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2016年11月7日月曜日

「倒錯天国日本」の本当の意味

英語版 Wikipedia の Perversion の項目は次のような記述で始まっている。

倒錯とは、正常あるいは規範と理解されているものから逸脱する人間行為の一類型である。倒錯用語はしばしば多種多様な逸脱形式を示し得るが、最も頻用されるのは、とりわけ異常な・嫌悪感を与える、あるいは強迫的と考えられる性的行為を示す。

そしてその「倒錯」の項目には次の画像が(のみが)貼り付けられている。



ーー「痴漢」とは標準的にはmolester (Molesting)と英訳されるが、ここではPerverts と訳されている。

日本は、(おそらく通念上)世界に名高い「Beware of Perverts!」、すなわち「倒錯」天国の国ということになる。

それは次の中井久夫の叙述も暗示している。

日本は今、世界最大の児童ポルノ・ビデオ輸出国である。(……)女性の実に半数以上が色々な段階の性的攻撃を受けていることが、小西聖子によって明らかにされた。男性による男性の性虐待はさらに隠微である。学校だけでなく職場をはじめ、いじめがいたるところにある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」)

もし日本の精神科医や精神分析家が社会構造分析をしたいなら、こういったところから始めなければならないのではないだろうか。それにもかかわらず彼らの多くは「倒錯」をめぐって寝言ばかり言っているようにみえる。

ラカンは次のように言っている。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)
原文:Tout le problème des perversions consiste à concevoir comment l'enfant, dans sa relation à la mère, relation constituée dans l'analyse non pas par sa dépendance vitale, mais par sa dépendance de son amour, c'est-à-dire par le désir de son désir, s'identifie à l'objet imaginaire de ce désir en tant que la mère elle-même le symbolise dans le phallus.

古典的ラカン派観点からはーー人間の精神構造の三区分「精神病」「倒錯」「神経症」の構造的観点からはーー、性的倒錯行為をするから倒錯者なのではない。神経症者、精神病者も「性的倒錯行為」をする。性的倒錯行為をしない構造的倒錯者もいる。

(倒錯者の倒錯と)神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼(女)は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯社会の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

このポール・バーハウの論文には次のような叙述もみられる。

・倒錯的シナリオの特徴は権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。

・実際上の性的法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者(母)の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者(父)は挑発され受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

・マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者である。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。(同バーハウ、2001)

一番上の文は、ドゥルーズがそのマゾッホ論で叙述した内容と相同的である。

マゾヒストの契約は父親を排除し、父権的な法の有効性の保証と適用の配慮を、母親に転位させることだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 P.117)

ここでもっと一般論的にいえば「倒錯者」の特徴は権威ではなく権力にある。バーハウの別の論文からなら次の通り。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

権力をめぐっては、中井久夫の「いじめ」論にもすぐれた指摘がある。

・権力欲は(……)その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。

・非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)

最も厄介なのは、明らかに「倒錯的構造」をもっているのに、自分では倒錯者ではないと思っている連中である。

偶然の一致では全くない、倒錯者がしばしば、あなた方が思いももうけなかった場所に見出されるのは。すなわち、司法・宗教・道徳・教育の分野である。事実、まさにこれらの舞台は、己れの法を押し出すための特権化された舞台である。(バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF

ところでラカン派精神分析家の藤田博史氏は次のように言っている。

官僚というエリートの集団の発想は、まさにそれが母の欲望にちゃんと答えてきた模範生としてのエリートであるゆえに、母親拘束から抜け出ていない人の集団だという風に考えるべきでしょう。母親拘束のなかで育ってきた優秀なエリートたちは、今度は自らが母親と同一化してその位置に立ち、迷える子羊たる国民を飼い馴らそうとするようになるのです。(藤田博史、セミネール断章 2012年 8月4日講義、PDF)。

