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2017年1月7日土曜日

記念日現象

いやあこの時期はいやだね
いやだっていうのかな、これを
眩暈がするんだよ
過去が押し寄せるってのかな

わたくしは被災者ではないのだけれど
(わけありで被災地を訪れしばらく滞在し)
あの日からの数週のあいだが
日本を出る決め手になった
原因といえばいえるから

その人にとって重要な事件が1周年を迎えるときには、しばしば「記念日現象」というものが起こります。悲しいこともうれしいことも、あらゆる追憶を呼び覚まされることで、空気の肌触りとか温度とか、そういうものが総合的に引き起こすとも言われています。

阪神大震災から1年を迎えるころ、私は新聞に「記念日現象」を警告する文章を書きました。実際に、当時委託していた24時間態勢の電話相談の窓口には、1月17日前後の数日間に集中して百数十件の電話がありました。

人間の身体はさまざまな形で周期づけられています。私自身も脳梗塞の発作と言える目まいを震災から1年たったころに起こしています。そのときは震災1年との関係を意識しておらず、その年の秋に脳梗塞を起こすまで忘れていた。当時の記録を後から読んで、思い出したんです。

また、このころは眠りが浅くなり、就寝途中で目覚めることも多くなりました。ふと時計を見ると(阪神大震災の発生時刻の)5時46分だったことが何度かあり、思わず笑いだしてしまったこともある。これも「記念日現象」なのかもしれません。こうしてみると、時間はらせん状に過ぎてゆくという面があるように思います。しかし普段はなかなか気づかれない。(中井久夫「歳月とこころ」
……新しい災害は過去の災害によるPTSDの症状を呼び覚ます。愛知県の義援金が他府県を抜いて格段に多い事実は、伊勢湾台風のPTSDが呼び覚まされたためではないだろうか。名古屋に赴いた時、それは三月の末であったが、震災が昨日のことであったかのように、盛んに義援金の募集が行われ、『中日新聞』に載る額も、小企業で一千万円、個人で十万円、百万円と「半端じゃなかった」。人々は「名古屋人はケチといわれているけれど、出す時は出すんだ」と胸を張って、伊勢湾台風との関連は意識していないようであった。しかし、ひとごとではないという気分が人々の間にあった。

老人たちは戦争の記憶を新たにした。戦後五〇年という「記念日現象」と重なって、まだ済んでいない精神的債務への態度が何か変わってきたと私は思う。

神戸人は伊勢湾台風の時は救援に熱心ではなかった。しかし、サハリン地震の義援金募集は、勤務先でも地域でも早く、また盛んであった。新潟の水害の知らせを聞いてボランティアがすぐ出発した。思わず微笑するほどであった。

このように、PTSDは、障害としてマイナスの意味だけを帯びるのではない。「ひとごとではない」という連帯の意識を呼び覚ます力にもなる。実際、関東大震災の時には被災者は全国に散った。片道切符をもらって東北本線に乗るか、軍艦で清水港、時には大阪まで運ばれるか、バラックを自力で建てるしかなかった。東京の人口は相当年数、大阪を下回ったのである。今回の震災では、全国が神戸にやってきた。さらには海外さえも。再び鮮やかになった過去の心の傷に導かれて被災地に関与したという面がないであろうか。誰か心の傷がない人があるだろうか。まして、この二十世紀においてーー。この支持が孤立感をどれだけ和らげたことか。PTSDが予想よりも軽く経過しつつあるのではないかという多くの精神科医の観察は、もし真実ならばこの支持なしにはありえなかったことである。

個人のいのちに対しても、PTSDは決してマイナスばかりではない。最初の現実感喪失、呆然状態でさえ、事態を見極めてから動くゆとりを与えるものと考えられないだろうか。気分の高揚と過剰な活動なしでは、修羅場を切り抜けられるだろうか。ただ、これはもっと自然と近かった時代、おそらく動物としての危機回避反応であろう。地震によって大被害が起こるのは都市ならばこそである。たまたま私は福井大震災を阪神間の畑の中で体験した。結構な揺れであったが、要するにしばらく地面とともに揺れていれば済んだのであった。

