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2018年9月29日土曜日

人はみなバイセクシャルである

◆基本教養篇

【男というものと女というものはない】
男性のセクシャリティや女性のセクシャリティはない。一つのセクシャリティしかない。すべての関係はこの一つの性のなかで泳いでいる、同性愛的単独性は防水加工されていない。Il n’y a pas de sexualité masculine ou féminine. Il y a une seule sexualité dans laquelle baignent tous les rapports. La singularité homosexuelle n’est pas étanche. (マグリット・デュラス Marguerite Duras, “The Thing”、1980
男というものと女というものはない。ただ男性性と女性性の異なった度合い、異なった色合いがあるだけである。There are no Men and Women, only different degrees, different shades of masculinity and femininity.(アレンカ・ジュパンチッチAlenka Zupancic『性とは何か What IS Sex? 』2017)


【人はみな同性を愛する資質をもっている】
精神分析の研究は、同性愛者を特異な一群として他のひとびとから区別しようとする試みとは、はっきりと異なっている。…われわれが見出したのは、すべての人間は同性を対象として選択する能力があり、それは無意識のなかで実際になされていることである。daß alle Menschen der gleichgeschlechtlichen Objektwahl fähig sind und dieselbe auch im Unbewußten vollzogen haben

…対象選択が対象のジェンダーとは関係のないこと Unabhängigkeit der Objektwahl vom Geschlecht des Objektes,、男性の対象でも女性の対象でも同じように自由にできるということ gleich freie Verfügung über männliche und weibliche Objekte、これは幼児期においても、原始的状態や前史的時代にも見出されるものだが、精神分析学にとってはこれこそ根源的なもの Ursprüngliche であり、ここから制約しだいで一方へ向かえば正常型 Seite der normaleが、他方へ向かえば性対象倒錯 Inversionstypus 型がというように、どちらかに発達してゆくものだと思われる。

…精神分析学の意味ではしたがって、男性の関心が女性にだけ向けられる sexuelle Interesse des Mannes für das Weibということは解明を必要とする問題であり、化学的な引力chemische Anziehung がその根底をなしているというような自明のものではない。(フロイト『性欲論三篇』1905年、1915年註)


【人はみな男女混淆、バイセクシャルである】
「男性的 männlich」とか「女性的 weiblich」という概念の内容は通常の見解ではまったく曖昧なところはないように思われているが、学問的にはもっとも混乱しているものの一つであって、すくなくとも三つの方向に分けることができるということは、はっきりさせておく必要がある。

男性的とか女性的とかいうのは、あるときは能動性 Aktivität と受動性 Passivität の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。

…だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年註)
バイセクシャル Bisexualität の相と親しむようになってから、わたしはこれこそ決定的要因と見なし、バイセクシャルの考慮なしで、男性と女性の性的表出 Sexualäußerungen von Mann und Weibを理解するようになることは殆ど不可能だと考えている。(フロイト『性欲論三篇』1905年本文)

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※付記

【同性愛者(ゲイ)は、主体的ホモエロティックと対象的ホモエロティックの混淆である】 
性対象倒錯の問題について一連の重要な観点を、フェレンツィ Ferenczi はその論文(1914)において提出した。フェレンツィは同性愛 Homosexualität のかわりにホモエロティック Homoerotikという言葉を使おうとするのだが、彼は正当にも、同性愛という名のもとに器質的にも心理的にも価値の等しくないさまざまな状態が、ただ同じようにインヴァージョンの症状をもっているからという理由で混同されていることを非難している。

彼は少なくとも、自らを女性であると感じ、またそのように振舞う主体的ホモエロティック者 Subjekthomoerotikers と、まったくの男性であって、ただ女性の対象を同性のそれと取りちがえただけの対象的ホモエロティック者 Objekthomoerotikers との二つの型をきびしく区別することを求めている。彼は前者が、マグヌス・ヒルシュフェルトのいう意味での正規の「性的中間者 sexuelle Zwischenstufe」であることを認め、後者はーーそれほどうまくいっていないがーー強迫神経症者 Zwangsneurotiker だとしている。インヴァージョンの傾向への反抗や心理的影響の可能性も対象的ホモエロティック者の場合だけに観察される、というのである。

この二つの型を認めたうえで、さらにわれわれは、多くの人物の場合には、ある程度の主体的ホモエロティック者と対象的ホモエロティック者の一部が混淆している daß bei vielen Personen ein Maß von Subjekthomoerotik mit einem Anteil von Objekthomoerotik vermengt gefunden wird のが見られる、ということを付言する必要がある。(フロイト『性欲論三篇』1920年註)

【エロスとタナトスの欲動混淆】 
「エロス・融合・同一化・ヒステリー・女性性」と「タナトス・分離・孤立化(独立化)・強迫神経症・男性性」には、明白なつながりがある。…だが事態はいっそう複雑である。ジェンダー差異は二次的な要素であり、二項形式では解釈されるべきではないのだ。エロスとタナトスが混淆しているように(フロイトの「欲動混淆 Triebmischung」概念)、男と女は常に混淆している。両性の研究において無視されているのは、この混淆の特異性である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 「二項議論の誤謬Phallacies of binary reasoning」、2004年)


2018年9月18日火曜日

「欠如の欠如」と「穴」

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、AE573、1976)

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欠如の欠如という不気味な刻限」に引き続く。

以下も、最初のジュパンチッチ以外は、前回と同様に以前に訳したもの。


◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005

ラカンの「欠如の欠如 Le manque du manque 」は、(現実界としての)対象aの概念に包含されるものである。その理由で、《不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet》(S10, 6 Mars l963)

「不気味なもの」の側に位置する「欠如の欠如」という定式を具体的に示すために、ひとつの事例を取り上げよう。毟り取られた眼のイメージである。…

このイメージの不気味な側面を分析するとき、人は通常、二つの事態を指摘するだろう。

①眼の代わりに、二つの空洞が顔のなかで大きく開いている。
②身体から引き離された眼自体は、幽霊のような不可能な対象として現れる。

第一の点について、人は空洞が怖ろしいのは欠如のせいだと想定しがちである。不定形の深淵へと引き込む空虚が恐いと。だが本当の幽霊的なものとはむしろ逆ではないだろうか?

すなわち無限の奈落、主体性の測り知れない底無しの側面への裂開をーー想像的水準でーー常に暗示するあの眼(人間の魂への開口として捉えられる眼)、その眼の代わりにある穴は、あまりに深みのない、あまりに限定されたものであり、眼の底はあまりに可視的で近くにありすぎる。

ゆえに怖ろしいものは、たんに欠如の顕現ではない。むしろ《欠如が欠けている manque vient à manquer》ことである。すなわち、欠如自体が取り除かれている。欠如はその支えを喪失している。人は言いうる、欠如はその象徴的あるいは想像的支えを喪失したとき「たんなる穴」、つまり対象になると。それは無である。文字通り見られうるものとして居残った無である。

同時に、いったん眼が眼窩から除かれたとき、それは即座に変容する、魂への開口から全く逆の過剰な「おぞましいもの abject」の開口へと。この意味で、毟り取られた眼は、絶対的な「剰余」である。それは、プラスとマイナス、欠如とその補填の象徴的経済のなかに再刻印されえない剰余である。
…ラカンは主張している、「去勢コンプレクス」は不安を分析するための最後の一歩ではないと。去勢コンプレクスは、フロイトの分析とホフマンの砂男における「不気味なもの」の分析の核であったが。ラカン曰く、もっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、《主体のなかに刻印されている構造的罅割れ vice de structure》があると。…

ラカンがフロイトを超えて進んでいった点は、去勢不安を退けた点にあるのではなく、テーブルをひっくり返した点にある。ラカンの主張は、不安の底には、去勢恐怖や去勢脅威ではなく、「去勢自体を喪う恐怖あるいは脅威」である。すなわち「欠如という象徴的支えを喪う」恐怖あるいは脅威である、ーー象徴的支えは去勢コンプレクスによって提供されているーー。これがラカンの不安の定式、《欠如が欠けている manque vient à manquer》が最終的に目指すものである。

不安の核心は「去勢不安」ではない。そうではなく、支えを喪う不安である。主体(そして主体の欲望)が象徴構造としての去勢のなかに持っている支えを喪う不安、これが核心である。この支えの喪失が幽霊的な対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如は、絶対的「過剰性」として象徴界のなかに現前する。この幽霊的対象は、「欲望の対象」を駆逐し、その場処に「欲望の原因」を顕現させる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005、PDF


◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller, 6 juin 2001)
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009

袋小路はしばしば誤った前提の結果である。…フロイトによる「ペニス羨望」の議論、つまり少女が母から身を翻して父へと移行する動機としてペニス羨望を主張したとき、彼は常に数多くの他の動機に言及している。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

核心は、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の対象であることから主体性への移行だと。どんな「ペニス羨望」や「去勢不安」より前に、子供--少女だけではなく少年も含んだどの子供も、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。

私はこの移行に、はるかに重要な基本的動機を認める。すなわち、最初の母子関係において、子供は身体的未発達のため、必然的に最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体として主体性のための障害である。

平明な言い方をすれば、子供と彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者関係-想像的関係性の典型であり、ラカンが鏡像理論にて描写した状況である。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安 primal anxiety」は母(あるいは最初の養育者)に向けられた二者関係にかかわる。無力な幼児は母を必要とする。ゆえに、明らかに「分離不安 separation anxiety 」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かない筈のその対応物を認知していた。すなわち母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「分離不安」とは別に、もう一つの原不安としての「融合不安 fusion anxiety 」と呼んでみよう。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。それにもかかわらず彼の論証過程において、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このようにフロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(elaboration)とさえ言いうる。原不安は、二つの対立する形態を取る。すなわち、他者が必要とされる時そこにいない不安(分離不安)、他者が過剰にそこにいる不安(融合不安)である。 (ポール・バーハウ 2009, PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains)

ーーポール・バーハウは2011年の講義では、融合不安を「侵入不安 intrusion anxiety」と言い換えている。これは、母なる大他者に侵入されて融合する(呑み込まれる)不安とともに、自らの身体の欲動に侵入されて圧倒される不安という意味の二つがあって、「侵入不安」は「融合不安」よりも広い意味合いがある。

ちなみに、自らの身体の欲動といっても、ラカンの定義上は、身体は大他者であったり、異者としての身体であったり、女であったりする。

大他者は身体である。 L'Autre …c'est le corps! (ラカン、S14,10 Mai 1967)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)






2017年8月6日日曜日

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家

まずジュパンチッチによる科学・宗教・芸術の簡潔な定義を掲げる。

◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,2013、PDFより。

科学が基盤としているのは、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定である。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。すなわちモノの蜃気楼は、われわれの知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。
宗教が基盤としているのは、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定である。リアルは、不可能かつ禁じられており、超越的で手の届かないものである。
芸術が基盤としているのは、リアルは内在的かつ手の届かないものという想定である。リアルは、つねに表象に「突き刺さっている」。表象の他の側あるいは裏面に、である。裏面は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。(……)芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。

図式的すぎるきらいはあるにしろ、すぐれて簡潔な定義だと感じ、すでに何度か引用しているのだが、「宗教」についてはいささか異和を抱きはじめた。この定義は「一神教」の定義ではないか、と。

すくなくとも日本のような「自然宗教」信仰風土においては、ジュパンチッチの定義に依拠するなら、宗教は《超越的で手の届かないもの》ではなく、むしろ芸術の範疇、すなわち《内在的かつ手の届かない》神信仰ではないだろうか。