藤田氏は直接「倒錯」という言葉を出していないが、これはあの官僚連中は「倒錯者」だと言っているようなものである。

斎藤環のヤンキー論もこの系譜にある。

切断的なものは父性ですね。それで、連続的、包摂的なものを母性と考えれば、厳しい母性がヤンキーだとなる。(斎藤環ーー「「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ」

浅田彰が30年近くまえに記した「共感の共同体」をめぐる指摘もこの文脈のなかで読める。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

最後に海外住まいで日本の最近の状況に疎いが、自他ともに倒錯者としてミトメラレテイル蚊居肢散人に顔を出させていただければ、ツイッターでなにやら囀っている連中の大半は「構造的倒錯者」ーーすなわち「構造的痴漢」の典型である・・・


…………

※付記

ここに発達段階論的に書かれている2010年の論文(バーハウ他)から、その一部を抜き出しておこう。別の話題の論なのでやや簡略化され過ぎている嫌いはあるが、ラカン派の基本的な倒錯心因の捉え方である。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を 通して、安定した関係にまだ執着している。このような方法で、母を喪う不安は何とか対処されうる。標準的には、エディプス的状況・父の機能が、子供のさらなる発達が発生する状況を創り出す。母の欲望が父に向けられるという事実がありさえすれば。

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。自身のアイデンティティへのさらなる発達の道は塞がれてしまう。代りに、子供はその「勝利」を保護する企図のなかで、独特の反転を遂行する。彼は自ら手綱を握りつつ、しかも特権的ポジションを維持したままで、受動ポジションを能動ポジションへと交換しようとする。

臨床的用語では、これは最も歴然としたマゾヒズムである。マゾヒストは、全シナリオを作成してそれを指令しながら、自らを他者にとっての享楽の対象として差し出す。これが他者の道具となる 側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、瞭然と受動-能動反転がある。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。 (……)倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる。 (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


この文脈でいえば、倒錯といえば男性的な症状だと通説では言われてきたが(主流のラカン派においてさえ)、女性の倒錯も明らかにある。だが今までほとんど語られてこなかった。その精神医学・精神分析における欠陥は、英語版 Wikipediaにさえ指摘されている。

Freud wrote extensively on perversion in men. However, he and his successors paid scant attention to perversion in women. In 2003, psychologist, psychoanalyst and feminist Arlene Richards published a seminal paper on female perversion, "A Fresh look at Perversion", in the Journal of the American Psychoanalytic Association. In 2015, psychoanalyst Lynn Friedman, in a review of The Complete Works of Arlene Richards in the Journal of the American Psychoanalytic Association, noted prior to that time, "virtually no analysts were writing about female perversion. This pioneering work undoubtedly paved the way for others, including Louise Kaplan (1991), to explore this relatively uncharted territory."

このように女性の倒錯は無視されてきた、 ラカンはすでに1973-1974年の「アンコール」セミネールで次のように言っているにもかかわらず(日本ラカン派自体おおむね寝言派である)。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S.20)




2015年4月26日日曜日

ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行

以下は個人メモ(後に活用のため)。普段はこのように書いて、公表の資料として、もう少し説明的に書き直すのだが、長くなり過ぎそうなのでやめた。つまり「よい子」は無視して下さい。わたくし自身、「遡及性」をめぐって叙述すると混乱する部分がいまだある。すなわち、より関心の薄い人たちには、この文を読んでも、おそらく混乱するばかりだろう。

…………


さて、「フロイトの「拘束されたエネルギーと拘束から解放されたエネルギー」をめぐって」に引き続いて、ジジェクの最初期の著作における叙述に拘ってみよう。

ジャック=アラン・ミレールは、その公表されていないセミネールで…、特殊排除から一般排除(もちろん遠回しに、アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を仄めかしている)について話している。

ラカンが1950年代に排除の概念を導入したとき、それが示したのは、ある鍵となるシニフィアン(クッションの綴じ目point de capitan、父の名)の、象徴界からの追放の特殊な現象だった。そしてそれが精神病を引き起こす、と。…

