2016年2月18日木曜日

ゼロと縫合 Suture

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ》(参照)“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

《横棒barreの機能はファルスと関係ないわけではない》“la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus.” (Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)

ここでの横棒とはソシュール図式の横棒である(参照)。



かつまた、ファルスΦとは、主人のシニフィアン S1、かつまた S(Ⱥ)などでもありうる(参照:父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって

そしてファルスとは、「ファルス化された」対象aのことでもある。

ファルスは対象aの一連の形象化における最後のものである。それは目につきやすい想像的な特徴を発揮する。…ファルスはたんに対象aの一つの形象ーー他の形象のなかのひとつではない。それは特別の地位を負っている。(Richard Boothby , Freud as Philosopher [2001]ーー「享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)」)

…………

さてここからが本題である。

フレーゲはゼロを「それ自身と同じでないもの」と定義した。ジャック=アラン・ミレールはそれを「ゼロ概念」と呼ぶ(『Suture(縫合)』)。世界にはそれ自身と同じようでない対象はない。しかしながら、集合論においては自明の考え方ーーそこでは空集合があるとする(空集合、すなわち要素をひとつも含まない集合Φ)ーーとは異なって、フレーゲの数学的論理においては、「それ自身と同じでないもの」という概念は、ひとつの対象を包含する。それはゼロ数字自身である(いま我々は考えることができる、ミレールが言うところの「ゼロ概念」を)。このようにして、ゼロ数字はこの概念に割り当てられる。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF))

フレーゲは同一性の定義として、以下のライプニッツの定義を採用している。

《Eadem sunt, quorum unum potest substitui alteri salva veritate.》[真理をそこねることなく一方が他方に代入可能であるものは同一である ]

…………

以下、「“The first great Lacanian text not to be written by Lacan himself” – Reading Miller’s ‘Suture’」より(上の文同様、ほとんど初山踏みなので、原文を必ず参照のこと)。

縫合 Suture とは、主体の「言説の鎖」に対する「主体の関係」の名である。…それは、替え玉(代役 [tenant-lieu])の形式にて、欠けている要素として形象される。欠けているとはいえ、純粋に・単純に不在ではない。拡張して言えばーー「構造」に対する「欠如」の一般的な関係について言えばーー、縫合は要素の性質を持っている。それが、代役 [tenant-lieu]の場を意味する限りにおいて。(ミレール『縫合』)

《「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。(……)ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって(……)構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー要素と構造


もし、シニフィアンのアイデンティティが、その一連の構成的差異以外の何ものでもないならーー例えば、「昼 day から夜 night」 、ここにおいて、一つのシニフィアンは、「それがそうではないもの what it is not」の対立においてのみ定義されるーー、全てのシニフィアンの連鎖 series は、一つの再帰的-反射的シニフィアン a reflexive signifier によって補わなければならない supplemented ーー「縫合 suture」されなければならない--。この再帰的シニフィアン自体は、いかなる確定した意味もない(シニフィエされることはない)。というのは、それは、意味の現前自体、その不在に対立したものとしての意味の現前の代わり「のみ」を表すからだ…。したがって、どのシニフィアンの領野も、補充的な supplementary ゼロシニフィアンによって「縫合 suture」されなければならない…。このゼロシニフィアン(再帰的シニフィアン)は「純粋状態のシンボル」である。すなわち、どんな確定した意味も欠けており、その意味の不在と対照的に、意味の現前自体を表す。(Zizek in Hallward, p.150-151).

※「それがそうではないもの what it is not」とは、おそらく、バディウの l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un などにかかわる(参照)。

徴示する鎖 signifying chain の一つの連結 link から別の連結に於いて、ひとつのシニフィアンは、他のシニフィアンに対して、「自己アイデンティティ」あるいは「場」の本質的な欠如ーーすべて主体としての主体の表象にかかわるーーを表象し、設置し、あるいは縫合する。(Hallward, p.50).