日本というのは、《内在的かつ手の届かない》神の国日本だろう、と。

さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、(……)

抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差(たが)ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける」(本居宣長『古事記伝』三ーー神のタタリ

わたくしは長いあいだ「無宗教」のつもりだったが、じつはずっと「神」のことを考えてきたのではないか、などと思いはじめたのは、つい最近、小林秀雄の『本居宣長』を読んでからである。

いや小林秀雄はそもそも『本居宣長』だけではなく、《おっかさんは、今は蛍になってゐる》という話もあれはやっぱり神の話じゃないか。こんなことを考えてしまうのは、わたくしは齢をとってきたせいではないかとはもちろん疑っている。

でもわたくしと同じような考え方をする仲間は「すぐれた」作家たちのなかにたくさんいるから安心である・・・

日本を囲繞したさまざまの民族でも、死ねば途方もなく遠く遠くへ、旅立つてしまふという思想が、精粗幾通りもの形を以つて、大よそ行きわたつて居る。独りかういふ中に於いてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念して居るものと考へ出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りも無くなつかしいことである。(柳田国男「魂の行くえ」1949年)
日本文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸的=日常的現実的であったし、また今もそうである。(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」『日本文化のかくれた形』所収、2004年)


「おやすみ神たち」 谷川俊太郎、2014年

神はどこにでもいるが
葉っぱや空や土塊(つちくれ)や赤んぼにひそんでいるから
私はわざと名前を呼んでやらない
名づけると神も人間そっくりになって
すぐ互いに争いを始めるから

コトバとコトバの隙間が神の隠れ家
人々の自分勝手な祈りの喧騒をよそに
名無しの神たちはまどろんでいる
彼ないし彼女らの創造すべきものはもう何も無い
人間が後から後からあれこれ製造し続けるから

おやすみ神たち
貴方がたったの一人でも八百万(やおろず)でも
はるか昔のビッグバンでお役御免だったのだ
後は自然が引き受けてそのまた後を任されて
人間は貴方の猿真似をしようとしたが

いつまでも世界をいじくり回しても
なぞなぞの答えが見つかる訳もなく
創ったつもりで壊してばかり
空間はどこまでも限りなく
時間はスタートもゴールも永遠のかなた--

私は神たちに子守唄でも歌ってやろう


――Kさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか?

――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので……

ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。

――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう?  とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。

――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう?  ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。

――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)



2017年3月8日水曜日

それ自身に対して差異的であるところの差異体系(柄谷行人、ラカン)

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あるいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・貨幣」『内省と遡行』所収、1985年)  

ーー柄谷行人の『内省と遡行』は、わたくしの手許にない。たまたまネット上から上の文を拾ったのでここにメモ。

この柄谷行人の言明はラカンのシニフィアンの論理とほぼ等価である。

たとえば柄谷曰くの《それ自身に対して差異的であるところの差異体系》とは、次の文と相同的である。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

また《自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》とは、次のジュパンチッチの文の「非全体」にかかわる説明と等価である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイクスルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「無‐関係 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった「逸脱する過剰 wandering excess」である。すなわち、表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

《主体性の空虚 $ は、「言い得るもの」の彼岸にある「言い得ぬもの」ではない。そうではなく、「言い得るもの」に固有の「言い得ぬもの」である。》(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,私訳ーー「言い得ぬもの」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、ーーゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

…………

 初期ジジェクによるシニフィアンの論理注釈のさわりを付記しておく(続きは、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ)。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成しているのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々)は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。
………シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。 (ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳)

《シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple 》(ラカン、S3、14 Mars 1956)

…………

主体の空虚、価値の空虚とは、フレーゲの次の文とともに理解することもできるが、冒頭の柄谷やジュパンチッチの文にみられる表象行為自体が非全体を生みだすという観点は、このフレーゲ文からだけでは導きにくいだろう。

あるものが賢くないという可能性を通してのみ、「ソロンは賢い」という主張は意味を獲得する。概念の外延が増大すれば、その内包は減少する。もし外延が全てを包括するものであれば、内包は完全になくなるに違いない。(フレーゲ『算術の基礎』)

柄谷の「洞察」はーーおそらく基本的にはーー、マルクスを読むことから来ている筈。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S16、13 Novembre 1968ーー偉大なるフェティッシュ分析家マルクス



2016年10月6日木曜日

偶然/遇発性(Chance/Contingency)

写真は絶対的な「個」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの」であり、「あるがままのもの」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché」の、「機会」の、「遭遇」の、「現実界」の、あくことを知らぬ表現である。.(ロラン・バルト『明るい部屋』花輪光訳)

elle(la Photographie) est le Particulier absolu, la Contingence souveraine, mate et comme bête, le Tel (telle photo, et non la Photo), bref, la Tuché, l'Occasion, la Rencontre, le Réel, dans son expression infatigable.

ロラン・バルトの『明るい部屋』は、「遇発性」論でもある。

いま敢えて、Chance/contingency の対比でしばしば語られ、後者は偶有性や偶発性やらの訳語とされることの多い Contingence(偶発的なもの)を「発性」としてみたが、そうしたのは、ラカン=アリストテレスの Tuché テュケー概念に依拠している(Tuché はセミネール11の邦訳では「僥倖」と訳されているようだが、人は「倖」の字にいささか異和があるはずで、とすれば僥発性としてもよい)。

そもそもロラン・バルトの上の文の la Tuché の箇所は、英訳では、‟What Lacan calls the Tuché”となっている(それを蛇足とするか’親切とするかは読む人によるだろう)。

『明るい部屋』が「遇発的なもの」論であることは、この書の核心概念のひとつ、プンクトゥムが示しているようにわたくしには思える。

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(『明るい部屋』)

qui vient déranger le studium, je l'appellerai donc punctum; car punctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure — et aussi coup de dés. Le punctum d'une photo, c'est ce hasard qui, en elle, me point (mais aussi me meurtrit, me poigne).

 わたくしはまずここから「至高の遇発的なもの la Contingence souveraine」、つまり《「偶然 la Tuché」の、「機会 l'Occasion」の、「遭遇 la Rencontre」の、「現実界 le Réel」の、あくことを知らぬ表現》である遇発性を、プンクトゥムと相同的なものと読む(この考え方に依拠する別の『明るい部屋』におけるパラグラフは、末尾近くに掲げた)。

ここでバルトの別の書『テキストの快楽』から引用してみよう。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』ーー揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉

この悦楽(享楽 jouissance)が、プンクトゥムにかかわるものだろう。そして、テュケー Tuché とは、ロラン・バルトが冒頭の文で示しているように現実界である。

かつまた、《現実 réalité とは現実界 réel の顰め面である》(ラカン、テレヴィジョンーーにたにた笑い grin としかめっ面 grimace)。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)
享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 extimité」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳ーー基本版:現実界と享楽の定義

ーーとすれば偶然とは遇発性の顰め面にすぎないのではなかろうか。

…………

ところで偶然と遇発的なものの相違は、より具体的にいえば、なんなのだろうか。それはおそらく「欠如」と「穴」の相違にかかわる。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”)

ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げている。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)

オートマンのほうは、システム内部での自働性である。ラカンが《無意識は言語のように構造化されている》としたときの無意識は、オートマンとしての無意識(力動的無意識)であり、それとは別の無意識(システム無意識)がある(参照)。

現実界は《快原理の障害物である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンと象徴界によるシステム的決定因の彼方には、テュケー・遇然的要素としての欲動の現実界が待っている。

ラカンによれば、この遇発性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。

部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に喪われた原初の対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。(ヴェルハーゲ、2001、 Beyond Gender. From Subject to Drive.

《フロイトの反復の議論の混乱はフロイトが二種類の反復を混同している事実による。一方は、シニフィアンの反復、“自動装置automaton”、――それは実は強迫なのであり…トラウマのリアルに対処するための反復努力である。他方で、リアルそのものの反復がある。それはシニフィアンの鎖が限界に達したとき現われる(テュケー tuchè)。》(同、ヴェルハーゲ)

より一般的なオートマンとテュケーの注釈としては、次のロレンツォ・キエーザのものがもっとも分かりやすい。

ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)

上の文の最後にある「物質的原因」の「物質」とは何だろうか。ここでは言語ではなくララング lalangueにかかわるとのみ言っておこう。それをめぐっては、ラカン派の説明ではなく、中井久夫の説明がひときわ優れている(参照:中井久夫とラカン)。


…………


メイヤスーの偶有性をめぐる思考も、基本的にはこれらにかかわるのだろう(もっともわたくしはメイヤスーを読んでいない)。

アレンカ・ジュパンチッチ、2014によれば、次の通り。

メイヤスーは、ポパーの「反証可能性」の批判で始まる『有限性の後で』のある章で、正しく指摘している、科学は偶然 chance を基礎にして機能しており、偶発性 contingency を基礎にしていないことを。(……)

(しかしながら)メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、メイヤスーに不在の〈原因〉absent Cause を絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。…「無神論者の神」のような何か、つまり「神がいないことを保証する神」を。(ジュパンチッチ、2014,Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、PDF)

すなわち、メイヤスーは例外の論理①から免れておらず、それに反してラカンは非全体の論理②であるというジュパンチッチの見解である。

①全ては偶発的である。この偶発性の必然性以外は(例外の論理)
②必然性は、非一貫的である。(非全体 pas-tout の論理)

ほかにも例えば、エイドリアン・ジョンストン Adrian Johnston によるメイヤスーの Chance/Contingency の区別についての批判がある(ジュパンチッチの批判と類似したものに見えるが、全く同じ形の批判なのかは、これだけでは不明)。

he disputes Meillassoux’s use of the chance/contingency distinction. Chance refers to the calculation of probabilities relative to a One-All set of possibilities, and thus for instance the chance a flipped coin will show up heads approaches 50% as the number of throws approaches infinity, the infinite One-All set of throws. Contingency, on the other hand, is what one has when one adopts Cantor’s “unbounded infinite of multiplicities-without-limits”, for then one undoes the very One-All totality “upon which the probabilistic aleatory reasoning of chance allegedly depends, namely, the presumed existence of a totality of possible outcomes.” (Adrian Johnston,2013)

…………

さてここで、ロラン・バルトの『明るい部屋』から、わたくしには核心的な箇所と思われるいくつかを抜き出しておく。

「写真」は、もしこう言ってよければ(これは言葉の矛盾であるが)、本質的に、偶発的なもの contingence、個別的なもの singularité、冒険 aventure(=不意にやって来るもの)にすぎないという、どうしようもない気持があった。私にとって写真は、つねに、どこまでも、《任意のある何ものか quelque chose quelconque》という性質をおびていた。p.32
一般的な観念(虚構)に関しては無力だが、しかし「写真」の力は、人間精神が現実性 réalité を保証するために考案しうるあらゆる手段を凌駕している--しかし他方、「写真」が保証する現実性 réalité はつねに偶発的なもの contingence にすぎない(《そのとおりのものであって、それ以上ではない ainsi, sans plus 》)。pp.106-107
ある種の写真に私がいだく愛着について(本書の冒頭で、すでにずっと前に)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça—a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象 représentation pure である。p.118

たとえば、《その場を横切り traverser ce champ 》とある。これは現実(快原理という文化的な場)の横断とすることができる。

「幻想の横断 traversée du fantasme」とは現実の外部に出ることを意味するのではない。そうではなく現実の非一貫的な非全体 pas-tout を受け入れつつ現実を「揺らめかすこと vacillating」を意味する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