しかしながら、ラカンの教えの晩年において、この排除の機能は普遍的な領域に及ぶ。シニフィアンそれ自体の秩序にある固有の排除があるというものだ。我々が、ある空虚の周りに構造化された象徴的構造を持つ限り、ある鍵となるシニフィアンの排除を意味する。セクシャリティの象徴的構造化は、性関係のシニフィアンの欠如を意味するのだ。すなわち「性関係はない」ーー性関係は象徴化できない。それは不可能な、「互いに敵対する」関係なのである。

そして二つの普遍化のあいだの相互連関を掴むために、我々はシンプルに何度も何度も次の命題を繰り返さなければならない、「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。

現実界としての症状ーーこれは古典的なラカンのテーゼ、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立するように見える。症状は、すぐれて象徴的形成物、解釈を通して消滅させうる暗号化されコード化されたメッセージではなかったのか?…ラカンの全ての要点は、我々は、身体の想像的仮面(たとえば、ヒステリーに症状)の裏に、象徴的重複決定overdeterminationを見抜かねばならぬことではなかったのか? この外観上の矛盾を説明するために、我々はラカンの教えの異なった段階を考慮しなければならない。我々は、症状概念を、糸口、指標の一種として、ラカンの理論的展開の主要な段階を差異化することができる。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』私訳)


 ここにあるように、ラカンの前期症状概念と後期のそれとの相違の把握は、おそらくとても重要である(それは症状のない主体はない》(ラカン)で、比較的詳しく見た)。

だが、今はその話題ではない。今まず注目したいのは、冒頭にあるミレールが言ったとされる《特殊排除から一般排除》が、《アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行》を示唆しているという叙述だ。このアインシュタインの理論への言及は、2006年に上梓された書にも次ぎのような説明がある。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)

フロイトは、最初に外傷(トラウマ)を、《象徴的座標を崩してしまう何か》だと考えたとある。これが特殊相対性理論である。

次にフロイトは態度変更して、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》とある。これが一般相対性理論ということになる。象徴界は最初から歪んでいるのである。そして外傷は遡及的に見出される。これがラカンの《原初とは最初のことでない》(『アンコール』)の意味である(参照)。


《物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している》、--トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である、ということになる。

ここで誤解のないようにつけ加えておけば、トラウマには二種類ある。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma)

 これはなにもラカン派だけの観点ではない。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

ジジェクの冒頭の叙述に沿えば、構造的トラウマ(原トラウマ)は、「性関係はない」ということである。ポール・ヴェルハーゲの説明ならかくの如し。

フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「男と女の愛には、心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。(Paul Verhaeghe『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 )
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”)


「女は存在しない」やら「性関係はない」やらは、結局、最初の喪失にかかわる。だがこれは遡及的に見出される(後述)。

最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』私訳→原文は「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」参照)

そして、フロイト的にいえば「スフィンクスの謎」である(参照)。


…………

さて、いささか話が逸れたが、「トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と書き記した箇所に戻ろう。

この文を変奏してみよう、「症状は象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と。

ここでの「症状」は、前期ラカンの暗号化されたメッセージとしての症状ではなく、原トラウマとしてのーー「性関係はない」としてのーー症状である。

前期ラカンの症状は、象徴界、われわれの日常生活を歪める「原因」であった。だからそれを解釈によって取り除かねばならない。だが後期ラカンの症状は、象徴界の井戸の底にあるものであり、治療不可能なものの別名である。

純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975ーー《症状のない主体はない》(ラカン)

 この原症状とでも呼ぶべきものがあるせいで、象徴界自体が歪んでいるのだ(くり返せば、論理的には、原症状が先にあるにしろ、見出されるのは遡及的に、である)。

《トラウマは遡及的に作用する。

S1―>S2->S1

エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。》(向井雅明
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

象徴界自体の歪曲が、《現実は現実界のしかめっ面》(ラカン『テレヴィジョン』)の意味である。現実としての象徴界は、もともとしかめっ面なのであり、その歪曲が、原トラウマ・原症状(≒「性関係はない」)を遡及的に見出す。