PTSDは、精神医学の新奇な一症候群というだけではない。統合失調症にせよ、躁鬱病にせよ、神経症にせよ、これらは、精神の内科的な病いである。これに対して、PTSDは、外傷後ストレス障害という名のとおり、心に負った傷という精神の外科的な障害である。今回の震災が日本の精神医学にもたらしたものといえば、心の外科的障害への開眼であろう。

精神障害が誰にでも起こりうるという、当たり前の事実は、一般公衆にも、精神科医にも、この震災によってはじめてはらわたにしみて認識されたのではないか。全国から集まった精神科医たちも、現場にあって多くのことを学んだ。主に遺伝素因によって精神障害が起こると考えていた研究者が、状況によって起こることを目の当たりにして素朴な驚きを語った。(中井久夫「阪神大震災八ヵ月に入る」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記録』所収)

2017年1月6日金曜日

原超自我 surmoi primordial

私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)

la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、le séminaire XVIII. 10 Mars 1971)
私に教えを促す魔性の力…それは超自我だ。

Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (le séminaire XXⅣ 08 Février 1977)

いやあ、 「自我理想と超自我の相違(基本版)」の基本版ってのは「寝言版」にしといたほうがよかったんじゃないか。

いずれにせよ核心は冒頭に貼り付けたミレール文だーーこれを貼付しといてよかった・・・

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

 柄谷行人ってのは勇気があるよ、『憲法の無意識』とかで、マガオで超自我を扱って。いやあ、フロイトもラカンも超自我において最後まで逡巡してるのだから、ひょっとしてあれでいいのかもしれないが(ネットで片言隻語を拾い読みしただけなので、詳細不明ではある)。

で、フロイトの超自我ってのはラカンの「父の名」だよ。

父の名 →ファルス→ 「一の徴trait unaire」→ 父の諸名 → S1(主人のシニフィアン)→ S(Ⱥ)、Y a d'l'Un、「女 Lⱥ Femme」、サントームΣという変遷はあるのだが。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、16 Mars 1976)
一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(Lacan, S17, 18 Février 1970、末尾にやや長く引用)


わたくしの雑な頭では超自我とは女のことなんだが、だめだろうか?(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。女としたら首尾一貫してるんだが。

フロイトは原抑圧も超自我も(はっきりとは)わからん、と1926年に言っている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮が強すぎて刺激保護が破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳 P.325)

《不安が抑圧をひき起こすのであって、私が前に考えたように、抑圧が不安を起こすのではない。》(フロイト『制止、症状、不安』1926年 P.335)

ラカンは1973年、超自我は原抑圧にかかわるものだという風に捉えうることを言っている。

フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。

とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。

結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier という考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。(ラカン、テレヴィジョン、1973年)


結局、初期フロイトが正当的なんじゃないか。

本源的に抑圧されているものは、常に女性的なるものではないかと疑われる。(Freud, 25. Mai 1897,Draft M)
この時点(1897年)においてフロイトは見出した、何かがある、我々の存在の核(Kern unseres Wesen) 、臍(navel)、菌糸体(mycelium)があることを。精神上では分節化されえず、不安を引き起こす何かである。ラカンの現実界、シニフィアンの彼方にあるものである。

フロイトが見出したこの何かは、常に受動的で不快なトラウマ的性質を持っている。受動性、ゆえに女性性である。より正確に言えば、受動性は女性性にとっての代理シニフィアンになる。というのは、フロイトは他に正しい表現を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界ーー象徴界のなかにはそれを言い表すシニフィアンはないーーが女性性である。フロイトは象徴システムにおける欠如を見出した。すなわち〈女〉を言い表すシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこれをȺ と表記した。その意味は、シニフィアンの全体は決して完全ではなく大他者には欠如がある、ということである。(ポール・バーハウ 1999,DOES THE WOMAN EXIST?)
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF

フロイトはまた1923年に次のように記している。

自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされている(……)。その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である。(フロイト『自我とエス』1923年)
※註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜならば父と母は、性の相違、すなわちペニスの欠如に関して確実に知られる以前には、別のものとしては評価されないからである。