幻想とは、象徴化に抵抗する現実界へ意味を与えようとする試みである。また、ラカン派的観点からは、現実とは幻想によって構造化されている。

ここでシェイクスピアの文句さえ、ラカン的な幻想の光の下で読むことができる、と言っておこう。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)

これらが、上にも掲げた「現実は現実界の顰め面」の意味である。もう少し長く引用しよう。

人間はひとつの構造、つまり言語の構造、-構造とは言語を意味するのですが-この構造が身体を分断することによって思考するのです。(……)

魂にかんして、思考は不調和です。ギリシャ語のヌース神話であって、この迎合は世界、魂が責任を持っている世界(環境世界[Umwelt])に適ったものなのでしょうが、じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasmeでしかありません。それもひとつの現実 réalitéには違いないかもしれませんが、現実界の顰め面 grimace du réel として理解されるべき現実 réalité です。(ラカン『テレヴィジョン』)

ほかにもこの現実=幻想を、「見せかけ semblant」の世界とも言う。そしてこの見せかけの世界に裂け目としてリアルが現れる。それを「穴を開ける」、「揺らめかす」などと言ったりする。

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18)

・ラカンは、人間の現実を「見せかけの世界 le monde du semblant」と考えた。(ヴェルハーゲ、2001)

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

・精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants]》(ジャック=アラン・ミレール,1996

もうひとつ、バルトの文に出現した「純粋な表象 représentation pure」について触れよう。これはラカンの概念「純粋シニフィアン signifiant pur」とともに読むことができる。

我々は強調しなければならない、ラカンがいかに無意識を理解したかを。彼は二つの用語を使っている。記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン、そして、文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur としてのシニフィアンの二種類である。(ロレンツォ・キエーザ、 Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness、2007ーー純シニフィアンの物質性

ーーここでのロレンツォによる区分、「記号 symbole 、意味作用の原因としてのシニフィアン」/「文字 lettre 、純シニフィアン signifiant pur 」とは、明らかに偶然/遇発性、欠如/穴にかかわる。そして後者は言語の物質性としてのシニフィアンである。

私の言語理論に関して皆さんが私に同意していただける最低線、それは、ーーもし皆さんが興味を示されるならですがーー、私の言語理論が唯物論的であるということです。

シニフィアンとは、言語においておのれを超越する物質です。(ラカン『哲学科の学生への返答』1966)

Le minimum que vous puissiez m'accorder concernant ma théorie du langage, c'est, si cela vous intéresse, qu'elle est matérialiste.

Le signifiant, c'est la matière qui se transcende en langage. (Lacan: Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse)

…………

もちろんわれわれは、ロラン・バルトをラカン的観点から読む必要はない。むしろロラン・バルトの視点からラカンを読むことができる。そのときの核心は上に引用した文からすれば、「時間」(プルースト)であり「強度」(ドゥルーズ)であるだろう、--《いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。》

さて、《純粋過去passé pur》(ドゥルーズ)、あるいは《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》(プルースト)とは何であったか。

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。

コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、無意識的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、実在 réalité においてではなく、その真実véritéにおいて現われる。

コンブレーは、純粋な過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の無意識的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》(プルースト)である。

つまりそれは、現在と過去、現実的な actuel ものである現在と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕である。《純粋な状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳)

※プルースト自身の文は、「ドゥルーズ派諸氏の訳文 réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits」を見よ


2016年9月29日木曜日

ゲーデルの不完全性定理とラカンの Ⱥ

科学が主体をどうしても「縫合 suture」しえないのは、メタ言語はないからである。言語を統合する真理はないからである。というのは、言語とそれが作り出す象徴構造は構造的に不完全であるから。

これがラカン派にとっての「ゲーデルの不完全性定理 Gödelscher Unvollständigkeitssatz」の使用法である。すなわち大他者A は斜線を引かれている:Ⱥ (大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre =メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage)。

※参照元

1、Richard Klein、Lacan and Gödel、2016
2、Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',2010,PDF

すなわち、

Gödel's theorem asserts that there is a lack in the Other, that the Other is incomplete and inconsistent, which is why Lacan writes it as the barred Other: A.(Richard Klein、2016)
Crucially, Lacan concludes that, if science at last does not manage to saturate the subject, it is because there is no metalanguage, no totalizing truth of language, since language and the symbolic structures it creates are structurally incomplete.(Lorenzo Chiesa,2010)

を混淆させて、いくらか補いつつ記述した。

以下、後者のロレンツォ・キエーザの論の一部を私訳(上の摘要記述がある前段箇所)。

「科学と真理 (La science et la vérité)」 (1966)のラカンによれば、近代科学は科学の主体を「縫合 suture」ーーその主体を、経験に基づいて、閉じられた知の集合として統合ーーしようと試みる。しかしそれは失敗する。たとえばゲーデルの「不完全性定理」やカントールの「無限」概念が形式化したまさにその可能性によって。《le dernier théorème de Godel montre qu'elle y échoue》(E.861)

したがって、《(科学の)主体は、科学の相関物でありつつも、アンチノミー的相関物である。というのは、科学は主体を縫合するための行き詰まった試みによって定義されることが判明しているから。 le sujet en question reste le corrélat de la science, mais un corrélat antinomique puisque la science s'avère définie par la non-issue de l'effort pour le suturer. 》(E.861)

(…)近代科学によって決定づけられている方法を超越している構造的属性としての科学の主体は、科学の「アンチノミー的相関物 corrélat antinomique」である。より明確にいえば、経験上の偶然的対象の「アンチノミー的相関物」である。言い換えれば、それはまさに、主体を「縫合」することの科学の失敗である。よりよく言えば、主体を「飽和(浸透)」することの失敗ーーラカンは『科学と真理』で二種類の動詞を使用している(suturer、saturé)--、この失敗が精神分析の主体の出現を可能にする。

ゆえに精神分析の主体とは、その主体が「縫合」されていないーー「浸透」されていない non saturé ーー限りで、科学の主体である。精神分析の主体、すなわち無意識の主体と科学の主体は両方とも、知と真理とのあいだの歴史的に限定された分割の帰結である。それ自体、次のことを前提としているのである。すなわち、より構造的な、シニフィアンの論理のなかへの主体の「内的排除 exclusion interne」(E.861)の前提がある。

科学の主体と精神分析の主体は同じコイン裏表である。すなわち近代科学は、歴史のなかで真理を排除する。しかしそのとき真理は、徴示化 signifying 構築のなかの構造の水準で再出現する。精神分析は、徴示化 signifying 構築のなかに症状と他の無意識の形成物を見出す。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDF)

※「内的排除 exclusion interne」

Topologie de l'exclusion interne, de « l'extimité » de la chose. « L'a-chose »(Isabelle Dhonte,PDF)

→「外密 l'extimité」

・私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)
・外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité(参照))

ーー〈モノ das Ding(Chose〉とは、結局、≪対象aの初期ヴァージョン≫(フィンク、1997

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽enjoyment はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピーとして現われる。 (ジュパンチッチ、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value、参照





対象a(剰余享楽 plus-de-jouir )を除いて言えば次の通り(X=S1,Z=S2,Y= $)。

主体は鎖の内在的属性になる…。すなわちどの徴示化連鎖もそれ自体、主体を含有している。しかし主体自体は、Xが一つのシニフィアン、Zが他のシニフィアンという三組の関係におけるYとしてのみ定義されうる。(ジャン=クロード・ミルネール,Jean-Claude Milner,Le périple structural,2002)

これはマルクスの価値形態論の思考過程そのままである。

ここでは「単純な、個別的な、また偶然的な価値形態」の箇所のさわりのみを引用しよう。

x 量商品 A = y 量商品 B 、あるいは x 量の商品 A は y 量商品 B に値する。(亜麻布 20エレ=上衣 1着、または、20エレの亜麻布は 1着の上衣に値する)。(マルクス『資本論』)


つづいて分析される「拡大された価値形態」、「一般的価値形態」(貨幣形態)は柄谷行人の記述を掲げる。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年、PP.69-70)

「家族的類似性」は、ラカンの「象徴構造は構造的に不完全である」の別の言い方、象徴的構造は非一貫的(非全体pas-tout)であることを示す(参照)。

柄谷行人の叙述に「無根拠性・盲目性」とあるように、マルクスは交換(コミュニケーション)の「不完全性定理」をすでに示していたということがいえる。すなわち象徴的交換を支えるものはなにもない。つまりは、大他者の大他者はない Il n’y a pas d’Autre de l’Autre(Ⱥ)

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものであるUn sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、セミネールⅩⅥ、D’un Autre à l’autre,1968-1969ーー偉大なるフェティッシュ分析家マルクス

次に若きジジェク、1991の明晰な解説を掲げておこう。

シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。すなわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通してのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。(ジジェク『為すところを知らざればなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991、私訳ーー価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)


もちろんラカンのシニフィアンの論理の起源の重要なひとつは、フロイトの公式、「私は自分の家の主人ではない(dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus)」にもある。



2016年9月22日木曜日

地球における最悪の病原菌

地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006.6初出『日時計の影』所収)



地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』2013)

わたくしはおおむね「科学者」という種族をあまり好まなかったのだがーーさらにいっそう福島原発災害のときのツイッターでの「理系専門家」の木瓜の華の百花繚乱ぶりにあきれ果てたーー、最近は、彼らは実のところ近未来、地球に最も貢献する種族かもしれないと思い返すようになり、いままでの蔑視に忸怩たる思いを抱いている。

ラカンは、芸術=ヒステリー、宗教=強迫神経症、科学=パラノイアとして、人間の昇華形式の三様式[…l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(Lacan,S.7)]と言っているが、次の文はたぶんそれにかかわるはずだ。

1、科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

2、宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

3、芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDF)

いささか図式的すぎる説明であるにもかかわらず、科学の時代ーーエビデンス主義などということがまことしやかに語られる時代ーーの現在においては、豊かな示唆をもっている。

いやわたくしはエビデンス主義というものの実態をよく知らないのだが、たとえば「科学史家」トーマス・クーンの半世紀ほど前の指摘をどうやって処理しているのだろう?

T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはから客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

ジュパンチッチの文に戻れば、《科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる》とは、ハイデガーやラカンの「科学と真理」論文などに依拠する考え方である。

はじめて意志が、全面的に技術のうちに整備されて、大地を力づくで疲弊させ、濫用しつくし、人工のものに変えてしまうのである。技術は大地を、それにとって〈可能なもの〉という元来の圏域を超えて、もはや〈可能なもの〉ではなく、したがって〈不可能なもの〉であるようなものへと強いる。(ハイデガー『技術への問い』)

これらは現在なら、まずは環境汚染、原子力開発、あるいは遺伝子工学やクローン技術などを想起すればよいだろう。

このような「無頭の」知の範例的ケースは、(死の)欲動の「盲目的執拗性」を例証している現代科学によって提供されているのではないだろうか?

現代科学(微生物学や遺伝子操作や粒子物理学)はコストを度外視してその道を歩んでいる――満足はここで知それ自体によって提供されており、科学的知はいかなる倫理や公共の目的にも奉仕していない。遺伝子操作や医学実験などについての適正な運営のルールを定めようとしている「倫理委員会」が近頃増えつつあるが、それらのすべての「倫理委員会」は、究極的には、内在的な限界付け(簡潔に言えば、科学的態度に内在的な倫理)を知らない科学の無尽蔵な欲動的-発展を再び刻み付けようとする必死の試みではないだろうか?