《「ゼロ」に対して「一」を代替する「原隠喩」は、「継起的進展の換喩の連鎖」にとってのモーターである。同様に、ゼロは、不在(ゼロ概念)と数(計算可能な数としてのゼロ、ゼロの「固有名」としてある「一」)とのあいだを縫合するものとして働く。これが、ラカンが「一の徴」trait unaire と呼んだものであり、フロイトが「ein einziger Zug」にて示したものだ。この「一の徴」は、「他(者)」の領域の外部にあるもの(主体)と、「他」の領域の内部にあるもの(徴示する鎖 signifying chain)とのあいだを縫合する。 》

…………

ーーこの最後の無署名の文を信用すれば(素直に読めば)、ゼロは「一の徴」のことであり、「縫合」にかかわる。他方、ジジェクの文には、ゼロシニフィアンが「縫合」作用をもつ、とある。

とすれば、ゼロシニフィアン=「一の徴」なのだろうか。このあたりを正確に理解するためには、フレーゲを読まなければならないようだが、解説書のたぐいでも数頁でメゲルーー。

・フレーゲ曰く、《唯一概念のみである、限定的な仕方でその概念に該当するものを孤立する概念、そしてその概念を部分へと恣意的な分割を許さない概念のみが、有限な数にかかわるひとつのユニットでありうる》。これはマイケル・ダメットの解説によれば、フレーゲにおいて、概念による対象の「包み込み subsumption」(包含、包摂)は、いまだ対象ではないもの(‘this is darker/bigger/smoother than that')のあいだの proto-relations (原関係性)を比較することによって、そして相似-差異の集合を対象の数あるいはアイデンティティへと分化することによって生じる。

・概念と対象は、概念と対象の多量均等性 equi-numerousness を基盤として、両一義的な bi-univocal 関係に入る。

・ペアノの公理に従って、フレーゲは三つの基本的な数を定義した。ゼロ、一、後者(successor)である。(Guillaume Collett、The Subject of Logic: The Object (Lacan with Kant and Frege),2014,PDF))

そして、Guillaume Collettによれば、上に記したフレーゲのゼロの定義に引き続く「一」と「N+一」の定義が肝要らしいが、この文は訳す気にさえいまだならない。いつかなるかも疑わしい。

1—The passage from 0 to 1 is a counting-as-one of the zero. From the number one we automatically have the concept of the number one. To the concept of the number one is assigned the number two, since the concept of the number one subsumes two objects: the zero-object and the number one (which we have seen is the number zero considered as one object, the zero-object).

To the concept of the number two is assigned the number three, and so on. All numbers are thus com-posed solely of zeros, of single counts of the zero-object, and the number one is the conceptual operator of all bi-univocal relations (it presides over the one-to-one mapping of elements found in contiguous sets).

counting-as-oneとバディウ概念のcompte-pour-unとはおそらく同じであろう。

«…… que toute référence au vide produit un excès sur le compte-pour-un, une irruption d'inconsistance » (Badiou, L'être et l'événement)


N + 1—We thus always have object (n-1), concept (n), number (n+1), in this ascending numerical sequence. The number three (+1) is assigned to the concept of the number two (here n=2) which subsumes three objects: the concept of the number one (1 object), the concept of the number zero (1 object), and the zero-object itself (which is not an object, -1). The number three is an excess (+1) of a number because it counts the zero-object as an object when it really is a number (making the zero-object a lack (-1) of what it was counted as). Therefore, if all objects are nested collections of collections (of zeros) there is no such thing as an object, only the counting-as-one of the zero-object.


こられの文から、アンコールのラカンのハチの巣l'essaim(エスアム→ S1)の記述を思い出さないわけではない。

…ce S1 que je peux écrire d'abord de sa relation avec S2, eh bien c'est ça qui est l'essaim.