According to Lacan, libidinal stages have nothing whatsoever to do with a natural development; they are retroactively organised starting from the later castration anxiety. This anxiety operates by means of Nachträglichkeit (retroactivity)(”Subject and Body Lacan's Struggle with the Real”Paul Verhaeghe)

ここにある「Nachträglichkeit」は、もちろんフロイト概念である。
別に、ヴェルハーゲには、「現実界は象徴界の非-全体の領域に外-存在する」とでも要約できる文がある(The Real ex-sists within the articulated Symbolic.……The whole contains the not-whole, which ex-sists in this whole.)。これはジジェクの見解と同様である(参照:象徴界(言語の世界)の住人としての女)。ただし、このあたりは異論もあることだろう。

※ミレール直弟子の小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréは「性関係はない」を示し、これは「原去勢」あるいは「原トラウマ」とも翻訳することができる(事実、小笠原氏はランクの「出産外傷」概念をφ barré説明するのに使っている)。かつまた、80年代にミレールが提示した「斜線を引かれた享楽J barré」も同様に「性関係はない」を近似的に意味するものであろう。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

ジジェクは、1989年の『イデオロギーと崇高な対象』にてすでにこの見解を示していながら、2012年に至るまで、同様な見解をくどいほど繰り返している。すなわち、一般には未だなかなか理解されていないせいだろう(かつまた、ラカン派内部でも異なった見解があるということかもしれない)。

François Balmèsの変奏なら次のようになる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être 1999)
…………

もう一つ、冒頭のジジェクの叙述、後期ラカンの症状は、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立することをめぐって簡略に記す。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30ーーラカンのオーラ

このあたりは一般には先入観がある。たとえば中井久夫さえ次のように書いている。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収 P209)

中井久夫は自らラカンには詳しくないと言っているのでやむえないとしても、ラカン派と称されることもある斎藤環もかくの如し。

記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」2007)

…………

ところで、今ではわが国の代表的なラカン派二人とさえ言えるかもしれない向井雅明氏と松本卓也氏がつぎのような語らいをしているようだ(松本卓也氏ツイートからだが、いつ頃のものかは失念。それほど昔ではなく、この一年前後前ぐらいのもののはず)。

@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

@schizoophrenie: 簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

@schizoophrenie: ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

@schizoophrenie: 神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

これは冒頭のジジェクの文においては、「父の名は回帰しない」のは当然としても、「性関係はない」=原症状は回帰するということになる。再掲すれば次の文である。

「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。(ジジェク)

 だが、このあたりも見解の相違があるのかもしれない。

さらには松本卓也氏は四年ほど前、次ぎのようなツイートもしている。

後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名っぽい機能を果たせば何でもいい,と

そこからミレールの話は「精神病の一般化」つまり「人類みな狂人」なんて話にまで至る.この辺ちょっと微妙で,一般化とかいいつつミレールは神経症と精神病の構造の差異も主張している.ECF内でも意見が分かれているようで,同号のSkriabineの論文は「人類みな精神病」の論調.

(僕が大いに依拠する)Jean-Claude Malevalは反対に,ミレールの議論から「父の名の排除」と「一般化排除」はまったく異なるという議論を持ちだしてくる.こっちのほうが臨床的には有意義な議論だと思うけど,ラカン自身の70年代の記述そのものはSkiriabine寄りです.(松本卓也ツイート 2011/09/01 ーー「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)


ここにある《「父の名の排除」と「一般化排除」》とは、ひょっとして、特殊相対性理論と一般相対性理論の話ではないか。ーーとはいえ、無謀な憶測はやめておこう。

(このあたりはおそらく、この四月後半に発売された彼の実質上のデビュー作、『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』で明らかになっているのだろう。)





2015年2月7日土曜日

夏服と上部イタリアの湖水地方の地図にて、極地探検に向かう子どもたち(フロイト)