「倫理委員会」は人間の目的を制限し、科学に「人間の顔」という限界付けを与えようとしているのだ。近頃の凡庸な叡知(commonplace wisdom)は「科学装置を通して自然を操作する私たちの並外れた力は、生きがいのある存在を導いたり、この強大な力を使うための私たちの能力をしのいでいる」と言っている。このように「欲動を追う」現代倫理は、伝統的倫理と衝突する。そこで人は、適切な基準というスタンダードにしたがって人生を送るよう指導され、人生ののすべての側面を、《善》というすべてを包み込む考えに従属させられてしまう。

もちろん、問題は、倫理についての二つの考えがバランスをとれないということにある。科学的欲動を生命の制限へと再び刻み付けるという考えは、最も純粋にファンタスム的なものである――これはおそらくファシストの基本的ファンタスムであろう。この類の制限はすべて、科学に内在的な論理とはまったく無縁なものである――科学は現実的なものに属しており、享楽の現実界の一つのモードとして、象徴化のモダリティにはそぐわないし、社会生活に影響を与えるようなやり方にもそぐわないのだ。(ジジェク『欲望:欲動=真理:知』

あるいは次のようにゴダール=蓮實重彦を引用することもできる。

ゴダールは)、「20世紀の夜明け」に起こったこととして「テクノロジーは、生を複製することに決め、そこで写真と映画が発明された」ともいっているが、すぐさま「喪の色である黒と白とともに、映画術が生まれたのだ」とつけ加えることをゴダールは忘れない。(……)さらに「映画は生命の動きを模倣しようとしたのだから、映画産業がまず最初に、死の産業に売り渡されたのは、当然で、理に適ったことだった」と語りなおされることになるだろう。(……)

テクノロジーが知らずにいたのはこのことだ。すなわち、生の模倣が死の模倣と同じ仕草におさまるしかないことを、技師者たちはいまなお知ろうとしないのである。

そのことの傍証であるかのように、ゴダールは、「1B」(『(複数の)映画史』)の「ただ一つの歴史」で、『ラ・シオタ駅への列車の到着』のしばらく後、アウシュヴィッツへと人々を運ぶ列車のイメージをフラッシュのようにごく短く挿入してみせる。あたかも、公共機関としての鉄道は、強制収容所へと無数のユダヤ人を運ぶ装置として発明されたといわんとするかのように。

どこで読んだのか定かではないが、デジタル技術の映画への貢献は何かと聞かれたゴダールが、それはイメージの質を向上させるための技術ではいささかもないと断言していたことが思いだされる。それは、イメージを圧縮してまとめて運ぶために考案された技術にほかならず、それは貨車いっぱいに人をつめこんで移送するようなものだと彼はいっていたはずだ。この比喩は明らかに強制収容所へと犠牲者を運ぶ列車のイメージを思わせる……(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

いずれにせよ20世紀に人口爆発だけではなくとんでもないことが起こってしまったということに無自覚な「科学者」たち、とくに工学的な頭の無頭の acéphale の死の欲動が、今度は逆に、ヒトというとんでもない病原菌の猖獗を近未来亡ぼしてくれるに違いない。

繰り返すが、ヴィリリオを引くまでもなく科学技術の問題はきわめて重要だし、「あくまで現実的に何が可能かを見極めようとする工学的な思考」はとことん徹底されなければならない。しかし、それがすべてだ、それ以外のいわゆる哲学的(あるいはもっと広く人文学的)な思惟などと いうのはノンセンスな夢想に過ぎない、という実証主義的批判は、それ自体、大昔から繰り返されてきた紋切型に過ぎず、受け入れることができない。必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。そして、それが最初に示唆するのは、地球 環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに 凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全 情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。。(浅田彰『続・憂国呆談』ーー「理系/文系」、あるいは「超越論的」をめぐる備忘

工学的なものを人文学的に思考などしなくてもよろしい、どうせ次のようになるに決まっているのだから。

浅田)アルチュセールがおもしろいことをいっている。科学者は最悪の哲学を選びがちである、と(笑)。細かい実験をやってて、そこではすごくハードな事実に触れているのに、それを大きなヴィジョンとして語り出すと、突然すごく恥ずかしい観念論になっちゃうことがあるわけ。それこそアニミズムとかね。 (浅田彰ーー村上龍との対談、2000)

いうまでもなく「科学者」たちの使命は「三分の二の人間が死ぬような仕組み」作りとその実現であり、優秀な科学者であればあるほどその資質がよりいっそう備わっているのは、彼らの真摯なる破廉恥、その無頭の知、その剰余価値ならぬ剰余知の顕現ぶりが証している。

もちろんここでの「科学者」というのは冒頭近くに掲げたように比喩であり、ようはラカンの言う通り、パラノイド的人格者たちのことである。パラノイド的人格者とは、非去勢の主体、あるいは「病理的ナルシシスト」とも言い換えられるのは周知の通り。

……「病理的ナルシシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(ジジェク、1991)

これは精神分析だけではなく、心理学の分野で既に1989年前後ーーすなわち最後の「父」の死の後ーーから言われ続けていることももちろんご存じであろう。そしていまでは病理的ナルシシストでない人物を探すのが困難になってしまった。

ツイッターなどでまがおで、一人称単数代名詞を使ってーーいや仮に使っていなくても言表内容の主体 sujet de l'énoncé と言表行為の主体 sujet de l'enonciationが一致している思い込んでいるつもりの連中は、ほとんどすべて病理的ナルシシストである。

すなわち、「私は私自身の主人maîtreである」という妄想的(パラノイア的)信念の言説、--《m'être à moi même》(Lacan,S.17)ーーを振り撒いている連中のことである(参照)。

もっともこのたぐいの錯誤を抱く人間はかねてより多数存在しはしたが、やはり「神の死」にひきつづく「父の死」が決定的であった。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

わたくしはーーもちろんこの一人称単数代名詞はフィクションの「わたくし」であるーー、みなさんの仲間入りできなくて残念だが、どちらかといえば「倒錯者」ではないかと疑っている・・・


2016年9月16日金曜日

基本的な二種類の対象a (ラカン、ドゥルーズ)

欲望は剰余享楽の換喩である」で記した欲望機械をめぐるジジェクの文にコメントを入れてくる方がいる。よい機会なのでいくらかまとめてみた。

まずドゥルーズ派の人には異和が感じられるだろう次の文はとほとんど同じ文が『身体なき器官』にもあり、ジジェクは2012年の書でもくり返していることになる。

ラカン派によるドゥルーズ読解の出発点は、情け容赦ない直接的な読み替えである。すなわち、ドゥル ーズ&ガタリが「欲望機械(machines désirantes)」について語るとき、我々はその用語を欲動に置き換えるべきだ。

ラカンの欲動ーーそれは、エディプスの三角形とその禁圧的な法/その法への侵犯の弁証法に先んじる匿名/無頭的で不滅な「身体なき器官」の反復への執拗さであり、ドゥルーズが前エディプスのノマド的な「欲望機械」として境界を引こうとしたものと完全に一致する。実際、セミネールⅩⅠの欲動に捧げられた章で、ラカン自身が、欲動の「機械的な」特徴・反有機的な anti‐organic 性質(その人工的な要素、あるいは異質の成分からなる部分のモンタージュの特質)を強調している。

しかしながら、これは出発点にすぎない。問題をすぐさま混み入らせるのは、この読み替えにおいて、何かが失われてしまうという事実である。すなわち、欲動と欲望とにあいだにある、まさに還元し得ぬ相違、この差異の視差的 parallax 性質があり、一方から他方へと跡づけたり生み出したりするのは不可能なのだ。

言い換えれば、ラカンには全く異質なものは、ドゥルーズの反-表象主義者的な欲望の概念である。それ自体が表象や抑圧の場面を創造する原初的流動 flux としての欲望概念。これはまた、ドゥルーズが欲望の解放について語る理由だが、ラカンの地平ではまったく無意味である。

ドゥルーズにとって、最も純粋な欲望とはリビドーの自由な流動だが、ラカンの欲動は、基盤となる解決しえぬ袋小路によって構成的に徴づけられている。ーー欲動は行き詰まりであり、まさに行き詰まりの反復において満足を見出す。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ーー「欲望の自由な流れ」とは具体的には、『アンチ・オイディプス』の冒頭近くにある「自由状態での純粋な流体un pur fluide à l'état libre」という表現などにかかわる。

ある純粋な流体が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体の上を滑走している un pur fluide à l'état libre et sans coupure, en train de glisser sur un corps plein。欲望機械は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もない」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。 (ドゥルーズ+ガタリ、アンチ・オイディプス、上P.26)

まず最初に、そもそも「身体なき器官」とは、ラカンはその表現を直接的には使っていないとしても、ラカン自身の叙述が起源。

このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。

Cette lamelle, cet organe qui a pour caractéristique de ne pas exister, mais qui n'en est pas moins un organe - et je pourrai vous donner plus de développement sur sa place zoologique - je vous l'ai déjà indiqué, c'est la libido.
これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。 それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象aについて挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。

La libido, je vous ai dit, en tant que pur instinct de vie, c'est-à-dire dans ce qui est retiré de vie, de vie immortelle, de vie irrépressible, de vie qui n'a besoin, elle, d'aucun organe, de vie simplifiée et indestructible, de ce qui est justement soustrait à l'être vivant, d'être soumis au cycle de la reproduction sexuée. C'est de cela que représente l'équivalent, les équivalents possibles, toutes les formes que l'on peut énumérer, de l'objet(a). Ils ne sont que représentants, figures.(ラカン『セミネールⅩⅠ』)


ところで、ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』1972年には、対象a という語が二度出現する(クラインに依拠しつつ部分対象 l'objet partiel, les objets partiels)という語はしばしば頻出するが、『差異と反復』などに出現した「潜在的対象 l'objet virtuel (objet = x)」という語彙さえ現れない)。

その二度の出現は次の通り。

ラカンは反対に、神経症さえ分裂症化して、精神分析の領野をくつがえすことができる分裂症の流れを解放したのである。ラカンのいう〈対象a〉は、地獄の機械〔仕掛け爆弾〕として構造論的な平衡の只中に侵入する。それは、欲望機械なのである。( ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳,上,文庫上 P.163.)

L'admirable théorie du désir chez Lacan nous semble avoir deux pôles : l'un par rapport à « l'objet petit-a » comme machine désirante, qui définit le désir par une production réelle, dépassant toute idée de besoin et aussi de fantasme; l'autre par rapport au « grand Autre ,. comme signifiant, qui réintroduit une certaine idée de manque.
ラカンにおける、欲望の賞賛すべき理論は、二つの極をもっているように思われる。ひとつは、欲望機械としての「部分対象-a」( « l'objet petit-a » →対象a)にかかわる極である。これは、あらゆる欲求や幻想の観念を越え、現実的生産production réelle によって欲望を規定する。もうひとつは、シニフィアンとしての「大〈他者〉」にかかわり、ある種の欠如の観念を再び導入する。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』宇野邦一訳、ドゥルーズ他の註)

L'admirable théorie du désir chez Lacan nous semble avoir deux pôles : l'un par rapport à « l'objet petit-a » comme machine désirante, qui définit le désir par une production réelle, dépassant toute idée de besoin et aussi de fantasme; l'autre par rapport au « grand Autre ,. comme signifiant, qui réintroduit une certaine idée de manque.

