarded' children from confinement in the 1960s and where children with developmental problems continue to receive institutional residential care up to the present day (Eyal et al., 2010). (Bonnie Evans, How autism became autism:  The radical transformation of a central concept of child development in Britain, 2013)

ようするにDSMの「自閉症」増加とは、アングロサクソン病なのである。

人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」12番)

アングロサクソン病、すなわち新自由主義病である。



◼️DSM
1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』)
英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「精神障害 mental disorder」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Bert Olivier, Capitalism and Suffering, 2015)
精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。(⋯⋯)

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007)
DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.……

DSM が臨床の現場に弊害を与えたとしたならば,それは第Ⅲ版ではなく,第Ⅳ版(1 9 9 4 )の時代ではないでしょうか.第Ⅲ版も第Ⅳ版も操作的診断学として,その基本骨格は同じです.しかし第Ⅲ版では, 「この診断マニュアルは,精神科の基本的診断ができるようになっている人が使用するように」 ,という但し書きが付けられています.つまり一定の臨床経験を積んだうえで使うものと位置付けられているのです.われわれもそれを確認して納得したものです.……

実は,第Ⅳ版にもそうした但し書きがいくらか記載されているのですが,たいていは無視されています.ちなみにその箇所を読まれた方はどれくらいおられるでしょうか.第Ⅳ版の時代になって,米国の精神医学は謙虚さを失いました.そして誇りと自信を失った日本は,それに唯々諾々と従っているわけです.……

…現在の診断学では信頼性が暴走しています.たとえば経験豊かな精神科医でも,駆け出しの研修医でも同じ診断にならなければならないというのは乱暴な話です.さらには臨床に携わったことのない研究者でも同じ診断になるならば,臨床知は捨て去られることになります.なぜなら,一致させるためには,低きに合わせざるをえないからです.こうした体たらくでは,素人にばかにされるのもいたしかたありません.(内海健「うつ病の臨床診断について」2011)


◼️自閉症
自閉症の領野の拡大するとき、結果として市場にとってひどく好都合な拡大が生じる。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Agnes Aflalo, Report on autism, 2012)
新自由主義の能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent, 2012)
自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。

生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。

生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両 親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子ど もが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになる でしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養 育法にたいする非難もなくなります。

しかし罪責感の問題は、実際はそれほど単純なもので はありません。なぜなら、遺伝子などの生物学的な原因が認められたとしても、親は子どもにたいして、たとえば不利な遺伝子的条件を与えたとなどいうことで罪責感をいだくようになると考えられるからです。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的 な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということ です。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されな ければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

2019年6月28日金曜日

ドゥルーズお遊戯会

君たちはたった一人だけでもヨーロッパにとって物の数にはいる精神を指摘することができるか? 君たちのゲーテ、君たちのヘーゲル、君たちのハインリヒ・ハイネ、君たちのショーペンハウアーが物の数にはいったように? ーーただ一人のドイツの哲学者ももはやいないということ、これは、いくら驚いてもきりのないことである。ーー(ニーチェ「ドイツ人に欠けているもの」『偶像の黄昏』所収、1888年)

⋯⋯⋯⋯

いまさらニーチェのように言ってもしようがないんだけど、最近日本でやったらしい国際ドゥルーズカンファレンスってのは学者ムラの学芸会みたいだな。なかよしこよしで、相互酷評なしでさ。ネットで情報をいくらか拾った限りでいうけど、すくなくとも火花の散る気配はゼロだね。互いの凡庸さを甞め合っているみたいで、あんなもんなのかね、会議って。

ああいった連中に求めてもムダなのは重々承知でいるけど、ドゥルーズが死の2年前次のように言ってもう30年近くたつんだな。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」)

ドゥルーズ派に美学系やらなんやらがいるの否定するつもりはないけど、なんで誰も『マルクスの偉大さ』を受け継がなんだろ? 世界的にまともにやっているドゥルーズ研究者っているんだろうかね、ボクにはラカン派のほうがずっとましにみえるな。

ためしに「マルクスの偉大さ」というテーマのドゥルーズカンファレンスやってみたらすぐわかることさ。きっと人材不在で、ラカン派を呼ばざるをえなくなるから。

たとえば1979年生まれのサモ・トムシック Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』(2015)とかさ(今年は『享楽の労働 The Labour of Enjoyment』(2019)も上梓されている)。

ジジェクはこう言ってるけどさ。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

いまドゥルーズ 研究者が真にやるべきことは資本主義批判しかないんじゃないか? 資本主義批判が紋切りというなら新自由主義批判だな、現在の世界はドゥルーズにどう見えるかをすこしでも問えば、必ずそこに行き着く筈だよ。

ま、ようするに、ドゥルーズ学者ムラってのは精神の中流階級ばかりだな

学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)

以下、冒頭のニーチェの柄谷・浅田版を掲げておくよ。

浅田) それにしても、こんなに人材が少ないなんて思ってた? ぼくなんか、同世代にもっと優秀な人材がいるはずだとずっと思ってたし、今も多少は期待しているけど……。

柄谷) 甘い(笑)。ぼくも昔はそう思っていて、もしかして俺が勝手に威張っているだけなんじゃないかと思ったりしたけどね(笑)。中上健次ともよくそういう話をしたことがあったけど、四五歳を越えたころにやっと見極めがついた。単に、いないんだよ。

坂本) 実際、世界的に見てそうだよね。

柄谷) しかし、世界的に人材が少ないとしたら、どうなってしまうのだろう?  

浅田) 人口だけは多い(笑)。

柄谷) たしかに、フランス現代思想がどうのこうの言ったって、ドゥルーズ、フーコー、デリダで尽きてしまうじゃないか? それも本質的には六〇年代の仕事だった。(……)

しかし、見方を変えれば、かれらの仕事もマルクス、ニーチェ、フロイトの延長上にあるわけだし、ああいうものはずっと古びないとも言える。いまだにマルクスを批判していればいいと思っているやつがいるけどね。

浅田) 共産主義が崩壊した以上、反共ということにはもう意味がない。資本主義が全面化した以上、資本主義をいちばん鋭く分析したマルクスの仕事が残るにきまっている。(座談会「悪い年」を超えて」坂本龍一・浅田彰・柄谷行人『批評空間』1996Ⅱ-9)

⋯⋯⋯⋯

柄谷やジジェク(浅田にもいくらかある)というのは、ラカン的に言えば、1968年、さらに1989年以降はことさら次の図の右項から左項に支配的イデオロギー(支配的非イデオロギー)は移行したということを言い続けている。





そして左項ではダメだと。もちろん右項に戻れとは言っていない。柄谷の言い方なら「超越的理念」にかかわる右項ではなく超越論的理念=統整的理念が必要だと言っている。たとえば柄谷行のいう「帝国の原理」とはその意味である。これは、ラカン的に言えば、《人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.》(ラカン, S23, 1976)だ。

左項はいっけんよさそうに見える、関係性、差異性、単独性等々。だがこれは資本の論理でもあるということ、《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。》(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談、1990)

私が気づいたのは、ディコンストラクションとか。知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

たとえばドゥルーズの「脱領土」やら「機械」やらの概念は、《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁する》ものでしかない、と暗に言っていることになる。そもそも「脱テリトリー化」(déterritorialisation) ー「再テリトリー化」(reterritorialisation)の運動ってのはモロ「資本機械」運動だよ。

ドゥルーズとガタリによる「機械」概念は、「転覆的 subversive」なものであるどころか、現在の資本主義の(軍事的・経済的・イデオロギー的)動作モードに合致する。そのとき、我々は、そのまさに原理が、絶え間ない自己変革機械である状態に対し、いかに変革をもたらしたらいいのか。(ジジェク 『毛沢東、実践と矛盾』2007年)

