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2017年9月2日土曜日

音楽日記:子宮内の出来事

カントは言っている、音楽とは最低かつ最高の芸術である、と。

感覚的刺戟と感動とを問題にするならば、言語芸術のうちで最も詩に近く、またこれと自然的に結びつく芸術即ち音楽を詩の次位に置きたい。音楽は確かに概念にかかわりなく、純然たる感覚を通して語る芸術である、従ってまた詩と異なり、省察すべきものをあとに残すことをしない、それにも拘らず音楽は、詩よりもいっそう多様な仕方で我々の心を動かし、また一時的にもせよいっそう深い感動を我々に与えるのである( …)これに反しておよそ芸術の価値を、それぞれの芸術による心的開発に従って評価し、また判断力において認識のために合同する心的能力〔構想力と悟性〕の拡張に基準を求めるならば、すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占めることになる」(カント『判断力批判』篠田英雄訳)

事実、人が原初に感受した最初の「芸術」は、母胎内における母の心音であり血液の流れという「音楽」である。心音のくっきりしたリズムとともに、ざわざわと血の流れる響き、プルーストが云う《くらがりにうごめくはっきりしない幼虫のように目につかなかったいくつかの楽節》である。誰モガ実ハ覚エテイル筈デアル。もっとも母親がヒステリー気質であるなら、母の怒声や叫声の楽節が最も印象に残った始原の「音楽」でありうる。

この断定をすこしだけ保留するとすれば、もし触覚芸術や嗅覚芸術、振動芸術などが今後生まれるなら、それも聴覚芸術と同様に原初的であろう。母胎内で粘膜に愛撫されたり羊水のにおいに包まれたり、あるいは羊水の海に揺蕩ったりしているのだから。

もっとも彫刻は、高村光太郎が既に言っているように触覚芸術でありうるし、濃厚な腐臭をもつチーズや鮒寿司などの発酵食品は嗅覚芸術、そして舞踏は振動芸術でありうる。とすればこれらの根源的感覚を刺激する芸術は既に存在する。そして胎児は指を咥えることがあるのだから口唇感覚も原初的であり、接吻やフェラチオなどの性のかかわる行為も口唇覚芸術、かつ互いのにおいをまさぐり合うという意味で嗅覚芸術・・・いやそれだけではない、あるゆる感覚を伴う総合芸術かもしれない。

話を戻せば、たとえばアルトーが、《私の内部の夜の身体を拡張すること dilater le corps de ma nuit interne》と言ったとき、彼の母の子宮はひどく小ぶりであったのではないか、と人は疑うべきである・・・

私、アントナン・アルトー、1896年9月4日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(アルトー『タマユラマ』)

その点、わたくしの母は、ややヒステリー気味であったにしろ、子宮内はとても居心地がよく、夜咲キスミレノヨウナ芳香ガシタ・・・かつまた Bernarda Fink と同じような声音、そして彼女の歌う「Nachtviolen」とほぼ同じ心音テンポをもっており、なぜシューベルトのこの曲・このベルナルダの歌声にこんなにも魅惑されるのか、ーー実はこのところそればかり考えていたのだがーーその原因をヨウヤク見出シエタトコロデアル・・・

ああ、ベルナルダ! あたかもわたくしの原初の子宮内交接の記憶、そのはるかで朧な出来事ーー《症状(サントーム=享楽の原子)は身体の出来事である le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、AE.569、1975)--その歩みが、鳩の足でやってくるかのようではないか! (Bernarda Fink; "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~))。

ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真(→音楽)はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ああ、下瞼のたるみ、眼尻の皺の具合、笑い方、ときおり示す厳しく冷ややかな表情まで、わたくしの母とそっくりである・・・わたくしは稲妻に打たれたままなのである。

◆Bernarda Fink; "Nachtviolen"; Franz Schubert




ああ、あああ、わたくしはほんとうに大丈夫なのだろうか。わたくしのカオスは安定しないのである・・・なにかが分解してしまいそうになるのである・・・

暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)


この女は、ニーチェが錯乱の奥底からアリアドネという名で呼んだのと同じ人物なのかも知れぬ (モーリス・ブランショ)

とはいえ1955年生れのこのアリアドネは、外貌としては50歳前後の写真がもっとも美しいようにみえる・・・50歳で死んだわたくしの母は齢をとらないのである・・・母とはまだ若く美しいままで死ぬべきではなかろうか?



2016年10月31日月曜日

話す身体と分裂病的享楽



【分裂病者の身体】
…いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化・流体的伝動によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)

…le triomphe ne peut être obtenu maintenant que par l'instauration de mots-souffles de mots-cris où toutes les valeurs littérales, syllabiques et phonétiques sont remplacées par des valeurs exclusivement toniques et non écrites, auxquelles correspond un corps glorieux comme nouvelle dimension du corps schizophrénique, un organisme sans parties qui fait tout par insufflation, inspiration, évaporation, transmission fluidique (le corps supérieur ou corps sans organes d'Antonin Artaud).' (Gilles Deleuze Logique du sens Le corps sans organe Artaud. série, du schizophrène et de la petite fille, 1969)


