最初にエロス/タナトスとは、愛/闘争(憎悪)、結合/解体、融合/分離、引力/斥力などの用語群で語られているのを示す。
まずフロイトの最晩年の『終りある分析と終りなき分析』ーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ論ーーにおけるエロス/タナトスをめぐる叙述である。
ギリシア文化史のなかでの最も偉大な注目すべき人物…エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理――愛と闘争 philia und neikos――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスと破壊 Eros und Destruktion と同じものである。その一方は、現存しているるものをより大きな統一 Einheiten に結合 zusammenzufassen しようと努め、他のものは、この融合 Vereinigungen を分離 aufzulösen(解体)し、融合によって形成された構造 entstandenen Gebilde を破壊 zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 1937年)
死の枕元にあったとされる遺稿では次の通り。
長いあいだの躊躇いと揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。(⋯⋯)
エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに結び合わせる Bindung ことである。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を分離 aufzulösen(解体)すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。
破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(⋯⋯)
生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為 Akt des Essens は、食物の取り入れ Einverleibung という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすることである。性行為 Sexualakt は、最も親密な結合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。
この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ーー「引力 Anziehung」とは、フロイトが原抑圧(固着)を語るときに使われる語彙である(参照)。そしてラカンの穴Ⱥ概念のシニフィアンであるS(Ⱥ)は、原抑圧のシニフィアンである(「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)。
ドゥルーズによる「引力と斥力」の記述は次の通り。
エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
⋯⋯⋯⋯
さてフロイトの遺稿には次の叙述があった。
破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestriebとも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ラカンはこの箇所に異議表明をしている。
欲動自体、それは破壊欲動 pulsion de destructionなのだが、そのかぎりにおいて、非生命体(無機物 l'inanimé=死)への回帰傾向の彼岸 au-delà de cette tendance au retour à l'inanimé になくてはならない。(ラカン、S7、04 Mai 1960)
ラカンにとって死の欲動は、無機的状態への回帰(あるいは死に向かう欲動)であるどころか、「永遠の生(不死の生)」にかかわるのである。
リビドー libido、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドー。これは、不死の生 vie immortelle、押さえ込むことのできない生 vie irrépressible、いかなる器官 organeも必要としない生、単純化され、壊すことのできない indestructible 生、そういう生の本能である。 (ラカン、S11、20 Mai 1964)
フロイトの死の欲動は、自己消滅への渇望や、どんな生命緊張の無機的不在への回帰渇望とはまったく関係がない。それどころか死の欲動とは、死にゆくことのまさに反対ーー「不死の」永遠の生 'undead' eternal life 自体の名であり、罪と苦痛のまわりを彷徨う終わりなき反復循環に囚われるという悲惨な運命の名である。したがって、フロイトの「死の欲動」の逆説は、まさに「死」の反対の名だということである。精神分析内で「不滅性」が現れるあり方の名、生の不気味な過剰の名、生と死の(生物学的)循環の彼岸に生き続ける「不死の」衝動の名である。精神分析の究極の教えは、人間の生はけっして「ただの生」ではないということである。人間は単に生きているのではない。人間は、過剰のなかの生を享楽する奇妙な欲動にとり憑かれ、突出した剰余・物事の通常の成行きから逸脱した剰余に熱狂的に纏いつかされている。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年、私訳)
…………
ドゥルーズが「生の欲動/死の欲動/死の本能」という三区分をするとき、上のラカン解釈における死の欲動=不死の欲動(ドゥルーズの「死の本能」)と相同的である。
『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。
なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。
従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。
無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。
ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。
すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)
翌年に上梓された『差異と反復』には「生の欲動/死の欲動/死の本能」の三区分はない。ここでは「生の欲動+死の欲動」がエロスであり、「死の本能」がタナトスである、という風にわたくしは読む(フロイトには「欲動融合 Triebmischung」という概念があることを想い出しておこう)。
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
上にあるように、ドゥルーズにとって「反復のポジティヴな内的原理」は「原抑圧」である。
そして晩年のラカンによる「サントーム」概念とは、原抑圧(原固着)の徴のことである(参照:ララングという母の言霊)。
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)
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ラカンの死の欲動(ドゥルーズの死の本能)は、カール・ケレーニイ解釈の「ゾーエーZoë /ビオス Bios」におけるゾーエーに近似している、《ゾーエーは死を知らない》。
ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。
ビオスと 死(タナトス)との関係は、一方の死を排除してしまうような対立状態にはない。そうではなく、特徴的な死は特徴的な生の一部なのである。そればかりか、生はみずからの活動を停止する仕方によってさえも特徴づけられる。あるギリシャ語の言い回しは、<独自の死によって生を終える>ことが特徴ある死であると述べて、この点を実に端的に言い表している。それとは逆に、タナトスをしめ出す生がギリシャ語のゾーエーである。
ゾーエーにもし輪郭があるとしてもそれは稀であるが、その代わりにゾーエーは、死すなわちタナトスとことのほか対立的な関係にある。ゾーエーから明瞭に <ひびく>ところのものは< 非=死>である。それは死を自分に近寄せない何ものかである。 (カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根 Dionysos Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976年ーー「玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë」)
上の文の「タナトス」用語遣いには、十分に注意して読まなければならない。タナトスの底にある「非死」としてのゾーエーを語っている文脈のなかで使われているのだから。
ケレーニイの叙述に《ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなもの》とあったが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレから、次のような近似的な表現を引用することができる。
いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 )
ーー最もすぐれたニーチェ解釈者のひとり、クロソウスキーは、永遠回帰は至高の欲動のことではないか、と言っている。
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。
・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)