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2016年9月14日水曜日

フロイトの第二「去勢」物語

フロイトの多くの概念は二重化されている。

抑圧/原抑圧、幻想/原幻想、父/原父、トラウマ/原トラウマ、抑圧された無意識/抑圧されていない無意識(力動的無意識/システム無意識)、快原理の此岸/快原理の彼岸……

いくつかフロイトから直接引用するとすれば、

抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw を立論する必要にせまられるとすれば、そのときは無意識〈性〉Unbewusstseinの性格がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。(フロイト『自我とエス』1923--「非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)」)
……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

ーーいま女性的マゾヒズムfeminine Masochismusとあったが、これはもちろん解剖学的な「女性」ではない。 そしてこの文には、ラカン派の享楽の定義のひとつがすでにある、「苦痛のなかの快Schmerzlust」と。

ほかにも次の文でさえ、不安/原不安として捉えうる。

不安の二つの起源ーーひとつはトラウマ的瞬間の直接的結果、もうひとつはそのような瞬間の脅威的反復の信号。eine zweifache Herkunft der Angst, einmal als direkte Folge des traumatischen Moments, das andere Mal als Signal, daß die Wiederholung eines solchen droht,(『新精神分析入門』1933)

これらの二重化はすべて、ラカン派的観点からは象徴界/現実界である。

ところで不思議にもフロイトの中心的概念「去勢」の二重化はない。この「去勢」概念をラカン、もしくはラカンはどうとらえているのか。

ラカンはセミネールⅩ「不安」1962-1963で、『不気味なもの』1919や『制止、症状、不安』1926などに批判的な検討をしているが、ラカン曰く、フロイトの去勢とは《イマジナリーな劇 dramatisme imaginaire》(S.10) に過ぎないとある。

ほかにも次のエクリの文はどうか。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance [Lacan,E825])
去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。
La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

去勢は防衛である。防衛となれば、別のものが「原初」にあるはずだ。それを「原去勢」と呼びうるかどうかは別にして。

以下、ふたりのラカン派の去勢をめぐる叙述を引用する。

人は言うことができる。欠如がその象徴的、そして/あるいは想像的支えを失った瞬間、欠如は「単なる穴」になる。すなわち対象になる。文字通り、そこに見られるものは「無」である。

ラカンは主張している、去勢不安よりももっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、「構造的罅 vice de structure」を。(……)

去勢コンプレックスは我々の経験のかなめとして機能している。というのは、それは象徴的演出、象徴的支えを提供し、したがって「現実界のなかの欠如」を処理/移転する方法を提供しているから。

言い換えれば、この問題においてラカンがフロイトを超えて行く点は、中心的あるいは根本的なものとしての去勢コンプレックスを追放することで成り立っているわけではない。そうでなく、卓子をひっくり返したのである。彼の主張は、不安の底には(甦った)去勢の恐怖あるいは脅威ではなく、去勢自体を喪失する恐怖あるいは脅威があるということである。すなわち、欠如の象徴的支え、去勢コンプレックスが提供する象徴的支えを喪失する恐怖・脅威である。

これが、ラカンの不安の定式「欠如が欠如する le manque vient à manquer」が最終的に意図しようとしていることである。不安のかなめは「去勢恐怖」にあるのではない。そうではなく、主体(そして彼女の欲望)が象徴的構造としての去勢のなかに持っている支えの喪失である。この支えの喪失は幽霊のような対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如が、絶対的な「過剰」として、象徴界のなかに現れる。それは、欲望の対象を追い払い、その場所に、欲望の原因(Ⱥとしての対象a)を出現させる幽霊のような対象の顕現である。(アレンカ・ジュパンチッチ、2005,REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE、PDF)
フロイトは1919年に『不気味なもの』を出版した。そこでは「親密な heimlich」ものと「不気味な unheimlich」ものが同じ意味をもつことを見出している。親密なものが、もしある危険のために隠しておかねばならないものを含んでいるなら、不安の原因になりうる、と。…

フロイトは去勢と「不気味なもの」とあいだの繋がりを、ホフマンの砂男の話を使って叙述する。この物語において、去勢が現れる独特なあり方は、実に注目に値する。それは目玉の喪失にかかわる。この喪失は、去勢の代理と想定され、したがって去勢自体と同じほど怖れられる。

フロイトはソフォクレスに言及する。そこにも彼は同じ代替を見出した。エディプスは母との禁じられた関係への懲罰として自分の目を刺し抉る。この古典的モデルを基にして、フロイトは一般化する、盲目になることは去勢されることの代理であり、盲目の怖れは去勢不安へと遡りうると。

