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2019年1月5日土曜日

症例タマキン

いやあ昔の日本的ラカン注釈者に準拠してなにやら言ってくるのは、もうやめにしてくれないかな。そしてボクは基本的にはメールに直接には返事しない。二者関係の泥沼にはまるからな。応答するならここに記す。

⋯⋯⋯⋯

ラカンによれば「享楽」には3種類ある。「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」だ。(斉藤環『生き延びるためのラカン』2006年)

ーーなどとラカンは言っていない。 表面的に読めば、そのように思い込める箇所があるというだけで、これは超訳ラカン、骨抜きラカンの典型である。

おそらく「享楽の図」あるいは「ボロメオの環」をチラ見したのか、どこかの三文解説書を真に受けてああ言ったんだろうが。

アンコールに現れる「享楽の図」とはこうだ。




ーーいやあ実にわかりやすい図だ、上っ滑りラカン読みが誤読するには(参照)。


現在、若い世代のラカン派リーダーとされるロレンゾ・チーサは30歳のときに(2006年)、こう言っている。

(すべての)享楽は、常に対象aの享楽と等しい。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、2006)

これが「より正統的な」解釈である。斎藤環の言う《「ファルス的享楽」「剰余享楽」「他者の享楽」ファルス享楽、剰余享楽、他者の享楽》は、実質上、すべて剰余享楽である。

ま、でもことさら斎藤環を批判するつもりはない。大兄弟の時代に、あなたとオトモダチのオニイサンとして啓蒙書を記せば、あのような浅はかな誤謬で満ち溢れる書が生まれるに決まっているのである。資本の言説の時代の「症例」として読めば、興味深い事例としての「症例タマキン」である。

そしてあのような言説は次のような結果を生む。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

⋯⋯⋯⋯

ラカンはファルス享楽に相当する神経症者における対象aをまがいの対象a、囮の対象aと呼んでいる。

・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre 1962)

他方、ボロメオの環に現れるJs(意味の享楽、見せかけの享楽)とは、フェティッシュとしての見せかけaである。






セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)

囮の対象aと見せかけの対象aとは、晩年のラカンの文脈では似たようなものである。なぜなら神経症者のファルス享楽は、父の版の倒錯だから。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

ただしフェティッシュとしての対象aの享楽のほうがより身体の享楽に接近しているのは間違いがない。

倒錯は対象a のモデルを提供する C'est la perversion qui donne le modèle de l'objet a。この倒錯はまた、ラカンのモデルとして働く。神経症においても、倒錯と同じものがある。ただしわれわれはそれに気づかない。なぜなら対象a は欲望の迷宮 labyrinthes du désir によって偽装され曇らされているから。というのは、欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance だから。したがって神経症においては、解釈を経る必要がある。

倒錯のモデルにしたがえば、われわれは幻想を通過しない n'en passe pas par le fantasm。反対に倒錯は、ディバイスの場、作用の場の証しである La perversion met au contraire en évidence la place d'un dispositif, d'un fonctionnemen。ここに、サントーム(原症状)概念が見出される。(神経症とは異なり倒錯においては)サントームは、幻想と呼ばれる特化された場に圧縮されていない。(ミレール Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)


さて三番目の「無 rien」に最も近似している 対象a とは、他の享楽JȺ(女性の享楽)であり、これも剰余享楽である。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléancẹ̣ (穴埋め)を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

この女性の享楽については、「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」にて詳述してあるのでここでは一文だけの引用にしておくよ。


⋯⋯⋯⋯

最晩年の1977年のラカンは享楽について次のように言っている。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


ジャック=アラン・ミレールは去勢について次のように言っている。

(- φ) は去勢 le moins phi を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

コレット・ソレールは、この[去勢 le moins phi」に相当するものを「 le moins-de-jouir 」と表現しているが、これ自体「享楽の控除」と訳せるだろう。

対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)