もちろん終生「父」にこだわり続けたフロイトだから、表現は曖昧なままだけれど、「母」への示唆がある。

エディプス理論を作ってしまったから「母」が見えなくなっちまっただけさ。


最初期ラカンには、《太古的超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX ,1938)という表現がある。

セミネール5では次のように言っている。

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

le Surmoi maternel… est-ce qu'il n'y a pas derrière le Surmoi paternel, ce Surmoi maternel, encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant dans la névrose que le Surmoi paternel ? (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958) 

さらに約半年後、次のような文が現われる。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

ラカンも安易にメラニー・クラインに対抗しようと思って、彷徨ってしまったんじゃないか。

ミレールは1990年代の時点で、超自我はほとんど母なる超自我のことだと言っているように読めないでもない。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ無分別な法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、この「一」のシニフィアンから生まれる徴候でありパラドックスである。というのはそれは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996よりの孫引き,PDF)

ーーもちろんわたくしの書いていることはテキトウであり、すこし調べているうちにヤケクソ気味になっちまったわけだが。

しかしどうしてフロイトはこの点で間違えたんだろう? Mais pourquoi FREUD s'est-il trompé à ce point …この神話、エディプス理論で? ce mythe, le « complexe d'Œdipe » ?

……そう、奇妙なことだ、もっとはやく明らかにならなかったのは。… Oui, il est étrange qu'il ne soit pas devenu plus rapidement tout à fait clair

……たぶんまったく使いものにならない…実に c'est probablement du caractère strictement inutilisable… et en effet。誰が使うんだろ qui l'utilise ?、分析の依拠としてこの名高いエディプス理論を?

……いやあ、まったく使い物にならない!C'est strictement inutilisable !

そう、母という生の記念物 grossier rappel を除いて。欲望の原因としての対象のあらゆる投入を前にした母という障害物の価値 la valeur d'obstacle de la mère、その未加工の形見を除いて。

というのは、並々ならぬ労作があるからな、分析家たちが辿りついた《合体した親 parent combiné 》と呼ばれるものが。

その唯一の意味は、享楽の受け手としての大他者 un grand A receleur de la jouissance を構成するものだ…それは一般的には〈神〉と呼ばれる on appelle généralement Dieu…神と剰余享楽の一か八かの勝負をする価値があるってわけだ avec lequel ça vaut la peine de faire le quitte ou double du plus de jouir。すなわち超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi だ

ああ! 今日私はあなた方を台なしにしてしまった! (笑)Ah, je vous gâte aujourd'hui, hein ! [ Rires ]

私はもはや決して再び取り扱わないよ、この超自我の話を。Je n'avais pas encore abordé cette histoire du surmoi.(Lacan, S17, 18 Février 1970)
私は、エディプスは役立たずだ l'Œdipe ça ne sert à rien とは全く言っていない。我々がやっていることとは無関係だとも言っていない。だが精神分析家にとっては役に立たない。それは真実である!Ça ne sert à rien aux psychanalystes, ça c'est vrai ! …

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


2017年1月5日木曜日

自我理想と超自我の相違(基本版)

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

実際、Patrick Valasーーラカンのセミネールの音声掘り起し者として知られるーーの「超自我」シソーラスを眺めても、ラカンはそれほどたいしたことを言っているわけではない(Le Surmoi dans les séminaires de Lacan)。エクリについても最初期の論文に超自我は頻出するがそれ以降は少ない。

Rodriguez によれば、ミレールは次のようにも言っている(引用元不明)。

ミレール曰く、超自我は《ラカンが保持した最初のフロイト概念、フロイト理論においてラカンの関心を引いた最初の概念である》と。…Aimée の症例分析は、ラカンの1932年の博士論文を含め、新しい臨床カテゴリーの提案に至る。「自己懲罰パラノイア」、すなわち妄想の構造化が超自我の要求に支配されている精神病の形態である。これは、ラカンが呼ぶところの「自己懲罰欲動 pulsion d'autopunition」を満足させる「懲罰への要求」であり、このようにして超自我と欲動固有の様相とのあいだの相同性が打ち立てられる。(Leonardo S. Rodriguez, 1996)