この代替はーー仮に控え目に言ってさえーーかなり奇妙である。もし去勢コンプレックスの「不気味な」構成要素が母の性器、ペニスの欠如を見たという事実に戻りゆくのなら、そのとき両目を引き裂くのは、当面の最初の代理にはみえない。それどころか、盲目になることは、人が見たくないもの・見てはならないものを見てしまったことに対する「防衛」を思い起こさせる。

これは、我々が「不気味なもの」のフロイトの定式化を想起するとき、いっそう明瞭となる。不気味なもの、すなわち奇妙で危険な何ものかがそのなかに隠されている親密な何かである。数年前(別の論文で)、フロイトはこれをヒステリーの盲目に適用した。主体にとって「危険な」知覚内容は回避されなければならないと。

さらに我々は、エディプスにもこれを適用しる。彼は両目を何度も刺し貫く、「目はいかにせん、正視に堪えぬ。君の与える、げにそれほどの恐れおののき」「おお、光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで」。あまりに多く見てしまった男がもはや母を見ないように盲目になる。したがって、盲目になることは、見ることを禁じられたものに対する防衛である。(ヴェルハーゲ、1999、PAUL VERHAEGHE,DOES THE WOMAN EXIST? 1999,PDF

ジュパンチッチの文にあるラカンの引用、「欠如が欠如する le manque vient à manquer」については、「人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望」で引用した「不安が出現するのは、まさに主体が「陽画的positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》(Lacan,S.10)にもかかわる。

欠如とは本来、象徴的欠如であり、これもラカンによる「図書館」の話がわかりやすい。

ペニスの不在が「不在」として知覚されるためには,そもそもその不在の知覚以前にそれが「現前」しているものとして想定されているのでなければならない。つまり,原初的には「男性だけでなく女性も母親をフアルスを授けられたもの,つまり,いわゆるファリックマザーとして考えている 」 ( E686) のである。 それゆえ,母のペニスの不在が知覚されたとき,そこには象徴的なフアルスが発見されているのである。これは例えるなら,図書館のなかで一冊の本がなくなったとき,それは純粋に存在しないわけではなく「あるべき場所に欠けている」わけであって,「ない」という意味で「ある」という性質を持つという事態に似ている ( S4) 。これは象徴的対象だけに起こる事態であって,反対に現実的対象は常にあるべき場所にあり.欠如の可能性をもたない。象徴的なもの,つまりシニフイアンだけが「その場所に欠けることができる」 (E25)のだ。(松本卓也、2011ーーシナナイタメニ)

反対に「現実界には何も欠けていない」(S.10)、母のペニスの不在は象徴界からの遡及的なnachträglich 視点からのみ「不在」である。ラカン派にとって、このフロイトの用語「遡及性Nachträglichkeit」は、フロイト概念のうちで最も重要なもののひとつとされる(参照:結果は原因に先立つ)。

上のジュパンチッチの文に、《欠如がその象徴的、そして/あるいは想像的支えを失った瞬間、欠如は「単なる穴」になる》とあったが、ジャック=アラン・ミレールは、この象徴界の欠如/現実界の欠如を明晰に記述し、欠如/穴(ブラックホール)、すなわち、大他者のなかの欠如/穴=大他者の場の欠如としている(参照)。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

いまだラカンの前期の主要概念「存在欠如」を人間の最も根源的なものとする立場を取り続けているラカン注釈者もいないではないが、それは遡及性概念をただしく把握していないことによるのではないだろうか。だが存在欠如とは言語の効果にすぎない。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそう存在欠如としてあるものを顕す。

L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(S.17)

コレット・ソレールは後期ラカンを、存在欠如manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。かつまたラカンはフロイトの無意識を晩年、parlêtre(語る存在、言存在と邦訳されている)と言い換えたが、その用語をめぐって次のように記している。

parlêtre用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

ミレールなら次の通り。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

もちろんミレールにとっても享楽 jouissanceとは、「マイナス享楽(あるいは斜線を引かれた享楽)」である。

あなたがたが「父の名」の秩序化要素を導入するとき、リビドー・享楽・欲動のレヴェルにおける削減 subtraction がある。あなたがたがファルス用語で語るなら、完全な想像的ファルス(φ)とマイナスフィ(-φ)ーーこの意味は去勢であり、それは享楽の削減の代わりのフロイトの言葉である--がある。(Jacques-Alain Miller Ordinary Psychosis Revisited ,2008,PDF)


