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2021年8月28日土曜日

カブールというオアシス

 


ははあ、そうだったんだな

カブールは、かつては美しいオアシスであった。だが、厳寒の冬の燃料不足でクワやスズカケノキなどの街路樹が、ほとんど切られてしまった。緒方さんは、まず緑の復活から開始、市内中に現地人を雇用して植樹した。遊牧民の羊から苗木を守るために一本一本柵を巡らす必要があった。市内の交通手段であるバスが、全て焼失したため、日本はインド製のバスを輸入して提供した。これらも「緒方イニシアチブ」であった。(アフガン復興で見せた指導力に脱帽 国際舞台で活躍した緒方貞子さん、2019






とてもよい響きの名だ、カブール、カブール、カブール・・・








➡︎Fascinating Photos Of Afghanistan In The 1960s And 1970s


2021年8月27日金曜日

「われわれはあと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう」

 

2006年にリビアのムアンマル・アル=カッザーフィーー通称ガタフィ大佐ーーは次のように演説した。


われわれは、ヨーロッパにおいて五千万人のムスリムをもっている。アラーは、ヨーロッパにてイスラムの勝利を授けてくれるだろう、剣も、銃も、征服もなしに。あと数十年でヨーロッパをムスリム大陸に変えるだろう。(ムアンマル・アル=カッザーフィー(ガタフィ大佐)、TIMBUKTU 10 APRIL 2006)


We have 50 million Muslims in Europe. There are signs that Allah will grant Islam victory in Europe without swords, without guns, without conquest will turn it into a Muslim continent within a few decades. (Muammar Al Gaddafi's Speech: TIMBUKTU 10 APRIL 2006)



シリア内戦でヨーロッパへのムスリム難民急増があった「2014ーー2016年」の翌年の2017年、次のようなヨーロッパにおけるムスリム人口予測がされている。




このシナリオはいくらか極端だろうよ、とはいえこの高シナリオでも全ヨーロッパならまだ14パーセントのムスリム比率だ。




妥当なのはミディアムシナリオだろうな。




移民したムスリムのどのくらいの割合がイスラム教からキリスト教に改宗するのか、またヨーロッパで生活するとムスリムの出生率が低下するという話もあって、そのあたりを加味すれば、ヨーロッパが真にムスリム大陸になるのははやくても2100年ごろじゃないかね。でもこれは避けがたい道だろうな。

もともとかつての西洋の中心とは中東で、アッシリアの碑文に、"Erb"「日が没する地方」というのがあり、それが"Europa"の語源となったわけで、かつてのボスが、日が没するヨーロッパなる蛮族の国に住んであげるだけさ。仲良くやらなくちゃな。


Godard, For Ever Mozart 


ムスリムは美女が多いからな、ヨーロッパ地方の女のレベルが上がるよ。










2021年8月26日木曜日

芥川太宰三島の「母の乳房の喪失」と自殺性向

いままで断片的には何度か記してきた話だが、ここではいくらかまとめて掲げる。このように精神分析的に捉えるということはいささか図式化しすぎのきらいはあるにせよ、基本的には、《幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,]》(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)ーーだと私は考えている。



僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。・・・


僕は時々幻のように僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守っているように感じている。


僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)

信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元来体の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も与へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだつた。彼はその為に生まれ落ちた時から牛乳を飲んで育つて来た。それは当時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。


信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の秘密だつた。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だつた。(芥川龍之介「大導寺信輔の半生」1925年)


私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。(太宰治『津軽』1944年)


三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と 決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっと顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015


………………


私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだと思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。〔・・・〕

あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。〔・・・〕


自殺する作家は、洋の東西を問わず、ふしぎと藝術家意識を濃厚に持つた作家に多いやうである。〔・・・〕芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年)

「大体僕は自殺する人間の衰えや弱さがきらいだ。でも一つだけ許せる種類の自殺がある。それは自己正当化の自殺だよ」(三島由紀夫『天人五衰』1970)



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ナルシシズムの自殺的攻撃[l'agression suicidaire du narcissisme. (Lacan, Propos sur la causalité psychique , E174, 1946)

ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


自殺性向とイマージュの関係は、本質的にナルシスの神話に表現されている[le rapport de l'image à la tendance suicide que le mythe de Narcisse exprime essentiellement.。この自殺性向は、私の見解では、フロイトがそのメタ心理学において、「死の本能」と「原マゾヒズム 」の名の下に[le nom d'instinct de mort ou encore de masochisme primordial]、探し求めようとしたものである。〔・・・〕これは、私の見解では次の事実に準拠している、すなわちフロイトの思考における最初期の悲惨な段階[la phase de misère originelle]、つまり出産外傷[traumatisme de la naissance]から、離乳外傷[traumatisme du sevrage]までである。 (Lacan, Propos sur la causalité psychique , Ecrits 187, 1946、摘要訳)

口唇的離乳と出産の離乳(分離)とのあいだには類似性がある。il у а analogie entre le sevrage oral  et le sevrage de la naissance (Lacan, S10, 15 Mai, 1963)



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享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977


去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust〔・・・〕


死の不安は、去勢不安の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。

die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


※「保護的超自我」=「母なる超自我」➡︎ 「母なる超自我=母との同一化=母への固着



乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失の不安と名づけるのが最も相応しい。Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden. (フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)

不安は対象を喪った反応として現れる。最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11B1926年)


愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアル[reale]なものかを。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児のおそらく最も欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。次の考えを拒絶してはならない。つまり不安の決定因はその底に出生時の原不安の状況[die Situation der ursprünglichen Geburtsangst を反復していることを。それは確かに母からの分離[Trennung von der Mutter]を示している。(フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)


※参照:「愛の三相



【愛の喪失=享楽の喪失】

反復強迫はなんらかの快の見込みのない過去の体験、すなわち、その当時にも満足ではありえなかったし、ひきつづき抑圧された欲動蠢動でさえありえなかった過去の体験を再現する。daß der Wiederholungszwang auch solche Erlebnisse der Vergangenheit wiederbringt, die keine Lustmöglichkeit enthalten, die auch damals nicht Befriedigungen, selbst nicht von seither verdrängten Triebregungen, gewesen sein können. 

幼時の性生活の早期開花は、その願望が現実と調和しないことと、子供の発達段階に適合しないことのために、失敗するように運命づけられている。それは深い痛みの感覚をもって、最も厄介な条件の下で消滅したのである。この愛の喪失と失敗とは、ナルシシズム的傷痕として、自我感情の永続的な傷害を残す。Die Frühblüte des infantilen Sexuallebens war infolge der Unverträglichkeit ihrer Wünsche mit der Realität und der Unzulänglichkeit der kindlichen Entwicklungsstufe zum Untergang bestimmt. Sie ging bei den peinlichsten Anlässen unter tief schmerzlichen Empfindungen zugrunde. Der Liebesverlust und das Mißlingen hinterließen eine dauernde Beeinträchtigung des Selbstgefühls als narzißtische Narbe,(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD.   〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. Lacan, S17, 14 Janvier 1970



……………………


芥川はこうも書いている。


僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」昭和二年七月、遺稿)

マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。実際我々は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」1927(昭和2)年)


この当時も今もあまり知られていないマインレンデルは、おそらく鴎外の記述起源だろう。


この頃自分は Philipp Mainlaender が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。 〔・・・〕人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄しながら歩いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。


さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。


自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬」も無い。 


死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。(森鴎外「妄想」明治四十四年三月四月)


鴎外は、どちらかと言えば、芥川の分離不安類型ではなく、融合不安類型だったのだろう。


最初の母子関係において、子供は身体的な未発達のため、必然的に、最初の大他者の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を引き起こす。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。


そのときの基本動因は、不安である。この原不安は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話役としてもよい。寄る辺ない幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」がある。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。これは母に呑み込まれる不安である。これを「融合不安」と呼びうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009、摘要)





空(クウ)あるいはゼロ

まったく門外漢の者として備忘するが、仏教における空(クウ)は、サンスクリット語では「シューニヤ」 (śūnya)で、《語源的にみると、śūnya は、śū(śviふくれる)の過去分詞 śūnaからつくられた》そうだ。


「仏教における空について」坂部明(2007年)