S1 (S1 (S1 (S1 (S1 → S2) ) ) )ーーー("Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」

…………

以上は、(近い将来のための?)資料として置いておき、ここではごく「標準的な話」を記しておこう。

シニフィアン「一」 l'Un-signifiant」とは、いわゆる主人のシニフィアンS1でもあり、ラカンの「一の徴」unary traitの一種でもある。

《C'est à savoir par exemple que le trait unaire… pour autant qu'on peut s'en contenter, on peut essayer de s'interroger sur le fonctionnement du signifiant-Maître》 (ラカン、セミネールⅩⅦ、p.323ーー「S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴)」)

「一」自体が、厳密な意味での、非一貫性を生む。「一」がなければ、たんに平坦な・平凡な「多」multiplicity があるだけだ。「一」は、元来から、(自己)分割のシニフィアンであり、究極の補足あるいは過剰である。先行して存在する現実界を再徴付けのために、「一」はそれ自身から己を分割し、それ自身との非合致 non‐coincidence を導入する。

結果として、事態をいっそうラディカル化するなら、主人のシニフィアンとしてのラカンの「一」は、厳密な意味で、それ自身の不可能性のシニフィアンである。ラカンはこれを明瞭化している。それは彼が、どの「一」、どの「主人のシニフィアン 」S1も、同時に S(Ⱥ)ーー「他」の/なかの欠如のシニフィアン・「他」の非一貫性のシニフィアンーーだと強調したときだ。したがって、「一」がそれ自身と決して十全には合致しないから、「他」がある、というだけではない。「他」が棒線を引かれている barred・欠如している・非一貫的であるから、「一」がある(ラカンの Y a d'l'Un)ということだ。〔ジジェク、2012、私訳)


《S1はどんなシニフィアンでもいい》(セミネールⅩⅦ、原文

S1はシニフィアン「一」から来る、その格言「「一」のようなものがある」(Y a de l'Un)にて。これに基づいたS1はどんなシニフィアンでもいい。こういうわけで、彼の言葉遊びS1、essaim(ミツバチの巣)がある。問題はシニフィアンの特質ではなくその機能である。一つの袋(envelope封筒)を与え、そのなかで全てのシニフィアンの鎖が存続できるようにするのだ(S.20)。 (ポール・ヴェルハーゲ、 Enjoyment and Impossibility、2006).

「一」のシニフィアンとは、たとえばシニフィアン「私」のことである。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン「私」である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
「私」を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

もちろん、我々の名前(固有名)も、「一」のシニフィアンだ。


ラカンは、セミネールⅩⅦの冒頭から次ぎのようなことを記している。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。


象徴秩序(「他」)、主人のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、「一」One を同じものとするラカンの考え方は、読者には不明瞭かもしれない。私は次のように理解している。

システムと しての象徴秩序(「他」)は、差異をもとにしている(ソシュール参照 )。差異自体を示す最初のシニフィアンは、ファルスのシニフィアンである。したがって、象徴秩序は、ファルスのシニフィアンを基準にしている。それは、一つのシニフィアンとして、空虚であり、(例えば)二つの異なるジェンダーの差異を作ることはない。それが作るのは、単に「一」と「非一」である。これが象徴秩序の主要な効果である。それは二分法の論法ーー「一」であるか「一」でないかーーを適用することによって、一体化の形で作用する。……(ポール・ヴェルハーゲ、2001,私訳)


たとえば、ラカンは次ぎの文で、「一」・「他」・「a」と三種類あるものを、実際は、二つ+「a」だとしている。そして、この二つ+「a」は、「a」の観点からは「一」+「a」と。つまり、ここでは「一」 l'Un と「他」 l'Autre を同じものとして扱っているように、わたくしには読める。

En d'autres termes ils sont trois, mais en réalité ils sont 2 + (a), et c'est bien en ceci que ce 2 + (a), au point du (a), se réduit non pas aux deux autres mais à un « Un +(a) ».

Vous savez que là-dessus j'ai déjà usé de ces fonctions pour essayer de vous représenter l'inadéquat du rapport de l'Un à l'autre, ce que j'ai déjà fait en donnant à ce (a) pour support le nombre irrationnel qu'est le nombre dit « nombre d'or ».

C'est en tant que du (a) les deux autres sont pris comme « Un +(a) » que fonctionne ce quelque chose qui peut aboutir à une sortie dans la hâte.

