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2019年11月30日土曜日

リビドーの三界

ラカン語彙を扱う場合とくに注意しなければならないのは、重要な語彙には三界(現実界、想像界、象徴界)があって、どのレベルでラカンが語っているかを見極めなければならないことである。そうしないと、ある場合と別の場合は、同じ語を使いつつまったく逆のことを発言していて支離滅裂にみえかねない。たとえば去勢などという語はもっとも注意しなくてはならない。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

だがいまは去勢の話はしない、ここではリビドーもしくは愛の話である(そもそもリビドー自体、「去勢=身体の穴」にかかわるのだが、ここではそういったややこしい話はしないでおく)。

ジャック=アラン・ミレールは2009年のセミネールで、リビドーについてこう言っている。

欲望と享楽にかんして…単純化すれば、欲望としてのリビドー [libido comme désir]の解釈ーーネガ解釈ーーと享楽によるリビドー[libido par la jouissance]の解釈ーーポジ解釈ーーを言いうる。(Jacques-Alain Miller, L'Orientation lacanienne, Choses de finesse en psychanalyse XVII, 13 mai 2009)

これは単純化とあるように、現実界と象徴界の対比としてのリビドーを語っている。

他方、1995年のセミネールにおいては三界レベルでのリビドーを示している。

ナルシシズムと対象関係のあいだの裏表としてのリビドー (想像界)。

欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー (象徴界)。

享楽によるリビドー (現実界)。(J.-A. Miller, The Lacanian orientation, “Silet”, 15th March 1995、摘要訳)

これを仮にボロメオの環に当てはめれば、次のようになる(実際は三つの環の重なり目を考慮しなければならず、それぞれの語彙群はこんな単純なものではないが、ここでは簡略化モデルである)。




ーーリビドーとはフロイトの定義においては、エロスエネルギーであり、愛の力である。

すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

そしてこの本来的なリビドーが享楽である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そしてもうひとつ、享楽=リビドー =愛=エロスの最も基本的な定義は融合だが、究極の融合とは死である(参照:エロスは死である)。

享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006)

ところでさきほど仮においたボロメオの環の語彙群自体、誤解をまねきやすいが、現実界の審級にある享楽とはフロイトの「自体性愛(自己身体の享楽・自閉的享楽)、原ナルシシズム、原マゾヒズム(=死の欲動)」等のことでもある。


享楽基本語彙群
自体性愛
auto-érotisme
原ナルシシズム
narcissisme primaire
自己身体の享楽
jouissance du corps propre
自閉的享楽
jouissance autiste
女性の享楽
jouissance féminine 
原マゾヒズム  
masochisme primordial



では想像界におけるナルシシズムはなにかということになる。これはフロイト語彙なら二次ナルシシズムである。



われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärer (二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus )である。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

この自我のナルシシズムが想像界の審級にある愛である。

愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、……《私マジネール [i-maginaire]》…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)

基本的にはこのイマジネールな愛が介入して、享楽は欲望になる、《愛のみが享楽を欲望へと移行させる(下降させてくれる)。Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir  》(Lacan, S10, 13 Mars 1963)

ーーラカン派において欲望とは享楽にたいする防衛ということである。


他方、ラカンが《私は自分の身体しか愛さない》というとき、これがフロイトの自体性愛(原ナルシシズム)であり、現実界の審級にある。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

自分の身体しか愛さないという享楽=自体性愛なのだから、他者との関係性としての《愛は不可能である。l'amour soit impossible 》(ラカン、S20, 13 Mars 1973)ということになる。

したがって性関係はない。


自体性愛=享楽自体=女性の享楽=性関係はない
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
享楽は関係性を構築しない (「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」)。これは現実界的条件である。la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


この「性関係はない」という現実界に対する防衛が、二次ナルシシズムであり欲望である。

我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴=トラウマ(troumatisme )」を為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
我々の言説(社会的つながり lien social) はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel である。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique 、 1993)

………

以下、フロイトのリビドー定義文のひとつを掲げておこう。ここには現実界、想像界、象徴界に分けて捉えると、いっそう明瞭化される語彙群がたくさんある。

リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

2019年11月28日木曜日

ジジェクの誤謬

ボクは長いあいだのジジェクファンだし、多くのことを彼から学んだけれどさ。
でもジジェクの現実界ってのは、「「二つの現実界」についての当面の結論」で記したけれど、間違っているんだな、これは2016年ごろからそう疑いだして、いまはほぼ確信的にそう思っている。

