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2020年5月31日日曜日

「高所の感覚」と「奈落の感覚」


雌鹿体験
私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)

自分とは何であるかを問うたスタンダールのこの自伝の、少なくともこの箇所は額面通り読みたい。幼児期、母の股の間への固着という「不変の個性刻印」をもった作家として。

幼児期の病因的トラウマ [ätiologische Traumen]は…自己身体の上への出来事 [Erlebnisse am eigenen Körper ]もしくは感覚知覚[Sinneswahrnehmungen] である。…また疑いなく、初期の自我への傷 [Schädigungen des Ichs ]である。
…これは、トラウマへの固着 [Fixierung an das Trauma]と反復強迫[Wiederholungszwang]の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印[ unwandelbare Charakterzüge]と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年ーー「フェティッシュはリアルの窓」)


プルーストはスタンダールの小説群に「高所の感覚」を読んでいるが、初めてこれを読んだとき、たしかに!と強く頷いたものだ。

高所の感覚[sentiment de l'altitude]
あなたにはわかるんじゃないかな、スタンダールのなかの、精神生活とむすびついた高所の感覚[sentiment de l'altitude]といったものを。ジュリアン・ソレルが囚えられている高い場所[le lieu élevé où Julien Sorel est prisonnier]、ファブリスがその頂上にとじこめられている高い塔[la tour au haut de laquelle est enfermé Fabrice]、ブラネス神父がそこで占星術に専念し、ファブリスがそこから美しいながめに一瞥を投げる鐘塔[l'abbé Barnès s'occupe d'astrologie et d'où Fabrice jette un si beau coup d'œil]。あなたはいつかぼくにいったことがあってけれど、フェルメールのいくつかの画面を見て、あなたによくわかったのは、それらがみんなおなじ一つの世界の断片だということであり、天才的な才能で再創造されてはいても、いつもおなじテーブル、おなじカーペット、おなじ女、おなじ新しくてユニークな美だということだった、つまりその美は当時には謎であって、その当時にもしもわれわれが主題の上でその美をほかにつなぐのではなく色彩が生みだす特殊の印象だけをひきだそうとしても、その美に似たものはほかに何もなく、その美を説明するものはほかに何もなかったということになるんですよ。(プルースト『囚われの女』)



とはいえ幼児期、スタンダールと同じ雌鹿体験をもった蚊居肢散人の場合は、スタンダールとは異なり、なぜか高所恐怖症なのである。見る角度が違ったんだろうか。それとも股の間の具合が異なったんだろうか。



高所恐怖症 Höhenphobien
外部(現実)の危険[äußere (Real-) Gefahr] は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化Verinnerlichungされざるをえないのであって、この外部の危険は寄る辺なさ(無力さHilflosigkeit)経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。
注)自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


蚊居肢子は、不幸にも「高所の感覚」とは逆の「奈落の感覚」という不変の個性刻印が刻まれてしまったのである。


奈落の底感覚
内側に落ちこんだ渦巻のくぼみのように、たえず底へ底へ引き込む虚無の吸引力よ……。最後になれぞそれが何であるかよくわかる。それは、反復が一段一段とわずかずつ底をめざしてゆく世界への、深く罪深い転落でしかなかったのだ。(ムージル『特性のない男』)


でもスタンダールだってほんとうはこっちのほうじゃないかとプルーストに反して疑ってみる仕方だってある。


ヒッチコックは自ら語っているように、母への強い固着をもった映像作家である。







2020年5月30日土曜日

フェティッシュはリアルの窓

以下、フェティシストとしての蚊居肢子の妄想である。いささか厳密さに欠けるところがあるが、それがどこかは隠しておこう・・・なんたってフェティシストの妄想にすぎないんだから。

とはいえ、蚊居肢子はスタンダール的経験をもっていることを先に言っておかなくちゃならない。


私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯)




さてまずラカン 研究のメッカのひとつ、ベルギーゲント大学の二人の幻想と妄想の簡潔な定義を掲げる。

幻想とは、象徴化に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)

妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。
(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)


とても似た定義である。似ているのは後期ラカン 観点からは当たり前である。


実際のところ、妄想は象徴的である。妄想は象徴的迷信である。そして妄想は世界を秩序づけうる。…私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(J.-A. Miller, Ordinary psychosis revisited、2009)