 宇野邦一氏の訳では、下の文は「部分対象-a」と訳されているが、対象a=部分対象とするのは(ラカン的観点からは)誤謬。

ラカンはセミネール11で、《喪われた対象(対象a) は口唇欲動に起源があるのではない l'objet perdu (a)… n'est pas l'origine de la pulsion orale.》と言っている。これは対象aは乳房という部分対象とは直接関係がないと言っていることと捉えうる。

現実界は《快原理の障害(物)である l'obstacle au principe du plaisir》(Lacan,S.11)。オートマンautomaton と象徴界によるシステム的決定性の彼方には、テュケー tuché・偶然的要素としての欲動の現実界が待っている。ラカンによれば、この偶然性はすべて欲動にかかわる。彼は、フロイトに従って、欲動に随伴する部分対象と共に欲動における部分的側面を強調する。フロイトによれば、対象 Objekt は欲動の最も重要でない部分である(欲動 Trieb の源泉 Quelle、衝迫 Drang、目標 Ziel という他の部分に比べて)。部分対象が重要性に劣ることについて、ラカンは次のように説明している。どの対象も決定的に喪われた原初の対象a (l'objet perdu (a))の場に現れる。《この喪われた対象は、実際には、シンプルに空洞・空虚の現前であり、フロイト曰く、どんな対象によっても占められうる Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide… occupable, nous dit FREUD, par n'importe quel objet》(S.11)。(ヴェルハーゲ、Verhaeghe, P. (2001). Beyond Gender. From Subject to Drive


ヴェルハーゲの文では、対象aが二つに分けられている。原初の空洞・空虚の対象aと部分対象としての対象a。この二つについて、ラカン注釈者たちのあいだで、しばしば、リアルな対象a(= Ⱥ)とファルス化された対象aという言い方がされる(参照)。厳密にいえば対象aのより精緻な差別化があるが(参照))、基本はこの二区分(晩年のラカンは骨象aとも訳しうる奇妙な言い方をしていることを付け加えておこう、« osbjet », la lettre petit a(S.22))[参照

この基本の二区分は、ラカンがセミネール11で聴衆を驚かせたらしい「二つの欠如 Deux manques」(参照)にかかわる。

ジャック=アラン・ミレールは、後年この二つの欠如を欠如と穴(ブラックホール)と言い換えた。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” ーー「欠如 manqué から穴 trou へ(大他者の応答 réponse de l'Autre から現実界の応答 réponse du réel へ)」)

そもそもドゥルーズは『プルーストとシーニュ』で次のように記している。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分的事物(→ 部分対象 objets partiels)の機械(衝動)・反響の機械(エロス)・強制された運動の機械(タナトス).である。このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。それが失われた時間のばあいには、部分対象の断片化により、見出された時間のばあいには反響による。失われた時間のばあいには、別の仕方で、強制された運動の拡がりによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、原著初出版1964年だが、1970年に加えられた「アンチロゴスまたは文学機械」CHAPITRE IV “Les trois machines”より)
Toute la Recherche met en œuvre trois sortes de machines dans la production du Livre: machines à objets partiels (pulsions), machines à résonance (Eros), machines à mouvement forcé (Thanatos) . Chacune produit des vérités, puisqu'il appartient à la vérité d'être produite, et d'être produite comme un effet de temps : le temps perdu, par fragmentation des objets partiels; le temps retrouvé, par résonance; le temps perdu d'une autre façon, par amplitude du mouvement forcé, cette perte étant alors passée dans l'œuvre et devenant la condition de sa forme.

ドゥルーズは、「部分対象の機械(衝動)/強制された運動の機械(タナトス)」と記すことによって、対象aの二つの側面を認知していたとも捉えられる。

したがって、ガタリと組んで書かれた『アンチ・オイディプス』は、ドゥルーズの退行、あるいは次のように言われる理由がある(その正否は別にして)。

間違いなくドゥルーズの最悪の書『アンチ・オイディプス』は、単純化された「平面的」解決を通して、袋小路の十全な遭遇から逃げ出した結果ではないだろうか?(ジジェク『身体なき器官』)
蓮實重彦)あのとき何が敵だったかというと、間違いなく精神分析であるわけで、その精神分析をフーコーは優雅に避けるわけだけれども、ドゥルーズはそういう避け方をしなかった。代わりに、どんなに異質でもいいから、ガタリを連れてきて、一緒に『アンチ・オイディプス』を書いちゃうわけです。それは、優雅なテクストになるかわりに、暴力的かつ危険性をはらんだかたちで機能するわけでしょう。そのことがドゥルーズには見てたわけですよ。(……)

浅田彰)……72年には、私はフロイトに反対すると言ったかもしれないけど、93年には、自分は完璧にマルクス主義者だというのと同じ意味で、完璧にフロイト主義者だと言うかもしれない。彼は、概念の分類ではなく、現実の中での機能だけを考えていたわけだから。(『批評空間』1996-Ⅱ-9,共同討議「ドゥルーズと哲学」財津理・蓮實重彦・前田英樹・浅田彰・柄谷行人)


わたくしはドゥルーズにまったく詳しくない(やや熱心に読んだのはプルースト論とマゾッホ論だけ)。だが、ラカン派的観点からはこういうことらしい、という(今のところの)理解をしている。

結局、アルトー本人のことはいざ知らず、ドゥルーズとラカンの解釈においては次の文が決定的ではないだろうか。

われわれはしだいに、CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

このドゥルーズ&ガタリの見解が正しいとしてーーそして厳密さを期さずにいえばーー、「器官なき身体corps sans organes」でも「身体なき器官 organes sans corps 」でもどちらでもよいといえるのではないか。両者とも有機体なき(統合的身体なき)身体器官である。

とはいえ、そうしたときでも、冒頭のジジェクが指摘するように決定的な相違がある。

ジジェク組のジュパンチッチ曰く、現実界は、バディウにとって裂開をもたらす出来事、ドゥルーズにとって生成変化(「なる」ことの過程)にかかわる一方で、ラカン派の現実界は実体でも過程でもない。むしろ、《過程を妨害する何ものか、躓きの石のような何かである。すなわち現実領野の構造のなかにある不可能性である》(ジュパンチッチ、Zupančič, The Odd One In,2008)

彼らの主張の起源はたとえば次の二つのラカン文。

・現実界は快原理の障害(物)である le réel, à savoir l'obstacle au principe du plaisir (Lacan,S.11)

・現実界とは形式化の袋小路である Le reel est un impasse de formalization(ラカン、S.20)

もっともこれはジジェク組や一部の哲学的ラカン派などがこのように考えているのであり、最近のジャック・アラン・ミレールは、ドゥルーズ的になってしまったという指摘がある。

…象徴界の外部の「純粋な」現実界 the “pure” Real、象徴界によっていまだ汚染されていない或る現実界 a Real に向けてのミレールの探求。彼はその現実界をラカンに属するものだと考えている。だがそんな探求は、ドゥルーズ的袋小路 blind alley に到るものとして、捨て去らなければならない。

ミレールは、まさにドゥルーズ的なやり方で(『アンチ・オイディプス』からの定式を文字通り反復して)、フロイトの無意識の「地下 beneath」の「本当の」プレエディプス的無意識について話している。あたかも、我々は最初に「純粋な」プレエディプス的欲動の動き、そしてラカンのララングによって洗礼を受けた徴示的 signifying 物質と享楽の直かの浸透があるかのように。(ジジェク、2016、Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledgeーー何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール))

わたくしはジジェク組、ヴェルハーゲ、あるいはかつてのミレールを基準にして現実界を捉えているということはある。

ヴェルハーゲの文にテュケーという言葉が出てきたが、これは、トラウマ(事故的トラウマではなく構造的トラウマ)にかかわる。

※参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)


ラカンはセミネール11で、アリストテレス用語の、automaton (αủτoματov) versus tuchè (τuχη) を取り上げている。

テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更)

De cette fonction de la τύχη [ tuché ]… du réel comme rencontre, de la rencontre en tant qu'elle peut être manquée, qu'essentiellement elle serait « présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ] …voilà ce qui d'abord s'est présenté dans l'histoire de la psychanalyse sous la forme première… qui, à elle toute seule, suffit déjà à faire naître notre attention …celle du traumatisme. (S.11)

他方、アルトーは「人間に器官なき身体 un corps sans organes を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性 automatisme から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう」と言った。

ようはアルトー曰くの「正当的疎外 aliéné authentique」 ーーこれはたぶんaliéné(疎外・同一化)からの分離、「疎外の疎外」、つまりヘーゲルの「否定の否定」だろうーーで遭遇するのは、自由なのか原トラウマなのか、という話にもなってくるはず(この点では、現在のミレールもトラウマ派のはず[参照:梯子 échelle と脚立 escabeau)。

と記したら、ここでの文脈とはあまり関係がないかもしれないが次の文を思い出した・・・

・自由か命か! « La liberté ou la vie » 自由を選ぶなら、即座に両方を失う。命を選ぶなら、自由を剥奪された生がある。

・自由とは、選択する自由 la liberté du choix があるのを示すことだ。…それは(究極的に)、死への自由だ c'est la liberté de mourir. (ラカン,S.11)

ーー自由とは、究極的に「死を選ぶ自由」以外の何ものでもない。(バゾリーニ


というわけで、以上、ようするに、わたくしにはよくわからない、--ということを記した。


2016年9月14日水曜日

フロイトの第二「去勢」物語

フロイトの多くの概念は二重化されている。

抑圧/原抑圧、幻想/原幻想、父/原父、トラウマ/原トラウマ、抑圧された無意識/抑圧されていない無意識(力動的無意識/システム無意識)、快原理の此岸/快原理の彼岸……

いくつかフロイトから直接引用するとすれば、

抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw を立論する必要にせまられるとすれば、そのときは無意識〈性〉Unbewusstseinの性格がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。(フロイト『自我とエス』1923--「非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)」)
……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

ーーいま女性的マゾヒズムfeminine Masochismusとあったが、これはもちろん解剖学的な「女性」ではない。 そしてこの文には、ラカン派の享楽の定義のひとつがすでにある、「苦痛のなかの快Schmerzlust」と。

ほかにも次の文でさえ、不安/原不安として捉えうる。

不安の二つの起源ーーひとつはトラウマ的瞬間の直接的結果、もうひとつはそのような瞬間の脅威的反復の信号。eine zweifache Herkunft der Angst, einmal als direkte Folge des traumatischen Moments, das andere Mal als Signal, daß die Wiederholung eines solchen droht,(『新精神分析入門』1933)

これらの二重化はすべて、ラカン派的観点からは象徴界/現実界である。

ところで不思議にもフロイトの中心的概念「去勢」の二重化はない。この「去勢」概念をラカン、もしくはラカンはどうとらえているのか。

ラカンはセミネールⅩ「不安」1962-1963で、『不気味なもの』1919や『制止、症状、不安』1926などに批判的な検討をしているが、ラカン曰く、フロイトの去勢とは《イマジナリーな劇 dramatisme imaginaire》(S.10) に過ぎないとある。

ほかにも次のエクリの文はどうか。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance [Lacan,E825])
去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。
La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

去勢は防衛である。防衛となれば、別のものが「原初」にあるはずだ。それを「原去勢」と呼びうるかどうかは別にして。

以下、ふたりのラカン派の去勢をめぐる叙述を引用する。

人は言うことができる。欠如がその象徴的、そして/あるいは想像的支えを失った瞬間、欠如は「単なる穴」になる。すなわち対象になる。文字通り、そこに見られるものは「無」である。

ラカンは主張している、去勢不安よりももっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、「構造的罅 vice de structure」を。(……)

去勢コンプレックスは我々の経験のかなめとして機能している。というのは、それは象徴的演出、象徴的支えを提供し、したがって「現実界のなかの欠如」を処理/移転する方法を提供しているから。