間違っているというか、アンコールまでのラカンの現実界であり、ラカンがそれ以後転回した真の現実界ではないってことだ。

ジジェクの現実界は、左側の現実界でしかない(最下段にミレールの注釈を貼り付けたが、右側が真の現実界)。

現実界についての相反する二種類の定義
私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
症状は現実界について書かれことを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
不可能性:書かれことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)         
現実界は書かれことを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
書かれことを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…

書かれことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)


たとえばサントームのセミネールに次のボロメオの環がある。




ここには二つの穴trouがあるけれど、穴とはラカンの定義上、現実界のこと。

現実界は…穴=トラウマを為す[fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

ジジェクの現実界は象徴界のなかの穴でしかない。

現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を作る。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

それは次の文が瞭然と示している。

現実界 The Real は、象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立が象徴界自体に内在的なものであるという点、内部から象徴界を掘り崩すという点にある。(…)現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもないのだ。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 現実界は、外部の例外ではなく、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

しかし、後期ラカンの現実界とは、想像界と現実界の重なり目にある真の穴(人が感知しうる現実界という意味での現実界)。文献としては、たとえば「トラウマは書かれることを止めない」に示してある。

一言でいえば、後期ラカンの現実界は、フロイトのいう「無意識のエスの反復強迫Wiederholungszwang des unbewußten Es 」(1926)のこと→「後期ラカンの鍵」。

フロイト自身の直接的表現なら、次の文。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

このリアルな無意識は、リビドー固着によってエスのなかに置き残された身体的なものという意味であり、これを別名「異物」と呼び、たえまない反復強迫を起こす(参照:なんでも穴である)。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


ま、これらは人がジジェクファンであればあるほどいっそう、はやいところ認知しなくちゃダメな話だと思うね。

そもそもジジェクのあのたえまない著作活動の根は、無意識のエスの反復強迫にあるんじゃないかな、これは憶測だけれどボクはそう思っているね。


……

ラカンにとって時に確かなのは、分析セッションは面会予約に還元されるということである。(ジャック=アラン・ミレール、The Axiom of the Fantasm)

ーーまさか! と普通は思うだろう、だがジジェクがこれを「証明」している。

私は精神分析実践とほとんど恐怖症の関係にあるんだ。決してあんなことをしたい気はないね。

ーーけれど、あなたはミレールに分析を受けに行ったではないですか?

そう、でもひどく倒錯的で奇妙な分析だった。私が分析に行ったのは、個人的理由のせいだ。不幸な恋愛、深い、深い、とっても深い危機に陥ったせいだ。分析は、純粋に官僚的仕方でなされた。ミレールは私に言う、次週来るように、明日の午後5時に来るように、と。私は、約1ヶ月の間、本当に自殺したい気分だった。この思いは、ちょっと待て! と囁いた。自殺するわけにはいかない、というのは、明日の5時にミレールのところに行かなくちゃならないから。義務の純粋に形式的官僚構造が、最悪の危機を生き延びさせてくれた。…(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižek、私訳)

ジジェクを読む上で、愛の外傷性記憶の反復強迫を外しては何も読んだことにならないと思うな。それと、ボクの気づいた範囲でも、サラエヴォの外傷記憶がもう一つの彼の核心だよ。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。 (ジジェク『快楽の転移』)

これはジジェクがどんな状況で、どんな事態に遭遇したとき、ひどくアツくなるか、からの憶測だけれどね。

なにはともあれボクは政治的には、そして彼のマルクス解釈については、いまもって彼に大きな信頼を寄せている。以前は全体としては80パーセントぐらいの信頼があったけれど、いまは、ま、60パーセント、いやこれではすくなすぎる、65パーセントぐらいの信頼になったってところだな。

次はジジェクが何度か引用しているラカンの発言だ。

真理の愛とは、弱さへの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さへの愛、真理が隠していたものへの愛、去勢の愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)

彼の象徴界へのヘバリツキは、ジジェクの弱さだよ。マルキシストとして世界の座標軸ががなんとか変わらないか、と常に祈願している彼の立場を信頼して、そうあるジジェクへ「去勢の愛」をささげるね。



2019年11月27日水曜日

遠くからやってくればくるほど、近くからわたしに触れる


遠くからやってくればくるほど、近くから私に触れる
痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)
死なずに生きつづけるものとして音楽を聞くのがわたしは好きだ。

音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。《遠くからやってくるように》、シューマン(<ノヴェレッテ>作品二一の最終曲、<ダヴィッド同盟舞曲集>作品六の第十八曲、あるいはベルク(<ヴォツェック>四一九-四二一小節)に認められるこの指示表現は、このうえなく内密なる音楽を指し示している。それは内部からたちのぼってくるように思われる音楽のことだ。われわれの内部の音楽は、完全にこの世に存在しているわけではないなにかなのである。欠落の世界、裸形の世界ですらなく、世界の不在にほかならない。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド PIANO SOLO』)