…………

・超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)

・享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、セミネール20)

もちろん超自我の命令とは、不可能な命令である。

※参照:「基本版:現実界と享楽の定義

…………

【自我理想と超自我の相違】
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。

〈理想自我〉は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう〈小文字の他者〉であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、〈大他者〉の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。(ジジェク『ラカンはこう読め』既存訳からだが一部変更→原文
ラカンの見解では、超自我 surmoi は自我理想 idéal du moi とはっきりと差別化される必要があるとはいえ、超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。両方とも、主体が徴づけられた欠如への関わりとして機能する。その欠如とは、自我と理想自我 moi idéal とのあいだの相互作用にすべて関係がある。

自我理想はこの欠如との関係において「橋を架ける」機能を持つとラカンは言明している。…

超自我は、逆転した効果・分割効果を持つ。ラカン(E.684)は、超自我を次のように特徴づけている。すなわち、「如何に人があるか」(自我)と「如何に人がありうるか」(理想自我)とのあいだの差異を指摘する「内なる声」として。

事実上、超自我の指摘は、「如何に人がありうるか」の考えを「如何に人はあるべきか」の命令へと変換する。そのようにして、主体の欠陥を強調することになる。いくらか《得意にさせる exaltant》形で機能する自我理想とは対照的に、超自我は《強制する contraignant》効果を持つ(S.1)。超自我から湧き起こる無慈悲な非難は、自我理想によって励まされた完全性の期待を与える錯覚を粉々にする。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005,PDF)
超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。すなわち、「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012、私訳)
……超自我の最も純粋な働き。それは自己破壊の渦巻く循環へと我々を操る猥褻な作用である。

超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な中核ーードイツの観念論者が「否定性」と呼んだもの・フロイトが「死の欲動」と呼んだものーーを曖昧化することにある。超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)

…………

※付記:

【自我理想/理想自我】
一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ((ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)
想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)





※追記

上に引用したポール・バーハウの文の超自我と自我理想をめぐる文、

超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)

この文は次のジャック=アラン・ミレールの文とともに読むと、超自我・自我理想・父の名のあいだの関係をラカン派内でどう捉えているのかが、いくらか鮮明になるだろう。

ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School

・超自我/自我理想がコインの裏表
・超自我/父の名がコインの裏表

ーーであるなら、父の名とは基本的には自我理想である。ただしその裏面にある現実界的な超自我を忘れてはならない、ということになる。ジジェクの言っているのはそのことである。

〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。 

〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。(……)

自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、〈大他者〉の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


2017年1月4日水曜日

19世紀と20世紀の大カトー

前回、次のように大カトーの演説を引用した。

諸君、我々一人一人が各家庭で夫の権威と権利を守り抜いていたら、こんなことにはならなかったはずですぞ。今や事態はここまで来た。女がのさばり、家庭でのわれわれの行動の自由を粉砕しただけではあきたらず、広場におけるわれわれの自由をさえ粉砕にかかっているのではないか。法が男性の権利を保証している間でさえ、女たちをおとなしくさせ、勝手なことをさせないために、どんなに苦労してきたか、よくお分りと思う。もし女どもが法的にも男と同等の立場に立つならいったいどうなることか、よくよくお考えあれ。女というものをよく御存知の諸君、かりに連中がわれわれと同等の地位に立つとすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ。どこの世界でも男たちが女を支配しておる。ところが世界の男たちを支配する男たち、つまりわれわれローマ人がだ、女たちに支配されることになるのですぞ」(大カトーの演説――ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」より)

折角の機会なので、ここで20世紀の大カトーの演説を並べて、しばし熟考してみることにする。

【母の役割】
私は、エディプスは役立たずだ l'Œdipe ça ne sert à rien とは全く言っていない。我々がやっていることとは無関係だとも言っていない。だが精神分析家にとっては役に立たない。それは真実である!Ça ne sert à rien aux psychanalystes, ça c'est vrai ! …