Cette fonction d'identification, qui se produit dans une articulation ternaire, est celle qui se fonde de ceci que en aucun cas ne peuvent se tenir pour support deux comme tels, que entre deux, quels qu'ils soient, il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a), et que l'autre ne saurait dans aucun cas être pris pour un « Un » (ラカン、アンコール)

とすれば、ある観点からすれば、「一」 l'Un と「他」 l'Autre とは同じものなんだろうか? (わたくしは今、 l'Autre を「他」としているが、いわゆる「大他者」、「大文字の他者」のことである。)

わたくしの単細胞な頭は、「一」S1とは「他」に(あるいはこの「世界S2」に)横棒するものだという、ひどく単純な理解を今のところしている?(そしてそこから逃れるものが、ファルス化されていない対象aだ、と)、とはいえ、まさかそんなシンプルなものではないだろう、と疑う心持は捨てていない・・・(わたくしは(笑)と記すのはあまり好きではないので、三点リーダーで代用する癖がある)。

いずれにせよ、漢字の「一」という横棒の形象はなんと奥深いのだろうと感嘆することしきりである・ ・ ・(こちらの三点リーダーは、上の(笑)の三点リーダーとは形象がことなる。ファルス化されていない三点リーダーでありうる、あのニーチェが使用した・ ・ ・)

そして世界に横棒をするものとしての「一」をなんとか次ぎの文につなげたい、という心持でいっぱいなのだが、どうも最近脳軟化症気味で、単細胞の頭はいっそう運びが悪い・・・

…はるかにいっそう興味深いのは、フロイト理論のほとんど忘れられてしまった箇所だ。それは我々に、主体と他者のあいだの相互作用を通したアイデンティティの発達のよりよい理解を与えてくれる。この点にかんして、フロイトは、『快感原則の彼岸』(1920)と『否定』(1925)にて、「原自我」(原初の快自我primitiven Lust-Ichs)、「リアル自我 Real-Ichs」、さらには外部の世界に遭遇した細胞についてさえ語っている。

発達過程は、原自我と外部の世界のあいだの相互作用にて始まる。それが自我にもたらすのは、この外部の世界を三つの異なった局面に差異化をすることである。すなわち、快感を生むもの/不快を生むもの/無関心なままのものだ。

注意しておこう、我々はここで「満足」と「緊張の増減」に関わっていることを。フロイトはこの過程を、その多寡はあれ、生物学的に、さらには動物行動学的にさえ語っている。すなわち、原初における進化する有機体、細胞が文字通りに外部の世界の部分を取り入れることをめぐって。

快が見出されたものは何もかも内部に取り入れる。不快を生み出すものは何もかも外部に送り返す。これが意味するのは、緊張と緊張の解除の経験は、アイデンティティの発達自体をもたらす、ということだ。そしてこのアイデンティティは全的に外部から来る。発達途上の原自我は、外部の世界に直面し、文字通りにその世界の部分を取り込む。

不快な部分は、可能なかぎりすばやく吐き出される。したがって初期の段階では、外部の世界と悪い非-私は同じものである。逆に、快を与える部分は内部に残ったままだ。その意味は、原自我と快は同じものということだ。それをフロイトは「原初の快自我」と呼んだ。

この「取り込み incorporation」と「吐き出し expulsion」は、先駆者、ーー後に生じる「判断」における知的機能の前身である。知的判断においては、肯定 ( Bejahung)は「取り込み」の代用品であり、否定(Verneinung)は「吐き出し」の後継者である。

注意しておこう、フロイトにとって、「肯定」はエロスと融合の側にあり、「否定」はタナトスの側にあることを。死の欲動の特質、それは分離と分解へと向かう傾向をもつ(フロイト『否定』)。(ポール・ヴェルハーゲ 、Sexuality in the Formation of the Subject、2005、原文

ーーーたぶん、容易にはつながらないだろう・ ・ ・

ところで、ジジェクもラカンの「波打ち際littorale」という言葉を取り出して、次ぎのような横棒の話をしている。

二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束convergenceは、まさに不一致divergenceによって支えられている。というのは差異が己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ジジェク、2012)