(私の魂)といふことは言へない
しかも(私の魂)は記憶する


耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌う

私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ


遠くからやってくるもののみが魂という楽器をかきならす
S氏によれば、詩人は魂の自発性を信じず、いわば楽器のような魂を外部から訪ずれたものが鳴らすのだと考えていたという。寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ。外部にある耀かしい日たち、かれらが (私の魂)を訪ずれて、魂という楽器を鳴らすように、私のけふの日を歌ふのだ。それ自体の、中心的な力としての歌を自発して歌いいずる(私の魂)というものはない。しかしいったん楽器として鳴り響かせた歌を(私の魂)は記憶する…(大江健三郎「火をめぐらす鳥」)
葬儀に帰られたKさんと総領事が、伊東静雄の『鶯』という詩をめぐって話していられた。それを脇で聞いて、私も読んでみる気になったのです。〈(私の魂)といふことは言へない/しかも(私の魂)は記憶する〉

天上であれ、森の高みであれ、人間世界を越えた所から降りてきたものが、私たちの魂を楽器のように鳴らす。私の魂は記憶する。それが魂による創造だ、ということのようでした。いま思えば、夢についてさらにこれは真実ではないでしょうか?

私の魂が本当に独創的なことを創造しうる、というのではない。しかし私たちを越えた高みから夢が舞いおりて、私の魂を楽器のようにかきならす。その歌を私の魂は記憶する。初めそれは明確な意味とともにあるが、しだいに理解したことは稀薄になってゆく。しかしその影響のなかで、この世界に私たちは生きている……  すべて夢の力はこのように働くのではないでしょうか? ………(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部)
我々の古代人は、近代に於いて考へられた様に、たましひは、肉體内に常在して居るものだとは思って居なかった様である。少なくとも肉體は、たましひの一時的假りの宿りだと考へて居たのは事実だと言へる。・・・

人間のたましひは、いつでも、外からやって來て肉體に宿ると考へて居た。そして、その宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落としてしまふ事になる。(折口信夫「原始信仰」)


2019年11月26日火曜日

午後の日射し

声がきこえてくるな
いいよ、いくら書いたって
ちゃんときいてるから
あっちじゃだめだね、そっちじゃないと

すごかったな、あの一ヶ月
時のなかで永遠になってるさ
ぼくにだって
「何度愛をかわしたでしょう」って感じだよ



午後の日射し   カヴァフィス 中井久夫訳


私の馴染んだこの部屋が
貸し部屋になっているわ
その隣は事務所だって。家全体が
事務所になってる。代理店に実業に会社ね

いかにも馴染んだわ、あの部屋

戸口の傍に寝椅子ね
その前にトルコ絨毯
かたわらに棚。そこに黄色の花瓶二つ
右手に、いや逆ね、鏡付きの衣裳箪笥
中央にテーブル。彼はそこで書き物をしたわ
大きな籐椅子が三つね
窓の傍に寝台

何度愛をかわしたでしょう。
窓の傍の寝台
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね

…あの日の午後四時に別れたわ
一週間ってーーそれからーー
その週が永遠になったのだわ



2019年11月24日日曜日

おい、信者のみなさん、鳥語装置で叫ぶな!

私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。――すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解であるーー、根本においてはただ一人のキリスト教者がいただけであって、その人は十字架で死んだのである。「福音」は十字架で死んだのである。この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、すでに、その人が生きぬいたものとは反対のものであった。すなわち、「悪しき音信」、禍音であった。「信仰」のうちに、たとえばキリストによる救済の信仰のうちに、キリスト者のしるしを見てとるとすれば、それは馬鹿げきった誤りである。たんにキリスト教的実践のみが、十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、キリスト教的なのである・・・今日なおそうした生は可能であり、或る種の人たちにとってはそのうえ必然的ですらある。真正のキリスト教、根源的キリスト教は、いかなる時代にも可能であるであろう・・・信仰ではなく、行為、なによりも、多くのことをおこなわないこと、別様の存在である・・・意識の状態、たとえば、信仰とか真なりと思いこむとかはーーいずれの心理学者も知っていることだがーー本能の価値にくらべれば完全にどうでもよいことであり、五級どころのことである。もっと厳密に言うなら、精神的因果性の全概念が誤りなのである。キリスト者であることを、キリスト者であるゆえんのものを、真なりと思いこむことに、たんなる意識の現象性に還元することは、キリスト者であるゆえんのものを否定することにほかならない。実際のところ一人のキリスト者も全然いなかったのである。「キリスト者」なるものは、二千年以来キリスト者と呼ばれているものは、たんに心理学的な自己誤解にすぎない。(ニーチェ『反キリスト者』)