(1)空の原語について

空の原語は、サンスクリット語では「シューニヤ」 (śūnya)、パーリ語では「スンニャ」(suñña)である。これらは品詞としては、形容詞、または中性名詞として使われる。すなわち、述語として「……は空である」と表現する。またこの単語には、しばしば抽象名詞を作る語尾taをつけて、シューニヤタ (śūnyatā、空であること、空性)という用語が作られしばしば仏典に現れる。ただ、これらの単語は主語としては用いられないという特徴を持っている。ただし「空亦復空」という場合を除いてではあるが。ここには、空の思想的意味が含まれている。つまり、空という概念を実体としてとらえてはならない、ということなのである。龍樹(ナーガルジュナ)造『大智度論』には、 「空という薬を煩悩という病に用いて治癒したとしても、薬が残っていればなおそれがもとで病となるようなものである。」 といって空にとらわれることを戒めている。意外なことのように見えるかもしれないが、空の精神を実践主体とする『般若経』には、空とは何かという説明は一切ない。空を主語にして、空に実体があるがごとくに説明することはないのである。空は常に述語表現である。ただ空を比喩表現で説明するのみである。〔・・・〕


語源的にみると、śūnya は、śū(śviふくれる)の過去分詞 śūnaからつくられた。したがって、その単語は、「ふくれあがった、うつろな」という意味である「ふくれあがったものは中がうつろである。われわれは、ここに実体があると思っている。けれども、実体性はしょせん限定されたものにすぎない。これが未来永久に存在するわけではない。ある限られた時間の間だけ存在するものである。だから、実体性は勝義においていえることではない。究極において認められるものではない。どこまでも限られた意味において実在するものである。実体とみえるものも、本質はうつろである。いつかは欠けて、滅びるものである」(中村元『仏教思想 空』1981)。「仏教がこの語を取り上げて用いるときも、それは強い否定の表現であると同時に、究極の真実在を積極的に示唆するものであって、いわば否定を通じての肯定、相対の否定によって絶対を直感することを意図している」(長尾雅人 『中観と唯識』 1979)。

(2)空の比喩について


大乗仏教でいう空という意味は、かならずしも空無を意味しているわけではない。存在を実体としてとらえ、執着して苦悩する自己の解放と、他者にたいしては、自他平等の慈悲心から空観を実践するという立場があるのである。空はなんとしても平易に理解されるべきものである。そこで般若経は十種の比喩を用いて空を説明する。比喩表現を多用するのは、インド人の民族性に由来する。インド論理学の五分作法にも「喩」が存在している。比喩は智者に意義を知らしめるために用いられるという。初期仏教の古層に属するとされる『スッタニパータ』, 『ダンマパダ』にも比喩表現が多くみられるから、この傾向は仏教初期のころから存在していたものと思われる。 般若経に説かれる十種の比喩は次のとおりである。

1.(māyā) 

2.(marīci) 

3. 水中の月(udaka-candra) 

4.虚空(ākāśā) 

5. (pratiśrutkā) 

6. 揵闥婆城(gandharva -nagara) 

7.(svapna) 

8.(pratibāhāsa) 

9.鏡中の像(pratibimba) 

10.(nirmita).


この中で特に注目すべきなのは、 4.虚空である。 「空」 (śūnya)にはゼロ(0)の意味がある。空が否定的な響きを持っているのはそのためである。ゼロはただ何もないという意味だけではなく、十進法からみればゼロを加えることにより、十倍の数値となるのは周知のとおりである。


この数学のゼロの概念は、インドにおいて発見された。インド数学では、ゼロを表示する語は「シューニャ」のはかにいくつかあるが、その中に「アーカーシャ」 (ākāśā)というのもある。これは虚空の原語である。そしてゼロを表示する語のほとんどが、虚空もしくは雲を意味している。 「シューニャ」にも, 「そら」 (the sky)という意味がある。 これらのことから、ゼロの概念は虚空となんらかの深い関連性が考えられるのである。 仏教の空も、理論的にというよりは、より具象的に、実践的に、虚空の有様を注意深く観察することによって理解されたのではなかろうか。 (坂部明「仏教における空について」2007年)



ところで「子宮=墓」も「膨れる」という意味があるようだ。


現代の私たちは、「墓」の意味をすでに忘れてしまったが、「墓」のギリシア語は tumbos 、ラテン語は tumulus で、共に「膨れる」ということであった。それが英単語の tomb の語源である。tomb womb の「子宮」と言語的に関連していたのだ。古代の巨石墳墓や塚は死者を再生させる子宮で、墓道は子宮への膣を意味し、子宮を大型化した設計であった。(「古代母権制社会研究の今日的視点神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007pdf



ーー仏教の空は、究極的には子宮=墓かもな。



もうひとつ、《 「空」 (śūnya)にはゼロ(0)の意味がある》とあるが、柄谷はこう記している。



ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえば二〇五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