言い換えれば、この問題においてラカンがフロイトを超えて行く点は、中心的あるいは根本的なものとしての去勢コンプレックスを追放することで成り立っているわけではない。そうでなく、卓子をひっくり返したのである。彼の主張は、不安の底には(甦った)去勢の恐怖あるいは脅威ではなく、去勢自体を喪失する恐怖あるいは脅威があるということである。すなわち、欠如の象徴的支え、去勢コンプレックスが提供する象徴的支えを喪失する恐怖・脅威である。

これが、ラカンの不安の定式「欠如が欠如する le manque vient à manquer」が最終的に意図しようとしていることである。不安のかなめは「去勢恐怖」にあるのではない。そうではなく、主体(そして彼女の欲望)が象徴的構造としての去勢のなかに持っている支えの喪失である。この支えの喪失は幽霊のような対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如が、絶対的な「過剰」として、象徴界のなかに現れる。それは、欲望の対象を追い払い、その場所に、欲望の原因(Ⱥとしての対象a)を出現させる幽霊のような対象の顕現である。(アレンカ・ジュパンチッチ、2005,REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE、PDF)
フロイトは1919年に『不気味なもの』を出版した。そこでは「親密な heimlich」ものと「不気味な unheimlich」ものが同じ意味をもつことを見出している。親密なものが、もしある危険のために隠しておかねばならないものを含んでいるなら、不安の原因になりうる、と。…

フロイトは去勢と「不気味なもの」とあいだの繋がりを、ホフマンの砂男の話を使って叙述する。この物語において、去勢が現れる独特なあり方は、実に注目に値する。それは目玉の喪失にかかわる。この喪失は、去勢の代理と想定され、したがって去勢自体と同じほど怖れられる。

フロイトはソフォクレスに言及する。そこにも彼は同じ代替を見出した。エディプスは母との禁じられた関係への懲罰として自分の目を刺し抉る。この古典的モデルを基にして、フロイトは一般化する、盲目になることは去勢されることの代理であり、盲目の怖れは去勢不安へと遡りうると。

この代替はーー仮に控え目に言ってさえーーかなり奇妙である。もし去勢コンプレックスの「不気味な」構成要素が母の性器、ペニスの欠如を見たという事実に戻りゆくのなら、そのとき両目を引き裂くのは、当面の最初の代理にはみえない。それどころか、盲目になることは、人が見たくないもの・見てはならないものを見てしまったことに対する「防衛」を思い起こさせる。

これは、我々が「不気味なもの」のフロイトの定式化を想起するとき、いっそう明瞭となる。不気味なもの、すなわち奇妙で危険な何ものかがそのなかに隠されている親密な何かである。数年前(別の論文で)、フロイトはこれをヒステリーの盲目に適用した。主体にとって「危険な」知覚内容は回避されなければならないと。

さらに我々は、エディプスにもこれを適用しる。彼は両目を何度も刺し貫く、「目はいかにせん、正視に堪えぬ。君の与える、げにそれほどの恐れおののき」「おお、光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで」。あまりに多く見てしまった男がもはや母を見ないように盲目になる。したがって、盲目になることは、見ることを禁じられたものに対する防衛である。(ヴェルハーゲ、1999、PAUL VERHAEGHE,DOES THE WOMAN EXIST? 1999,PDF

ジュパンチッチの文にあるラカンの引用、「欠如が欠如する le manque vient à manquer」については、「人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望」で引用した「不安が出現するのは、まさに主体が「陽画的positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》(Lacan,S.10)にもかかわる。

欠如とは本来、象徴的欠如であり、これもラカンによる「図書館」の話がわかりやすい。

ペニスの不在が「不在」として知覚されるためには,そもそもその不在の知覚以前にそれが「現前」しているものとして想定されているのでなければならない。つまり,原初的には「男性だけでなく女性も母親をフアルスを授けられたもの,つまり,いわゆるファリックマザーとして考えている 」 ( E686) のである。 それゆえ,母のペニスの不在が知覚されたとき,そこには象徴的なフアルスが発見されているのである。これは例えるなら,図書館のなかで一冊の本がなくなったとき,それは純粋に存在しないわけではなく「あるべき場所に欠けている」わけであって,「ない」という意味で「ある」という性質を持つという事態に似ている ( S4) 。これは象徴的対象だけに起こる事態であって,反対に現実的対象は常にあるべき場所にあり.欠如の可能性をもたない。象徴的なもの,つまりシニフイアンだけが「その場所に欠けることができる」 (E25)のだ。(松本卓也、2011ーーシナナイタメニ)

反対に「現実界には何も欠けていない」(S.10)、母のペニスの不在は象徴界からの遡及的なnachträglich 視点からのみ「不在」である。ラカン派にとって、このフロイトの用語「遡及性Nachträglichkeit」は、フロイト概念のうちで最も重要なもののひとつとされる(参照:結果は原因に先立つ)。

上のジュパンチッチの文に、《欠如がその象徴的、そして/あるいは想像的支えを失った瞬間、欠如は「単なる穴」になる》とあったが、ジャック=アラン・ミレールは、この象徴界の欠如/現実界の欠如を明晰に記述し、欠如/穴(ブラックホール)、すなわち、大他者のなかの欠如/穴=大他者の場の欠如としている(参照)。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

いまだラカンの前期の主要概念「存在欠如」を人間の最も根源的なものとする立場を取り続けているラカン注釈者もいないではないが、それは遡及性概念をただしく把握していないことによるのではないだろうか。だが存在欠如とは言語の効果にすぎない。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそう存在欠如としてあるものを顕す。

L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(S.17)

コレット・ソレールは後期ラカンを、存在欠如manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。かつまたラカンはフロイトの無意識を晩年、parlêtre(語る存在、言存在と邦訳されている)と言い換えたが、その用語をめぐって次のように記している。

parlêtre用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

ミレールなら次の通り。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

もちろんミレールにとっても享楽 jouissanceとは、「マイナス享楽(あるいは斜線を引かれた享楽)」である。

あなたがたが「父の名」の秩序化要素を導入するとき、リビドー・享楽・欲動のレヴェルにおける削減 subtraction がある。あなたがたがファルス用語で語るなら、完全な想像的ファルス(φ)とマイナスフィ(-φ)ーーこの意味は去勢であり、それは享楽の削減の代わりのフロイトの言葉である--がある。(Jacques-Alain Miller Ordinary Psychosis Revisited ,2008,PDF)


享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF


さて、ヴェルハーゲの注釈にもあったように、フロイトはソフォクレスの神話やホフマンの『砂男』解釈で、盲目になることと去勢とをほとんど同じものとして扱い人間の原初的な不安としているーーしかも最晩年の著作『終りある分析と終りなき分析』1937でさえ去勢コンプレクスを「岩盤」(分析の行き詰まり)としているが、それはいささか保留しながら読まなければならない。

もし岩盤なるものがあるならば、同じ『終りなき分析』に記されている「女性性」が岩盤である。

私は、「女性性の拒否」Ablehnung der Weiblichkeit は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

この 「女性性」とは実際は何なのかをめぐっては、「シナナイタメニ」にいくらか記したのでここでは触れない。ここでは去勢概念が二次的なものであるということを強調するのみにする。

上に、《不安の底には(甦った)去勢の恐怖あるいは脅威ではなく、去勢自体を喪失する恐怖あるいは脅威》であり、《欠如の象徴的支え、去勢コンプレックスが提供する象徴的支えを喪失する恐怖・脅威》(ジュパンチッチ)、あるいは《盲目になることは、見ることを禁じられたものに対する防衛》(ヴェルハーゲ)とあった。

ようするに、ラカン派内では、エディプスコンプレックスがフロイトの夢であったように(« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD.)(ラカン、S.17)、去勢概念も原不安への防衛である、という見解が現在では主流の考え方になりつつある(参照:エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! C'est strictement inutilisable ! 》。

ーーエディプス、無意識の欲望の原理、それは70年代にとても賛否両論の議論があったのですが、いまも通用するのですか? それは新しい家族の配置に釣り合うのでしょうか?

コレット・ソレール)いいえ、フロイトが私たちに提供したエディプスはもはや通用しません。それは、ラカンが言ったように たんなる「hystoriole」です。言ってしまえば、精神分析の「ファミリーロマンス le roman familial 」だった。(基本版:現代ラカン派の考え方

というわけだが、これらの解釈を受け入れるならば、谷崎潤一郎の「盲目」についての叙述は、フロイトよりも「正しい」ことになる。

…………

◆第二盲目物語
その両眼を抉った時期は、はっきり語っていないけれども、多分三成の邸へ呼ばれて怠慢の咎めを蒙った時、即ち文禄三年の秋を去ること餘り遠くない同じ年の冬か、四年の春頃であったろう。拙著「春琴抄」の佐助は盲人になるために針を瞳孔に突き刺してよく目的を達したが、順慶は戦国の武士であるからもっと野蛮な荒療治を行った。
斯くて順慶は、見たところでは従来と何の変化もなく、一箇の藪原勾当として自らも振舞い、人からも遇されていた訳であり、その限りに於いて彼の計畫は豫期の成果を収めたのであったが、一方彼は必然に起って来るであろう自己の心中の推移について、大きな誤算をしたのであった。と云うのは、視覚さえ失ったら精神的の煩悶が減って、ほっと重荷をおろした感じがするであろうと思っていたのが、反対の結果になった。彼が失明した目的の一つは、「夫人を見ないため」であったが、少くとも此の点に於いてアテが外れた。見まいと心がけたものが、前よりもよく見える。その上、一層悪いことには、それを肉眼で見ていた間は、「見る」と云うことに良心の制裁が伴っていたのに、心の眼を以て見るようになってからは、何等の拘束がないのである。肉眼で見るのでない以上、舊主へ不忠にもならなければ、夫人へ失礼にもならない。誰に対しても気がねがない。いつでも、自由に、その映像を飽きるほど視つめていられる。盲人の真似をしつゝ、薄眼でおず〳〵と盗み視ていた時よりも、遥かに大きく、生き〳〵と見えるのであった。(『聞書抄 第二盲目物語』)

◆春琴抄
されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間焼け爛れた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに堪えずしてとっさに面を背けたので燈明の灯の揺めく蔭に何か人間離れのした怪しい幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖れたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避けた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に赴いた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと突如春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上からしきりに両眼を押し拭えば佐助も諳然として云うべき言葉なく共に嗚咽するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を取り除けても差支ない状態にまで治癒した時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と縫針とを密かに持って来て寝床の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時にして両眼を潰したもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。
お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄盲目の悲しさには立ち居も儘ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白い円光の射して来る方へ盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰の恨みを受けてこのような目に遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござりますそのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わせようとした奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた(『春琴抄』)

2016年9月9日金曜日

カントの「美は無関心」をめぐって

アレンカ・ジュパンチッチはカントの『判断力批判』における「美は無関心」ーー《美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである》ーーをめぐって、カントの「緑の草原」叙述箇所を参照することにより、次のような説明している(彼女にはラカンに依拠しつつのすぐれたカント論とニーチェ論があるのはよく知られている)。

第一段階は対象(客観)段階である。草原の緑色は対象的感覚に属している。「草原は緑だ」とは客観的判断である。

第二段階は主観段階である。色の快適さは主観的感覚・感情に属している。「私は緑の草原が好きだ」とは主観的判断である。それはまた「私は可能な限り何度も緑の草原を見たい」ことを意味する。これは我々を愉悦させる対象(緑の草原)への「然り」である。