さてここで真の話題を始める。


幻想=現実界の覆い+現実界の窓
幻想は現実界のスクリーン(覆い)だけではない。同時に現実界の窓(現実界の上の窓)である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓である。

le fantasme n'est pas seulement écran, écran du réel. Il est en même temps fenêtre sur le réel. Et il y a là deux valeurs du fantasme […] entre l'écran et la fenêtre.(J.-A. MILLER, - 2/2/2011 )

窓とは穴である。それは「彷徨う穴で示した。

要するにこうである。





この穴としての窓aを覆うのが穴埋めaである。この覆いを幻想あるいは妄想とよぶ。穴が現実界的な対象a、スクリーンするのが象徴的(+想像的)対象aである。最も基本的な対象aはこの二種類である。

ラカン派がスクリーンと言うとき、フロイトのスクリーンメモリーが念頭にあることが多い。

冒頭のミレール 文の現実界のスクリーンと現実界の窓というのは、ラカン が次のように言っている内容である。似た内容だが微妙な差異があるので三文掲げる。


ラカン による隠蔽記憶(スクリーンメモリー)
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réelが、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想fantasmeと呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象représentationと呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966 )
隠蔽記憶はたんに静止画像(スナップショットinstantané)ではない。記憶の流れ(歴史histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4  30 Janvier 1957 )
幻想を以て我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に凍りつかせて還元する fige, réduit 何かーー隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )と呼ばれるある点で止まる何かの現前。

映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動化されているもの、そこには全てのエロス的機能valeurs érotiques が積み込まれたままである…そこではフルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃したものと支えたもの、その居残った最後の支え le dernier support restant が含まれるている…(ラカン、S4、16 Janvier 1957)


最初の文にある表象代理は窓のことである。その窓を埋めるのが幻想的表象である。



表象よりも表象代理が先行してある。フロイトはこの表象代理を欲動代理とも呼んだが、要するに原抑圧=固着の穴である(参照)。

この前提で以下のフロイトによるスクリーンメモリーの記述を読もう。


隠蔽記憶≒フェティッシュ=病因的固着
「初期の」性的刻印 »frühzeitigen« Sexualeindrücke]に関して精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。真の説明は、最初のフェティッシュの発生[Auftreten des Fetisch]の記憶の背後に、埋没し忘却された性発達の一時期[untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung]が存在していることである。フェティッシュは、隠蔽記憶のように[durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« ]この時期の記憶を代表象し、したがってフェティッシュとは、この記憶の残滓と沈殿物 Rest und Niederschlag ]である。(フロイト『性理論三篇』1905年、1920年注)


ーー病因的固着を覆う代表象としてのスクリーンメモリー≒フェティッシュである。







以下の文には、フェティッシュという語はでてこず隠蔽記憶とだけあるが、「病因的トラウマ」とあるように、いま上に引用した「病因的固着」と相同的内容をもっている。

隠蔽記憶=トラウマへの固着
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自己身体の上への出来事Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。
ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

このような尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。
これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…


したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)



要するにこうである。



これは上に示してきた図と同じことである。ラカン にとってトラウマとは穴のことである。穴ウマtroumatisme ( S21, 1974)という表現があるくらいである。


以上により、フェティッシュはトラウマの覆いであると同時に、トラウマの窓であると言っておこう。要するに、フェティッシュとは、現実界の窓、穴の窓の相があるのである。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )



さあて具体的に見てみなくちゃな、フェティッシュがほんとうに現実界の窓なのかどうか。


女のペニスへの固着
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、エロス的欲動活動 erotische Triebbetätigungとしてある激しい視姦欲 intensive Schaulust が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母から発したエロス的魅力[Die erotische Anziehung, die von der Person der Mutter ausging]やがて、やはりペニスだと思われている母の性器を見たいという渇望 Sehnsuchtにおいて頂点に達する。

ところが後になって女はペニスをもっていない [das Weib keinen Penis besitzt ]ことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心因性インポテンツ psychischen Impotenz、女嫌い Misogynie、永続的同性愛 dauernden Homosexualität などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固着 [die Fixierung an das einst heißbegehrte Objekt, den Penis des Weibes]は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求 infantiler Sexualforschung のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴のフェティシズム症的崇拝[Die fetischartige Verehrung des weiblichen Fußes und Schuhes]は足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代理象徴 Ersatzsymbol としているようにみえる。「女の毛髪を切る変態者 Zopfabschneider」は、それとしらずに、女の性器に去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910年)