さて、話を元に戻せばーーつまり、「一」 l'Un と「他」 l'Autre の話だが、ジジェクは同じ著書の別の章で、類似した内容を語りつつ、「一」といったり「他」といったりしている。

ラカンが「一」the One に反対するとき、彼が標的にしたのはその二つの様相 modalities だ。すなわち想像界的な「一」(「一性」 One‐ness への鏡像的融合)と象徴界的な「一」(還元的な、「一の徴 」unary feature にかかわる「一」、そこへと対象が象徴的登録のなかに還元されてしまう「一」、すなわちこの one は差分的分節化の「一」であり、融合の「一」ではない)である。

問題は次のことだ。すなわち、現実界の「ひとつの一」a One of the Real もまたあるのか? ということだ。この役割は、ラカンが「アンコール」にて触れた Y a d'l'Un が果たすのか? Y a d'l'Un は、大他者の差分的分節化に先行した「ひとつの一」a One である。境界を画定されない non‐delimitated 、にもかかわらず独特な「一」である。「ひとつの一」a One、それは質的にも量的にも決定づけられないひとつの「一の何かがある there is something of the One」であり、リビドー的流動をサントームへともたらす最小限の収縮 contraction 、圧縮 condensation だが、それが、現実界の「ひとつの一」a One of the Real なのか?(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳) 

ラカンの ISR の三幅対に従い、(存在する)「他」は、想像界的「他」(自我の鏡像イメージ)、象徴界的「他」(無名の象徴的秩序、真理の場所)、そして現実界的な「他」 (「他」-〈モノ〉の深淵、〈隣人〉としての 主体の深淵)の三通りありうる。

“「他」はない” は次のように読み得る。「他」には欠如あるいは穴がある(喪われているシニフィアン、「他」は例外を基盤としている)。「他」の非一貫性(非全体としての「他」、相反しそれ自体として全体化され得ない「他」)。あるいはシンプル に「他」のヴァーチャルな特徴の主張(象徴的秩序は現実の部分としては存在しない。 それは、社会の現実における我々の行動を規制する観念的な構造である)。

この「アンチノミー」の解決法は、二重化された式によって提供される。すなわち、“「他」 の「他」はない”。「他」は、それ自身に関して「他」である。これが意味するのは、「他」の内にいる主体それ自身の脱中心化である。実際、主体は脱中心化されて いる。その真理はそれ自身の深みにはない。主体が囚われている象徴秩序の網、主体が 究極的にその効果である象徴的秩序内の「そこから外にある」。

しかしながら、象徴的「他」ーー主体が、その内部に構成的に疎外されている(同一 化している)ーーは、十全には実体的領域でない。そうではなく、それ自身から分離されているのだ。すなわち、不可能性の固有の点の周り、ラカンが指摘した外-親密 ex‐timate の核の周りに構成されている。この外-親密 ex‐timate のラカンの名は、もちろん対象 a、 剰余享楽、欲望の対象ー原因である。

このパラドキシカルな対象は、「他」の内部で、一種のバグや欠陥として機能する。その十全な現勢化への内在的な障害物として機能するのだ。そして主体はこの欠陥のただの相関物である。すなわち、欠陥なしには、主体はないだろうし、「他」は、完成され滑らかに動き回る秩序となるだろう。ここにあるパラドックスは、「他」を不完全にし、非一貫的にし、欠如を与える等の、その欠陥自体が、まさに「他」を「他」にするの であり、別の「一」に帰し得ないのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)


いずれにしても、シニフィアンなるものは、「他」から来る。「私」という「一」のシニフィアン l'Un-signifiant さえも、「他」l'Autre である。世界は「他」で出来上がっており、「私」も「他」だ。

我々は、ランボーの文法上の意図的誤りをもった《「私」とは他である ''JE est un autre.''》の字面を真剣に眺めてみる必要がある。ラカン的観点からは、l'Autreではなく、un autre であるのが残念だ、などと言ってはならぬ。ひょっとして l'Un = l'Autre の略号ではないか。「私」とは「他」の「一」なのではないか。