機械概念等がまだお好きらしいドゥルーズ派はすくなくともこれと闘うべきだと思うがね(参照:資本の言説の掌の上で踊る猿)。



自閉症の最も深い意味

まず前回も引用した自閉症概念の創出者ブロイラーの文を掲げる。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

ーーブロイラーはフロイトの「自体性愛」概念では誤解を招きやすいので、「自閉症」概念を造語したと捉えてよいだろう。すくなくともここではそう捉えて話をすすめる。

ブロイラーが上のように記す前の、フロイトによる自体性愛をめぐる記述をひとつ掲げておこう。

自体性愛Autoerotismus。…この性的活動 Sexualbetätigung の最も著しい特徴は、この欲動 Trieb は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

そして10年後にはこう言っている。

愛Liebe は欲動興奮(欲動蠢動 Triebregungen)の一部を器官快感 Organlust の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にはナルシズム的 narzißtisch である。(フロイト『欲動とその運命』1915年)


この自体性愛はラカン的な言い方なら次のようになる。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

プラトンの名が出てきた。今、わたくしが記しているのは導入のための前段であり、いささか長くなりすぎてしまうが、次の二文をつけ加えておいたほうがいいだろう。

哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


⋯⋯⋯⋯

さて本題である。

自閉症とは自体性愛であり、かつまた原ナルシシズムであることを、「私は本当に自閉症的です」にて見た。ラカンは自閉症をめぐって次の表現の仕方をしているのも見た。




そして自閉症Autismusとは語源的には「自己状態」ーーギリシア語の autos(自己)と ismos(状態)を組み合わせた造語であるのを「非自閉症者こそビョウキ」で見た。

そしてこの伝でいけば、自体性愛Autoerotismus とは、「自己エロス」と言い換えうるだろうことも示した。

ところでラカンはこうも言っている。

《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、己れの欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)

さて、「自己状態の最も深い意味は、 己の欠如だ」と言いうるだろうか? これがここでの問いである(あくまでフロイト・ラカンの文脈においての話であり、自閉症の原因は遺伝子的障害やら脳の損傷やらと言っている最近のDSMの考え方は脇に置かせていただくことにする)。

⋯⋯⋯⋯

フロイトは「自閉」という語を二度しか使っていない(わたくしの知る限りでだが)。

外界の刺激から遮断された心的装置の美しい事例、(ブロイラー用語を使えば)栄養欲求さえ「自閉的に autistisch」満足をもたらすこの事例は、殻のなかに包まれて食物供給がなされる鳥の卵である。そこでは母の世話は、保温に限定されている。

Ein schönes Beispiel eines von den Reizen der Außenwelt abgeschlossenen psychischen Systems, welches selbst seine Ernährungsbedürfnisse autistisch (nach einem Worte Bleulers) befriedigen kann, gibt das mit seinem Nahrungsvorrat in die Eischale eingeschlossene Vogelei, für das sich die Mutterpflege auf die Wärmezufuhr einschränkt.; (フロイト『心的生起の二原理に関する定式 Formulierungen über die zwei Prinzipien des psychischen Geschehens』1911)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

先に掲げた文を、フロイトの死の枕元にあったとされる草稿の次の文とともに読んでみよう。

子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着 Anlehnung に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)

ーー《原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung》とある。これを「自閉的リビドー備給」、あるいは「自己状態的リビドー備給」と言い換えてみることにする。

人はみなこの「原ナルシシズム」=「原自己状態」を取り戻そうとするというのがフロイトの考え方である。

自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズム(一次ナルシシズム)を取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

原初から既に何かが喪われているのである。「自己状態」には原喪失がある。

この原喪失は去勢(原去勢)とも呼ばれる。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、身体自体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller, Introduction à l'érotique du temps、2004)

ーーここでミレールが言っている《身体自体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre 》は、次の文とともに読むとよりわかりやすい。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

さて先に言ってしまえば、自閉症の根、自己状態の根には、己れの身体の去勢があり、その去勢の廻りの反復強迫運動があるのである(後詳述)。冒頭近くに掲げた問い「自己状態の最も深い意味は、 己の欠如だ」における己の欠如は、「己の去勢」と言い換えておこう。

フロイトによる去勢の最も簡潔な定義は次のものである。

去勢 Kastration とは⋯、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

以下、ヴァリエーション文を三つ掲げよう。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚 Empfindungen の源泉としての外界を区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、自分の興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自分自身の身体器官 seine Körperorgan に他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)

己の身体器官であったと感じていたものが外部に離れてしまう。そして己の身体器官の窮極のものは「母」である。この「母なるものからの分離」、これが去勢の第一の意味である。すべての幼児はそう体感する筈だ、というのがフロイトの思考である。これを「喪われた自己状態」と呼んでもよいだろう。

ラカンはこの「喪われた身体としての去勢」について、《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》ともいい、その対象の廻りの循環運動を対象aの最も基礎的定義としている。

我々は、欲動が接近する対象について、あまりにもしばしば混同している。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


この表現はフロイトにもある、《喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objekts》と。

母という対象 Objekt der Mutterは、欲求Bedürfnissesのあるときは、「切望sehnsüchtig」と呼ばれる強い備給Besetzungを受ける。……(この)喪われている対象(喪われた対象)vermißten (verlorenen) Objektsへの強烈な切望備給 Sehnsuchtsbesetzungは絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給 Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle と同じ経済論的条件 ökonomischen Bedingungenをもつ。(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ーーこの文における《負傷した身体部分への苦痛備給》と同等のものという表現に注目しておこう。ようするに「外傷的なもの」へのリビドー備給ということである。


さてここまでの記述引用から、自閉症(自己状態)・自体性愛・原ナルシシズムの底には、原初に喪われた対象(去勢)があり、そして自閉症的享楽(常同的な身体の反復享楽)とは、そのまわりの反復強迫だということになる。





反復強迫とはもちろん死の欲動(死の本能)のことである。

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

事実、フロイトはナルシシズム的リビドーと外傷神経症を結びつけて語っている。

(精神分析において)決定的な役割を演じたのは、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーにもまつわりつかれている(備給されているbesetzt)こと、事実上、自我はリビドーのホームグラウンド ursprüngliche Heimstätte であり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地 Hauptquartier であることが判明したことである。

このナルシシズム的リビドー narzißtische Libido は、対象に向かうことによって対象リビドー Objektlibido ともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。

ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症 traumatische Neurose、数多くの精神病に境界的な障害 Psychosen nahestehende Affektionen、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第6章、1930年)

以上より、自閉症もしくはその常同的反復症状ーー《身体の自動享楽 auto-jouissance du corps》(ミレール、2011)--は、外傷神経症とすることができるとわたくしは考える。簡潔に言えば、自閉症は外傷神経症である。

この言い方が奇妙なら、自閉症とは、人がみなもつ「構造的」外傷神経症、と補足的に言い直してもよい。それは通念としての「事故的」外傷神経症に対してである。

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997ーー構造的トラウマと事故的トラウマ

ジャック=アラン・ミレールからも二文引用しておこう。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ミレール、Vie de Lacan、2010)
分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)

《トラウマ化された享楽》とは、上に引用した《ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった》(ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)を援用していえば、「トラウマ化された身体」と言い換えうる。さらにつけ加えれば、「トラウマ化された自己状態」と。

ラカンは身体は穴だ(1974)と言っている。ラカン用語において穴とは、《穴=トラウマ(troumatisme 》のことである (S21, 1974 )。


さて以上の記述より、「人はみなトラウマ化された自閉状態をもっている」と言えないだろうか? そして、われわれの生はこの自閉状態に対する防衛である、と。--《我々の言説はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である》(ミレール、 Clinique ironique 、 1993)。防衛の巧拙が、人がみな根底にもっている自閉状態顕現の有無にかかわる、と当面言っておいてもよい。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007