【話す身体 le corps parlant】
すべてが見せかけ semblant ではない。ひとつの現実界 un réel がある。社会的紐帯の現実界 Le réel du lien social は、性関係の不在 l'inexistence du rapport sexuel であり、無意識の現実界 Le réel de l'inconscient は話す身体 le corps parlant である。 (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER
・ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、《現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  〉 (S.20)と。

・ファルス享楽の彼方にある他の享楽 l'autre jouissance とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。(ヴェルハーゲ、2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

ーーより詳しくは、「身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE (アルトー)と(a)-natomie 、(a)sexuée(ラカン)


【参照】:話す身体 LE CORPS PARLANT と器官なき身体 le corps sans organes

Il est particulièrement sensible dans Radiophonie que Lacan est intéressé par la voie que Deleuze avait dessinée dans sa Logique du sens mais dont Lacan ne prend pas à son compte les analyses de la jouissance que le grand spécialiste de Spinoza produira avec son complice Guattari en supposant des corps machiniques dont les branchements indifférenciés permettraient la circulation de flux de jouissance. Toutefois Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots qui comme les corps sans organes sont divisibles à l'infini et connectables par choc entre eux porteurs d'une jouissance schizophrène. Le corps devient alors surface d'inscription du signifiant. Et c'est le signifiant (hors corps) qui découpe sur le corps et ses organes les localisations de jouissance. C'est ainsi qu'il faut entendre la phrase souvent citée de la page 409 des Autres Ecrits :

« Je reviens d'abord au Corps du symbolique qu'il faut entendre comme de nulle métaphore, a preuve que rien que lui n'isole le corps comme à prendre au sens naïf, sans celui dont l'être qui s'en soutient, ne sait pas que c'est le langage qui le lui décerne, au point qu'il ne serait pas faute d'en pouvoir parler. Le premier corps fait le second de s'y incorporer » [4](.LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、Présentation de la première séance du cours « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016,PDF

ーーいやあ、こうやってようやく主流ラカン派がドゥルーズ=アルトーの傍らにやってきたということになる(分裂病を無闇に賛美するつもりはないけれど・・・)

ここでの主流ラカン派とはミレール派のことであり、Éric Laurentはミレール派のナンバーツー、Pierre-Gilles Guéguenはミレール派内の芸術的?ラカン派。


【詩作者と精神分裂病者】

◆中井久夫「詩の基底にあるもの」より(『家族の深淵』所収)

―――その生理心理的基底



精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。


詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。


実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。

散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。

かりに、貴重な薄氷感を失えば、言語の発見論的使用は「妄想」に堕する危険がある。実際、妄想は全面的危機に際して一つの解釈を示して救い手として現れるものであり、患者が妄想にその内容にふさわしい恐怖を示さないかに見えることは、何よりもまず、それに先行する事態がはるかにおそるべきものであって、それに比すれば何ほどのことはないからである。実際、妄想の反復性と一義性とは、内容の恐怖性を補って余りある安定を与える。ここに妄想の抜けにくさがある。それは不要になった時に自然に消滅する他はないものである。しかし、安んじて共存できるものでもない。また問題は、新しい体験が入ってこなくなることであり、それゆえに妄想を持つ人の「心が痩せる」。詩と妄想とは最終的には相互排除的であるが、出発点においては、まったく別個のものではないと私は考える。むろん、発見論的使用と無縁な韻文はありうる。それは韻文であるが「詩」との相違は、数学の論文とパズルとの差に近くはないか。もっとも、詩作のある段階においてはパズル的側面、言語ゲーム的側面が前に出ることもある。それが詩を完成させる救いになることもある。


私がここでポール・ヴァレリーに触れるのは、ただ私が無謀にも彼の詩の若干を訳したことがあるというだけではない(『ヘルメス』 40号、同47 号)。むろん、翻訳は、出来ばえはどうであっても通常よりも徹底的な読みであり、その過程で気づいた襞もある。しかし、それよりも、詩作の生理学を自ら述べているのがなかんづく彼だからである。ここでは紙幅の関係もあり、主に「太公と若きパルク」によって述べよう。

彼は一八九二年に詩作を廃し、一九一二年に四十一歳にして友人の促しによって詩に回帰する。彼は、「自分ではわからない青春への回帰によって二十年を隔てて詩に感興を覚えるようになった」と述べている。外的原因も無視できないが、彼は「長周期の記憶あるいは共鳴があって、それがにわかに己の性癖、力、遠い過去の希望も返してくれるのではないか」と述べている。これについては人生の入口および出口近くに詩作のピークを持つ詩人が少なくないことを付言しておこう。さしあたりT・S・エリオットあるいはリルケが念頭にある。

最初には、ことばの響き、その「音楽」への敏感性を自覚し、さらにそれを味到しようと努力するようになる。「語を耳にすると私の中で自分でもわからない和音的相互依存関係や皮一枚下まできている律動の、まだ声にならない存在〔もの〕が揺らいだ」。この「うたう状態」の始まりは「演奏前のオーケストラの楽器の低い呟きのような甘美」であった。彼は自分の中に詩人を認め、それに馴染み、成り行きに任せる。ここで彼が「当時は難問に取り組むことにとうの昔からうんざりしていた」と述べているのは事実であろう。彼が書き続けてきた「カイエ」による探求は「地獄のような悪循環」になっていた。彼の中に再生した詩への傾斜は、救いとして、さらに青春の再生として感受されている。