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


【母なる超自我】

そもそも20世紀の大カトーは、その最初期から次のようにイッテオラレル・・・

1938年、つまりまだフロイトの生存中、《太古的超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX ,1938)としている。

ここでほぼ同時期のフロイトを引用してみよう。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)

この1933年の記述は読んでいたかもしれないが、次の叙述はまだ読んでいなかったことになる。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1940、死後出版)

そして1958年にも次のような演説をナサッテオラレル・・・

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

le Surmoi maternel… est-ce qu'il n'y a pas derrière le Surmoi paternel, ce Surmoi maternel, encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant dans la névrose que le Surmoi paternel ? (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)

娘婿のジャック=アラン・ミレールによる母なる超自我の注釈は次の通り。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ無分別な法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、この「一」のシニフィアンから生まれる徴候でありパラドックスである。というのはそれは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996よりの孫引き,PDF)

ラカンのマテームS(Ⱥ)とは、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。ミレールの記述から窺うに、超自我とは父的な自我理想に反し、母的なものであるとさえ読める。

もっともラカンは超自我を語るなか後年にもフロイト由来の原父 Père originel という表現を使ってはいる。

Quelle est l'ordonnance du surmoi ?

Précisément, elle s'origine de ce Père originel, plus que mythique, de cet appel comme tel à la jouissance pure, c'est-à-dire aussi à la non-castration. (S.18, 16 Juin 1971)

だがフロイトのエディプス理論を1970年に否定したラカンにとって、原父とは鰐の口の母と相同的である。核心は純粋享楽 jouissance pure、非去勢 non-castration の大他者なのだから、これはファリックマザーのことではなくてなんだというのだろう?

そして20世紀の大カトーの演説を聞いてしまえば、小カトーたちは次のような繰り言を漏らすようになるに決まっている。

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998、Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991)
倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安と して解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配して いるのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由であ る。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不 安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)


【母の法】

ラカンは「母なる超自我」を別に「母の法」とも呼んでいる。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5)

そして Geneviève Morel は、この「母の法」を後期ラカンの核心概念サントーム(原症状)と結び付けている。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

…………

ここに19世紀後半の大カトーの演説も「あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えている」から再掲しておこう。もちろんさらなる熟考のためにである。

……全世界の者 ―― 通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭は全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ …… およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 …… あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 …… あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……

これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである …… われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。結局、このことをいっとうよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単に公平であるような男などは、相手にしない ……

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してよいだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ―― 幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! …… ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである …… すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ―― 女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。

―― わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。

―― いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ―― 「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……

最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている …… そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ―― 生の聖霊に対する真の罪悪である。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そして今ではよく知られるようになったのだろうーーわたくしは数年前にやっと知ったのだがーー死後出版の『この人を見よ』の「序言」につづく「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第三節が妹によって原稿が差し替えがなされているのだが、その差し替え前の文を掲げておこう。

「わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と 妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつって いる。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken  くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来 の深遠な思想である 「永劫回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。―」 (KSA(Friedrich Nietzsche Sämtliche Werke Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter), 1980, Bd. 6, S.268)

最後に勇ましい演説はなされなかったが、19世紀と20世紀の大カトーの臍に位置づけられる遠慮がちなフロイトのボソボソとしたつぶやきをも掲げておこう・・・

一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』。(フロイト 『素人分析の問題Die Frage der Laienanalyse』1927年) 
知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』1927年)

…………

ところでミナさん、「物置の中へ押し込まれる」というのを御存知だろうか?

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)

御存知でなかったらお幸せである・・・

あるいは母なるブラックホールでもよろしいが、これまたゴゾンジだろうか?