ニーチェが言っていることを「全面的には」支持しないまでも、この期に及んでの鳥語装置での信者のみなさんの言葉ってのはとってもクサイんだよーー《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しき魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども。》(ニーチェ『この人を見よ』)

もし法王がお好きなら、静かに祈っておれよ






■ヴェイユ書簡、ペラン神父宛
わたくしをこわがらせるのは、社会的なものとしての教会でございます。教会が汚れに染まっているからということだけではなく、さらに教会の特色の一つが社会的なものであるという事実でございます。わたくしが非常に個人主義的な気質だからではございません。わたくしはその反対の理由でこわいのです。わたくしには、人々に雷同する強い傾向があります。わたくしは生れつきごく影響されやすい、影響されすぎる性質で、とくに集団のことについてそうでございます。もしいまわたくしの前で二十人ほどの若いドイツ人がナチスの歌を合唱しているとしたら、わたくしの魂の一部はたちまちナチスになることを、わたくしは知っております。これはとても大きな弱点でございます。けれどもわたくしはそういう人間でございます。生れつきの弱点と直接にたたかっても、何もならないと思います。(…)

わたくしはカトリックの中に存在する教会への愛国心を恐れます。愛国心というのは地上の祖国に対するような感情という意味です。わたくしが恐れるのは、伝染によってそれに染まることを恐れるからです。教会にはそういう感情を起す価値がないと思うのではありません。 わたくしはそういう種類の感情を何も持ちたくないからです。持ちたくないという言葉は適当ではありません。すべてそういう種類の感情は、その対象が何であっても、いまわしいものであることをわたくしは知っております。それを感じております。(シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ Attente de Dieu』)


なぜあの連中ーーこの今、法王来日に浮き立っている連中ーーをひどく不快に感じるのか、といえば、ヴェイユの言っているのとほぼ似たような感覚だな、言ってしまえば、連中はナチスと同じにおいがする。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)

次の中島義道はアンナ・アーレントのパクリだが、よくまとまっているので彼を引用しておこう。

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。…

魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。(中島義道『差別感情の哲学』)

ーーだな、ニブイんだよ、あれらの連中は。


ヒトラー大躍進の序文
フロイトの『集団心理学と自我の分析』…それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。(ラカン,S8,28 Juin 1961)
集団は衝動的 impulsiv で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によって導かれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的 gebieterisch であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感 Allmacht をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)
(自我が同一化の際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。そして同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung

同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れ Introjektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章)
原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)
理念 führende Ideeがいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)







2019年11月23日土曜日

海は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる

アリアドネはアニマ、魂である Ariane est l'Anima, l'Ame(ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』)

ーーアリアドネは《魂の状態の中に刻印される inscrits dans un état d'âme 》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

ニーチェにおいて「神の死」は、「永遠回帰 Éternel Retour」のエクスタシー的刻限と同様に、(散乱する諸アイデンティティの)「魂の調子 Stimmung」への応答である。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)

………

そこのアリアドネに意地悪言っていいか。

現実界は、「書かれことを止めないもの」じゃなくて「書かれことを止めないもの」なんだ。

以下、左項と右項がまったく相反する現実界の定義であり、最後にミレールによる注釈(これを「まともな」臨床ラカン派で現在否定する人はない)。



現実界についての相反する二種類の定義
私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)
症状は現実界について書かれことを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)
不可能性:書かれことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)         
現実界は書かれことを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
書かれことを止めないもの un ne cesse pas de s'écrire。これが現実界の定義 la définition du réel である。…

書かれことを止めないもの un ne cesse pas de ne pas s'écrire。すなわち書くことが不可能なもの impossible à écrire。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)


これはジジェクさえ2012年の時点でもまだ分かっていなくて、一般の人だったらいっそうやむえないんだけど、ようするに言語から見たら現実界は「書かれことを止めないもの」だけれど、身体の現実界(欲動の現実界)から見たら「書かれことを止めないもの」。

ボクも2年前ぐらいまではわかっていなかった。

セミネール20アンコールの3月と5月のあいだに裂け目があって、1973年5月以降が身体のラカン。

フロイトの無意識のエスの反復強迫(=永遠回帰)が、書かれることを止めないものこと。

「自動反復 Automatismus」=「無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es 」(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

さらにエス概念の起源ニーチェに遡れば、例えば次の文。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

海は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくるだろ?