※ラカンにおいて現実界とは事実上、トラウマ界である(参照)。

フロイトのいう「身体的なもの Somatischem」ーーラカンの言い方なら「欲動の現実界 le réel pulsionnel 」ーーに対する防衛の手段は主に言語である。もっとも防衛しすぎると、人はニブクなってしまうことを強調しておこう。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

以上、フロイトやラカン派注釈を追ってゆけば、このように解釈されうるということを示したまでであり、現在の「自閉症スペクトラム」概念等とどう繋がるのかは全く不明であるのを断っておかねばならない。

 ⋯⋯⋯⋯


※付記

ジャック=アラン・ミレールは次の文が後期ラカンの鍵とくり返し強調している。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

ようは「リビドー固着=サントーム」(参照)による反復強迫であり、サントームは外傷神経症のことである。ここでの固着あるいはサントームとは原症状という意味である、ーー《症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme》(コレット・ソレール、 Les affects lacaniens , 2011)。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
サントームsinthomeは、…反復的享楽 La jouissance répétitiveであり、…身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)

そしてサントームの享楽は自閉症的享楽である。

自閉症的享楽としての身体自体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。
Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)




2019年6月27日木曜日

非自閉症者こそビョウキ

自閉症ってのは、訳語が悪いんだよ。

「自閉症」と訳される Autismus は、ギリシア語のautos(αὐτός 自己)と ismos(状態)を組み合わせた造語、つまり「自己状態」。だいたいときに「自己状態」にならなくってどうやって生きていけっていうんだい? 「自己状態」に縁のないらしい非自閉症者こそビョウキだよ。

「自分状態」は本来、「閉じる」の意味はない。エディプス的父の隠喩に支配された言語秩序の「タガメ」によって「閉ざされている」のは、むしろ標準的な神経症的主体のほうさ。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S3、1956)

そもそもマガオで役にも立たない論文形式の書物を連発してる学者種族ってのは、まともな人間だったらビョウキと判断するに決まってるだろ。ラカン派にも若いもんのなかにそんなヤツがいるが、よっぽど「人はみな妄想する」が好きなんだろうよ。ま、エライことはエライがね、最初にボク珍の書物は終生すべて妄想です! って宣言したようなもんだからな。こういうヤツが「ドゥルーズと自閉症」とか言っているらしいが、ワラケルぜ。

知の領域における父性原理の権化ともいうべき論文形式、後年のバルトは終始痛烈な異議申し立てをおこなった。後年のバルトにとって、論文形式は「戯画」であり、「ファロス」なのである。(花輪光「ロマネスクの作家 ロラン・バルト」)

大切なのは、バルトのいう自閉的な「身体の記憶」のみに依拠したエッセイやら小説やら詩やらを生むことなんだがな。

匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps。(ロラン・バルト「南西部の光」)

これこそ真に「自分状態」を愛したエッセイストの決定的叙述さ。エッセイスト → アマチュア → アマトゥール(愛し、愛し続ける者)。

フロイトの自体性愛というのも本来、自己エロスと訳すべきであり、これこそ自閉症概念造語者ブロイラーの言っている真の意味合いだ。

自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


ところで晩年のラカンにとって、神経症ってのは「究極の父の版の倒錯者」なんだけどな、でも連中は自分はまともだと思っているからトッテモ厄介なんだ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、1975)

非自閉症者は「善人」と呼ばれることもあるらしいがな。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)
私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。(坂口安吾『蟹の泡』)

ニーチェはこの善人を美しい魂と呼んだのさ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ『この人を見よ』)


2019年6月26日水曜日

私は本当に自閉症的です

樫村晴香)自閉症だと、幻想の皮膜が自己の身体表面までしかない。それと反対にあなた(=保坂)の作品は、世界全体が自己の幻想の外延と重なって、他者の悪意を登記する装置がなくなるように感じる。一方、私は本当に自閉症的で、幻想は身体表面までしかなく、その外側は完全に言語野で抑えようとする。(「自閉症・言語・存在」保坂和志『言葉の外へ』所収)

⋯⋯⋯⋯

最近の日本では、「ドゥルーズと自閉症」などと言っている連中がいるそうだな。

樫村晴香を想い出しちゃったよ。

現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dz のある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?)

諸悪の根源は、DSMの「自閉症スペクトラム」概念なのだろうが(参照:「自閉症」増大という新自由主義のやまい)、それは差し置いても、神経症ドツボの連中がド不感症はしょうがないにもかかわらず、ホントにマが抜けてるやつばかりだな。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

ーーやあよかったな。ボケのせいで優位に立てて。

でも中原中也=宮沢賢治が「自閉的なるもの」の定義をすでにしてしまっていることにはまったく不感症なんだろうよ。

彼は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分だつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、--つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。(……)彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のままで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白さへすればよかつたのです。(中原中也「宮沢賢治の死」昭10.6)

ーーこれが「自閉的なるもの」を言っているだろうことは、のちに引用する樫村を読めば、いっそう瞭然とする(もっとも神経症連中は、樫村の文と闘えるものなら闘ったらいいさ)。

なにはともあれボケ連中は、自閉症概念を「思想的あるいは哲学的に」ふりまわすのはやめといたほうがいいんじゃないかな、限りなく遠いポジションにいるんだから(治療者は別だけどさ、神経症ドツボの臨床家でも患者に応じなければならないのだから)。

私がもっと精神病的だったら、おそらくもっとよい分析家になれたのだが。Si j'étais plus psychotique, je serais probablement meilleur analyste.(ラカン、Ouverture section clinique 、1977)

ーーここでのラカンは分裂病を精神病の下位分類として扱い、分裂を含めて精神病として語っている。





上の分裂病と自閉症の区分は、この二つの概念造語者ブロイアーのもので、ここから現在はDSM的概念変貌があるのだろうけど、基本はこれだよ。《自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet 》(ミレール 、Première séance du Cours、2007)。もっとも現在のラカン派は、分裂病はすでになんらかの形で「主体の故郷である自閉症」に対する防衛があるという観点が主流。

外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生 Binnenlebens」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症(自閉性Autismus)と呼ぶ

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.

Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)

ブロイラーはそれまでの「早発性痴呆」という語を言い換えるために「分裂病Schizophrene」という語を作り出した。同じくブロイラー概念「自閉症Autismus」はもともと、分裂病の四つのの「基本症状」の一つを記述するために用いられた言葉。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。(中井久夫「関与と観察」2002年)



先に掲げたブロイアーの文には次の註が付いている。

註)自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


ラカンの自閉症という語の使い方は、この「自体性愛 Autoerotismus」がベース。

(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号(去勢記号)は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー身体自体の水準において au niveau du corps proper
ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire
ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme
ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)

後年のラカンはこれらの表現群を、「自ら享楽する身体」としている。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972)
自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「(ミレール, L'être et l'un、2011)

先に引用したセミネール10「不安」に戻れば、原ナルシシズムとあるのは、フロイトがこう言っているから。

ナルシシズム精神神経症 narzißtischen Psychoneurosen、つまり分裂病 Schizophrenien(フロイト『欲動とその運命』1915年)
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen — Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

あるいはこうもある(その他もろもろは→ 参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群)。

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

いまこの話がしたいわけじゃないから、ここでは飛躍していうけれど(ほんとは自閉症の底にある「去勢」が肝腎なのだけれど)、欲動あるいは享楽とは「自閉症=身体の自動反復」のこと。

(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれ年を「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ま、これらはあくまでラカン派の捉え方だから、DSM的自閉症概念をこねまわしてなんたら言っているんだろうがね。

それはそれでいいさ。でもせめてわが樫村ぐらい処理してから物を言ったほうがいいんじゃないかね。それともやってんだろうか?