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

ところで蚊居肢散人の本名はカトーであるのをいまだゴゾンジでなかったであろうか? そのあと佳シ! 克ツ!と続くのであるが、いまだ母なるブラックホールにカテタためしがない・・・





2017年1月3日火曜日

女というものをよく御存知の諸君、男女同権とすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ

諸君、我々一人一人が各家庭で夫の権威と権利を守り抜いていたら、こんなことにはならなかったはずですぞ。今や事態はここまで来た。女がのさばり、家庭でのわれわれの行動の自由を粉砕しただけではあきたらず、広場におけるわれわれの自由をさえ粉砕にかかっているのではないか。法が男性の権利を保証している間でさえ、女たちをおとなしくさせ、勝手なことをさせないために、どんなに苦労してきたか、よくお分りと思う。もし女どもが法的にも男と同等の立場に立つならいったいどうなることか、よくよくお考えあれ。女というものをよく御存知の諸君、かりに連中がわれわれと同等の地位に立つとすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ。どこの世界でも男たちが女を支配しておる。ところが世界の男たちを支配する男たち、つまりわれわれローマ人がだ、女たちに支配されることになるのですぞ」(大カトーの演説――ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」より)

限りなく面白い「ジャーナリスト」モンタネッリの『ローマの歴史』藤沢道郎訳からの孫引きだが、いやあ実に面白い。彼は上の文を引用した後、次のようなコメントを付している。

女性デモ隊はこの演説者に嘲笑を浴びせた。いつの世にも真実を語るものはこういう目に会うものだ。オッピウス法は廃された。

カトーは奢侈品に対する税を十倍に引き上げようと努力するがむだであった。ウーマンリブの活動家たちは、獲得したイニシアティヴを握りしめてはなさない。まず、持参金の管理権を獲得、女性の経済的独立と解放の巨歩を進める。ついで離婚の権利も手に入れ、子供という厄介者を避けるため、避妊術に多くたよるようになる。

このギリシア風の潮流に待ったをかけようとしたのがカトーである。こう言えば、口うるさい、気難しい、ごりごりの反動的道学者を想像するかも知れない。だが事実は反対なのだ。マルクス・ポルキウス・カトーは、リエーティ近在の農家の出で、はちきれそうなほど健康で陽気なおじさんである。多くの敵を作ってそれとの闘争を楽しみ、八十五歳の長寿をまっとうした。

もちろんこういう風に楽しく書いてくれているのは、カトーについてだけではない。

……私は、古代ローマの歴史家や記録者の著作をつぎつぎと読んでみた。化石を生き返らせるとはまさにこのことであった。学校で習った時は、硬直した姿勢を動かさず、人間というより抽象的なシンボルのようだった古代ローマ史の人物たちが、その金しばりの状態から一挙に抜け出し、生気をとりもどし、血と悪徳と表情と奇癖に彩られーーつまり、生きたほんとうの人間にもどったのである。……

ローマの歴史が偉大なのは、それが私たちとは違った人びとによって作られたからではなく、私たちと同じような人びとによって作られたからだ。……

かれらに対してなされ得る最大のあやまちは、かれらの人間的真実を、あたかもそれがかれらを矮小化でもするかのように、目をつぶって見ないふりをすることであると思う。とんでもないあやまちである。ローマがローマであるのは、その歴史上のヒーローたちが過誤や愚行をおかさなかったからではなく、かれらの過誤や愚行が、時にかなりひどいものであったとしても、ローマの覇権をゆるがすことができなかったからである。(モンタネッリ『ローマの歴史』「序」)

4、5回ほど読んだと思うが(1984年購入ーー母が死んだ年でありその一年半後に結婚している。すなわち当時は、大カトーの演説を「真摯」に受け止めていなかったようだ・・・)、その都度すっかり忘れているので、たまにはこうやってメモしておこう。敬意の表明のためにも。

また、《あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えている》(ニーチェ)にて、次のようにメモったところでもあるから。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート バダンテール Élisabeth Badinter、PDF
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。.(ドリス・レッシング、Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists、2001)

ところで、ジャーナリストのモンタネッリのことである。つまり歴史家とは異なってーーいや歴史家だってたいていは疑わしいがそれでも歴史家に比べてーーはるかに信憑性は疑わしいと見なしたほうがいいだろう。

大カトーの演説をティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」から次のように邦訳をされている方がいるのでこれも併せて貼付しておく(参照)。