君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)


ここで真のフェミニスト、カミール・パーリアを「ここでの文脈とは関係なしに」掲げておこう。

女の身体は冥界機械 [chthonian machine] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。

元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…

自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。

女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

米国ポリコレフェミ文化のなかの爆弾女カミール・パーリアはフェミニストのなかでは最もすぐれたニーチェ読み、フロイト読みのひとりである。《フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。》(カミール ・パーリア Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)


………

※付記

ほかにもニーチェはこう言っている。

人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
傷つけることを止めないもののみが記憶に残る。nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis (ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)

この二文は、フロイト ・ラカン的にいえば、「トラウマへの固着は書かれることを止めない」あるいは「身体の上への刻印は書かれることを止めない」。

トラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974.11.30)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


あるいはプルースト=バルト的に「身体の記憶は書かれることを止めない」でもよい。

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

ーーレミニサンスは、無意志的記憶の回帰。

この書(スワン家のほうへ)は極めてリアルな書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)

トラウマとは喜ばしいトラウマもあるとするのが中井久夫。ボクはこの定義をとる。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

2019年11月22日金曜日

恋に恋して

前回も記したようにヌリア・リアル Nuria Rialは1975年カタローニア生まれだから、下の映像は41歳のときとなる。じつに美しい。

■Francesco Cavalli: L'Amore Innamorato(恋に恋して), Non è maggior piacer, Christina Pluhar, 2016




ひとりの歌手に惚れるといままで一度も聴いたことのない曲まで聴くようになるという効用がある。

それにしてもNuria Rial - Rinaldo, Lascia ch'io piangaの3;00からの数十秒は絶品だ、20回ぐらいきいたけれどまだ鳥肌が立つ(たぶん映像効果もある、ーーああオッカサン!)。

さらにふたたび  ライネル・マリア・リルケ 堀辰雄訳

さらにふたたび、よしや私達が愛の風景ばかりでなく、
いくつも傷ましい名前をもつた小さな墓地をも、
他の人達の死んでいつた恐ろしい沈默の深淵をも
知つてゐようと、さらにふたたび、私達は二人して
古い樹の下に出ていつて、さらにふたたび、身を横たへよう
花々のあひだに、空にむかつて。


2年ほどまえ聴いてウナサレ続ケタ Bernarda Fink「夜咲きすみれ Nachtviolen」 の後半(1:38~)と同じぐらい衝撃的だ。


愛の歌   リルケ  富士川英郎訳

お前の魂に 私の魂が触れないように
私はどうそれを支えよう? どうそれを
お前を超えて他のものに高めよう?
ああ 私はそれを暗闇の なにか失われたものの側にしまつて置きたい
お前の深い心がゆらいでも ゆるがない
或る見知らぬ 静かな場所に。
けれども お前と私に触れるすべてのものは
私たちを合わせるのだ 二本の紘から
一つの声を引きだすヴァイオリンの弓の摩擦のように。
では どんな楽器のうえに 私たちは張られているのか?
そしてその手に私たちを持つ それはどんな弾き手であろう?
ああ 甘い歌よ


私を泣かせてください




ヌリア・リアルはバッハのカンタータをしばしば歌うので、ときに聴くのだが、真に魅せられたことはない。でも上のヘンデルの 「Lascia ch'io pianga(私を泣かせてください)」はとってもいい。惚れ惚れする。

1975年カタローニア生まれのヌリア・リアル Nuria Rialは実に愛らしい顔をしている。




ーーこの娘が「私を泣かせてください」で「母」になったのである。


次の映像は録音風景だが、たいして髪の手入れもせず、飾り気のない田舎娘という感じで、とっても自然な女性だ。





それほど気に入っていなかったヌリアの「ずっとあなたを見つめ PUR TI MIRO」をふたたび聴いてみることになる。遡及的な愛である。





わたくしはこの曲にかんしては至高のバッハ歌いのひとりアーリーン・オジェーArleen Auger のものを好んできたのだがーーとくに冒頭の静けさから湧き上るような呼び声ーーー、ヌリアの自然さだってとってもいいさ。




他の性(他の女)


他の性=他の女=斜線を引かれた女というもの LȺ femme
大他者とは、私の言語では、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。
« L'Autre », dans mon langage ce ne peut donc être que l'Autre sexe.  (ラカン、S20, 16 Janvier 1973)
大他者は存在しない。l'Autre n'existe pas, (Lacan, S24,  08 Mars 1977)
他の性[Autre sexe]は両性にとって女性の性[sexe féminin]である。他の性[Autre sexe]は、男にとっても女にとっても他の女[Autre femme]である。(Jacques-Alain Miller, L'Axiome du Fantasme)
女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme.(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme 、1975)



原大他者(原母)のなかに体現されている「他の性」は、立ち退かされ、享楽を空洞化され、排除されている。The Other Sex, embodied in the primordial Other (Mother), is evacuated, emptied of jouissance, excluded, (ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
モノは母(原母)である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
モノ=享楽の空胞 [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)