これは、彼を「若きパルク」制作に誘い込む陥穽であった。しかし、彼は詩に回帰してもこの地獄から逃避できなかった。「新しい季節の初花の下には抽象的問題と謎とが群集していることをすぐに認めた。見たいと思うところには必ずあった。詩にも」。「粗書きの幸福の後、かいま見た将来の美、内面の声のこの神のような囁きの後、まだ指紋のついていない断片がすでに生れているというのに、そこから苦役にむかって、このざわめきを文節し、断片を繋ぎ合わせ、全知性に問いかけ ……そして待たねばならないのであった」。「最初の一句はミューズから与えられる。後は努力である」と彼は別のところで言っている。ある日、「すでにある部分の構築と推敲とに疲れて」絶望的嫌悪感に陥り、ある部分の断念を自分に言い聞かせて、雑踏の中を彷徨する。一九一三年十二月のことである。

神秘家は、召命の後、ある時期には aridity(不毛)に耐えなければならないと聞く。このことは詩人にもある。

彼はあるカフェに入り、散らばっている新聞に、あるドイツの大公が、愛人であった女優の演技と台詞を具体的に細部にわたって記してあるのに遭遇する。それは「まさにしかるべき瞬間に到来して、もっとも予想外の経路によって必要であった救いをもたらした」。これはサン・ピエトロ広場のオベリスクが建立中途で進退谷〔きわ〕まった時、厳禁されている沈黙を破った「綱を湿せ」の一声が綱の強度を増して破局を救ったのに例えられている。劇はシラーの「メアリ・スチュアート」の処刑寸前の一節を音の高さから沈黙まで記述したものであるが、どうして彼を救ったかは自分ではわからないという。

この時までに彼が現在刊行されている「若きパルク」の草稿のどの段階に達していたかは、それらの多く、特に初期のものに日付がない以上、確定できないが、この特権的な救いによって、「パレット」と「断片」にすっと筋が一本通ったのであろう。棋士が勝負を進める時、あらゆる可能性を読むうちはまだ駄目で、他の可能性がおのずと排除されてすっと一筋の道が見えるようになる必要があるというが、それに似た転換である。

パレットに絵の具を並べるようにさまざまの語や観念とその相関とが乱舞するのは、分裂病の言語危機においても見られるところである。分裂病が創造性にもっとも近づく一時期である。もし、そのまま推移して、パレットが自動的に増殖し、ついには認知が追いつけないほど加速され、また、語の「自由基」ともいうべき未成の観念の犇めきが意識されるようになれば、病いのほうに近づく。精神は集中に過ぎれば不毛になり(それゆえカイエの「地獄」、散乱にすぎれば解体の危機に近づく(「パレット」の時期)からである。あらゆる可能性をきわめようとしつつ、精神の統一を強化しようとする矛盾した自己激励は、時に創造的であるが、しばしば袋小路に自らを追い込む。


この瞬間によって「若きパルク」に坦々とした道が開けたわけではない。一九一四年夏には第一次大戦が始まる。早く「方法的制覇」「鴨緑江」によってこの危機を予言していた彼は、後の有名な論文「精神の危機」(一九一九年)に見るごとく、自己を西欧(彼の場合はほとんど英国とフランス)と同一化していた。「パルク」をおのれの個人的な最後の詩とするつもりの彼は、文明の破局によってこれが最後のフランス詩となる可能性に思い至っている。かれは徴兵を覚悟し、妻子を疎開させ、パリに残留して詩作を継続した。「若きパルク」は「軍神マルスの相のもとに書かれた」と彼はいう。「パルク」がどういう詩であるかはさんざん論じられてきた。「内容でなく形式が私の自叙伝である」と詩人自身は韜晦している。形式とは何であろうか。それが構成であれば、純粋予感というべきもので始まり、比較的唐突な肯定が喚起されては次第に否定的なものに転調変化しつつ、この反復によって次第に深く沈下してゆくという構成を持っている。周知のように最終的な形は、昇る太陽に向かって感謝しつつ乙女が立ち上がって終わるのであるが、一九一六年初めの第四稿では、この詩句の後、再び下降が始まり、入水に終わろうとして中断する。彼は一八九六年秋ロンドンで自殺未遂をしている。引き返そうとしてはさらに深みに下降する形は知的な自殺者の行動にしばしば見られる。

第一部といわれる入水への暗示に終わる三二四行の後、下降の余波はありつつも再生と睡眠へ覚醒へと移行する現在の形は一九一六年秋の第五項からであり、一九一七年初頭にはほぼ完成する。この間にあるのは、パリに迫っていたドイツ軍が撃退されたヴェルダン戦である。彼が同一化している文明の危機が彼の中の何かを変えた。さらにこの時期までの彼は、別の詩となる予定のものも「若きパルク」に投じている。あたかも備品さえ缶に投じて走る絶望的な船の観がある。ところがこの時を契機に「パルク」の一部、時には一句を本歌として「魅惑」の諸詩篇が生まれてゆく。収斂から発散への転換が行われたということができる。