今日の教育に向けられなければならない非難は、性欲がその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化への不満』 フロイト著作集3 P488)

…………

宮台真治氏が次ぎのように語っているそうだ。

‏@rawota
宮台真司「小学校で遺体写真を見せた事に憤慨した人は頭が弱い。名古屋の小学校の情報リテラシー教育で、"マスコミがフィルタリングする事の是非"を討論するテーマ。事前に周知し、観たくない人は見てない。メディアが隠したものを流してよいのか、という教育委員会は学び直せ」 #daycatch

@rawota

宮台真司「遺体画像を一概にダメと言うのではなく、このような授業をした後に児童に対し保全保護した上で見せるべき。"青少年が傷つくじゃないか"という奴、青少年にちゃんと聞きなさい。あんたどういう資格で物を言ってるんだ?映像見てないのに偉そうにブッてるんじゃネーヨ」 #daycatch

前後の文脈はわからないが、つい最近、わたくしも次のような文を書いたところだ(参照:斉藤道三とジョン・マケイン)。

…………

さあて、おわかりだろうか?

千葉望 ‏@cnozomi 2月3日
私たちができることはISILが望んでいる「映像の拡散」をしないことです。彼らの戦術に加担するな。

よい子たちは、ニーチェもプルーストもバタイユも読んではならぬ! もちろん、このようなブログ記事も読むべきではない!  

ISIL(アイシル)の戦術だと? ツイッターで流通する「善意」の紋切型のひとつだ。共感の共同体の住人は、このたぐいのツイートを読んで湿った瞳を交わし合い頷き合っておればよろしい!

…………

これはやや挑発系の文であり、映像を拡散することは、イスラム国の戦術に嵌ることになるのかもしれないと思わないでもない。だが、ああいったツイートが無闇に流通する「善良な」人びとの湿った共感ぶり、そこに臭わないでもない脆弱の馴れ合いの気配、付和雷同性、精神の腐臭のようなものに反吐がでてしまうタチであることには変わりがない。

そもそも人は、隠せば隠すほど、ひとはそれを暴いていたくなる。それは子どもでも同じだ。あるいはこういうことさえ言える、裏には何もなくても隠す仕草そのものが秘密を生み出す、と。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された、「見せかけsemblance」の鍵となる定式、見せかけとは無のマスク(蔽い)である。ここには、もちろん、フェティッシュとの連関が示されている。フェティッシュとは、また空虚を隠蔽する対象である。見せかけ(サンブラン)はベールのようなものであり、それは無を隠すのだ。その機能は錯覚を生む、ベールの下には何かが隠されている、という錯覚を。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)

ここで、ラカン派コプチェクの講演(2006/10/8 Joan Copjec お茶の水大学)、《イスラムにおける恥じらい、或いは「慎み深さのシステム」》という講演録からすこし抜き出してみよう。

コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こ うとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。

再度ジジェクに戻ればこういうことになる。

……侵害の対象としての女性についていえば、彼女が顔や体を覆えば覆うほど、われわれの(男性的)視線は彼女に、そしてヴェールの下に隠されているものに、惹きつけられる。タリバーンは女性に、公の場では全身を覆って歩くことを命じただけでなく、固い(金属あるいは木の)踵のある靴をはくことを禁じた。音を立てて歩くと、男性の気を散らせ、彼の内的平安と信仰心を乱すからという理由で。これが最も純粋な余剰(剰余:引用者)享楽の逆説である。対象が覆われていればいるほど、ちょっとでも何かが見えると、人の心をそれだけ余計に乱すのである。(『ラカンはこう読め!』p174~)

ーーで、なんの話であったか?

