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2019年3月7日木曜日

ヒトラー備忘

ヒトラーについてもう調べるつもりは今はそれほどないが、前回の記事を書くなかで拾った二つの文を掲げて備忘とする。


Alois Schicklgrube (father), Klara Hitler / née Pölzl (mother)

ヒトラーは秘書 Christa Schroeder に語った、「私は父を愛していなかった。いやそれどころか父を恐れていた。父は短気ですぐに殴った。私の可哀想な母は、いつもそのことで私を心配した。Meinen Vater habe ich nicht geliebt, dafür aber umso mehr gefürchtet. Er war jähzornig und schlug sofort zu. Meine arme Mutter hatte dann immer Angst um mich」( Hitlers Wien. Lehrjahre eines Diktators, Brigitte Hamann、1996)


Christa Schroeder and Hitler


ヒトラーはまた弁護士Hans Frank にこう語った、「10歳から12歳のときでさえ、私は父をバーから連れ戻さねばならなかった。私がいままで経験した最も不快な恥辱だ。ああフランク、アルコールは何という悪なんだ! アルコールは本当に私の若き時代の最も不快な敵だった。」(同上、Brigitte Hamann、1996)


Hans Frank and Hitler


 というわけだがとくに何が言いたいわけでもない。

ついでに小林秀雄の名ヒトラー論を段落分けして小題をつけて貼付しておこう。

■小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収より

【人生の根本は獣性】
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。

【狂的なものと合理的なもの】
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。


【大衆の無意識界】
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。

【とてもつく勇気のないような大嘘】
大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。


【大衆の目を、特定の敵に集中させること】
大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。

【教養という見せかけ】
ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。


【悪魔と天使】
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」『考えるヒント』所収


ーーひさしぶりに読み返したら、ドストエフスキーの名があるな。ついでにフロイトのドストエフスキー論からいくらか。


■フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年

父が冷酷で乱暴で残忍であったとすると、超自我は、これらの諸性質をこの父から受け継ぐ。そして、この超自我と自我との関係のなかに、受動性がーーこれこそまさに抑圧されるべきであったものなのであるがーーふたたび頭をもたげる。すなわち、超自我はサディスティックになり、自我はマゾヒスティックになる。つまりその根本において、女性的‐受動的になる Das Über-Ich ist sadistisch geworden, das Ich wird masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv. 。すると、自我のなかには、罰を受けたいという強い欲求 großes Strafbedürfnis が起こる。それは部分的には運命への犠牲者Schicksalとして自らを差し出す。そしてこの自我は、ある時には、超自我(罪の意識 Schuldbewußtsein)によって虐待されることのなかに満足を見い出す。
ドストエフスキーは、小さな事柄においては、外に対するサディストであったが、大きな事柄においては、内に対するサディスト、すなわちマゾヒストであり、最もお人好しな、もっとも慈悲心に富んだ人間であった。in kleinen Dingen Sadist nach außen, in größeren Sadist nach innen, also Masochist, das heißt der weichste, gutmütigste, hilfsbereiteste Mensch.(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

 というわけだが、またまた引用の自動連鎖に促される。このところ引用してきたことの再掲に過ぎないが、こういう風に列挙しておくのもあとあと何かの役に立つかもしれない。

心ひそかに自分を責めさいなみ、われとわが身を噛み裂き、引き挘るのだ。そうするとしまいにはこの意識の苦汁が、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い感じに変わって、最後にはそれこそ間違いのない真剣な快楽になってしまう! そうだ、快楽なのだ、まさに快楽なのである!(⋯⋯)

諸君、諸君はこれでもまだわからないだろうか? 駄目だ、この快感のありとあらゆる陰影を解するためには、深く深く徹底的に精神的発達を遂げて、底の底まで自覚しつくさなければならないらしい!(ドストエフスキー『地下生活者の手記』)

《四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼(ニーチェ)は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。》(小林秀雄「ニーチェ雑感」)

ドストエフスキーこそ、私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である。すなわち、彼は、スタンダールを発見したときにすらはるかにまさって、私の生涯の最も美しい幸運に属する。浅薄なドイツ人を軽蔑する権利を十倍ももっていたこの深い人間は、彼が長いことその仲間として暮らしたシベリアの囚人たち、もはや社会へ復帰する道のない真の重罪犯罪者たちを、彼自身が予期していたのとはきわめて異なった感じをとったーーほぼ、ロシアの土地に総じて生える最もすぐれた、最も堅い、最も価値ある木材から刻まれたもののごとく感じとった。(ニーチェ「ある反時代的人間の遊撃」45章)

《享楽 Lustが欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -》(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)

私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)


《苦痛のなかの快 Schmerzlustが、マゾヒズムの根である。》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

《不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》(Lacan, S17, 11 Février 1970)


自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的であろう。Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. (フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)
エスの力能 Macht des Es は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安Angst の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事 Aufgabe des Ich である。…

エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとってなんと悲しい暴露だろうか![traurige Eröffnung für den Ethiker! ]……

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

エロス欲動という死の欲動


愛(エロス)と憎悪(タナトス)との対立は、引力と斥力という両極との関係がたぶんある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