ある時期以降のラカンの対象aにほぼ相当する「 le plus-de-jouir」は、一般に「剰余享楽」と訳されているが、これはmisleadingな訳語である。剰余享楽では「 le plus-de-jouir」の両義性が消えてしまう。

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)

より詳しくは、「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」に記してあるが、「 le plus-de-jouir」とは本来次のような両義性がある用語なのである。




ミレールの表現なら、穴と穴埋めの二つの意味があることになる。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)

わたくしがボロメオの環を図示するとき、ラカン自身の図示[a]とは異なり、[-φ]としているのは、この文脈のなかにある。






要するに真ん中の原去勢(原初の享楽控除)に対して三種類の剰余享楽がある、という想定のもとの右図である。



ーーこれらはあくまで現時点でのわたくしの想定であり、これ自体、あまり信用しないように。

なにはともあれ、享楽とは不可能な享楽という意味であり、斜線が引かれている。それがミレールの言う  (-J)= (-φ)  の意味である。その斜線を引かれた享楽に対して三種類の剰余享楽があるのである。

不可能な享楽と剰余享楽の関係性は(最も基本的には)セミネール19に何度も現れる「四つの言説」の基盤図がそれを示している。




以上

2019年1月4日金曜日

愛するといふことは息を止めるやうなことだわ

一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気があたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。(三島由紀夫「夜の向日葵」)

いやあスバラシイな、フロイトやラカンを真に読むためには、まともな作家とともに読まなくちゃな。

エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (⋯⋯)

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
⋯⋯この大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、誰もがいかに不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロス Éros のことだが、これは一つになる faire Un という神話だろう。これで人は死にそうになっている(ヘトヘトになっているon crève)。どうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

このことについては書こうとしたことはないのだが、身体を密着することでせいぜいできることといえば、「わたしをぎゅっと抱き締めてserre-moi fort !」と言うことぐらいだ。けれどもあまり強く抱き締めると、相手は最後には死にそうになるだろう(笑)。mais on ne serre pas si fort que l'autre finisse par en crever quand même ! [rires]

だからひとつになる方法なんてまったくない。エロスなんてまったくもっての驚くべきジョークだ la plus formidable blague。

ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死 la mort に属するものの意味に繋がるときだけだ。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


ラカンはフロイトのエロスをばかにしつつ冗談ぽく語っているようにみえるが、今掲げた文が、ラカンの「大他者の享楽」概念を把握するための核心的な発言である。なによりもまず大他者の享楽とエロスが等置されていることのが分かるだろう。

Cette jouissance de l'Autre, dont chacun sait à quel point c'est impossible, et contrairement même au mythe, enfin qu'évoque FREUD, qui est à savoir que l'Éros ça serait de faire Un,

つまり(生きている存在には不可能な)究極の享楽とは究極のエロス=死のことである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)

これはエロスの引力に惹かれつつも、究極のエロスという死の恐怖があり斥力が働く。したがって究極のエロスのまわりを循環運動することこそがタナトス(死の欲動)だというふうに理解できる。

同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)






フロイトのエロス(融合)とタナトス(分離)についての記述をもう三つ掲げておこう。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)




ラカン「菱形紋 ◇losange」とは、エロス欲動とタナトス欲動の「欲動混淆Triebvermischung」記号さ。

純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない。この欲動混淆 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱混淆 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題

略してエロトス記号である。







⋯⋯⋯⋯

エロスについて、古井由吉はこう語っている。

エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

だれもが知っているように、老齢になれば、死の女神、母なる大地の抱擁に接近する。ゆえにエロス感覚が深くなるのである。

この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)



2019年1月3日木曜日

時代遅れの男

やあボクは時代遅れの男だからな、だから「子宮」について常に思いをめぐらしてんだ。

フロイトは『性欲論』で、「知の欲動 Wißtrieb」の起源は、《子供はどこからやってくるのか Woher kommen die Kinder? という謎》だと言ったがね。これは誰にでもあった筈の「原問い」のひとつだよ、老子の「玄牝之門」やプラトンの「コーラ χώρα」と同じ問いさ。