だったら(思想的・哲学的には)、「ドゥルーズと自閉症」を言うまえに、「ニーチェと自閉症」と先に言った方がいいんじゃないかな。

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年ーー心は身体に対する防衛である


そもそも神の死をいう者、大他者を徹底的に疑う者はみな「自閉症的なもの≒身体的なもの」にいきつくんじゃないか、とかね。つまりまともな「哲学者」は、本質的に自閉症を問うことになると。

デカルトの「私の肉体meinen Leib」にたいして…ハイデガーの現存在 Daseinには疑いなく「肉体chair」はない。Cette chair est sans doute gommée dans le Dasein heideggérien (ミレール 、L’inconscient et le corps parlant、2014)

さらに言えば、非自閉的な「真の詩人」なんているのかい、と。この記事はじつは宮沢賢治ぞっこんの詩人暁方ミセイの「私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね」の続編としても記している。


◼️ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点 (樫村晴香)

永劫回帰の総体は、彼に悪魔の囁きという、思念的‐聴覚的な、ひとつの現実的「体験」と して訪れた。ある晩、悪魔が彼の孤独に忍び寄り、これまで生きたこの人生を、さらにまた無限回、何一つ新しいものなくくり返さねばならないことを語りかける。この瞬間の眼前の 蜘蛛も、梢を洩れる月光も、悪魔の声も、あらゆるものが細大漏らさず回帰するだろう。こ の同じことを、何千回となくくり返し欲し続けるためにのみ、人は自らの存在と人生を、さらに愛さねばならないというのだろうか?……。

もし人がニーチェの言葉に直接耳を傾ける なら(つまりハイデッガーのそれも含めて、解説書を通じて何かを「理解」しようとしないな ら)、この体験が「真実」であり、そこには表現の一語一句が代置不能な価値をもつ、緊密な「物理的実在」が存在し、その実在的力によって、啓示‐伝播の最大限の魅惑‐暴力が駆動することが、了解されるだろう。体験が「悪魔」の「声」を通じて到来したこと、すべてが 「無数」に到来し、それが「苦痛」をもたらすこと、そして眼前に「蜘蛛」と「月の光」が「見える」こと。これらすべてが固有の理論的‐実体的(症候的)価値をもち、しかもそれらは狭い意味での発症過程の症候的要素というのではなく、そこに至る彼の、ディオニュソス、偽装、 真理の転倒、善悪の彼岸、力‐意志、といった「明晰な思考としての症候総体」の一過程としての、(表現‐表象ではなく)内実そのものとして立ち現れる。

彼は Dz(ガタリ‐Dz)のように諸差異の肯定‐欲望を称揚するのでなく、「再び欲望する」ことがいかに「困難」かを述べている。なぜなら(クロソフスキ ーもまた別の仕方‐病でそれを体験したように)永劫回帰において、実際に人は「無数のもの」を完全には忘れていないからであり、それは(彼が最後の明晰さの中で「歴史上すべての名は、私であった」と語ったように)人格的同一性の解体に帰結するが、しかし愛すること、欲することは、自己、他者、および両者の関係の想像的恒存性=幻想に由来し、その 幻想的誤認は、無数の諸差異の忘却を基礎づけ、かつ忘却に依存するからである。

無数のものとは、実際は全く同じ体験の再帰ではなく、今日の月、昨日の月、一昨日の月という無数のもの、さらには一瞬ではないこの今に、刻々と参入するこれら無数の月である。人 が知覚の場におとなしくいる限り、事実けっして同じではない無数の月(の入力)は、一つの月として出力される。実際犬でさえ、無数の肉片を同じ肉として認識‐記憶し、それができなければ淘汰される。ニーチェがくり返しいうように、同一性‐認識‐目的は、「微細な美的感覚をもつ貴族でなく鈍感な下層階級を繁殖させる」ダーウィン的‐遺伝子的原理によって、最終審級で支えられる。

とはいえ現実にニーチェを直接読解しない者がおり、社会のほとんどの者が神経症者であるとすれば、哲学教師風の解説書はやはり必要なのだろうか? しかし事態はそのように単純でなく、Dz のある種の啓蒙的スタイル(確かにそのせいで彼の本はクロソフスキーの数倍読まれたが)は、彼が幻想(永劫回帰)に対してもつ、ニーチェとは異なる固有の位置関係に由来する(そしてこの問題の責は、結局ベルグソンに帰せられるべきように思われる)。

ニーチェの「批判哲学」が対象への憐憫と郷愁そして無関心、他方での尋常でない狂暴さという不均衡を露にするのに対し、Dz の言説が全く穏便であり、しかしその展開において、常に想定された批判対象への備給を続ける執拗さをもっていることは、歴然たる違いである。これは 結局、ニーチェが自己の体験‐実体に魅惑、というより蹂躙されていたのに対し、Dz がニ ーチェの体験‐言説に魅惑されていることの違いに回付される。人が「言説」に魅惑される限りで、思考の主体としての能動性(つまり批判的思惟)は放棄されず、魅惑の対象に対する受動性は、受動=能動という一体として可能となる。つまり魅惑されること(=幻想)という受動性が、思考‐批判という(魅惑するものの否定的対立物に向かう)能動性と、同じ領野に属し、相互に結合可能となる。

例えば分裂病者が「正月とは全身の毛を剃ることです」 というとき、それは比喩‐隠喩ではなく、本当に正月の意味内容とは「全身の毛を剃る」身 体作用なのだと理解せねばならない。

ここでニーチェとハイデッガーの位相の相違を端的に確認すると、まずニーチェの言説は、 厳密な意味で隠喩とよぶべきものと無縁である。一見した水準でも、既述のごとく、彼の作 品は一つの体験という要約不能な実体であり、そこでは眼前の蜘蛛や水道栓のたてる音、 プラトンが与える憂鬱さ等は、すでに獲得された観念を比喩する表象ではなく、そういった 観念、表象のオーダーそのものから「その彼方へと遠ざかっていく物理的な感覚」の直接 的提示として機能する。

ここで隠喩という機能の内実を確認しておこう。まず隠喩とは、基本的にすでに獲得された意味内容‐抑圧物を表象し回帰させる作用である。しかも厳密な意味での隠喩とは、いったん獲得‐抑圧された意味内容‐抑圧物‐外傷を示唆すること で、不快な抑圧物を再帰させて主体を原初的な反復‐攻撃の体勢に退行させ、その上でさらにそれを隠蔽‐回収してやることで、主体を原初的‐想像的な「よき他者」の前に再帰させ、幻想を補強するような言葉である。例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただ しい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、し かし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残して いく。この開示/隠蔽という対立(「純粋な矛盾」)が「悦楽」を生産していく過程は、いうま でもなくハイデッガーのアレーテイアの開示/隠蔽が、同様に帰属するオーダーであり、 そこで矛盾‐運動‐振動とは、抑圧物の再帰とともに駆動する不安と、それを押し止める他者‐力との間の、基本的に幻想的‐想像的な対立として駆動する。

これに対し、ニーチェを襲う強度‐反復としての運動‐拍動は、幻想の保護の向こう側で、主体が全くの異物としての現実‐悪しきものに直面し、それを反復=模倣=攻撃しつつ、主体としては解体していくよ うなオーダーに帰属する。それゆえ、ニーチェ的永劫回帰では、感覚と気分の結合‐再帰 ‐意味は最終的に不能であり、それゆえ矛盾=対立もまた、異なるものの結合‐同平面化を 前提とするゆえに存在しない。それに対しアレーテイアのオーダーでは、抑圧物(死)の回帰は、常にすでに幻想‐他者の力(隠喩の力)によって過ぎ去ったものとして幻想の内部で生じるので、そこでは疎通不能性‐無数性ではなく、幻想的な力に帰属するものとして の、一つの対立こそが問題となる。つまり対立‐振動あるいは平衡する緊張は、多様な場に発見されつつも、常に同じ一つの不安と、不安への同じ一つの闘いである。あらゆる存在者の下には、それを可能にしている力の均衡、「聖なる神殿が岩石から引き出す、無に 押し込められて支えるということの暗さ、さらには自らをよぎる嵐の暴力」が発見されるが、 それは結局、隠喩‐幻想(聖なる神殿)によって開示‐遂行‐終了される、抑圧物(重力、嵐) をめぐる同じ一つの拮抗である。