享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF


さて、ヴェルハーゲの注釈にもあったように、フロイトはソフォクレスの神話やホフマンの『砂男』解釈で、盲目になることと去勢とをほとんど同じものとして扱い人間の原初的な不安としているーーしかも最晩年の著作『終りある分析と終りなき分析』1937でさえ去勢コンプレクスを「岩盤」(分析の行き詰まり)としているが、それはいささか保留しながら読まなければならない。

もし岩盤なるものがあるならば、同じ『終りなき分析』に記されている「女性性」が岩盤である。

私は、「女性性の拒否」Ablehnung der Weiblichkeit は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

この 「女性性」とは実際は何なのかをめぐっては、「シナナイタメニ」にいくらか記したのでここでは触れない。ここでは去勢概念が二次的なものであるということを強調するのみにする。

上に、《不安の底には(甦った)去勢の恐怖あるいは脅威ではなく、去勢自体を喪失する恐怖あるいは脅威》であり、《欠如の象徴的支え、去勢コンプレックスが提供する象徴的支えを喪失する恐怖・脅威》(ジュパンチッチ)、あるいは《盲目になることは、見ることを禁じられたものに対する防衛》(ヴェルハーゲ)とあった。

ようするに、ラカン派内では、エディプスコンプレックスがフロイトの夢であったように(« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD.)(ラカン、S.17)、去勢概念も原不安への防衛である、という見解が現在では主流の考え方になりつつある(参照:エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! C'est strictement inutilisable ! 》。

ーーエディプス、無意識の欲望の原理、それは70年代にとても賛否両論の議論があったのですが、いまも通用するのですか? それは新しい家族の配置に釣り合うのでしょうか?

コレット・ソレール)いいえ、フロイトが私たちに提供したエディプスはもはや通用しません。それは、ラカンが言ったように たんなる「hystoriole」です。言ってしまえば、精神分析の「ファミリーロマンス le roman familial 」だった。(基本版:現代ラカン派の考え方

というわけだが、これらの解釈を受け入れるならば、谷崎潤一郎の「盲目」についての叙述は、フロイトよりも「正しい」ことになる。

…………

◆第二盲目物語
その両眼を抉った時期は、はっきり語っていないけれども、多分三成の邸へ呼ばれて怠慢の咎めを蒙った時、即ち文禄三年の秋を去ること餘り遠くない同じ年の冬か、四年の春頃であったろう。拙著「春琴抄」の佐助は盲人になるために針を瞳孔に突き刺してよく目的を達したが、順慶は戦国の武士であるからもっと野蛮な荒療治を行った。
斯くて順慶は、見たところでは従来と何の変化もなく、一箇の藪原勾当として自らも振舞い、人からも遇されていた訳であり、その限りに於いて彼の計畫は豫期の成果を収めたのであったが、一方彼は必然に起って来るであろう自己の心中の推移について、大きな誤算をしたのであった。と云うのは、視覚さえ失ったら精神的の煩悶が減って、ほっと重荷をおろした感じがするであろうと思っていたのが、反対の結果になった。彼が失明した目的の一つは、「夫人を見ないため」であったが、少くとも此の点に於いてアテが外れた。見まいと心がけたものが、前よりもよく見える。その上、一層悪いことには、それを肉眼で見ていた間は、「見る」と云うことに良心の制裁が伴っていたのに、心の眼を以て見るようになってからは、何等の拘束がないのである。肉眼で見るのでない以上、舊主へ不忠にもならなければ、夫人へ失礼にもならない。誰に対しても気がねがない。いつでも、自由に、その映像を飽きるほど視つめていられる。盲人の真似をしつゝ、薄眼でおず〳〵と盗み視ていた時よりも、遥かに大きく、生き〳〵と見えるのであった。(『聞書抄 第二盲目物語』)

◆春琴抄
されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間焼け爛れた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに堪えずしてとっさに面を背けたので燈明の灯の揺めく蔭に何か人間離れのした怪しい幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖れたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避けた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に赴いた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと突如春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上からしきりに両眼を押し拭えば佐助も諳然として云うべき言葉なく共に嗚咽するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を取り除けても差支ない状態にまで治癒した時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と縫針とを密かに持って来て寝床の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時にして両眼を潰したもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。
お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄盲目の悲しさには立ち居も儘ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白い円光の射して来る方へ盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰の恨みを受けてこのような目に遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござりますそのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わせようとした奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた(『春琴抄』)