精神分析は入り口に「女というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はない。そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめる。(ミレール「もう一人のラカン」1980年)

女というものを探し求めるとは、究極的には子宮について考えることだよ。あるいは母の去勢についてね。

人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)

人間の原不安は《喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben》(フロイト、1926) に関係するにきまってんだ。 そしてこの原去勢としての分離不安こそ愛の起源だ。

ラカンは「享楽は去勢である la jouissance est la castration」とか「享楽の空胞 vacuole de la jouissance」といったがね、

でも、きみたちはそんなこと考えなくっていいさ。時代から外れると生きにくくなるのはたしかだからな。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

ニーチェの『反時代的考察 unzeitgemässe Betrachtung』は、時代から外れた考察ってことだよ、昔の生田長江訳では「季節はづれの考察」となってたぐらいでね。

でもきみたちは目隠し耳栓のゴマスリ作家やら日本的ラカン派やらを読んでウンウン共感してたらいいさ、

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

じつに作家や批評家ってのもろくでもないヤツしかいなくなったからな。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)

すこしまえには日本にもまともな作家がいたんだがな。

女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐる(三島由紀夫『反貞女大学』)
男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)


退行の世紀の作家ってのはほとんど全滅だな。

千葉雅也は、退行の世紀の書き手としてはすこしはまともなほうだが、やっぱり退行の時代に汚染された批評家で、ボクにはものたりないところがふんだんにある人物なんだけど、一年ぐらい前だったかもう少し前だったかにこうツイートしている。

逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。 
根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。

彼は自覚的だと思うよ、(いまのところはまだ)彼自身、根源的な問いを避けていることを。



2018年12月31日月曜日

子宮という自動反復機械

ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。(ジョアン・コプチェク Joan Copjec、Sexual Difference、2012
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)

⋯⋯⋯⋯

フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

⋯⋯⋯⋯

さて前回記した「快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽」を基盤としつつも、人は、解剖学的「女性」の享楽を考えなければならない。泥まんじゅうは、凡庸なフェミニストたちにまかせておけばよいのである。以下はその手始めの文献である。


女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。

元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。…

自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。

女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である。女の脂肪組織[fatty tissues] は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。

…受胎は、女のセクシャリティにとって決定的特徴を示している。妊娠した女はみな、統御不能の冥界の力に支配された身体と自己を持っている。

望まれた受胎において、冥界の力は幸せな捧げ物である。だがレイプあるいは不慮による望まれない受胎においては、冥界の力は恐怖である。このような不幸な女たちは、自然という暗黒の奈落をじかに覗き込む。胎児は良性腫瘍である。生きるために盗む吸血鬼である。

…かつて月経は「呪い」と呼ばれた。エデンの園からの追放への参照として。女は、イヴの罪のために苦痛を負うように運命づけられていると。

ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。

女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか?

私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。

これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時間と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である。(⋯⋯)

女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。……

西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)


(ゴダール、探偵)

後期理論の段階において、ラカンは強調することをやめない。身体の現実界、例えば、欲動の身体的源泉は、われわれ象徴界の主体にとって根源的な異者 étranger であることを。

われわれはその身体に対して親密であるよりはむしろ外密 extimité (最も親しい外部)の関係をもっている。…事実、無意識と身体の両方とも、われわれの親密な部分でありながら、それにもかかわらず全くの異者であり知られていない。(⋯⋯)

偶然にも、ヒステリーの古代エジプト理論は、精神分析の洞察と再結合する或る直観的真理を包含している。

ヒステリーについての最初の理論は、1937年にKahun で発見された4000年ほど前のパピルス[Papyrus Ebers]に記されている。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされるとの説明がある。子宮は、身体内部に独立した自動性器官だと考えられていた。

ヒステリーの治療はこの気まぐれな器官をその正しい場所に固定することが目指されていたので、当時の医師-神官が処方する標準的療法は、論理的に「結婚」に帰着した。

この理論は、プラトン、ヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス等々によって採用され、何世紀ものあいだ権威のあるものだった。この異様な考え方は、しかしながら、たいていの奇妙な理論と同様に、ある真理の種を含有している。