第三段階は「然り」である。色へのではなく快適さ自体の感情への肯定である。我々を愉悦させる対象へではなく愉悦自体への肯定である。すなわち以前の「肯定」への「肯定」。

ここには感情自体、(判断の)対象になる感覚自体がある。「緑の草原は美しい」とは趣味判断・美的判断であり、それは「客観的」でも「主観的」でもない。

この判断は「無頭のacéphale」と呼ばれうる。というのは「私」・判断の「頭」は別のものに取って代わられているから。代替先は「草原は緑だ」の形式の言明のなかにあるような非個人の客観的中立性ではない。そうではなく主体の最も親密な部分である(主体自体が対象としての或る表象によっていかに情動されるのを感じるか、である)。
「無関心(Devoid of all interest)」が意味するのは、まさに我々は対象(緑の草原)の存在にもはや関わることなく、我々に与えられた快のみに関わることである。

特筆しなくてはならない、この第三段階がニーチェ哲学の中心テーマ、「肯定の肯定」にいかに近似しているかを。

ドゥルーズがとても巧みに提示しているように、ニーチェの「然り」の核心は、「然り」自体が別の「然り」によって肯定されなければならないことだ。(Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan,PDF)

ジュパンチッチの言いたいことは、ニーチェのカント批判にもかかわらず(後述)、カントの「美は無関心」はニーチェの中心的概念肯定の肯定に近似している、ということだ。ハイデガーもカントの「関心」概念の誤解を指摘している。《関心を抱くとはそれを自分で(所有し、使用し、支配するために)持とうと意志することである。(……)美しいという我々の判断は、関心によって強制された判断であってはならない》(ハイデガー『ニーチェ講義』)

さてジュパンチッチの上の文に引き続いてドゥルーズの『ニーチェ』からの要約引用があるが、ここではその前後もふくめてもうすこし長く引用する。

生の肯定(……)すなわち生成と多数性を肯定すること、ディオニュソスが八つ裂きにされ、手脚がバラバラとなる状態に至るまで肯定すること(……)。舞踏、軽やかさ、笑いがディオニュソスの諸特性である。肯定の〈力〉として、ディオニュソスは自らの鏡のなかに、ある一つの鏡を、自らの指輪のなかに一つの指輪を喚び出す。つまり肯定がそれ自身肯定されるためには、第二の肯定が必要なのである。ディオニュソスは一人のフィアンセを、アリアドネを持つのである(「おまえは小さな耳をしている。私と同じような耳を持っている、そこによくよく考えた言葉を入れてごらん!」)。唯一のよくよく考えた言葉とは、〈然り〉である。アリアドネは、ディオニュソスとディオニュソス的な哲学者を定義する諸関係の総体を、完成させるのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳、文庫P.63)

ドゥルーズ自身の註によれば、《生の肯定……ディオニュソスが八つ裂きにされ、手脚がバラバラとなる状態に至るまで肯定すること l'affirmation de la vie, l'affirmation du devenir et du multiple, jusque dans la lacération et les members dispersés de Dionysos》の依拠は、《八つ裂きに寸断されたディオニュソスは、生への約束である》(ニーチェ「遺された断想」1888年春)にある。

この文から、ラカンにすこしでも関心をもったことのある人なら、ラカンの対象aの定義のひとつをすぐさま思い起こすだろう。

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)

ジュパンチッチの文に「無頭のacéphale」という形容詞が出てきているが、これも対象aあるいは欲動にかかわる用語である。

無頭の主体の様態としての顕現……根源的な形式のなかにある欲動la pulsion dans sa forme radical……manifestation, comme mode d'un sujet acéphale(ラカン、S.11)

ラカン的な観点からは、美とは、カントの崇高と美を混淆させたものであり、たんに快にかかわるものではなく、快原理の彼方にある欲動にかかわる。

美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S.7)

ところでフロイトの欲動、ラカンの享楽とは何だったか。

享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF

※欲動と享楽の微妙な相違をめぐっては、「欲動と享楽の相違」を参照のこと。

ニーチェの情動(Affekte)も、欲動として読める(実際、「欲動」としている訳者さえいる)。

権力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

さて、こうやって見てみるとーーようはラカン派の観点、あるいはラカンに影響をうけた論者の観点からはーーアリアドネとは何なのか。

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。「温室の写真」は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝石)を発見させてくれるからではない。そうではなくて、私を「写真」のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ロラン・バルトにとっての「私のアリアドネ」とは、プンクトゥムである。

ロラン・バルトの『明るい部屋』には、ラテン語のストゥディウム(studium)/プンクトゥム(punctum)という二つの概念がいたるところに提示される。

バルトによれば、

ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。(……)

プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(『明るい部屋』摘要)

また、《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》ものともある。

ここでロラン・バルトのもうひとつの(一見した)二項対立概念(快楽 plaisir/悦楽 jouissance)の叙述を別の書から抜き出してみる。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

快楽が制度内のもの/悦楽(享楽)は制度を揺るがすものとあれば、これは、ストゥディウム/プンクトゥムとほぼ等価である。だがこれは実は二項対立として捉えてはならない。

ラカン派では快楽の非一貫性(非全体pas-tout)の領域内部に外立ex-sistenceするものが享楽であるという言い方がされる。ようするに欲望の主体ーー実際は幻想の主体だが(参照)ーーの表象の裂け目に出現するものが享楽である。(現実界≒享楽とは、象徴化の袋小路に現れる(Le reel est un impasse de formalization,)(ラカン、セミネール20))。

たとえば、ラカンの性関係の不在という定式を受け入れるとしよう。そのとき性関係の不在とはファルス享楽の行き詰り(失敗)において(象徴界の表象の裂け目において)身体の享楽という現実界が現われる。たとえば口唇欲動、肛門欲動、眼差し・声等の部分対象(対象a)が現われる(失敗とは性交においてこれらの欲動が満足されていないということだ)。

バルトに戻れば、彼は最晩年、「人はつねに愛するものについて語りそこなう」(ーーロラン・バルトによって書かれた最後のテクストの題名であり、スタンダール小論でもある)と言っている。この愛するものはプンクトゥムである、《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》。

だが、なぜ愛するもの=プンクトゥムについて語るのが難しいのか?

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。 (『明るい部屋』p.58)
……(「温室の写真」をここに掲げることはできない。それは私にとってしか存在しないのである。読者にとっては、それは関心=差異のない一枚の写真、《任意のもの》の何千という表われの一つにすぎないであろう。それはいかなる点においても一つの科学の明白な対象とはなりえず、語の積極的な意味において、客観性の基礎とはなりえない。時代や衣装や撮影効果が、せいぜい読者のストゥディウムをかきたてるかもしれぬが、しかし読者にとっては、その写真には、いかなる心の傷もないのである。)(『明るい部屋』pp.88-89ーー「アリアドネ・石鹸の広告・対象a」)

私のプンクトゥムであって、あなたのプンクトゥムではない。どうしてそんなものを容易に他人に語りうるのか。

このプンクトゥムは、別に何と呼ぼうとかまわないが、ラカン用語の対象a(剰余享楽)にひどく近似している。ロラン・バルトが悦楽=プンクトゥムとしているように読めると上に想定したが、悦楽とは、ロラン・バルトの文脈では、明らかに剰余享楽のことである。そもそも享楽自体は存在しない。

ようは、アリアドネとは対象aのこととして捉えうる。あるいは外密 extimité のこととして(場合によっては想像的自我+対象a=分身として[参照])。

そしてアリアドネ=美とは、私の最も内にある外部、モノとしての外密である、《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.17)、

la Choseとは、フロイトのdas Ding(モノ)だが、《他のモノは、本質的に、モノである« Autre chose » est essentiellement la Chose》 (S.7)とあるようにモノ=対象a である。

そして外密とは実はフロイトの「不気味なもの」のことでもある(参照)。フロイトがその論文『不気味なもの』で賞賛しつつ引用したシェリングの定義、《隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味なunheimilich」と呼ばれる》とジャック・アラン=ミレールの外密の定義をともに読んでみよう。

Extimité(外密)は親密の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。異物(フロイトのFremdkörper)、寄生物のようなものである(ミレール、参照

たとえば制作者側からみても、外密=美とは実は不気味なものを作ることではないだろうか。ラカンのセミネールⅦには名高い壺作りの話がある。

壺は穴を創造するものである。その表面の内部の空虚を。芸術制作とは無に形式を与えることである。創造とは(所定の)空間のなかに位置したり一定の空間を占有する何ものかではない。創造とは空間自体の創造である。どの(真の)創造であっても、新しい空間が創造される。

別の言い方であれば、どの創造も覆い(ヴェール)の構造がある。創造とは「彼方」を創り出し告知する覆いとして作用する。まさに覆いの織物のなかに「彼方」をほとんど触れうるものにする。美は何か(別のもの)を隠していると想定される表面の効果である。(同、ジュパンチッチ)

これはほとんどフェティッシュの定義でもある(ラカン派のフェティッシュの定義は、通念として流通するフロイトのフェティッシュの定義とは異なり、マルクスの商品分析におけるフェティッシュの定義に近いことに注意しておこう[参照])。

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)
ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、《我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien]》。

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

「対象aが外密である(l'objet(a) est extime)」(S.16)ことと同じように、「見せかけsemblant 」が対象aであることはラカン自身が示している。



(ラカン、セミネールⅩⅩ)




外密・対象aはトラウマ(心的外傷)にもかかわる(参照:基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))。

もしそうであるなら、ジュネ=ジャコメッティによる美の最も美しい定義(のひとつ)のなかにある「傷」という言葉もこの文脈によって捉えうる。

美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

…………

※付記

ジュパンチッチの論のベースになっているニーチェの記述等を抜きだしておこう。

ニーチェのよく知られているカント批判のひとつに次の文がある。

「美とは関心なし(ohne interesse)に人の気に入る(gefallen)何かである」とカントは言った。この定義を、本当の「鑑賞者」であり芸術家である人がなした定義と比較して頂きたい。つまりスタンダールは、美は幸福を約束するものと呼んだのである。ここではいずれにせよ、カントが美的状態において浮き彫りにしたことがまさに拒絶され、消し去られているのである。それは無関心(le désintéressenment)である。果たしてカントが正しいのかスタンダールか。もっとも我らの美学者諸氏がカントを贔屓目にこんな事を量りに掛けてみたらどうだろう。美という魔法が掛けられて、いやそれどころか一糸纏わぬ女性の銅像を「関心なしに」観ることができるかどうかということである。おそらく彼らの無駄な努力に人はいささか笑いを禁じ得ないだろう。芸術家の諸々の経験はこのデリケートな点に関して「より関心を引く」ものであり、またピグマリオンが「審美的でない(unästhetisch)人間」であったというのはいずれにせよ当を得ていないのである。(ニーチェ『道徳の系譜』)

ハイデガーはこのニーチェのカント批判にたいして、「関心」という語のニーチェの誤解を指摘しつつ、《関心を抱くとはそれを自分で(所有し、使用し、支配するために)持とうと意志することである。(……)美しいという我々の判断は、関心によって強制された判断であってはならない》(『ニーチェ講義』としている(参照:林湛秀『ニーチェの美学批判について』PDF)。

カントの「関心」という語の意味がハイデガーのいう通りならーーわたくしはカントにもハイデガーにも疎いがーー、ニーチェ自身が似たようなことを言っている。それは「好奇心」という用語にてだ。ここではロラン・バルト、蓮實重彦を通したニーチェの「好奇心」を掲げよう。

快楽も、愛も、好奇心から生まれるものではない(……)。好奇心とは、感覚器官の粗雑さを忘れるために、知的に遂行されるストリップのごときものであり、自信にみちた心の動きだ。ニーチェにならって、「われわれは、精緻さが欠けているから、科学的になるのだろう」とバルトが書くとき、科学の名で指し示されているのは、まだ見えていないものへの究明へと人を向かわせるものが好奇心だとする社会的な、それこそ粗雑きわまる暗黙の申し合わせのことである。(蓮實重彦「倦怠する彼自身のいたわり」『表象の奈落』所収)

カントの「無関心」とは、柄谷行人が「括弧入れ」という用語を使って次のように語ったことでも知られる。

カントが、趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レベル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(柄谷行人「美学の効用」『ネーションと美学』所収)

…………

さて、これらの考え方と、ジュパンチッチの観点ーーつまりラカン派的観点ーーのどちらがより説得的であろうか。結局、美をめぐっての問いにおいても、フロイトの快原理の彼岸やタナトス、ラカンの享楽や対象a をどうとらえているかでその判断が大きく異なってしまう、とわたくしは思う。

私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。( Lacan, Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse,1966ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

「美はおそるべきものの始まり」(リルケ『ドゥイノ』)でなかったら美とは何なのか? 美とは《刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目(……)、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然》でなかったら何なのか。美とは、ときにはできるだけ離れていたいと思う「無の彫刻」でなかったら何なのか?

……遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(ミシェル・シュネデール「グールド、ピアノソロ』)

形式的な観点からの美はもちろんある。

「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

しかしながら、たとえば、《バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう》(小倉朗)

いやもちろん形式美やロラン・バルトのいうプンクトゥム(punctum)ではなく、ストゥディウム(studium)の美に慰安を見出している人たちもいることだろう、そしてそれのみが「美」だと思い込んでいる人たちさえいるのかもしれない・・・

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

もちろんプルーストも外密 extimité のことを言っている、 私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密を。--《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)

プルーストは『『失われた時を求めて』の表題を最初は『心情の間歇』にしようと考えていた。その心情の間歇をめぐる箇所には次のような表現がある。

自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だったのだ。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait). (プルースト「ソドムとゴモラ Ⅱ」)



2016年9月8日木曜日

偉大なるフェティッシュ分析家マルクス

《論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。 数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。》(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

ーーいやあ若きニーチェもすばらしいね。『探求』の柄谷行人はいささかウィトゲンシュタインに熱を上げ過ぎたのではないだろうか・・・いやいや真にすばらしいのはマルクスである。柄谷行人は正しい。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年、PP.69-70)
ニーチェのいう「ウラル=アルタイ語」に属する日本人は、主語から脱しようとする西洋人の努力がいかに困難かを想像することができる。もちろん、その逆に主語(主体)を確立しようとしてきた近代日本の経験によって、である。「主語」がいつも暴力的規制力をもつ西洋の文法において、主語という場所の不在を唱えること自体が困難なのだ。主語(意味されるもの)がいつも述語(意味するもの)の優位にたつという構造がそこにはつきまとっている。

さらにいえば、be動詞は論理学と存在論を自然かつ自明なものとしている。たとえば、“The dog runs”は“The dog is running.”に変形可能であるが、その結果あらゆる出来事や活動に“存在”が介在することになるし、またそのisは繋辞として“The dog is an animal.”というのと同じ論理的判断になってしまうのである。論理学と存在論は、いわば文法的な習性として、西洋の形而上学を不可避的なものにしてきたといってよい。しかし、「貨幣の形而上学」という観点からみるならば、このことはけっして西洋に固有のことがらではありえない。

たとえば、古典経済学は、「商品Aの価値はこれこれで“ある”」と考える。それゆえに、価値は本質(であるところのもの)である。これに対して、マルクスは、「商品Aの価値はBの使用価値によって意味される」といいかえる。ここでは、「存在」は「関係」に変形され、意味するものとしての使用価値が価値に優越している。私が「貨幣の形而上学」とよぶのは、貨幣形態が「関係」を「存在」たらしめるからである。マルクスがそこでやろうとしてのは、主語と述語の転倒ということとはちがっている。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

70年代の若き柄谷行人の明瞭な注釈、「商品Aの価値はBの使用価値によって意味される」に注目しよう。ここにはラカンがいる。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものであるUn sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、セミネールⅩⅥ、D’un Autre à l’autre,1968-1969)

ラカンのセミネールⅩⅥとは、なかばマルクスの価値形態論をめぐっている。ここではいまだセミネールⅩⅦにおける四つの言説の図式ーーラカン理論の華のひとつーーは示されていない。 すなわち剰余享楽(剰余価値a)を含めた下の図はいまだない。




だがどんな思考の過程でこの四つの言説(上に掲げたのは主人の言説)の図式に到ったのかがーーわたくしのようなものでもーーいくらかわかってくる。

たとえば次のような図が示されている。





いまは剰余価値(剰余享楽)の解釈を含めないままだが、マルクスとラカンとのつながりを示すとてもわかりやすい初期ジジェクの説明を掲げよう。

◆ジジェク、1991より(価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)

① 「単純な形態」:あるシニフィアンに対して、他のシニフィアンが主体を表象する(つまり、 一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.])



② 「拡大された形態」:あるシニフィアンに対して、他のどんな諸シニフィアンも主体を表象しうる。





③ 「 一般的な価値形態」:ある(一つの)シニフィアンが他の全ての諸シニフィアンに対し て主体を表象する。




もちろん、転回点は、②から ③への移行、「拡張された」形態から「一般的な」価値形態へ の移行である。一見、ただ関係性を逆にしただけに見える(一つのシニフィアンに対して 主体を表象する諸シニフィアンの代わりに、他のすべてのシニフィアンに対して主体を表象する一つのシニフィアンを我々は見ることができる)。だが、実際には、この移行は付加的な「再帰的 reflective」な次元を導入することにより、表象の全経済を移動させる。 (ジジェク『為すところを知らざればなり』1991、私訳)


結局、この説明が「現代思想」の基礎的核心ーー哲学プロパーに疎いわたくしに言わせればーーである。

…ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する》。これは現代思想の偉大な突破口だった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態」である。

この着想において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に「非全体 pas-tout」(あるいは非決定的 non-conclusive)である。それはどんな対象も表象しない。思うがままの継続的な「関係からの分離 un-relating 」を妨げはしない。…ここでは表象そのものが、それ自身に被さった逸脱する過剰 wandering excess である。すなわち、表象は、過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に固有の「裂け目」、非一貫性から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ“Alenka Zupancic、The Fifth Condition”2004)

たとえば、バディウの存在論の中核表現 l'Un n'est pas、mise-en-un、compte-pour-un等はマルクスーラカンに起源があるといってよい。

l'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. (参照

ーー欧米語のような繋辞に相当するものがない日本語ではとても訳しにくい文であるので仏文のまま引用した。

ところで日本語にも繋辞があるとすれば何なのだろう。大きく言って助詞の「は」が繋辞、「である」が繋辞のふたつの主張があるようだが(参照:日本語における繋辞(copula)についてのメモ)、実際に主要な欧米語の繋辞に相当するものがあるとは言いがたい。それは時枝誠記が指摘している→「繋辞と風呂敷」。

この「繋辞」をめぐっても上に引用した文のなかに柄谷行人の指摘があったが、ラカンであれば次の通り。

存在論は、言語のなかの繋辞 copula の使用に脚光を浴びせる、繋辞をシニフィアンとして分離して、だ。「あるêtre」という動詞に囚われることは…ひどく危険な大仕事だよ。そこには何もないのだがね、主人の言説(discours du maître )、つまり「私がある (私は主人だ)m'être」という言説が、「ある être」という動詞を強調しなかったら。(ラカン、セミネールⅩⅩ)
もし「ある être」という動詞がなかったら、「存在」などという(厄介な)ものはなかったのだが。[s'il n'y avait pas le verbe être, il n'y aurait pas d'être du tout.](セミネールⅩⅩⅠ)

《横棒 barre の機能はファルスと関係ないわけではない(la fonction de la barre n'est pas sans rapport avec le phallus.) (、Séminaire XX ENCORE Staferla 版 p.51)




ーーすなわち、ソシュールのS/s(意味するもの/意味されるもの)。

この横棒がファルス=繋辞である、としてよいだろう。


さてバディウの存在論の問いーーたとえばl'Un n'est pasーーの起源としては、たとえば次のようなものがある。

われわれは、思考にとって「AはAである」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうかというものである。(ラカン、セミネールⅩ「同一化」)

ここから現実界の定義さえ生み出される、《現実界とは形式化の袋小路である 》( “Le reel est un impasse de formalization,” )(ラカン、セミネール20)

象徴界と現実界を分ける棒線は、厳密に象徴界の内部のものである。というのは、その棒線が、象徴界が「それ自身になる」のを妨げるのだから。シニフィアンにとっての問題は、現実界に触れ得ないことではなく、「それ自身に到達する」ことが出来ないことだ。シニフィアンに欠けているものは、特別な言語の対象ではなく、「シニフィアン」自身、棒線を引かれない、何物にも邪魔されない〈一者 l'Un〉である。(ジジェク『為すところを知らざればなり』For They Know not What They Do; Enjoyment as a Political Factor - Slavoj Žižek 1996 私訳ーー“A is A” と “A = A”

もっともバディウなどとラカンの現実界には微妙な差異がある。

現実界は、バディウにとって裂開をもたらす出来事、ドゥルーズにとって生成変化(「なる」ことの過程)にかかわる一方で、ラカン派の現実界は実体でも過程でもない。むしろ、《過程を妨害する何ものか、躓きの石のような何かである。すなわち現実領野の構造のなかにある不可能性である》(ジュパンチッチ、Zupančič, The Odd One In,2008)

…………

やあ、やっぱりマルクス読まなくちゃだめだよ、そこらあたりの10年に一度程度の「思想家」だとか、柄谷行人や蓮實重彦だって30年に一度の「批評家」だし、ハイデガーやドゥルーズだっておそらく半世紀に一人程度の「哲学者」だろ? 2~3世紀に一人の思想家ってのは、マルクスだよーーフロイト、ラカンもオレの趣味でいえば入れてもいいがーー(カント、ヘーゲル趣味の人もいるのは知ってるさ)。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」ーー死の二年前のインタヴュー、死後1995年に発表)
…症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(ラカン,.S.18,16 Juin 1971ーー抑圧は禁圧に先立つ)

つまりは商品のフェティシズム分析家としてのマルクスってわけだ。

商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;

商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって「超感覚的な物あるいは社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge」になる。

労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。

だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。

だから(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物 Produkt が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。

これを私は商品の呪物崇拝と名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist. (マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」ーーフロイトとマルクスにおける「形式」

剰余価値も剰余享楽も厳密さをきさずに言えば、フェティッシュのことさ

フェティッシュとは、欲望が自らを支えるための条件である。 il faut que le fétiche soit là, qu'il est la condition dont se soutient le désir. (Lacan,S.10)

◆ラカン、セミネール13 22 Décembre 1965 André Green

L'objet de Jacques LACAN. Rappel cursif

A) Le (a), médiation du sujet à l'Autre
B) Le (a), médiation du sujet à l'idéal du moi
C) Le (a), objet du désir
D) Le (a), fétiche
E) Le (a), objet du manque, cause du désir
F) Le (a), produit d'un travail

しかし厳密に言語自体が、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか? Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(クリスティヴァ、1980,J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980ーー「言語自体がフェティッシュである」)