この変化と並んで、ずっと題が決まらなかったこの詩に「若きパルク」LA JEUNE PARQUE の名が与えられる。それは私には PAUL VALÉRY のアナグラムに感じられる。なお、本歌の見つからない「魅惑」詩篇に「失われた酒」LE VIN PERDU があるが、これは VERDUN のアナグラムではないだろうか。内容も「失われた血」を歌ったものである(「精神の危機」に同じ比喩が使用されている)。両者相まって一九一六年夏が彼にとってもヴェルダンであったことを示唆するように私には思われる。(中井久夫「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月)


2016年9月18日日曜日

身体もなく、性もない処女 UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE (アルトー)と(a)-natomie 、(a)sexuée(ラカン)

わたくしはアルトーをまともに読んだことはない。以前のブログで次の文を引用しつつ眺めたぐらいである。このブログはまるごと消してしまったのでまずここに再掲しよう。

私、アントナン・アルトー、一八九六年九月四日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、九カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(『タマユラマ』)
ひろげた二つの腿の中央に腹部が楔のように入り込む時、腿の形づくる逆三角形は、不吉な空間にエレボスのうすぐらい円錐体を再現する。そして月の月経をむさぼる者に手を借す太陽的陽物像の崇拝者はその不吉な空間に己が興奮をそそぎこむ。(『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』)
そして興奮の絶頂、狂乱の最中、声がしわがれ、女性的な生殖のアルトに変わる時、きまってヘリオガバルスが現われる。太陽の宝冠を戴き、火のように燦く無数の宝玉をちりばめたマントを身にまとい、金に浸して金泥に覆われた、不動の、硬直した、無用にして無害な男根を露にし、恥骨の上には一種の鉄の蜘蛛をつけているが、サフラン色の粉を塗った臀を過度に動かすたびに蜘蛛の足は彼の皮膚を擦りむいて血を流させるのだ。(同上)
ヘリオガバルスの残酷さの中に奇妙なリズムが入りこんでいる。秘伝を授けられたこの人物は、すべての行為を巧みに、そして二重に、だぶらせてしまう。つまりすべてが二重の平面上に成り立っている。彼のしぐさ一つ一つが両刃の剣なのである。
秩序-無秩序
統一-アナーキー
詩-不協和
リズム-不調和
偉大-幼児性
寛大-残酷
(同上)
女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。

Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(『存在の新たなる啓示』)
〈父〉は彼自身の身体の主人だったのではなく、身体の苦痛があらゆる〈父〉たちを作り出したのであり、永遠に自らの父、すなわち〈神〉を殺したのである。というのも、その苦痛は別の名を持っていたからであり、〈七つの苦痛の母マリア〉がそれに値したのである。すなわちそれは彼女の〈息子〉であり〈他者〉である。つまり決して〈神〉ではなく、その永遠の殺害者となるものだろう。際限のない〈悪魔〉と闘争する、不可視の内部を持つ十字架。(『OCXI』)
せめて人々が自分の虚無を味わうことだけでもできたら、自分の虚無のなかでよく憩うことができたなら、そしてその虚無がある種の存在ではなく、かといってまったくの死でもないとしたなら。

もう実在しないこと、何かのなかにもう存在しないことは非常に辛いことである。ほんとうの苦しみは、思考がこころのうちで移動するのを感じることである。けれども、ひとつの点のような不動の思考はたしかに苦しみではない。

ぼくはもはや生命に触れないそうした点にいるが、ぼくの裡には存在のあらゆる欲望と――執拗な瘙痒感がある。ぼくはもう、自分をつくりなおすという一つのことにしか専念しない。(『神経の秤』)
酸っぱい、わずらわしい、刃物と同じくらい強力なある苦悶というものがあって、その四裂きの刑には地球の重みがある。身動きできない虱や固い南京虫のように締めつけられ、圧迫された深渕の句切りのような稲妻のような苦悶、精神が首をくくって、自らを切断して――自殺する苦悶というものがある。苦悶は自分に所属するものは何も消耗させず、それ自らの窒息から生まれ出る。苦悶は骨髄の凝固、精神的な火の不在、生命の循環の欠如である。

けれども阿片による苦悶にはまた別の色彩があって、それにはあの形而上学的な傾向、アクセントのあるみごとな未完成がない。ぼくはこだまと洞穴と迷路と回路とで満たされた苦悶を想像する、よく喋る火の舌と動きまわる心の眼と理屈っぽくて暗い雷の音とで満たされた苦悶を想像する。

けれども、ぼくはそのとき、よく自己集中してはいても無限に分割可能な、ありのままの物のように持ちはこび可能な魂を想像する。闘うと同時に同意し、あらゆる意味でその舌(言語)を回転させ、その性を多様化し――そして自殺する魂を想像する。

糸をほぐされたほんとうの虚無、もはや器官を持たない虚無を知る必要がある。阿片の虚無は自らの裡に、暗い穴を位置づけた考える額の形のようなものを持っている。

ぼく自身は穴の不在について語る、形も感情もない冷やかな一種の苦しみについて語る、それは筆舌につくしえない流産の衝撃のようなものだ。(『冥府の臍』)

…………

いまあらためて読むと味わいぶかい。というのはこれらの文を六年ほどまえにメモしてから、わたくしはラカンをいくらか読むようになった(それまではセミネールⅠとジジェク解釈のみだった)。