第一にヒステリーは、おおいに性的問題だと考えらてれる。第二に、子宮は身体の他の部分に比べ気まぐれで異者のような器官だという想定を以て、この理論は事実上、人間内部の分裂という考え方を示しており、我々内部の親密な異者・いまだ知られていない部分としてのフロイトの無意識の発見の先鞭をつけている。

神秘的・想像的な仕方で、この古代エジプト理論は語っている。「主体は自分の家の主人ではない」(フロイト)、「人は自分自身の身体のなかで何が起こっているか知らない」(ラカン)と。(Frédéric Declercq, LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE, 2004年)

ーー上の文にある「異者」とは、ラカンの 《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23, 1976)であり、フロイト概念「異物 Fremdkörper」であるのは既に何度もくり返した(参照:内界にある自我の異郷 ichfremde)。

ここでは簡略にラカンのボロメオの環を使ったフロイト概念版を掲げておくのみにする。






どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1990年)

ーーこの記事の核はこの文である。ミレールに「母女 Mèrefemme」という概念があるが、漢字で書けば「姆」。女はエライのである。姆、すなわち神である。

女が欲するものは、神もまた欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(アルフレッド・ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838年)
全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)
(原母子関係には)母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)



※付記

私がS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」にほかならないものを示しいるのは、神はまだ退出していない Dieu n'a pas encore fait son exit(神は死んでいない)ことを示すためである。(ラカン、S20、13 Mars 1973)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
なぜ人は「大他者の顔のひとつ une face de l'Autre」、つまり「神の顔 la face de Dieu」を、「女性の享楽 la jouissance féminine」によって支えられているものとして解釈しないのか?(ラカン、S20, 20 Février 1973)
「大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre」、これが「最後の審判 le Jugement Dernier」の作用である。この意味は、われわれが享楽しえない何ものかがある il y a quelque chose dont nous ne pouvons jouir.ということである。それを「神の享楽 la jouissance de Dieu」と呼ぼう、「性的享楽 jouissance sexuelle」の意味を含めて。(ラカン、S23、13 Janvier 1976)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然 nécessité)性。人はそれを一般的に〈神 Dieu〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女というもの La femme》だということである。(ラカン、S23、16 Mars 1976)

⋯⋯⋯⋯

享楽自体、穴[Ⱥ] を作るもの、控除されなければならない(取り去らねばならない)過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ)]に至る。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)

※参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽




2018年12月30日日曜日

快原理の彼岸にある享楽=女性の享楽

まだきいてくるんだな。あのね、ボクはいままでの日本ラカン派(の殆ど)は、ラカンジャーゴンに踊った阿呆鳥しかいないんじゃないか、という疑いを持ってるんだな。その前提で記しているからさ、そのあたりの学者センセが何いってるのか知らないが、彼らの見解と異なるのは当然だよ。

そもそも彼らは、最も基本的な問いが欠けているんじゃないか? それは、フロイトの「快原理の彼岸」とラカンの「ファルス享楽/女性の享楽」はどう関わるのか、という問いだ。ラカンはフロイトの快原理の彼岸のまわりを常に廻っている思想家なのに。

なによりも先ず、人間には心と身体しかないんだ。そうだろ?