これは簡単に言えば、《ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。》(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)ーーということだろうな。


ところでラカンはゼロについてこう言っている。


現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである[Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu]〔・・・〕現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ。[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976


前年のセミネールではこのゼロ、意味の排除を、白紙の意味、白い意味と言っている。

現実界は意味の追放、意味の反ヴァージョンだ。それはまた意味のヴァージョンでもある。現実界は白紙の意味、白い意味だ[Le Réel, c'est l'expulsé du sens, c'est l'aversion du sens. C'est aussi la version du sens… Le Réel c'est le sens en blanc, le sens blanc ](Lacan, S22, 11 Mars 1975)


さらに現実界についてこうも言っている。


欠如の欠如が現実界を為す[Le manque du manque fait le réel (Lacan, AE573, 17 mai 1976)


これはセミネールに遡れば次のことだ。


不気味なものは、欠如が欠如していると表現しうる[L'Unheimlich c'est …si je puis m'exprimer ainsi - que le manque vient à manquer.  ](Lacan, S10, 28 Novembre 1962、摘要)


ここでフロイトを挿入しよう、《女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 》(フロイト『不気味なもの 1919年)


というわけでーー、


女の壺は空虚かい、満湖[plein]かい? あれは何も欠けてないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein? …Il n'y manque rien. (Lacan, S10, 20 Mars 1963 )

女というものは空集合である[La femme c'est un ensemble vide ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975


結局、空ってのは女の壺のことだろ、ーーいやシツレイしました。空信者の方、下品な言い方をしてしまいましたが、どうぞ悪しからず。不気味なものとは、すこし前に記しましたが、「外にある家」のことです。さらに上品にいえば、空というのはきっと蓮華のことです。






※付記



そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。


Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。〔・・・〕


後のキリスト教の父権制社会になってからは、logosは原初の意味を失い、「創造の言葉」は「神の言葉(化肉)」として、キリスト教に取り込まれ、破壊のOmegaは取り除かれてしまった。その結果、現象としては確かめようのない死後を裁くキリスト教が、月女神の宗教に取って代わったのである。父権制社会のもとでのKali Maが、魔女ということになり、自分の夫、自分の子どもたちを貪り食う、恐ろしい破壊の相のOmegaとの関わりだけが強調されるようになった。しかし、原初のKali Maは、OmAlpha からOmegaまでを司り、さらに再生の周期を司る偉大な月女神であった。


月女神Kali Maの本質は「創造→維持→破壊」の周期を司る三相一体(trinity)にある。月は夜空にあって、「新月→満月→旧月」の周期を繰り返している。これが宇宙原理である。自然原理、女性原理も「創造→維持→破壊」の三相一体に従っている。母性とは「処女→母親→老婆」の周期を繰り返すエネルギー(シャクティ)である。この三相一体の母権制社会の宗教思想は、紀元前8000年から7000年に、広い地域で受容されていたのであり、それがこの世の運命であると認識していたのだ。


三相一体の「破壊」とは、Kali Maが「時」を支配する神で、一方で「時」は生命を与えながら、他方で「時」は生命を貪り食べ、死に至らしめる。ケルトではMorrigan,ギリシアではMoerae、北欧ではNorns、ローマではFateUniJuno、エジプトではMutで、三相一体に対応する女神名を有していた。そして、この三相体の真中の「維持」を司る女神が、月母神、大地母神、そして母親である。どの地域でも母親を真中に位置づけ、「処女→母親→老婆」に対応する三相一体の女神を立てていた。(「古代母権制社会研究の今日的視点 神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf




2021年8月25日水曜日

面白すぎるアフガニスタン情勢の話

 いやあ、これは面白すぎる。かりにすべてを受け入れなくても、巷間に流通しているリベラル系の連中の話がいかにバカ気ているかがよくわかる。見とけよ、そこのきみら。


@kenji_minemura

【謹告】緊迫するアフガニスタン情勢。なぜ今の情勢が起きたのか。タリバーン政権はどう動くのか。中国、ロシアの対応は。先日まで駐アフガニスタン特命全権大使を務めておられた高橋博史・拓殖大学客員教授に解説していただきました。#CIGS外交・安全保障TV

https://www.youtube.com/watch?v=fe-XEeOL4Fg

【出演者)元駐アフガニスタン特命全権大使拓殖大学海外事情研究所客員教授/高橋博史

宮家邦彦/ CIGS研究主幹峯村健司/北海道大学公共政策学研究センター研究員


母なる超自我=母との同一化=母への固着

 ボクは主にジャック=アラン・ミレールとポール・バーハウに依拠しつつ、「モノは超自我」だとか、「モノは固着」だとか言っているわけだけど、一応は裏付けとってんだよ。説明するのがメンドイから明示化してないだけで。日本のフロイトラカン研究者はそんなこと言ってないと言われてもな、知らんよ、そんなことは。もし連中がこれに微かでも掠っていなかったら、木瓜の花ぞろいってことだろ。