《私の内部の夜の身体を拡張すること[dilater le corps de ma nuit interne](アルトー)。


ラカンによる身体の享楽 a jouissance du corps とは、女性の享楽 La jouissance féminine、他の享楽 l'autre jouissance とも言い換えられる。享楽する実体 substance jouissante、身体の実体 substance du corps、(a)-natomie 、(a)sexuéeという語彙群もそれにかかわる。

そしていまアルトーを読むと、ラカンの (a)-natomie 、(a)sexuée とは、アルトーのUNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE(身体もなく、性もない処女)のパクリではなかろうか、とふと思いを馳せるわけだ・・・

ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象a? の[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的ー対象a性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ヴェルハーゲ、2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)

アルトーには、satis-fous(マヌケ満足=満抜け)という表現があるが、ヴェルハーゲの注釈する a から a/− φ への移行により、女性の享楽がファルスの介入により変換されてしまったときのファルス享楽のことではないだろうか。それがアルトー曰くの maison de chair close (閉ざされた肉塊の家)ではなかろうか。

そしてファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、アルトーの心の娘 filles de cœur (来るべき娘 filles-à-venir 、来るべき身体 corps-à-venir)ではないだろうか。これがラカンの女性の享楽 La jouissance féminine(身体の享楽la jouissance du corps)であり、ここでもラカンはアルトーをパクったのではなかろうか・・・

ラカンは1938年に、パリ大学医学部のサンタンヌに収容されているアルトーを訪れ、「この男は決してふたたび書けないだろう」とかオッシャテいたらしい。後年、アルトーの方から、docteur Lについて、あのおっちゃんは érotomanie だよ、と「診断」されている。 

ところで現在の主流ラカン派(とくにミレール派)は上に挙げた語彙群を、「話す身体 le corps parlant」という表現に収斂させて問うている。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  » (S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001、Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、PDFーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)

ーーもちろんここでも、アルトーの舌語」と訳される「グロソラリ」を喚起するために敢えて、 la langue dite maternelleを「母の舌語」と訳した・・・

ge re ghi
regheghi
geghena
a reghena
a gegha
riri

話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。

女性性は、女にとって(も)異者である。したがって、彼女自身の身体という手段にて、女は「他の女」の神秘を敬う。「他の女」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、他の女を通して、リアルな他者を通して、彼女が何なのかを具現化しようと試みる。 ……

純化されたヒステリアの目的は、リアルな身体を作ることである。その身体のなかには、症状が住んでいる。症状の能動化の肉体的場。これがヒステリー的女の挑戦である。この身体、「症状の出来事」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

とはいえ、これらは享楽欠如を享楽することである(という見解を、いまのところ、わたくしはとる)。たとえば、コレット・ソレールは後期ラカンを、存在欠如 manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。あるいはロレンツォ・キエーザ(ジジェクの弟子筋)は次のように言う。

享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF

…………

※付記

いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)
器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でもない。とりわけそれはなにかの投影ではない。固有の身体そのものとは、身体のイメージとは無関係である。それはイメージのない身体なのである。それは非生産的なものでそれが生産されるまさにその場所に、二項的ー線型的系列の第三の契機において存在する。(中略)器官な充実身体は、反生産の領域に属している。しかし、生産を反生産に、また反生産の一要素に連結することは、やはり接続的総合のひとつの特性なのである。 (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オディプス 』 )
「私はあやゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも・・・・。」ミラーは彼の欲望の賛歌においてこう言っている。羊水の袋と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液。糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。あらゆる「対象」は流れの連続を前提とし、あらゆる流れは対象の断片化を前提としている。おそらく、それぞれの 〈器官機械〉 は、自分の流れにしたがって、自分自身から流れ出すエネルギーにしたがって、世界全体を解釈する。眼はあらゆることを、語ることも、聞くことも、排便することも、性交することも、見るという言葉で解釈する。(同上)
われわれはしだいに、CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)


2016年9月16日金曜日

基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ)

欲望は剰余享楽の換喩である」で記した欲望機械をめぐるジジェクの文にコメントを入れてくる方がいる。よい機会なのでいくらかまとめてみた。

まずドゥルーズ派の人には異和が感じられるだろう次の文はとほとんど同じ文が『身体なき器官』にもあり、ジジェクは2012年の書でもくり返していることになる。

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 flux としての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ーー「欲望の自由な流れ」とは具体的には、『アンチ・オイディプス』の冒頭近くにある「自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre」という表現などにかかわる。

ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体の上を滑走している un pur fluide à l'état libre et sans coupure, en train de glisser sur un corps plein。欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。 (ドゥルーズ+ガタリ、アンチ・オイディプス、上P.26)

まず最初に、そもそも「身体なき器官」とは、ラカンはその表現を直接的には使っていないとしても、ラカン自身の叙述が起源。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.
これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。 それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン『セミネールⅩⅠ』)


ところで、ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』1972年には、対象a という語が二度出現する(クラインに依拠しつつ部分対象 l'objet partiel, les objets partiels)という語はしばしば頻出するが、『差異と反復』などに出現した「潜在的対象 l'objet virtuel (objet = x)」という語彙さえ現れない)。

その二度の出現は次の通り。

ラカンは反対に、神経症さえ分裂症化して、精神分析の領野をくつがえすことができる分裂症の流れを解放したのである。ラカンのいう〈対象a〉は、地獄の機械〔仕掛け爆弾〕として構造論的な平衡の只中に侵入する。それは、欲望機械なのである。( ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳,上,文庫上 P.163.)