最初に分離不安ありき


たぶんこの図はどっちかの過剰に傾けば、極端な反転が起こるということはありうるな。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない(中井久夫「「踏み越え」について」2003年)

つまり、前回記したことも含めて言えば、自己破壊性が過剰にある人物は、ある契機によって極端な他者破壊性に向かう、ということは十分ある。




ーーで、この天秤を支えているのは、いつも女の掌だよ、母胎だな。これは男も女も一緒。


⋯⋯⋯⋯

真理における唯一の問いとは、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、つまり「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」である。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
享楽はその根源においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel(ラカン、S23, 10 Février 1976)


というわけで、最後にヒトラーが愛したピアニストElly Ney、いわゆる「総統のピアニスト」を聴きましょう。享楽の穴に吸いこまれそうになるこのシューマンを。





享楽自体、穴Ⱥ を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)


Klara Hitler, c. 1880s


2016年1月15日金曜日

Acheronta movebo 冥界を動かせ!

【アンダーグランドの手記】
 ところで諸君、きみらが聞きたいと思うにしろ、思わないにしろ、僕がいま話したいと思うのは、なぜぼくが虫けらにさえなれなかったか、という点である。まじめな話、ぼくはこれまで何度虫けらになりたいと思ったか知れない。しかし、ぼくはそれにすら値しない人間だった。誓っていうが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。(ドストエフスキー『地下室の手記』)
四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)


 【血まみれの頭が飛び出す闇夜】
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(……)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

…………

◆ニーチェ『道徳の系譜』より(いくらか区分けして小題をつけているが、一連の文章である)。


【地上という地下室】
地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その勇気をもっている者が誰かあるか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険家君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるのか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえーー今度は私が聴き役だ。――

――「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞えてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱さを嘘でごまかして手柄に変えようというのですーー確かにそうに違いありませんーー全くあなたのおっしゃるとおりです。」


【美しい魂の猫撫声】
――それから!

――「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病そのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐をすることができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕さえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなりーーかれらの為すところを知るはただわれらのみ!』)。その上、『敵への愛』を説きーーそしてそれを説きながら汗だくになっています。」


【贋金造りども】
――それから!

――「すべてこららの陰謀家や隠れ場の贋金造りどもは惨めです。それは疑いありません。奴らは一緒に蹲まって温まり合ってはいるのですけれどーーしかし奴らの言うところによりますと、奴らの惨めさは神意によって選ばれた特別の扱いであって、一番可愛がられる犬が打ちゃく(手偏+鄭)されるのと変わりがない。恐らくこの惨めさもまた一つの準備、一つの試練、一つの訓練なのだろう。のみならず恐らくーーやがては償われ、莫大な利子を附けて、黄金で、いや幸福で払い渡される代物なのだろう、というのです。それを奴らは『至福』と呼んでいます。」


 【わるい空気です! わるい空気です!】
――それから!

――「今度は、私にこんなことを仄めかします。奴らはその唾を舐めていなければならない(恐怖からではない、断じて恐怖からではない! むしろ、神がおよそお上〔かみ〕を敬えと命じたまうたからだ)あの地上の有力者、支配者たちより、単により善いばかりではない。――単に『より善い』ばかりでなく、更に『より幸福』でもある。少なくともいつかはより幸福になるだろう、と。だが、もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」


【最も欺瞞に充ちている窖の獣ども】
――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《反感〔ルサンチマン〕》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……

――「わかりました。もう一度耳を欹てましょう(ああ! これは! どうだ! 鼻をつまもう)。奴らがすでに幾たびとなく繰り返したあの言葉が今やっと聞えます。『われわれ善き者――そのわれわれこそ正しき者だ』と。奴らの欲するもの、それを奴らは報復と呼ばず、却って『正義の祝勝』と呼びます。奴らの憎むもの、それは奴らの敵ではないのです。そうです! 奴らは『不正』を憎み、『背神』を憎むのです。奴らが信じかつ望むもの、それは復讐への希望、甘美な復讐(――『蜜より甘き』とすでにホメロスが呼んだ)の陶酔ではなくして、むしろ『神を無みする者に対する、神の、義しき神の勝利』なのです。奴らにとって愛すべきものとして地上に残されているもの、それは憎悪における同胞ではなくして、むしろ『愛における同胞』であり、奴らの言うところによれば、地上におけるすべての善くかつ正しい者なのです。」


【 もう沢山だ! もう沢山だ!】
――では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の至福――、それを奴らは何と呼んでいるか。

――「どうでしょうか。私の耳に間違いないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。――しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。」

――もう沢山だ! もう沢山だ! (ニーチェ『道徳の系譜』第一論文「善と悪」・「よいとわるい」)

…………

【フロイトによる精神分析とニーチェの洞察の近似性の指摘】
私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。(フロイト『自己を語る』1925)


【精神分析など知りたくないという防衛】
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

ーーその能力の差はあるのかもしれない、そしてそのスタイルへの違和がある人もあるだろう、また一時期似非精神分析的言説が溢れ返ったための嫌悪もあるのかもしれない。だが、現在、ドストエフスキー、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン系譜の仕事をまともにやっている稀な人物のひとりはジジェクだろう。多くの「思想家」は、相変らず「知りたくない」の態度を保ったままだ。


◆Tolerance as an Ideological Category ,2007,Slavoj Zizekより(私訳


【闇の奥】
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。

彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。

それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理上現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。


 【ペドフィリア生産装置としての教会】
人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、猥褻な否認された裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。

言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻なな秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この秘かな面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。


 【敢えて地下室を動かせ!】
したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。

慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ!