性関係において、二つの関係が重なり合っている。両性(男と女)のあいだの関係、そして主体とその「他の性」とのあいだの関係である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING、2012)

男女の関係のトーラス円図は次のもの。



セミネール10には別に次の図があり(上)、下のように図示しうる。




私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)

対象aには大きく去勢(穴)と穴埋めの二つの意味があるが、ここでの対象aを去勢ととれば、冒頭に示した他の性(Autre sexe)とあわせてこう示せる。






ーーより厳密にはAutre sexeは  Ⱥutre sexeとすべきだろう。

大他者の最初の形象は、母である。したがって、「大他者はない there is no big Other」の最初の意味は、「母は去勢されている mother is castrated」である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

以上、ようするにラカン派における性関係はいま上に示したふたつのトーラス円図が重なっているのである。「性関係はない」の意味のひとつはここにある。




享楽は去勢であるla jouissance est la castration.。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。…問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)



もっともこれ自体、ことさら目新しい観点ではないともいえる。

まともな作家だったら、表現の仕方はいくらか異なるとはいえ、とっくの昔から把握していた話である。



この世にいてへんあの女
亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)
私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい』1947年)
「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1968年)
母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。(⋯⋯

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」1935年)


ラカン派的にいえばこうである。

女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を描き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。

La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont, (ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ El Piropo 」1981年)
「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、女というものの場処 le lieu de la femme が存在しないことを意味するのではなく、この場処が本源的に空虚のまま lieu demeure essentiellement vide だということを意味する。場処が空虚だといっても、人が何ものかと出会う rencontrer quelque chose ことを妨げはしない。(ジャック=アラン・ミレール、Des semblants dans la relation entre les sexes、1992年)


※付記

愛は女から立ち去る。そのとき、彼女の他者性とともに独りぼっちだ。…、愛を喪ったことで女が喪失したものは、彼女自身、大他者としての彼女自身である。(コレット・ソレール Colette Soler, “A ‘Plus' of Melancholy 1998)
大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]の遠近法において…、人がシニフィアン・コミュニケーションから始めれば、…大他者は大他者の主体[Autre sujet]である。その主体があなたに応答する。これはコードの場・シニフィアンの場である。…

しかし人が享楽から始めれば、大他者は他の性[Autre sexe]である。なによりもまず、それは一者の享楽、孤独な享楽であり、根源的に非性的なものである。la jouissance Une, solitaire, est foncièrement asexuée。…(Jacques-Alain Miller,Les six paradigmes de la jouissance,1999)


2019年11月21日木曜日

Larvatus prodeo

おのが情熱に思慮の(平静さの)仮面をつける。まさしく英雄的な美徳である。「心の動揺を周囲の人にさらけ出すなど、偉大な魂にはふさわしからざること」(クロチルド・ド・ヴォー)。バルザックの主人公、パズ大尉は、親友の妻に死ぬほど恋したことを、にせの情人をでっちあげてまで秘しておこうとする。

しかし、ひとつの情熱を(あるいは単にそのゆきすぎにしろ)完全に隠しておくなど、到底考えられぬことである。人間の意志があまりにも弱いものだからというのではなく、そもそも情熱というのが、その本質からして、見られるためにできているものだからだ。隠していること自体が見られるのでなければならない。わたしが今なにかを隠していることをわかってください。これこそが、わたしの解かねばならぬ積極的バラドックスなのだ。知られ、かつ知られぬことが、同時に必要なのである。見せたくないと思っていることを知ってほしい。それこそが、あの人に向けてわたしの発しているメッセージなのだ。Larvatus prodeo おのが仮面をさし示しつつ進む。わたしは自分の情熱に仮面をつける。しかし、控え目な(そして狭滑な)指で、当の仮面をさし示してもいるのだ。いかなる情熱にも結局は目撃者がある。死に瀕したパズ大尉は、自分の秘かな恋について、親友の妻に書き送らずにはおれない。恋愛の隷属には必ず最後の山場というものがあって、そこでは常に記号が勝利を収めるのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「黒眼鏡」)


2019年11月19日火曜日

愛の対象はダシである

前期ラカンはーーといっても61歳のラカンだがーー、「愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということ」と言っている。

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)

ここで言われているのはあきらかに自体性愛のことであり、後年の享楽自体=女性の享楽である。


自体性愛=享楽自体=女性の享楽=性関係はない
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
享楽は関係性を構築しない (「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」)。これは現実界的条件である。la jouissance ne se prête pas à faire rapport. C'est la condition réelle(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)