L'admirable théorie du désir chez Lacan nous semble avoir deux pôles : l'un par rapport à « l'objet petit-a » comme machine désirante, qui définit le désir par une production réelle, dépassant toute idée de besoin et aussi de fantasme; l'autre par rapport au « grand Autre ,. comme signifiant, qui réintroduit une certaine idée de manque.
ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械としての「部分対象-a」( « l'objet petit-a » →対象a)にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大〈他者〉」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳、ドゥルーズ他の註)

L'admirable théorie du désir chez Lacan nous semble avoir deux pôles : l'un par rapport à « l'objet petit-a » comme machine désirante, qui définit le désir par une production réelle, dépassant toute idée de besoin et aussi de fantasme; l'autre par rapport au « grand Autre ,. comme signifiant, qui réintroduit une certaine idée de manque.

 宇野邦一氏の訳では、下の文は「部分対象-a」と訳されているが、対象a=部分対象とするのは(ラカン的観点からは)誤謬。

ラカンはセミネール11で、《喪われた対象(対象a) は口唇欲動に起源があるのではない l'objet perdu (a)… n'est pas l'origine de la pulsion orale.》と言っている。これは対象aは乳房という部分対象とは直接関係がないと言っていることと捉えうる。

現実界は《快原理の障害(物)である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンautomaton と象徴界によるシステム的決定性の彼方には、テュケー tuché・偶然的要素としての欲動の現実界が待っている。ラカンによれば、この偶然性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に喪われた原初の対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。(ヴェルハーゲ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive


ヴェルハーゲの文では、対象aが二つに分けられている。原初の空洞・空虚の対象aと部分対象としての対象a。この二つについて、ラカン注釈者たちのあいだで、しばしば、リアルな対象a(= Ⱥ)とファルス化された対象aという言い方がされる(参照)。厳密にいえば対象aのより精緻な差別化があるが(参照))、基本はこの二区分(晩年のラカンは骨象aとも訳しうる奇妙な言い方をしていることを付け加えておこう、« osbjet », la lettre petit a(S.22))[参照

この基本の二区分は、ラカンがセミネール11で聴衆を驚かせたらしい「二つの欠如 Deux manques」(参照)にかかわる。

ジャック=アラン・ミレールは、後年この二つの欠如を欠如と穴(ブラックホール)と言い換えた。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” ーー「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)」)

そもそもドゥルーズは『プルーストとシーニュ』で次のように記している。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分的事物(→ 部分対象 objets partiels)の機械(衝動)・反響の機械(エロス)・強制された運動の機械(タナトス).である。このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。それが失われた時間のばあいには、部分対象の断片化により、見出された時間のばあいには反響による。失われた時間のばあいには、別の仕方で、強制された運動の拡がりによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、原著初出版1964年だが、1970年に加えられた「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”より)
Toute la Recherche met en œuvre trois sortes de machines dans la production du Livre: machines à objets partiels (pulsions), machines à résonance (Eros), machines à mouvement forcé (Thanatos) . Chacune produit des vérités, puisqu'il appartient à la vérité d'être produite, et d'être produite comme un effet de temps : le temps perdu, par fragmentation des objets partiels; le temps retrouvé, par résonance; le temps perdu d'une autre façon, par amplitude du mouvement forcé, cette perte étant alors passée dans l'œuvre et devenant la condition de sa forme.

ドゥルーズは、「部分対象の機械(衝動)/強制された運動の機械(タナトス)」と記すことによって、対象aの二つの側面を認知していたとも捉えられる。

したがって、ガタリと組んで書かれた『アンチ・オイディプス』は、ドゥルーズの退行、あるいは次のように言われる理由がある(その正否は別にして)。

間違いなくドゥルーズの最悪の書『アンチ・オイディプス』は、単純化された「平面的」解決を通して、袋小路の十全な遭遇から逃げ出した結果ではないだろうか?(ジジェク『身体なき器官』)
蓮實重彦)あのとき何が敵だったかというと、間違いなく精神分析であるわけで、その精神分析をフーコーは優雅に避けるわけだけれども、ドゥルーズはそういう避け方をしなかった。代わりに、どんなに異質でもいいから、ガタリを連れてきて、一緒に『アンチ・オイディプス』を書いちゃうわけです。それは、優雅なテクストになるかわりに、暴力的かつ危険性をはらんだかたちで機能するわけでしょう。そのことがドゥルーズには見てたわけですよ。(……)

浅田彰)……72年には、私はフロイトに反対すると言ったかもしれないけど、93年には、自分は完璧にマルクス主義者だというのと同じ意味で、完璧にフロイト主義者だと言うかもしれない。彼は、概念の分類ではなく、現実の中での機能だけを考えていたわけだから。(『批評空間』1996-Ⅱ-9,共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理・蓮實重彦・前田英樹・浅田彰・柄谷行人)


わたくしはドゥルーズにまったく詳しくない(やや熱心に読んだのはプルースト論とマゾッホ論だけ)。だが、ラカン派的観点からはこういうことらしい、という(今のところの)理解をしている。