ーーー子供っぽそうな少女なんだけどな、でもとってもフェティシズム症的崇拝しちゃうよ。


隠毛の光景への固着
フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) ……

我々は、喪われた女性のファルス vermißten weiblichen Phallus の代替物として、ペニスの象徴 Symbole den Penis となる器官や対象 Organe oder Objekte が選ばれると想定しうる。これは充分にしばしば起こりうるが、決定的でないことも確かである。フェティッシュ Fetisch が設置されるとき、外傷性健忘 traumatischer Amnesie における記憶の停止 Haltmachen der Erinnerung のような或る過程が発生する。またこの場合、関心が中途で止まってしまったような状態となり、あの不気味でトラウマ的な直前の印象が、フェティッシュとして保持される。der letzte Eindruck vor dem unheimlichen, traumatischen, als Fetisch festgehalten

こうして、足あるいは靴がフェティッシューーあるいはその一部――として優先的に選ばれる。これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー、垣間見られた陰毛の光景への固着 fixieren den Anblick der Genitalbehaarung である。これには、あの強く求めていた女性のペニス weiblichen Gliedes の姿がつづいていたはずなのである。

とてもしばしばフェティッシュに選ばれる下着類は、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性をファリックphallischだと考えていてよかったあの最後の瞬間をとらえている。だが私は、フェティッシュの決定が毎回確実に見通せる、というつもりはない。

フェティシズムの研究は、去勢コンプレクスの実在をいまだ疑ったり、あるいは女性の性器に対する恐怖 Schreck vor dem weiblichen Genitaleには他の理由があるとする人々に是非お勧めしたい。たとえば出産外傷の記憶 Erinnerung an das Trauma der Geburtを想定している人もいる。このフェティッシュの解釈となると、私にはまた別の学問的興味がある。(フロイト『フェティシズム Fetischismus』1927年)






ーー白いパンティからオケケが見えそうで見えないのがとってもいいね、


母へのエロス的固着
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





ーーこれだってとっても女拘束系だね

で、みなさん、というか男性諸君に限定してもいいけど、現実界の窓が感じられたでしょうか?




ブラックホールの窓
真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現[apparition sur la scène d'une forme de femme、ヴェールが落ちて[son voile tombé]、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750, 1958)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン, S2, 16 Mars 1955)









2020年5月29日金曜日

彷徨う穴


ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)


(人はみなフェティシストである)




対象aは、喪失・享楽控除の効果とその喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片化効果の両方を示す。l'objet a qui inscrit à la fois l'effet de perte, le moins-de-jouir, et l'effet de morcellement des plus-de-jouir qui le compensent. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)




(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。( Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)







われわれが通常、"対象a"と呼ぶものは、たんに対象aの形式の支えあるいは化身に過ぎない。…

眼差しはまさに対象aの化身[incarnation de l'objet a]である。…ルーベンスの『鏡を見るヴィーナス』は対象aの論理的機能に実体を与えることを可能にするブリリアントな要素を際立たせている…

対象aには、構造的省略がある。対象aは補填 supplément(穴埋め)によってのみ代表象されうる。穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]。それは鏡とは逆である。対象aは捕まえられない。特に鏡には。長いあいだ鏡像段階をめぐって時を費やしたラカンは、それを強調している。対象aは窓である。われわれが目を開くために自ら構築した窓である。

(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環運動している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016ーーL'image reine, qui s'est tenue les 29 et 30 avril 1995 à Rio de Janeiro)



ーーミレールのいう《穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる[En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre]》については、わたくしはいくらか疑っている。穴Ⱥではなく穴の境界表象S(Ⱥ) が、窓としての対象aではないかと。だがここではミレールが言っている通りに図示した。Ⱥ であろうと  S(Ⱥ) であろうとここでの話には大きな影響はない。








自体性愛autoérotismeの対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)





私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort …もっとましな訳語はないものだろうか。「dérive 漂流(さまよい)」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)





享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]…(享楽の対象としての)フロイトのモノ La Chose(das Ding)は、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
J(Ⱥ) (斜線を引かれた大他者の享楽)…これは「大他者の享楽はない」ということである。大他者の大他者はないのだから。これが斜線を引かれたA [Ⱥ] (穴)の意味である。qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [A].  (ラカン, S23, 16 Décembre 1975)





モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。…ラカンが把握したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者[穴Ⱥ]と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre.… La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)