例えばニーチェの永劫回帰は、 Dz の「理論構造」から判断する限り、永劫回帰の隠喩として受容‐処理されているが、現実には、Dz はすべての言説を、隠喩ではなくそれこそ「音楽を聴くように」、または小説のエクリチュールを読むように、「半覚醒的に」受信していたのだろう。そしてその感覚があればこそ、意味作用を完全に確定することなく宙吊りにし、理論的分節を半ば未確定に開いたまま次々進み、個々の論点相互の差異へは鷹揚なまま、すべてを取り入れ絶え間なく移動していく、増殖するエクリチュール‐小説のごとき彼の記述スタイルが可能になる。こ の半覚醒性において、意味作用は言葉が記憶=意味内容に十全に回付=変換される過程 にではなく、言葉に次の言葉が重なり、ずれ合い、その相互の差異が直接に生み出す共 鳴に、帰属する。子供が泣き、豚が叫び(キャロル)、Kの分身の学生が走り、廷丁が走る (カフカ)。意味はそれぞれの言葉がもつ記憶にではなく、言葉(セリー)相互の間の表層にあり、それは反復される音楽のテーマ間の差異‐変奏、揺れる木の枝の一瞬ごとの差異 ‐移動と同じである。それは差異というより「微分」であり、その概念にこそ Dz の内発的感覚がある。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか? 強度=差異、および二重のセリーの理論の問題点』)

ーー以上、偏向記事でした。


2019年6月25日火曜日

二艘のけなげな船






エベーヌカルテット Quatuor Ebèneによる2010年のコンサート、ラヴェルの弦楽四重奏曲第一楽章が終わった後の、第一ヴァイオリンのピエール・コロンベ Pierre Colombet ヴィオラのマチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog の表情である → Ravel, Cuarteto - Quatuor Ebene

⋯⋯⋯⋯でも第二楽章は気合いを入れ直して、ああなんという愛すべきピエール・コロンベ!と言わざるをえない。13:30あたりからのピアニッシモの箇所もやたらにいい。他方、マチューはいくらか眼高手低じゃないかな。彼はだからエベーヌから抜けて指揮者に向かったってやむえないさ。


ゴダール、Hélas pour moi (1993年)

ここでゴダールついでに(?)、ニーチェも引用しておこう。

わたしたちは友人だった。それから疎遠になった。しかし、それは当然のことなのだ。わたしたちはそのことを、はずかしがって隠したり、ごまかしたりしないだろう。わたしたち二人は、それぞれに別の航路と目的地をもった二艘の船なのだ。いつの日かわたしたちの航路がまじわり、昔そうしたように、二人して祝祭を催すこともあるだろう。―――あのころ、二艘のけなげな船は、同じ港で同じ陽をあびて、肩を並べて静かに横たわっていた。まるでもう目的地に着いたかのように、目的地がひとつであったかのように見えた。しかし、やがて効しがたい使命のよびかけにうながされて、わたしたちは再び異なる海へ、異なる海域へ、異なる太陽のもとへと、遠く離れることになったのだ。―――あるいはもう二度とまみえることがないかもしれぬ、もう一度まみえることがあっても、お互いがわからないかもしれない、異なる海と太陽が、わたしたちをすっかり変えてしまっていることだろう。(ニーチェ『悦ばしき知識』第279番「星の友情 Sternen-Freundschaft」)


ピエール・コロンベは、とてもよくきかれている Hagen Quartet の第一ヴァイオリン奏者よりはずっといいよ(すくなくとも Assez vif. Très rythmé では。ほかなんかドウデモイイヤ)。でもコロンベ以外は、つまりエベーヌの他のメンバーは、Hagenのメンバーよりもちょっと劣るかもな、とくにヴィオラとかチェロとかさ(いまテキトウに言っているからな。フロイトがいうように愛とは排他的なものさ)。






いやあ、ピアニッシモの美がぜんぜん違うねLukas HagenPierre Colombet 13:30では。 



2019年6月24日月曜日

エベーヌのアツい男たち

前回、エベーヌのプレストを貼り付けたのだけれど、なんだか考え込んじゃったよ。






第1ヴァイオリンのピエール・コロンベ Pierre Colombet はとても魅力的な演奏家でこの5年ぐらい前から彼のファンなんだけど(というかビオラのマチュー・ヘルツォクもいい男でそれもふくめてエベーヌの大ファンなのだけれど)、過剰なアツサで前のめりになり過ぎたりアンサンブルのバランスを崩すということが時にあるのかもしれないな。


エベーヌカルテット Quatuor Ebène は、15年来のメンバー、ビオラのマチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog が2014年にグループから離れた(彼は現在指揮者をやっている)。


なぜ抜けてしまったのか、とても惜しまれると素朴に思っていたが、すこし考えてみれば、若く熱い魂が15年もいっしょにやっていれば1人ぐらい抜けるのも当然ありだな。

遠い視野。――甲。しかしこの孤独はどういうわけだろうか? ――乙。僕はだれに対しても怒りをもたない。だが僕は、友人たちと一緒にいるときよりも、ひとりでいるときの方が、彼らを一層はっきり美しく見るように思われる。そして僕が音楽を最も愛し、感じたとき、僕は音楽から離れて生活していた。物事をよく思うためには、遠い視野が僕には必要に思われる。(ニーチェ『曙光』485番)





ーーいやあピアソラのこの曲ってこんないい曲だったんだな、なんたって冒頭のクラリネットが遠くからやってくるようでうますぎる。


 Mathieu Herzog の後釜は、約3年のあいだ Adrien Boisseau だった(彼は今ソロ奏者をやっていて内田光子との共演もある)。そして2017年からマリー・シレム Marie Chilemmeである。





マリー・シレム Marie Chilemme は以前もほかのカルテットのメンバーをやっていてとっても上手いんだけど、とはいえマチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog が抜けた穴は大きいんだろうな。

美人で、カルテットに1人か2人女性がいるのはとってもいいんだけどさ。

こんな映像があってなかなかツワモノみたいだね。





チェロのラファエル・メルラン Raphaël Merlinなんかは、だいぶアブナイんじゃないかな。いやいや全アブナイかもな。





(以下略)

・・・マチュー・ヘルツォク Mathieu Herzog は、Ensemble Appassionatoを2015年に創設して、最近の映像をみると、エベーヌの第二ヴァイオリン奏者ガブリエル・ル・マガデュール Gabriel Le Magadureも参加している(コンサートマスターで)。






マチューはトリュフォーの映画に出てきそうな人を惹きつける情熱キャラで、Ensemble Appassionatoはこれから売れるんじゃないかな(このモーツアルトの40番は長いあいだ聴いていなかったのでエラそうなことは言えないが、記憶にあるのとは違った音がきこえてくるな、ここでも41秒あたりからのクラリネットだ)。

で、ガブリエル・ル・マガデュールもエベーヌから抜けてしまうなんてことはないんだろうかな。

四つのプレスト






花咲くスミレの墓地で
わが馬ニコルスは快心の脱糞する

ーーわが馬ニコルスの思い出|吉岡実






ときには
バラ色の海綿体へ
沈みつつ
犬の四つ足で踊ること

ーー青い柱はどこにあるか?|吉岡実






紫紅の下着の
女生徒たちのハイキングの賑わいよ!
白いストッキングに覆われた
かたい両腿の跳ねるたび
わが馬ニコルスは呼吸を止め
歓喜し熱い鉄の蹄鉄をはめて
ずーっと遠景までシナゲシを越え
水晶を砕く






わが馬ニコルスのキララで包まれた陰頭が青空へせり上る
痛みの金櫛でこすられて
自立し
転調する
……
わが馬ニコルスはギャロップ!