精神の腐臭の話である。といってもニーチェほど鼻が利くわけではない。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)


いささかまわりくどくなったが、宮台真治、--別に彼のファンでもなんでもなく、ときにヒドク頭にくるときがあるのだがーー、なかなかいいこというじゃん。

というわけで、池田小学校襲撃事件後の、中井久夫、浅田彰、斎藤環による鼎談(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)の記事から抜き出しておこう。「社会の心理学化」をめぐる箇所である。いまはいっそう、頭の悪そうな心理学者やら社会学者やらがツイッターなどで寝言を流通させているのではないか。

斎藤環 ……ボーダーラインの治療経験から思うのは、ある種の心の状態というのは薬ではどうにもならない、ということです。中井さんも書いておられるように、向精神訳だけでは人間は変わらない。旧ソ連で政治犯を「怠慢分裂病」などと称して大量に薬を投与したことがあったらしいけれでも、全く転向はなかった。薬物の限界があるんですね。

中井久夫) それが人間の砦でしょう。

斎藤)そういった部分で今後も精神分析的なものが延命する余地があると思うんです。しかし、現状は、アメリカでも日本でも生物学的精神医学が圧倒的ですね。精神分析的な志向を持っている人は、すでにかなり少数派でしょう。せいぜい良くて認知療法ですね。こちらは基本的には、自我を整形して変えてやろうという発想で教育を受けた人たちです。逆にそういう人たちが熱心な精神療法をやったりすることもあるんですが。

浅田)もちろん、プラグマティズムで行けるところまで行けばいいという立場もあるわけで、実際、新しい薬ができて激烈な症状が抑えられたりするの望ましいことに違いない。しかし、それですべてが片付くとは考えられないので、どこかに精神分析的なものの必要性が残っていくと思いますね。

…………

浅田)ただ、他方でちょっと気になるのは、安易な心理学の流行です。例えば、学校が荒れているというと、「心のケア」が大切だ、心裡カウンセラーを増やすべきだ、というような話になる。もちろん、そういう問題がまったく無視されるよりは、社会が関心を持って力を入れていくほうがいいに決まっている。けれども、中井さんや斎藤さんのレヴェルではなく、安易な心理学のレヴェルでセラピーめいたことをしても、本当に役に立つのかという疑念を拭いきれないんですよ。

そういえば、池田小学校だって、襲撃事件のあと、カウンセラーを大勢派遣したりする。さらには、トラウマの記憶の染み付いた校舎はもう使えないから建て替える、という話になる。これは素人の荒っぽい議論かもしれないけれど、僕だったら、あまり大騒ぎせず、あの校舎で淡々と授業を再開した方がいいように思いますね。子どもというのは案外強いもので、もちろん悪夢を見たりはしながらも、平気で生きていくのではないか。デリケートな「心のケア」が必要だとか言って腫れ物にさわるように扱うことで、かえってトラウマを悪化させてしまうのではないか。校舎の建て替えにいたっては、それこそ、汚れていない白紙の状態にリセットして再出発できる、またそうしなければいけない、という悪しきゲーム感覚のようなものに通じるところさえあると思います。それだと、広島や長崎は原爆のトラウマを、神戸は震災のトラウマを背負っているから、他所に移らなければいけないという話にもなってしまう。大昔の遷都のような発想ですよ(笑)。そうではなく、トラウマの記憶を帯びた場所で、それを踏まえて生きていくことの方が大切でしょう。少なくとも今流行している安易な心理学は、それと反対の方向を向いているように思うんです。

斎藤)トラウマと場所についての見解として、私もまったく同感です。社会学の領域で「社会の心理学化」ということが言われているようですが、確かに、宗教も心理学化するし、精神分析も心理学化するし、そういう悪しき傾向がありますね。そういう環境のもとで発言が取り上げられやすいのは、社会学者であったり、精神科医であったりします。しかし、結局そこでなされているのは、社会学者が心裡を語り、精神医学者が社会を語るという奇妙な転倒なんです。その中で、いわば心のインフレーションが進んでいると思うんですね。もちろん、そこでフィーチャーされている心のあり方というのは非常に素朴で、むしろ無意識的な因果律から隔たったもっと直線的な因果律で支配された世界だったりするわけです。