心は身体に対する防衛である


で、心的なものである欲望とは、身体的なものである欲動の「心的被覆 psychischen Umkleidungen」(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)、あるいは《 l'enveloppe formelle  形式的封筒 》(ラカン、E66、1966)だ。

だから、ファルス享楽とは「心による享楽」だよ。これは別の言い方をすれば「言語に囚われた享楽」。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ーーようするにファルス秩序(象徴秩序)は言語秩序である、ということだ。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

フロイト文脈でいえば、ファルス享楽は言語内の享楽なのだから、フロイトの定義上、語表象(シニフィアン)に結びつけられた享楽ということだ。

※語表象 Wortvorstellung については、「ヒト族の存在の核としての「非抑圧的無意識」」を見よ。

したがってファルス享楽とは、フロイト用語では「ファルス快楽」だ。

これは、ジジェク が「奇跡的」と書評したバーハウ1999に既に簡潔明瞭に記されている通り。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

ファルス快楽は、ラカンの言う「欲望は享楽に対する防衛」に則って、「ファルス欲望」としたっていい。したがってファルスの彼岸にある「他の享楽」=「女性の享楽」が、本来の「享楽」用語、あるいはフロイトの「欲動」用語に相応しい。

これがミレール が次のように言っていることだ(参照:女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011)

これは、ミレールの2005年度セミネールの冒頭にある図が示していることでもある。



前にどこかの誰かが、テュケーが左側にあって、オートマトンが右側にあるのは、ラカンのセミネール11の定義に反しておかしいと言ってきたことがあるが、ま、その人物だけでなく現在の学者センセの大半はいまだこれについてなーんにも分かってないんだな。

象徴的形式化の限界との遭遇あるいは《書かれぬことを止めぬもの ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire 》との偶然の出会い(テュケー)とは、ラカンの表現によれは、象徴界のなかの「現実界の機能 fonction du réel」(セミネール11)である。そしてこれは象徴界外の現実界と区別されなければならない。(コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé、2009)

ーーこのソレールが明瞭に2009年に言ったことに無知のままなんだな。もちろん異なった立場があってもいい。だがまったくこれに対して格闘していない。

この文脈における右側にあるオートマトンとは現実界の自動享楽のこと。

この自動享楽が次の二文の意味だ(参照)。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない。 le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)


このオートマトン(自動性)は、セミネール11における象徴界のオートマトンではぜんぜんない。ところが大半の連中はいまだセミネール11どまりのまま。

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome Σと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

この身体の自動享楽=オートマトンとは、フロイトの「Automatismus 自動反復」のことだ。

フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme Cours n°1 - 19/11/97 )
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) 記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)

⋯⋯⋯⋯

さて何度もかかげている「ファルス享楽」とファルス享楽の彼岸にある「他の享楽」の定義だが、再掲すれば次の通り。

ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。 (ファルスの彼岸にある)他の享楽 jouissance de l'Autre(=女性の享楽) とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

ーー何度も繰り返しいるが、いままでは「大他者の享楽」と訳されてきた "jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

もう二文掲げとくよ。

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

ここまでで、他の享楽=身体の享楽=女性の享楽であるのが分かるだろ?

君の好きな「女性の享楽」用語を使って言えば、女性の享楽とは「言語外の身体の享楽」だよ。



フロイトは1915年にはこう言っている。
欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

だが最晩年のフロイトにとっての欲動は、境界概念よりもいっそう身体に接近していく。

欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

これが、上に引用したミレールが後期ラカンの核心として強調している、フロイトの言葉の捉え方だ、《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》(『制止、症状、不安』1926年)

ここまで記したことでわかるように、ファルス享楽は快原理内の快楽であり、他の享楽とは快原理の彼岸にある「不気味な」反復強迫的欲動ということだ。

この図の下段に上に掲げたミレール2005をくっつけたらピッタリくる。




さらに冒頭近くに引用した1999年、ポール・バーハウ文を再掲しておくよ。20年前のね。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは他の享楽に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

で、『快原理の彼岸』の前年に上梓された『不気味なもの』といっしょに読むことだな、この文を。

心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

以上、「女性の享楽」の最も基本的な前提はこれだ。もし人が解剖学的「女性」の享楽を思考することがあってもーーボクはときにそうしているがね、たとえば「ワルイコのための「享楽」」ーー、この前提なしで女性の享楽を思考することは不可能。


撞玉のエロス

◆ゴダールの探偵 Détective (1985年)



◆百年恋歌(最好的時光、侯孝賢(2005年)