享楽が本来的に愛の力であることは、以下の文が示している。


享楽=リビドー=愛の力
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来や作用や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)




この自体性愛=享楽自体=女性の享楽は、「サントームの享楽 la jouissance du sinthome」 とも呼ばれる。

そしてサントーム=享楽の固着=身体の上への刻印=骨象a (欲望の原因としての対象a)である(参照:サントームは固着である Le sinthome est la fixation)。

この「欲望の原因としての対象a」を覆うのがイマジネールな愛の対象(囮の対象)である。

幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)
愛自体は見せかけに宛てられる [L'amour lui-même s'adresse du semblant]。…存在の見せかけ[semblant d'être]、……《私マジネール [i-maginaire]》…それは、欲望の原因としての対象aを包み隠す自己イマージュの覆い [l'habillement de l'image de soi qui vient envelopper l'objet cause du désir]の基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)






このi(a) が「恋に恋する」機制における対象である。

わたしが欲しているのはわたしの欲望であり、恋愛対象というのはそのだしになってきたにすぎない c'est mon désir que je désire, et l'être aimé n'est plus que son suppôt。…わたしはイマージュを「想像界」の生賛にする。したがって、いつの日かあの人をあきらめるときが来ても、そのときわたしを把える激しい喪は、「想像界」そのものの喪あるだろう。それこそがわたしの愛したものであったからだ。愛の喪失を涙するのであり、特定の彼/彼女を思って涙するわけではない。je pleure la perte de l'amour, non de tel ou telle。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「恋に恋する Aimer l'amour」1977年)
愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる l'autre vous revêt、そしてあなたを装う(あなたをドレスするhabille)自己イマージュ image de soi であり、またそれがはぎ取られる(脱ドレスされる êtes dérobée)ときあなたを見捨てるlaisse 自己イマージュである。(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)


もっともこれだけではない、と言っておこう。たとえば最初のセミネールのラカン(53歳のラカン)は次のように言っている。30年ほどまえラカンをはじめて読んだときからのお気に入りの文である。とくに「鳥もち」が。

イマジネールなパッション passion imaginaire としての愛を、愛が象徴的平面で構成する能動的贈与 don actif とを区別することを学んでください。愛、愛されることを欲望 désir d'être aimé する人の愛は本質的に、対象としての自分自身の中に他者を捕獲する capture 試みなのです。

愛されたい欲望 désir d'être aimé、それは、愛してくれる対象 objet aimant がそれとして捉えられて、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ englué,、隷属させられる asservi 欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点 bien のため愛されることにはほとんど満足しません。その主体が求めていることは、主体が個別性への完全な転覆 subversion に行くほど愛されること、つまりその個別性が持っているかもしれない、最も不透明で最も考えることもできないものにまで主体が完全に逆転されるほど愛されることです。人は自己のすべてのために愛されることを望むのです。デカルトが言うように、単にその自我のためだけでなく、髪の色とか、癖とか、弱さとか、全てのことのために愛されたいと望むのです。

しかし逆に、私としては相関的にと言いますが、まさしくこのために、愛することはそう見えるものの彼岸で au-delà de ce qu'il apparaît être 存在を愛することです。愛の能動的贈与 Le don actif de l'amour は他者を、その特殊性ではなく、その存在において他者を狙います。

愛、 パッション としての愛ではなく、 能動的贈与としての愛はつねに、 想像的捕縛の彼岸 au-delà de cette captivation imaginaire、愛される主体 sujet aimé の存在、彼の個別性に狙いを定めます。だからこそ愛は、かなりのところまで、愛される主体の弱点、迂回 détours を受け入れることができます。愛は(相手の)誤謬を認めることもできます。しかし、愛が停止するポイントがあります。存在との関係でしか位置づけられないポイントです―愛される存在が、自身の裏切りへと至るとき、自己欺瞞に固執するとき、愛はもはや続きません。quand l'être aimé va trop loin dans la trahison de lui-même et persévère dans la tromperie de soi, l'amour ne suit plus.(ラカン, S1, 07 Juillet 1954)

そして70年代のラカンはドゥイノのリルケ的な「見返りのない愛」と捉えうるようなことも言うようになる。

神への愛の頂点は、神に次のように言うことである、「もしこれがあなたの意志なら、私を咎めてください」… que le comble de l'amour de Dieu, ça devait être de lui dire… «si c'est ta volonté, damne-moi»(Lacan, Milano. LA PSICOANALISI NELLA SUA REFERENZA AL RAPPORTO SESSUALE , 1973)


そしてこの後にしばしば引用している「神とは実際は女というものだ」という話がくる。

問題となっている女というものは神の別の名である。その理由で、女というものは存在しないのである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。Dieu, […] dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)

この時期にラカンは次のように言っている。

フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro.