途中、軍隊における「冥界」について触れている箇所があるが、より詳しくは「拷問とイニシエーション儀式」を見よ。


…………

ところで、なぜ組織自体の「無意識」、その慣習の猥褻な冥界が生まれるのだろう。その直接的な説明ではないが、ヒントのひとつは下記のいくつかの文章にある。


【原始的集団的情緒の昂揚と思考の制止】
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


【死の欲動のゼロ度】
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING』、2012、最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」より、私訳)


【集団形成の善悪両面】
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


【人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物】
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

ーー楽しみを強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ アンコール』)

Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »(Lacan, Seminar XX)


…………

以下は別の記事にしようと思ったもので、上での話題とはそれほど関係がない(曖昧なままなので、敢えて別に投稿せず、ここに掲げる)。


しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

あくまで参考であり、今掲げたヴェルハーゲとジジェクとのあいだにはたとえば欲動についての考え方は(少なくとも一読は)異なる、→「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって

二人はある時期まで(すくなくとも2002年頃くらいまでは)互いに褒め合っていた。

たとえば、前世紀末にヴェルハーゲの書のひとつが英訳にて上梓されたが、それに対するジジェクの書評はかくの如し。

◆Does the Woman Exist? From Freud's Hysteric to Lacan's Feminine By Paul Verhaeghe

“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” – Slavoj Žižek

二人の「蜜月」が終った契機のひとつは、欲動、あるいは享楽の解釈の相違が決定的だろうとわたくしは見る。それはラカンのセミネールⅩⅩからⅩⅩⅢにかけての移行をどう読むかにもかかわる。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)。

臨床的ラカン派ヴェルハーゲとは異なり、哲学的ラカン派ロレンツォ・キエーザは2002年の時点で、ヴェルハーゲの論文を含むラカンのサントーム理論解釈をまとめたLuke Thurstonによる論文集書評で次のように記している。

one has to underline how the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being "beyond" the phallus.(Lacan Le-sinthome(Re-inventing the Symptom - Essays on the Final Lacan, edited by Luke Thurston, New York: Other Press, 2002) by Lorenzo Chiesa、PDF

この書評にはヴェルハーゲ批判もある。主にラカンの「サントームとの同一化」の捉え方である(ただしわたくしには、その批判はやや酷だと思えるが、その内容には今は触れない)。もっと決定的なのは享楽が“beyond the phallus” なのかそうでないのかの点だろう。このあたりはわたくしには曖昧なままである。そのときの核心のひとつは内容と形式の相違である。形式としてファルスの彼岸に残っているものを、「ファルスの彼岸」と言ってはまずいのだろうか?

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説(中井久夫ーー「現実界とはゼロのことである」)

この文は、「享楽は内容としては消去されたが、享楽のシステム自体は残存し、象徴界の非一貫性との直かの遭遇の際に顕在化して働く」と変奏できる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

享楽、あるいは現実界は「先史時代」であり「考古学」の対象、象徴界は「歴史時代」、つまり「歴史学」の対象であるとすれば、「先史時代」がないと言ってよいものだろうか・・・

ーーこれらの享楽は現実界とも言い換えられる。そしていまはこの二つの概念の相違は曖昧なままにしておく。ジジェクの簡潔な言い方なら次の通り。

現実界としての享楽は失われている。というのは、象徴秩序に住む人びとは決して直接には与えられない等々だから。しかしながら、享楽のまさに喪失がそれ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生む。だから享楽は同時に、常に既に失われている何かであり、かつまたそれから決して免れえない何かである。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この根源的に曖昧な現実界の地位に基づいている。それ自体を反復する何かが、現実界自体である。そしてそれはまさに最初から失われており、何度も何度も回帰して、しつこく己れを主張し続ける。(ジジェク、2012、私訳)

なおかつ中井久夫の文の変奏も、「原トラウマ」ーー、ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」(システム的トラウマ)ーーをそのまま享楽と同じものとはできないことは十分承知の上での変奏である)。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

ーーJENSEITS DES PHALLUS?

Jenseits des Lustprinzips(快原理の彼岸)?
Jenseits von Gut und Böse(善悪の彼岸)?

「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--(ニーチェ『道徳の系譜』)

ロレンツォ・キエーザは、上の書評を記した頃から「ジジェク組」となっている(参照:Slavoj Žižek: "The Animal Doesn't Exist" (respondent: Lorenzo Chiesa)

(ロレンツォよ! 名前が致命的だよ、きみは。教会 chiesa のロレンツォだって?)


ヴェルハーゲの「先史時代」をめぐる考え方は次ぎの通り。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」より)