もし、あなたがーーわたくしと違ってーー脳軟化症でないなら、ネルヴァルの《Je suis l'autre》 を睨んでみる手打てもある。しかし、ランボーの文、その est だけでなく、JE のなんと神秘的なことか。わたくしは頭の具合とは異なり、鼻は効くほうなので、このランボーの金言に、「ゼロ」と「縫合」の匂いをたちまち嗅ぎつけてしまう。

もちろんラカンのパクリの悪臭はいうまでもなく。少なくとも、ランボーのサフラン色の香液の匂いは、ラカンの娑腐乱の臭いよりは、ずっと健康によい。

…ce quelque chose est la division du sujet, laquelle division tient à ce que l'Autre soit ce qui fait le signifiant, par quoi il ne saurait représenter un sujet qu'à n'être « Un » que de l'Autre. (セミネールⅩⅦ、P.207)

《un sujet qu'à n'être « Un » que de l'Autre》をしばらく眺めていれば、《Sujet être Un Autre 》→《JE est un autre》とならざるをえない・ ・ ・

《JE est un autre》のラカンによる反転ヴァージョンは次の通り。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu. L'univers… à partir de certaines petites - comme ça - lumières, un peu… que j'ai essayé de vous donner …l'univers, l'univers c'est une fleur de rhétorique. (セミネールⅩⅩ,p.63)

ラカンは、世界にはcon-vaincuばかりだと言っているのかもしれない。「私」が自分の家の主人だと思いこんだマヌケばかりだ、と。真実は、私とは他者なのに・ ・ ・

とくに「哲学者たち」が重症の病であるらしい、それをレトリック家ラカンは、je-cratie と命名する、→「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち

バディウ、ジュパチッチなどが何か言っていたが、あれはなんだったか?→ 「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?

バディウからラカンを理解するには、l'Un n'est pas、compte-pour-un、mise-en-un の三つの概念が重要らしいが、わたくしは数学・論理学が弱いからーーいや脳軟化症だから、諦めるべきだろう・ ・ ・

二年ほどまえ浅田彰がなんか書いてたが、この文のせいでバディウを読む気になれない・・・

メイヤスーは確かに興味深い哲学者だが、彼自身がまだ1冊しか本を出していない段階で英語のメイヤスー論の単著(Graham Harman,”Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making”)まで出るという状況は異常だろう。フーコーやデリダの時代に英米の大学で「フレンチ・セオリー」が流行した、ところが巨匠たちがどんどん去っていくなか、残ったバディウが異常に有名になり(他方、フランスでも遅まきながらスラヴォイ・ジジェクの影響が強まって、その線でバディウが浮上しもした)、その弟子も英米の学者たちが先物買いでもてはやしてるという感じではないか。

このような「ブーム」の問題のひとつは、それが必要以上に強いバックラッシュを招くということだ。メイヤスーについてはさすがにまだそこまで行かないが、バディウについていえば、『Critical Inquiry』(Summer 2011)でニーレンバーグ父子(数学者と歴史家)が「サイエンス・ウォーズ」的観点からバディウの数学理解の不正確さを突いた批判は、部分的なものであるにせよ、それなりに正確ではあり、バディウが他の哲学者たち以上に数学を重視しているだけに、ボディ・ブローのように効いてくるのではないかと思われる。自分で反論せず、「弟子」たちの反論に序文を寄せて事足れりとするバディウの姿勢(同誌 January 2012)も、賢明とは言えまい。

ついでに言うと、バディウの弟子だったのが『Anti-Badiou(反バディウ)』で決裂したメディ・ベラ・カセム(Mehdi Belhaj Kacem)は、小説を書いたり、フィリップ・ガレルの映画に俳優として出たり、なかなか賑やかな存在なのだが、『Anti-Badiou』以来ひどく叩かれた恨みをぶちまけた『La conjuration des Tartuffes』で、バディウはマオ+ラカンの最悪の結合であり、そのポジションは「ヘテローマッチョ」だと言っている、それは結局のところかなり正しいのだろうと私は思う。(メイヤスーによるマラルメ

今後、できうるかぎり、ヘテローマッチョに専念したい思いでいっぱいだ・ ・ ・