…ヘテロhétéro、すなわち「異物 (異者étrangère)」である。
(LACAN, CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ここでのラカンはフロイトに不賛成だといっているが、異物とはフロイト概念である。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

結局、ラカンにとっての究極の愛=享楽の形態は、自体性愛ではなく、「異者としての身体の享楽」だとわたくしは考えている(参照:暗闇に蔓延る異者としての女)。

この「異者としての身体」とはほぼ、ラカンの外密=フロイトのモノのことでもある。

ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガー が使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体 corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)

ここでアウグスティヌスの言葉を思い起こしておいてもよい。

神は「わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)」(聖アウグスティヌス『告白』)

まさに前期ラカンの外密の定義と相同的である、ーー 《私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン,S7, 03 Février 1960)。

もっとも中期には、外密=モノ=享楽の空胞 [extimité=La Chose=vacuole de la jouissance] (1969)と言うようになる。

ミレールは「外密 extimité≒不気味なものUnheimlich」と言っているが、ラカンは不気味なものを「欠如の欠如 manque du manque=穴ウマ(troumatisme =穴-トラウマ)」といった。

フロイトにとって究極の不気味なものは、女陰である(参照:なんでも穴である)。

女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

ここで敢えてこういっておこう、アウグスティヌスの"interior intimo meo et superior summo meo"とは、フロイト的には女陰、ラカン的には穴であると(ラカンの穴とはすべての呑み込むブラックホールであり、フロイトの引力=エロスの力でもある)。

享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、原穴の名 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ようするに父は母の穴の穴埋めであり、一神教的神への愛はダシ、囮にすぎない。


漢字でみるとよくわかるように穴が化けたイカサマの愛である。

ラカン理論の核心は親友ダリがすでに早い段階で表現していることでもある。



これはじつは最晩年のフロイトもほぼ似たようなことを言っているのである。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替されるMuttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)


わたしは犠牲者かつ死刑執行人である

以前にも一度引用した文だ(たしか一年ぐらい前に)。

いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、二者構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕獲する。

さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気分転換によって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人l'autre qui aime sans être aiméの内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうのだ。今や、この不幸の能動的代理人 agent actif はわたしである。わたしは自分が犠牲者かつ死刑執行人であると感じられる je m'éprouve à la fois comme victime et comme bourreau. 。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」1977年)

ーーこの感覚をまったく覚えない人も世界にはいるかもね、想像力欠如派ってのかな。

次の文さえわからない人もいるようだから。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

これがわからない人というのは真の恋愛をしたことのない人に間違いない。すくなくとも「女になって」愛したことのないひと。最近の若いひとのあいだでは多いのかもしれないけれど。「愛のビジネス」の時代だから(参照)。女だって男への推進力の時代だから。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

さっきの「拷問」と相同的なメカニズムは、まともな心理小説だったらふんだんにでてくるよ、たとえばラクロ、ドストエフスキーやプルーストを読みば。

ドストエフスキーには、これを超えたもっと過激なやつだって出てくる。

フョードル・パーヴロヴィッチ曰く、『それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね』(『カラマーゾフの兄弟』)

ま、これに不感症でもしょうがないけど、すくなくとも世界には二者関係のメカニズムついてはまったく何もわかっていない人がいるわけでね。初歩的心理学音痴ってのかな。いや、それ以前に心理的不感症者だな。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radica Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

これはあんまり関係がない話だけど、で、誤解ってなんだい?

すくなくともあなたはなんにも悪いことはしてないよ、「同じ症状」云々ってやつをくりかえして示しているけれど、分裂病と精神病の区別がまったくついていないのは、ま、しょうがない(でも詳しくしらないことは言わないほうがいいとはいっておくよ)。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

話を戻せば、ニーチェは『道徳の系譜』で「負い目(シュルツ)というあの道徳上の主要概念は、負債(シュルデン)というきわめて物質的な概念に由来している」と、いっているけれど、情念の諸形態に債権と債務の関係を見出した点でニーチェはフロイトの先駆者。

「あなたは実際ボクになんにもしやしませんが、その代わりボクのほうであなたに一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にボクはあなたが憎らしくなりましてね」とはニーチェ的には金を借りて返せない者が貸主を憎むこととなる。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しという天秤の左右の皿関係。この心理的機制は多くのことに使える。

ニーチェの同情批判もこのうちのひとつ。

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(ニーチェ『この人を見よ』)

同情されて負い目を感じ怒り狂うという話は、これまたドストエフスキー にふんだんにある。

彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです。(プルースト『囚われの女』)