ーーわが馬ニコルスの思い出|吉岡実




2019年6月23日日曜日

私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね


ビリジアンを刷きつけた山肌が
暮れかかり
より一層、迫ってくると
月明かりでざわつく樹冠のからす
いよいよ大きな
熟れた虹雲があたり全部を呼吸する
紙っぺらになったひとびとは
急行列車のあかるい窓を
しかくくストロボのように動きまわり
ぎこちない仕草で座ったり立ったり
車内では蛍光灯のじりじりした
輪郭が滴って溶けている
けれどもひとびとは
乗客のなかに引きこもっているから
けして
私の輪郭がいま、半分ほどは空気にほどけましたね
などと思いもよらない

(そして山々は一層よるのなか
電車と窓とお月様だけが
切り取られたあやうい
まっきいろな
狭小時間の高密度な額縁だなんてこと
まさか月も乗客も
わかっているまい)

ーー暁方ミセイ「月と乗客」より(『紫雲天気、嗅ぎ回る』所収)


ミセイちゃんってとってもいいなあ、ほれぼれするよ。この21世紀にこんな詩人がいるなんてな。







トン、トン、と音がする
    さみしくないか、
    さみしいよ
  さみしいならなぜ行く
わたしはさみしさを使いきらねばならないからです  

ーー「七月三十日」より


■こたに わりやの ごとばかりで「空獣遊山」(2018.05.04

わたしは自分のことにしか興味がないのかもしれない。

それは本当に、大変、嫌気がさすけど、まあそうなんだろうなあ…。

でもだからって自分のことばかりを考えるのは少しも気分がよくないんだよなあ。

この与えられた五感を取り巻く季節や風や光や霧のこと、空の雲のことを考え、自分は目や耳や鼻だけになってしまって、浸るのがたぶん小さい頃から一番好きなことだったんだけど、

それはなんで好きだったんだろう。


2019年6月22日土曜日

おじいちゃんごめんなさい

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて

ーー谷川俊太郎「さようなら」より  

⋯⋯⋯⋯

いやきみ、わたくしはもう下界の話には飽きたのである。

くりかえすが、日本社交界における真の論点はこれしかない(より詳しいデータは、「逃げ切れない世代」で示した通り)。




これをじっくり眺めれば、こうせざるをえないのである。





賃金対比でみた給付水準(=所得代替率)は、現役世代と引退世代の格差―老若格差―と言い換えることが可能である。この老若格差をどうコントロールするかが、社会保障給付をどれだけ減らすか(あるいは増やすか)ということの意味と言ってよい。少子高齢化の傾向がこのまま続けば、いずれは就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人、つまりマンツーマンで 65 歳以上人口を支えなければならなくなる。これまで 15~64 歳の生産年齢人口何人で 65 歳以上人口を支えてきたかといえば、1970 年頃は 9 人程度、90 年頃は 4 人程度、現在は 2 人程度である。医療や年金の給付が拡充され、1973 年は「福祉元年」といわれた。現行制度の基本的な発想は 9 人程度で高齢者を支えていた時代に作られたものであることを改めて踏まえるべきだ。 (「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)


ようするに、種々の要素をはぶいて最も単純モデルとして示せば、次のようになる。






もうすこし正確に知りたければ、たとえば次のようになっている(これでも十分ではないが)。







とはいえ人はまず、小学一年生でもわかる「おじいちゃんごめんなさい図」から始めればいいのである。ところが巷間でなにやら騒ぎたてているボウヤオジョウサンたちはあの観点さえない。政治家もここから逃げまくっているだけである。それは「「庶民のため、大衆に根ざして」のアポリア」で示した通り。これが下界の縮図である。

現在の人は、好きであろうとなかろうと、バカであろうとなかろうと、みな「おじいちゃんごめんなさい」をせねばならぬ。2050年には、「就業者ほぼ 1 人で高齢者を 1 人」で支えることに限りなく近くになるとすれば、その時点でおじいちゃんへの仕送りは10万円以下にせざるをえない。これが日本の現実である。

したがって「老体を減らすような何ごとか」で記したことをそうそうにせねばならない。だがだれもする見込みはない。ようするに「令和の徳政令」への道へまっしぐらしかない。

もっとも徳政令が実現できて現在の国の債務1000兆円超の問題が消滅したとしても、上の少子高齢化の問題は居残ったままである。よほどの異常事態が発生し、自殺者や困窮者餓死等の多発ということが起きなければ。高齢者が千万人単位で消滅しなければ。旧ソ連のような出来事が起こらねば。




なにはともあれ、ベーシックインカムやら負の所得税やらが導入可能であっても、少子高齢化社会は移民がなければ成り立たない。

ミルトン・フリードマンは1962年に、貧困者対策として「負の所得税」構想を提起した。それは、第一に、すべての人および課税基盤の全体に対して唯一つの税率を適用すること、第二に、基礎的な人的控除と厳密な意味での必要経費以外に一切の控除を認めず、所得の総額に課税することを前提した上で、 「所得が課税最低限度を下回る場合に、その差額分に税率を掛け合わせたものを補助金として支給する制度である。 」 (フリードマン、1984)。彼はこれについて、 「現在の徴税機構をそのまま利用し、ある所得水準に達しないすべての人々に財政援助を与えよう」という考え方であると説明している。

夫婦と子ども 2 人の 4 人家族で、所得税控除額が3000ドルというケースで考えてみよう。その家族の所得が3000ドルであったとすれば、所得と控除が相殺されて課税所得はゼロとなり、税金を払う必要はない。4000ドルの所得があると、控除を差し引いた1000ドルに均一の税率が適用される。2000ドルの所得の場合には、課税所得はマイナス1000ドルとなり、負の所得税率が50%であるとすれば、負の所得税として500ドルが給付される。所得がゼロの場合には、課税所得はマイナス3000ドルとなり、給付される金額は1500ドルになる。この例では、税金を払わず、給付も受けないという所得の水準が3000ドルで、最低保障所得は1500ドルになるが、フリードマンはこの二つの金額に差があることが、低所得家庭に自ら収入を得ようとする意欲を失わせないために、重要であると言う。また、このような包括的な制度の実現によって、児童手当や生活保護などの直接救済制度を完全に廃止することが可能になると主張する。(加茂直樹「日本の社会保障制度の現代的課題」)


日本版として基礎控除額200万円と税率50%と仮に設定すればこうなる(いまわたくしはテキトウに図示しているので注意されたし!)。



以上、この話題については今後一切ふれないことにする。




 

新しい灯台

インドソケイが一本死んでしまった。もう一本も元気がない。前庭中央の樹齢二百年以上と言われるガジュマルの巨木が十メートル以上伸ばした大枝の陰になって陽当たりが悪く水膨れしたせいだ。もともと水はけの悪さと陽当たりの悪さにひどく弱い木。植木屋を呼んで二日がかりでガジュマルの枝を切り払い、まだ死んでいないもう一本のプルメリアを裏庭の日の当たる場所に植え替えた。数週間前のことだ。この木も樹齢百年以上と言われるが、成長の遅い木で八人の人夫によって無事移動できた。枝はすべて切り落としたので目の高さから二股に分かれている幹だけの三メートルほどの裸の姿。象皮のような肌をもったゴツゴツしたうねりある形で、天を覆う巨木の傍で小さくなっていた姿とは見違えるほど雄々しい。