結局、アルトー本人のことはいざ知らず、ドゥルーズとラカンの解釈においては次の文が決定的ではないだろうか。

われわれはしだいに、CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

このドゥルーズ&ガタリの見解が正しいとしてーーそして厳密さを期さずにいえばーー、「器官なき身体corps sans organes」でも「身体なき器官 organes sans corps 」でもどちらでもよいといえるのではないか。両者とも有機体なき(統合的身体なき)身体器官である。

とはいえ、そうしたときでも、冒頭のジジェクが指摘するように決定的な相違がある。

ジジェク組のジュパンチッチ曰く、現実界は、バディウにとって裂開をもたらす出来事、ドゥルーズにとって生成変化(「なる」ことの過程)にかかわる一方で、ラカン派の現実界は実体でも過程でもない。むしろ、《過程を妨害する何ものか、躓きの石のような何かである。すなわち現実領野の構造のなかにある不可能性である》(ジュパンチッチ、Zupančič, The Odd One In,2008)

彼らの主張の起源はたとえば次の二つのラカン文。

・現実界は快原理の障害(物)である le réel, à savoir l'obstacle au principe du plaisir (Lacan,S.11)

・現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization(ラカン、S.20)

もっともこれはジジェク組や一部の哲学的ラカン派などがこのように考えているのであり、最近のジャック・アラン・ミレールは、ドゥルーズ的になってしまったという指摘がある。

…象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界 a Real に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。だがそんな探求は、ドゥルーズ的袋小路 blind alley に到るものとして、捨て去らなければならない。

ミレールは、まさにドゥルーズ的なやり方で(『アンチ・オイディプス』からの定式を文字通り反復して)、フロイトの無意識の「地下 beneath」の「本当の」プレエディプス的無意識について話している。あたかも、我々は最初に「純粋な」プレエディプス的欲動の動き、そしてラカンのララングによって洗礼を受けた徴示的 signifying 物質と享楽の直かの浸透があるかのように。(ジジェク、2016、Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール))

わたくしはジジェク組、ヴェルハーゲ、あるいはかつてのミレールを基準にして現実界を捉えているということはある。

ヴェルハーゲの文にテュケーという言葉が出てきたが、これは、トラウマ(事故的トラウマではなく構造的トラウマ)にかかわる。

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げている。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)

De cette fonction de la τύχη [ tuché ]… du réel comme rencontre, de la rencontre en tant qu'elle peut être manquée, qu'essentiellement elle serait « présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ] …voilà ce qui d'abord s'est présenté dans l'histoire de la psychanalyse sous la forme première… qui, à elle toute seule, suffit déjà à faire naître notre attention …celle du traumatisme. (S.11)

他方、アルトーは「人間に器官なき身体 un corps sans organes を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性 automatisme から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう」と言った。

ようはアルトー曰くの「正当的疎外 aliéné authentique」 ーーこれはたぶんaliéné(疎外・同一化)からの分離、「疎外の疎外」、つまりヘーゲルの「否定の否定」だろうーーで遭遇するのは、自由なのか原トラウマなのか、という話にもなってくるはず(この点では、現在のミレールもトラウマ派のはず[参照:梯子 échelle と脚立 escabeau)。

と記したら、ここでの文脈とはあまり関係がないかもしれないが次の文を思い出した・・・

・自由か命か! « La liberté ou la vie » 自由を選ぶなら、即座に両方を失う。命を選ぶなら、自由を剥奪された生がある。

・自由とは、選択する自由 la liberté du choix があるのを示すことだ。…それは(究極的に)、死への自由だ c'est la liberté de mourir. (ラカン,S.11)

ーー自由とは、究極的に「死を選ぶ自由」以外の何ものでもない。(バゾリーニ


というわけで、以上、ようするに、わたくしにはよくわからない、--ということを記した。


2015年8月26日水曜日

「私」とは他者である ''JE est un autre.''( ランボー)

ラカン派の三種類の他者、あるいはデリダの猫」に引き続く。いやそこにおいて欠けているものの補遺。

…………

《「私」とは他者である ''JE est un autre.''》 ( ランボー)

《私は他者だ ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年)



詩人たちはこのように「他者」を語った。それぞれその意味するところのニュアンスの相違はあるだろう。

いくつかの応答はこうだ。

《自我は自分の家の主人ではない“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”》(フロイト)

※参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない


《欲望は他者の欲望le désir se révèle comme désir de l'Autre 》(ラカン)

唯一ヘーゲルだけである、欲望の根源的で構成的な「再帰性reflexivity」を考慮したのは(欲望とはいつも-すでに欲望の欲望、欲望のための欲望である。すなわちその用語のありとあらゆるヴェリエーションの下の「〈他者〉の欲望」である。私は私の〈他者〉が欲望することを欲望する。私は私の〈他者〉によって欲望されたい。私の欲望は大文字の〈他者〉――私が埋め込まれている象徴的領野――によって構造化されている。私の欲望はリアルな〈他者―モノ〉の深淵によって支えられている)。 (ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)
要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothby)
Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(塚越敏)

以下の文を訳そうと思ったが、最近英文献を訳してばかりでややウンザリしてきたので、そのまま貼付する。

◆Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE (Paul Verhaeghe 1998)