反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
仏語の"le plus-de-jouir" は、「もはやどんな享楽もない」と「もっと多くの享楽を !」の両方の意味で理解されうる。(PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains , 2009)
"le plus-de-jouir"は、「喪失」と「その埋め合わせの別の獲得の投射」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味がある。(Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir, 2013)


ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、これが厳密に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。言い換えれば、このカテゴリーにおいて、我々は、自然に、あるいは象徴界の効果によって、身体と身体にとって喪われたものからくる諸対象を持っているだけではない。我々はまた原初の諸対象を反映する対象を種々の形式で持っている。問いは、これらの新しい諸対象 objets nouveaux は、原対象a[objets a primordiaux]の再構成された形式 に過ぎないかどうかである。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)



2020年5月28日木曜日

フェティッシュのインフレ

ここではまず、ジャック=アラン・ミレール が対象aの把握のために決定的だというラカンのセミネール10における神経症者と倒錯者(フェティシスト)の対象aの発言をすこしだけ抜き出す。


神経症者の対象a
神経症の幻想のなかの対象a …
cet objet(a) […]dans son fantasme le névrosé,  …

神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

この幻想のなかで機能する対象aは、神経症者の不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。

Cet objet(a) fonctionnant dans leur fantasme… et qui sert de défense  pour eux contre leur angoisse …est aussi - contre toute apparence - l'appât (ラカン、S10, 05 Décembre 1962)

フェティシストにとっての対象a
対象a…欲望の原因としての対象aがある。l' objet(a), […]comme la cause du désir.

フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる。…
fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension  de l'objet comme cause  du désir.                            

フェティッシュとは、ーー靴でも胸でも、あるいはフェティッシュとして化身したあらゆる何ものかはーー、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。…

フェティシストは知っている、フェティッシュは「欲望が自らを支えるための条件」だということを。

 c'est que pour le fétichiste,  il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition  dont se soutient le désir. (ラカン、S10、16 janvier 1963)


これを受けて、ジャック=アラン・ミレール は次の図を示している。



簡単に言えば、倒錯者の対象aは主体側にあり「欲望の原因」だが、神経症者の対象aは大他者の側にあって「欲望の対象」であり、インチキだということである。

ミレール はこの2004年以前には、フェティッシュの対象aとは見せかけ(仮象)であり、リアルなものではないといってきた。


フェティッシュとしての見せかけ
セミネール4において、ラカンはこの「無 rien」に最も近似している対象a を以て、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに彼は後年、対象aの中心には去勢[- φ]がある [au centre de l'objet petit a se trouve le - φ]と言うのである。そして対象と無 [l'objet et le rien ]があるだけではない。ヴェール voile もある。したがって、対象aは現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある [l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant]。この対象aは、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]である。(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)

見せかけは無を覆う機能である
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)

フェティッシュは対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない
対象の項において、男性側では対象は、フェティッシュの形式[la forme du fétiche]を取る。フェティッシュは基盤であり、対象aである[objet de base, l'objet petit a]。…フェティッシュはもちろん対象aの特徴を強調するが、対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない。[Le fétiche, bien sûr, accentue le caractère de l'objet petit a. Ce n'est qu'une des versions de l'objet a]。

女性側の被愛妄想érotomanieはフェティッシュに比べ、より対象的はなくmoins objectal、愛を支える対象un objet support de l'amourであり、ラカンは穴Ⱥと徴した。ラカンは繰り返し強調している、愛があるところには、去勢の条件があると。この理由で、愛の大他者は彼が持っているものを剥奪されなければならない。  (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


ーーかくの通りである。

ところが上の図が示されている2004年においてフェティッシュの価値高騰がある。



フェティッシュは欲望の条件である
ラカンはセミネール10「不安」にて、初めて「対象-原因 objet-cause」を語った。…彼はフェティシスト的倒錯のフェティッシュとして、この「欲望の原因としての対象 objet comme cause du désir」を語っている。フェティッシュは欲望されるものではない le fétiche n'est pas désiré。そうではなくフェティッシュのお陰で欲望があるのである。…これがフェティッシュとしての対象a[objet petit a]である。

ラカンが不安セミネールで詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。…

不安セミネールでは、対象の両義性がある。「原因しての対象 objet-cause 」と「目標としての対象 objet-visée」である。前者が「正当な対象 objet authentique」であり、「常に知られざる対象 toujours l'objet inconnu」である。後者は「偽の対象a[faux objet petit a]」「アガルマagalma」である。…

倒錯者の対象a(「欲望の原因 cause du désir)は主体の側にある。…
神経症における対象a(「欲望の対象objet  du désir)は、大他者の側にある。

神経症者は自らの幻想に忙しいのである。…彼らは夢見る。…神経症者の対象aは、偽のfalsifié、大他者への囮 appâtである。…神経症者は「まがいの対象a[petit a postiche]」にて、「欲望の原因」としての対象aを隠蔽するのである。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 02/06/2004、摘要訳)


さらに2009年のセミネールでは、フェティッシュはサントームと近似するとまで言うようになる。

倒錯者の対象aはサントームに近似する
倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム概念が見出されるc'est ce que retrouve le concept de sinthome. 