今日見ると幹先からもう芽が出ている。しっかり生きてくれていた。ふくふくとした白い花が咲くにはまだ一年ぐらいかかるだろうが、この土地に二十二年前移って来たとき、最初に見惚れた樹種であり、庭にはほかに六本あるのだが樹幹の姿はこの木が一番美しい。この三週間ほど毎日肌を撫でていた。

で、何が言いたいかというと、新しく木を植え替えてその成長を待つのがこんなに楽しみなのは十年ぶりぐらいだな、と言うことだ。


新しい家はきらいである
古い家で生れて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年まえのことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に

ーー田村隆一「十三秒間隔の光り」


残念ながら書斎の窓から灯台はまったく見えないけれど、あのプルメリアだっていいさ。濃緑の葉叢のあいだからあの清らかな白い花が咲き匂うのを待つというのも別の新しい灯台さ。





自慢じゃないが、幹はこれよりももっと艶々なめらかで、同じ象皮だってもっと高貴な象の皮膚だ。


あの花が見事に咲き乱れる姿は、なぜかバッハの結婚カンタータの冒頭のアリアとセットになってる。そしていままでいろいろ聴いてみたが、今もって静謐さの感覚を最も強く与えてくれるArleen Augérの歌唱が一番。






2019年6月21日金曜日

「庶民のため、大衆に根ざして」のアポリア

ごく月並みなことを記すがね、「庶民のため、大衆に根ざして」のアポリアってのは当たり前だろ?

ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

柄谷のように「未来の他者」などと言わないまでも、せめて「2040年の庶民としての自分」を考えるぐらいはしなくちゃな。





いまここにいる大衆への視点だけではにっちもさっちもいかない。それで上手くいった時代もあったのかもしれないけど、今はまったくそうではない。

庶民的正義派とは、将来世代へ負担を先送りすることに汲々としている、「未来の庶民」に対して最も残酷な連中だよ。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

「消費税反対、年金減らすな!」ってのをマガオで言ってる政治家がいるなら、たんなるバカかとんでもない経済音痴にほかならない。別名、寝言派とかつてから呼ばれている、《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。》(二宮尊徳)

ひそかなデフォルト狙い派ーー「一からやりなそう」派ーーもいるかも知れないけど。

これからの日本の最大の論点は、少子高齢化で借金を返す人が激減する中、膨張する約1000兆円超の巨大な国家債務にどう対処していくのか、という点に尽きます。

私は、このままいけば、日本のギリシャ化は不可避であろうと思います。歳出削減もできない、増税も嫌だということであれば、もうデフォルト以外に道は残されていません。

日本国債がデフォルトとなれば必ずハイパーインフレが起こります。(大前研一「日本が突入するハイパーインフレの世界。企業とあなたは何に投資するべきか」2017)

戦略的消費税反対派とは、ま、このたぐいだな。福井義高氏がそうであるか否かは知らないけれど。

ハイパーインフレは、国債という国の株式を無価値にすることで、これまでの財政赤字を一挙に清算する、究極の財政再建策でもある。

 予期しないインフレは、実体経済へのマイナスの影響が小さい、効率的資本課税とされる。ハイパーインフレにもそれが当てはまるかどうかはともかく、大した金融資産を持たない大多数の庶民にとっては、大増税を通じた財政再建よりも望ましい可能性がある。(本当に国は「借金」があるのか、福井義高 2019.02.03)

これは、2012年3月30日、国会内で小泉進次郎が言ったらしい、「若い人にもデフォルト待望論がある。財政破綻を迎え、ゼロからはじめたほうが、自分たちの世代にとってはプラスだという議論が出ている」どほとんど同一の考え方だ(参照)。小泉進次郎は「戦略的消費税どうでもいい派」の臭いがふんだんにするな。最近の発言をチラミしただけでも。

ーーもっとも、ネット上には今リンクした以外の情報が見当たらないので、信憑性のほどは確かでない、としておこう。

この立場はさておいて、そもそも消費税20パーセントなんてのはとうのむかしからやっておかなくちゃいけなかったことで、たとえばフランスなんてのは付加価値税導入当時から20パーセントだ。





だいたいフランスやドイツよりも老人口比率がずっと高いのに、日本の現在の国民負担率はありえない。





庶民とはなぜ日本はこんな低い国民負担率でやっていけるのかと一度も問うたことのない種族だよ。日本にはなにか特別な玉手箱があると思ってんだろうな。それでわるいと言ってるわけじゃないけどな。でも政治が、その「庶民のため、大衆に根ざして」たらトンデモナイことになる。いやもうなっている。

ノーベル経済学賞をとったブキャナンはこう言っている。

現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない。(ブキャナン&ワグナー著『赤字の民主主義 ケインズが遺したもの』)

ーーまさにこの典型的症状が続いてきたのがエリートなき日本政治、共感の共同体の政治だね。

以下はごくコモンセンス派の社会学者の見解だけどこれぐらいは処理しとかないとな。

消費税も20%以上にした方が公平でしょう。所得税と法人税は、現在の現役世代が主な負担者になります。それに対して、社会保障の世代間格差には、現在の高齢者が、現役世代のときに負担しなかったことが大きく関わっています。だから、現在の高齢者もふくめて平等に負担する消費税の方が公平なのです。

世代間格差から考えると、人口が減少している現在、現役で働く世代に主な負担がかかる所得税や法人税はむしろ逆進的です。消費税の方が非逆進的で、公平な課税なのです。お年寄りの負担がよく話題にされますが、公平な社会福祉をめざすなら、お年寄りもふくめて全員で負担を分かちあって、それで生活保護などを充実させて、お年寄りも含めて、本当に貧しい人の生活を支援するべきです。

「増税」か「年金の抑制」か、ではないのです。「増税」して「年金も抑える」しかない。それが「ポスト戦後」社会の現実です。だからこそ、そのなかで、各世代が公平に負担を負うようにしなければならない。それが世代間格差を解消することなのです。(「世代間格差の解決策は、預金を持って死ぬこと」佐藤俊樹・東大教授に聞く、2015年)

これは「中福祉中負担は幻想、日本には中福祉高負担しかない」とかつてから連発していた、10年に1度の財務事務次官と言われた武藤敏郎を受けてたぶん言っていると思うけど。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)



こういったのは、「今の庶民としての私」なら脊髄反応的に拒絶するんだろうが、そうではなく「2040年の庶民としての私」としてじっくり考えてみなくちゃな。




2019年6月20日木曜日

老体を減らすような何ごとか

⋯⋯ま、むかしから言われてるってことだな、こういった話題を語っている書き手は、ボクはほとんど中井久夫しか知らないから、以下に列挙しておくけど。「老体を減らすような何ごとか」を好まないのだったら、移民を最低限2000万人くらいはいれなくちゃダメだね、2040年までに。つまりあと20年の間に。それしかないよ。


⋯⋯⋯⋯

二〇世紀には今までになかったことが起こっている。(……)百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)






困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。(⋯⋯)

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)




心配の種の第一は高齢化社会である。しかし、これは必ず一時である。一時であり、また予見できるものは耐えられる。行政は最悪の場合を考えて対策を立てるものである。当然そうあるべきであり、行政特有の習性でもある。最悪の場合が実現の確率がもっとも高いとは限らない。高齢者が働けるように医学も行政も考えて突破するのが正道であるが、平均寿命自体が減少に向かうかもしれない。嬉しいことではないが、2030年といわれるピークまでに流行病が絶無である確率のほうが少ない。(中井久夫「日本の心配」神戸新聞、1997.3.05)