An animal without language is part and parcel of its reality. It has no chance of the self-reflection or distance that we achieve through language. After the introduction of language, distance and mediation follow, and therefore difference. This applies first and foremost with regard to the other person who really has become an 'other', the (m)other, but it equally applies to oneself, since this is how an identity is created that can be reflected upon in terms of language. T think, therefore I am' demonstrates this dis-tance. Rimbaud expressed it much more poetically: 'Je est un autre' (I is someone else). It is said that language is a bridge, but it is a bridge that at the same time creates the chasm it bridges, and what lies under the bridge is lost. Language is not so much a means of communication, as it is a means of achieving identity. Through language, every person acquires a certain identity, with related rules: you are the mother of, daughter of, father of, son of. Thus the original real division of birth is symbolically consolidated within the Oedipal structure, where everyone is assigned their rightful place through words. At this point we become human, leaving nature behind for good. The rest of this dividing operation is nothing other than desire. It is also the explanation of the continually shifting nature of desire. You 'desire' something from another person, either something vague or something specific, but it is never enough, and you continue to desire, beyond this something, the other person's self, but when this other person gives himself, even that doesn't really satisfy ... So what is it you really want? What you really want is the sense of unity that has been lost forever, the enjoyment of the totality that once existed. This is what keeps people going initially in the primary relationship with the mother and later on in all other relationships.


◆new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009

Today it is more or less generally accepted that as children we identify with the mirroring reactions of the other and thereby acquire an identity of our "own." Despite the discovery of the so-called mirror neurons, how this identitlcation works is not yet clear. A similar process was originally described by Freud in terms of incorporation and introjection, when he was discussing the idea of negation (Freud, 1978 [1925h]).

Lacan's theory of the mirror stage alld subject formation provides a further elaboration. Developmental psychology and attachment theory are reframing the investigation, and the surprising conclusion is that our identity comes from the other.

In the Lacanian approach , the accent has to a great degree been put on the idea of alienation, following the words of the poet Rimbaud " I is another" (Je est un autre) . There is no original identity in the infant itself; but, under normal circumstances, an external identity awaits, embedded in the personal history of the father and the mother, and often revealed first of all in the infant's given name, which is almost never neutral.

For Lacan, the mirror presented by the Other reflects much more than the infant's arousal; it reflects as well what he calls the discourse of the Other, meaning that the Other's history will be fully present in it. Human identity is constructed by way of identitlcation with the signitlers of the desire of the other. Stressing this impact of the other on identity, Lacan refers to this process as alienation.

Yet in focusing so strongly on this structurally determined alienation, the Lacanian approach tends to ignore that such mirroring mayor may not correspond to what the child is experiencing in its own body and that the child always brings a kind of drive regulation. Indeed, the mirror stage installs a kind of bodily identity as well, through which the component drives first become ordered. It is through this shift that the role distribution and social "cunning" described by Lacan will become possible.

ここで最後に黒字強調した身体としての欲動の制御をめぐっては次ぎのラカンの文をめぐってメモされている「ラカンの三つの身体」を見よ。

主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)


さらには、《〈他者〉は身体である》(ラカン、セミネールⅩⅣ)をめぐっては、「享楽への道とは死への道(ラカン)」を見よ。

これは jouissance de l'Autre にかかわるのだが、現在のラカン派内でもーーわたくしの知る限り日本だけでなく海外でもーーこの概念をはっきりとつかみとっているひとは稀である。

L'Autre, à la fin des fins et si vous ne l'avez pas encore deviné, l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! (10 Mai 1967 Le Seminaire XIV)

というのはラカン自身の叙述がその晩年になってひどく揺れ動いているからだ。

享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

《我々のリアルな有機体は、最も親密な異者》とあるように、ヴェルハーゲの叙述から読み取ったわたくしの今のところの理解では、フロイトのFremdkörper(異物としての身体)が核心である。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

これは上に引用したがラカンのex-timite(外密)にかかわる(参照:「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」)

かつまた、ラカンの「サントーム」のセミネールⅩⅩⅢの、”un corps qui nous est étranger”は「異物としての身体Fremdkörper」として理解できるだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

こうしてもう一人の詩人の言葉に出会うことができる、《身体は身体だ/他になにもない/器官などいらない/身体は決して有機体ではない/有機体は身体の敵なのだ》 

人間に器官なき身体をつくってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。(アントナン・アルトー  「神の裁きと決別するため」)
…………
いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)
われわれはしだいに、CsO(器官なき身体:引用者)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(『千のプラトー』)P182

ドゥルーズの「器官なき身体」の説明を読めば、われわれはラカンの晩年の概念ララングを想起することもできる。

lalangue(ララング)とはまず、喃語lalationと関連づけられ、当然、乳幼児に認められるものだが、母親がこれに加わる。母親も自分の赤ん坊には、「大人のことば」以外にも、赤ん坊が喋る喃語を真似てやはり喃語を喋る。母親は赤ん坊の欲望(ここでは、まずは、敢えて、要求とか欲求ということばを用いないで説明したい)を叶えようとする一方で、その母国語を教える。lalationからla langueへ入ってゆく、そこにlalangueができあがるとしてもよいであろう。(荻本芳信 ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième

ここではさらに、「言語のリアルReal-of-language」をめぐるLorenzo Chiesaの叙述を抜き出しておく。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007 )

※参照:「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