「男性諸君、女性達はオピア法で自由を奪われたと言うが、私達、男性も家では何をするにも妻にいちいち注意され、ヒステリックにまくしたてられ、まさしく奥方の専制政治によって自由を奪われている。だが、百歩譲って家では我慢しても他人の夫や父親がいる外の社会にまで主婦連中が踏み込んできてあのような暴挙を許していいものだろうか? よその亭主を捕まえてあんな口の利き方をするなんて。第一、この法律のどこが悪い? どの女性も競って着飾る必要もなければ、裕福な女性も貧しき女性も似たような質素な服装をすればどちらも貴賎の違いを感じることなく恥をかくこともない。

ところが、裕福な女性達は、『どうして私達が貧しい人達のレベル(水準)にまで格下げしなくちゃならないの? そんなの絶対に耐えられないわ。それにそんなことをしたら、それこそ貧しい女性達が私達と同じような“ブランド品を身につけて自分達の本当の貧しさを誤魔化す”なんてことができなくなるじゃない』と全くひどい事を言う。

男性諸君、一体、いつまでこんな事を許していられるのだ?このままだと裕福な女性は誰も買えないような高い品物を『もっと、もっと』と求め続け、貧しい女性はその貧しさを蔑まれないよう無理をして裕福な女性達が持つのと同じようなブランド品をせっせと漁り続ける。

今ではこの傾向が行過ぎて女性達は“恥ずべき事を恥じず、恥じなくてもいい事を恥じる”ようになってしまった。そうして、自分が努力して稼いだ金で自分の欲しい物や望みを手に入れようとするならまだしも、それができない女性はすぐに自分の夫や父親、息子にねだろうとする。しかも、今度はよその亭主にまでこのオピア法の廃止議案を議会に提出してくれとねだる始末だ。だったら、彼女達の要求通り、このままオピア法を廃止してしまったらこれまで以上に女性達の我がままと贅沢に歯止めがかけられなくなるだろう。
“賢明なる市民よ、今一度、わたしは言おう。憲法であれ市条例であれ、法律なんて変わろうが変わるまいが、きっと今までと同じような生活や社会が続くだろうなんて甘い事を考えないで欲しい。何より悪事を行う者にとっては人から批判されたり、規制されたり、あるいは裁判にかけられて悪事を認めるよう責められるより、自分達に都合の悪い規制を緩和、あるいは撤廃してもらって誰からも何も言われない方がよっぽど安心なのだから”。
ならば、女性達の要求をよく考えもせずこのまま受け入れてしまったら、それこそ鎖で繋いでいた獰猛な獣を外に放つのと同じことにもなりかねない。それゆえ、わたしはどうあってもこのオピア法廃止議案について反対票を投じる。だが、ここにおられる男性諸君が賢慮の末にどのような票決を出そうともそれがこの国に繁栄をもたらさんことを心から祈ります」(ローマの歴史家ティトゥス・リウィウス(BC59−AD17年)著「ローマ建国史34巻」、Rev. Canon Roberts翻訳Bruce J. Butterfield氏のインターネット版テキスト参照)




2017年1月1日日曜日

屁屎尿の集合

正月とはことさら、屁屎尿のあらゆる集合がセリー状に発生する機会である。

屁屎尿の集合は8要素成り立っている。すなわち、屁・屎・尿・屁屎・屁尿・屎尿・屁屎尿・尸である。

尸とは空集合 ∅ であり、漢字圏では尼と記される場合がある。尸が囲む匕は、妣(女)の原字であり、細いすき間をはさみこむ陰門をもった牝を示す。ラカンはこの空集合を、女 Lⱥ Femme・S(Ⱥ) ・非全体 pas- tout と記した。

女 La femme とは…空集合un ensemble vide のことである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975ーー「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている)

数学については頓珍漢の身であるが、カントールはこの空集合を無限の集合にも適用し、それを「超限 transfinite」と呼んだそうだ。

以上から、当面、超限とは尼を徴示するのではないかと憶測しておく。