「国民が年金年齢に達した時に皆死んでくれたら大蔵省は助かる」とある大蔵大臣が言った時、これは「貧乏人は麦を食え」どころではないぞと思ったが、この一派閥の領袖の発言を誰も問題にしなかった。その大蔵大臣は年金年齢に入ってから比較的早く亡くなった。しかし、それは別の問題である。この国が世界一の長寿国であるかどうかとは関係がなく、国民の早世を願う国は卑しい国である。国民を大切にしない国で長く栄えたためしはなく、現に、国民を奴隷に売ったり、国民の大量死を歯牙にもかけなかった国は外国の侮りを受けてきた。国民の命を粗末にした戦争で敗北したのはつい最近である。この発言は亡国の兆しではないか。

以後、私は「死の教養」とか「死と生を考える」とか「死生学」を素直に聞けなくなった。善意が利用されている気がする。……(中井久夫「「祈り」を込めない処方は効かない(?)――アンケートへの答え」初出1999年『時のしずく』所収)




「二十一世紀は灰色の世界、なぜならば、働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって、稼ぐことのできない人が、税金を使う話をする資格がないの、最初から」、こう言ったわけであります。渡辺通産大臣は、それ以外にも、八三年の十一月二十四日には、「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」、こう言っておられます。(第104回国会 大蔵委員会 第7号 昭和六十一年三月六日(木曜日) 委員長 小泉純一郎、1986年)









⋯⋯⋯⋯



以下、中井久夫による「移民のすすめ」


◆日本の心配(神戸新聞、1997.3.05) 中井久夫
このごろは新聞記事を見ても、周りの会話を聞いていても、日本の将来を心配する声が盛んである。

「日本が亡ぶ」という亡国論がある。しかし「国が亡ぶ」ということは文字どおり国が消滅しわれわれが死滅することではない。日本には数々の戦争と飢饉があって、しかもわれわれがここにいる。「亡ぶ」とは軽々しく吐くべき言葉ではないと私は思う。

心配の種の第一は高齢化社会である。しかし、これは必ず一時である。一時であり、また予見できるものは耐えられる。行政は最悪の場合を考えて対策を立てるものである。当然そうあるべきであり、行政特有の習性でもある。最悪の場合が実現の確率がもっとも高いとは限らない。高齢者が働けるように医学も行政も考えて突破するのが正道であるが、平均寿命自体が減少に向かうかもしれない。嬉しいことではないが、2030年といわれるピークまでに流行病が絶無である確率のほうが少ない。それに戦時中、小学生であった私の年齢の周辺は自殺率だけでなく病死率も高いのである。戦後っ子はどうか。

その先の心配は、人口減少という。21世紀の半ばに6千万の人口になる。だが、太平洋戦争開始時の「内地」人口は7千万以下であった。当時は4つの島ではやってゆけないと政治家もジャーナリズムもやかましく唱えて戦争を合理化したのだが、戦後4つの島で立派にやってゆけたではないか。

もちろん問題は人口の構成だといわれるだろう。しかし、人口減少と高齢化とは事実上すべての先進国に起こったことである。たとえばフランスでは、「20世紀初頭にフランス人であった人の子孫」は半世紀後すでに4割だといわれていた。今はもっと少なかろう。空白を移民が埋めたのである。わが国でも江戸人の末裔は現在の東京に10万いないだろう。後は全国からの移住者である。真空が周囲の空気を吸いよせるようなものである。

さて、日本の周囲には人口過剰の国が目白押しである。短期的には政策によって左右できるだろうが、長期的には日本が例外となるかどうか。ムソリーニは人口増加のために「独身税」を創設したが、効果があったとは聞いていない。人間はお国のために生殖にはげむものではない。第一、もう間に合わない。欧州諸国が非婚の子にやさしいのは悪いことではないが、これが人口政策の一環だと聞くと、それはにわかに賛成しがたい。

もし、欧州諸国のように、長期的には移民が将来の日本人を作ってゆくならば、それは無条件に危機か。たしかにマフィアのようなものが入ってきては困る。日本の麻薬に対するガードは固く、法的にも社会的にも制裁はきびしい。世界一だろう。日本の治安のよさは若年失業率の少なさとともに、このことによる。

欧州の場合、フランス文化は現在外国からの20世紀以後の移住者が担っているといってよい。わが国でも大方の予想以上にすでにそうである。カナダへの日本移民はもっとも成功した移民の歴史といわれる。まず結婚というテストがある。結婚しないで賭博や酒に明け暮れた移民は子孫を残さなかった。次に教育である。移民先覚者の凄い努力があった。3世の8、9割が非日系と結婚して「日系」は4、5世で消滅するという。日本では、結婚に際しての差別の個々例はいくらでもあろうが、宗教的障壁が低い利点もある。

ミトコンドリアDNA解析によれば、日本人ほど多種多様なものはないそうである。東アジア、東南アジアはもちろん、コーカジアン(いわゆる白人)はもとよりアフリカの血も結構入っているから驚く。未知の人種まであるそうだ。ここ以外では亡んだのかも。

考えてみれば、アジアの東端である。民族大移動の際に西に向かって西洋を作ったのもあるが、東に向かったのもあるだろう。たどり着いた人のたいていは太平洋の怒涛を眺めて、もう先がない、ここに腰を落ちつけようと思ったろう。そして、ユーラシア大陸には生きにくい時が多かった。孔子さまも、中国の政治に絶望して「私もむしろ筏に乗じて東海に浮かびたい」と叫んでおられる。歴史時代でも、百済と高句麗の遺民を受け入れ、蒙古襲来の際も中国・朝鮮系兵士は日本に入植させている。日本は化石多民族国家である。

ただ、よい人が魅力を感じるにはよい国でなければならない。フランスに文化的吸引力があるからジェンケレヴィッチもクリステヴァも来たわけである。日本の魅力は何だろうか。とにかく目下アジアでいちばん言論の自由であることは認めてよかろう。アジアに対して日本が貢献できるのは第一にはこれであると私は思う。17世紀西欧におけるオランダの役割である。明治時代にも朝鮮、中国、ベトナムの「志士」が日本に来ている。

私は「外人」という言葉を外国人が好まない事実を尊重したい。在日の人を別にして日本にいる外国人を「来国人」と呼んではどうであろうか。これも私の気づかない欠点があるだろうが、「外人」が主に紅毛碧眼の人種を指す点がなくなるだけでもよかろう。「古事記」にも「今来(いまき)、古来(ふるき)」という言葉がある。(中井久夫「日本の心配」神戸新聞、1997.3.05)





上の図の労働人口/年齢比率は、一律15~64歳の労働人口に対する比率。たとえば2040年70歳以上人口5978/3013=198%。

けれども労働人口の定義を、15~69歳に変更すれば、5978万人の労働人口は、約900万人ほど増えて、6900万人になる。これなら、約230%、つまり70歳以上の高齢者1人を労働人口2.3人で支えるとなる。

移民で労働人口のパイを2000万人(!)増やせば、労働人口8900万人となり、8900/3013=295%。これでもまだ労働人口3人で高齢者1人を支えなくちゃいけない。でも3人で1人を支えるってのが働き手の不満をもたらさない限界じゃないかな。1990年は、5.8人で高齢者1人を支えてたのに、まだ文句タラタラだったからな(ようするに税金が高いという意味。それに現在は累積債務1000兆円超も減らさなくちゃいけないからな)。

というわけで、みなさんガンバッテ移民を増やしませう! 若い人材じゃないとダメだからどこかの国と合併ってわけにはいかないぜ。東南アジアでは日本の移民政策はもう悪評高くなっちまったから、狙いはアフリカしかないんじゃないか、インドもありかな。

なにはともあれ世界人口も高齢化がすすんでるんだから、はやいとこやらないとな。






おい、計算間違いないかな? 計算間違いなかったらこれが「日本の心配」を解決する唯一の方法さ。「老体を減らすような何ごとか」以外のね。ま、だいたいの「誠実な」日本人は、無意識的な「老体を減らすような何ごとか」期待派なんだろうがね。