超自我と原抑圧との一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982

フロイトの原抑圧として概念化したものは何よりもまず固着である。この固着とは、身体的な何ものかが心的なものの領野外に置き残されるということである。〔・・・〕原抑圧はS(Ⱥ) に関わる Primary repression concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


………………

フロイトは、超自我[Über-Ich]をめぐって、同一化[Identifizierung](取り入れ[Introjektion])、固着[Fixierung]という用語を使っている。


超自我への取り入れ〔・・・〕。幼児は優位に立つ権威を同一化によって吸収する。するとそれは幼児の超自我になり、できれば幼児がその権威に用いたであろうあらゆる攻撃性向を備えるにいたる。[Introjektion ins Über-Ich…indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird und in den Besitz all der Aggression gerät, die man gern als Kind gegen sie ausgeübt hätte. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


権威との同一化における原初の権威は、母である。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](ラカン, S4, 06 Février 1957


このフロイト二文とラカン一文から、前エディプス期の母との同一化[Mutteridentifizierung]、母への固着[Fixierung an die Mutter]が、超自我にかかわると読むことができる。


前エディプス期の母との同一化[Die Mutteridentifizierung …die präödipale,](フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続・精神分析入門講義』第33講、1933年)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)




1950年代に既にメラニー・クラインとラカンはこう言っている。


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951

母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される[sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former … ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)

母なる超自我[surmoi maternel]・太古の超自我[surmoi archaïque]、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 surmoi primordial]の効果に結びついているものである。最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。  (Lacan, S5, 02 Juillet 1958


この三文を併せて読めば、取り入れ(同一化)、超自我、固着をほとんど等置しているように読める。


もっとも最初の固着は必ずしも「母の乳房」に限定はされない(フロイトラカンの後年の議論、とくにフロイトが問い続けたオットー・ランクの『出産外傷』における「女性器への固着」を、最晩年のフロイトは、母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]としている)。


したがってラカンは二年後、母の乳房を「母の身体」と一般化した。


モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959

クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


ここまで示してきた内容から、このモノが固着(母への固着)であり、かつまた超自我(母なる超自我)とすることができる。


さらにまたこのモノが現実界であり享楽である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976

モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

母なる対象はいくつかの顔がある。まずは「要求の大他者」である。だがまた「身体の大他者」、「原享楽の大他者」である[L'objet maternel a plusieurs faces : c'est l'Autre de la demande, mais c'est aussi l'Autre du corps…, l'Autre de la jouissance primaire.(Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)





こうしてジャック=アラン・ミレールの[モノ=サントーム=固着=S(Ⱥ) =超自我]を受け入れることができる筈である。


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens(J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011摘要)

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96




後年のラカンはこう言っている。


一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.](ラカン, S17, 18 Février 1970

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976


この二文から、女なるものは超自我とすることができる。この女なるものは、基本的には、母なる女だ。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (Lacan, S17, 11 Février 1970)


「母なる女なるものが幼児に享楽を与える」とあるが、享楽とは何よりもまず固着である。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


母なる女が幼児に固着を与えるのである。


女への固着(おおむね母への固着)[Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)](フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)




後年のラカンは享楽はマゾヒズムとしているが、マゾヒズム自体、母への固着だ。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)

マゾヒズムの病理的ヴァージョンは、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着である[le masochisme, …une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère,.  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)




以上、モノは固着であり[ La Chose est la fixation]、かつまた、モノは超自我である[ La Chose est le surmoi]。これはネット上を仏語独語英語で検索する限りで誰も「直接的には=文字通りには」そう言っている人には行き当たらないが、上の引用群を受け入れるなら、どうしたってそうなる。事実上、ジャック=アラン・ミレールはほとんどそう言っているのを示したし、フロイトラカンクラインからもそう読める。