(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。Ca ne se condense pas dans un lieu privilégié qu'on appelle le fantasme (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


サントームΣは現実界的シニフィアンである。

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

ーーミレールはここではこう言っているが、この数週間後の講義発言を読めば(後引用)、サントームは厳密には現実界ではなく現実界の境界表象(現実界の固着)であり、この境界表象が遡及的に潜在的リアルを現勢化する。その意味での現実界である。とはいえかつて現実界と対比されて《フェティッシュとしての仮象semblant comme le fétiche》と呼ばれたフェティッシュの価値高騰はどうも間違いなさそうである。


おそらくミレールにおいて、2004年前後にラカンの対象aの把握にとって大きな転回があったのではないか。ラカンのセミネール10 Seuil版、要するにミレール 版は2004年に初めて出版されたのであり、少なくともミレール はこの機会に初めて熟読吟味することにより、対象aについて覚醒したところがある筈である。

2001年のセミネールでは、図示はしていないが、次のように示せることを言っている。



サントームΣのうえにある(a)が、フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]の対象aと捉えることができる。

そしてΣ=S(Ⱥ) であり、数年後にはS(Ⱥ) =対象aと言っている。

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


このS(Ⱥ) としての対象aは、主流臨床ラカン派においてさえ、2018年前後にようやく注目されるようになった、骨象aである。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)


そしてこの骨象=文字aが「身体に突き刺さった骨=身体の上への刻印」であり、サントーム=固着なのである。

症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30/11/1974)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)




このようにみると、フェティッシュがΣに近似するというようになったミレール においてーーいやおそらくソレールなどを含めた仏臨床ラカン派の主流どころでもーー「フェティッシュのインフレ」があるのではないか。

傍目からみれば、いまだ対象aの把握に彷徨っている愚かなラカン派!ということになるのかもしれないが、対象aとはそれほど難解なのだと言っておこう。ミレール が最近、ジジェクに対してとても苛立っているのは、ジジェクはラカンのシニフィアンの論理期(セミネール11からセミネール20の4月まで)の対象aを強調し、さらにそれを哲学的に捏ね回して巷間に流通させているからである。ジジェクの《対象aは対象もどきabjetである》(ミレール 、2017)。

何はともあれ、ラカン自身が大きく移動している。前期ラカンにおいては対象aが想像的審級なのか現実界的審級なのか明示していない。現実界的対象aがあることを明示するのはセミネール13が初めてである。

対象aは現実界の審級である。(a) est de l'ordre du réel.   (Lacan, S13, 05 Janvier 1966)

もっともセミネール10前後からリアルな対象aを暗示してはいるが。いや、セミネール7のモノdas Ding、ここに後年のラカン から遡及的に読めば、既にリアルな対象aがある。だが最も重要な明示的移行は、セミネール22で純化された症状を文字lettre=対象aとした後以降かも知れない。

何はともあれ対象aの難解さは、ラカン において「欲望のデフレ」があったのと同じような経緯をもつと言ってよい。エディプス的な観点(欲望)からみた対象aから、享楽観点から見た対象a(欲望の原因≒享楽の対象)へ、と。




ラカン の原症状としてのサントームは固着だが、確かにフロイトの記述を追っていくと、フェティッシュと固着を結びつけているものが多い。

今はフロイトのフェティッシュの記述は引用せず、サントーム=固着とするミレール の発言を掲げておくだけにする。


サントームは固着である Le sinthome est la fixation
現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、「単独的な1のシニフィアンsingulièrement le signifiant Un」である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「1のシニフィアンle signifiant Un 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。…私は考えている、この「1と享楽の結びつきconnexion du Un et de la jouissance」が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。

この反復享楽は、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。la jouissance répétitive, [] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

フロイトが固着と呼んだもの…それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)