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2016年9月14日水曜日

フロイトの第二「去勢」物語

フロイトの多くの概念は二重化されている。

抑圧/原抑圧、幻想/原幻想、父/原父、トラウマ/原トラウマ、抑圧された無意識/抑圧されていない無意識(力動的無意識/システム無意識)、快原理の此岸/快原理の彼岸……

いくつかフロイトから直接引用するとすれば、

抑圧されていないUbw〈=システム無意識〉nicht verdrängtes Ubw を立論する必要にせまられるとすれば、そのときは無意識〈性〉Unbewusstseinの性格がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。(フロイト『自我とエス』1923--「非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)」)
……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的(催情的) erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924 )

ーーいま女性的マゾヒズムfeminine Masochismusとあったが、これはもちろん解剖学的な「女性」ではない。 そしてこの文には、ラカン派の享楽の定義のひとつがすでにある、「苦痛のなかの快Schmerzlust」と。

ほかにも次の文でさえ、不安/原不安として捉えうる。

不安の二つの起源ーーひとつはトラウマ的瞬間の直接的結果、もうひとつはそのような瞬間の脅威的反復の信号。eine zweifache Herkunft der Angst, einmal als direkte Folge des traumatischen Moments, das andere Mal als Signal, daß die Wiederholung eines solchen droht,(『新精神分析入門』1933)

これらの二重化はすべて、ラカン派的観点からは象徴界/現実界である。

ところで不思議にもフロイトの中心的概念「去勢」の二重化はない。この「去勢」概念をラカン、もしくはラカンはどうとらえているのか。

ラカンはセミネールⅩ「不安」1962-1963で、『不気味なもの』1919や『制止、症状、不安』1926などに批判的な検討をしているが、ラカン曰く、フロイトの去勢とは《イマジナリーな劇 dramatisme imaginaire》(S.10) に過ぎないとある。

ほかにも次のエクリの文はどうか。

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance [Lacan,E825])
去勢が意味するのは、欲望の〈法〉の逆さになった梯子 l'échelle renversée の上に到りうるように、享楽は拒否されなければならない、ということである。
La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

去勢は防衛である。防衛となれば、別のものが「原初」にあるはずだ。それを「原去勢」と呼びうるかどうかは別にして。

以下、ふたりのラカン派の去勢をめぐる叙述を引用する。

人は言うことができる。欠如がその象徴的、そして/あるいは想像的支えを失った瞬間、欠如は「単なる穴」になる。すなわち対象になる。文字通り、そこに見られるものは「無」である。

ラカンは主張している、去勢不安よりももっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、「構造的罅 vice de structure」を。(……)

去勢コンプレックスは我々の経験のかなめとして機能している。というのは、それは象徴的演出、象徴的支えを提供し、したがって「現実界のなかの欠如」を処理/移転する方法を提供しているから。

言い換えれば、この問題においてラカンがフロイトを超えて行く点は、中心的あるいは根本的なものとしての去勢コンプレックスを追放することで成り立っているわけではない。そうでなく、卓子をひっくり返したのである。彼の主張は、不安の底には(甦った)去勢の恐怖あるいは脅威ではなく、去勢自体を喪失する恐怖あるいは脅威があるということである。すなわち、欠如の象徴的支え、去勢コンプレックスが提供する象徴的支えを喪失する恐怖・脅威である。

これが、ラカンの不安の定式「欠如が欠如する le manque vient à manquer」が最終的に意図しようとしていることである。不安のかなめは「去勢恐怖」にあるのではない。そうではなく、主体(そして彼女の欲望)が象徴的構造としての去勢のなかに持っている支えの喪失である。この支えの喪失は幽霊のような対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如が、絶対的な「過剰」として、象徴界のなかに現れる。それは、欲望の対象を追い払い、その場所に、欲望の原因(Ⱥとしての対象a)を出現させる幽霊のような対象の顕現である。(アレンカ・ジュパンチッチ、2005,REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE、PDF)
フロイトは1919年に『不気味なもの』を出版した。そこでは「親密な heimlich」ものと「不気味な unheimlich」ものが同じ意味をもつことを見出している。親密なものが、もしある危険のために隠しておかねばならないものを含んでいるなら、不安の原因になりうる、と。…

フロイトは去勢と「不気味なもの」とあいだの繋がりを、ホフマンの砂男の話を使って叙述する。この物語において、去勢が現れる独特なあり方は、実に注目に値する。それは目玉の喪失にかかわる。この喪失は、去勢の代理と想定され、したがって去勢自体と同じほど怖れられる。

フロイトはソフォクレスに言及する。そこにも彼は同じ代替を見出した。エディプスは母との禁じられた関係への懲罰として自分の目を刺し抉る。この古典的モデルを基にして、フロイトは一般化する、盲目になることは去勢されることの代理であり、盲目の怖れは去勢不安へと遡りうると。

この代替はーー仮に控え目に言ってさえーーかなり奇妙である。もし去勢コンプレックスの「不気味な」構成要素が母の性器、ペニスの欠如を見たという事実に戻りゆくのなら、そのとき両目を引き裂くのは、当面の最初の代理にはみえない。それどころか、盲目になることは、人が見たくないもの・見てはならないものを見てしまったことに対する「防衛」を思い起こさせる。

これは、我々が「不気味なもの」のフロイトの定式化を想起するとき、いっそう明瞭となる。不気味なもの、すなわち奇妙で危険な何ものかがそのなかに隠されている親密な何かである。数年前(別の論文で)、フロイトはこれをヒステリーの盲目に適用した。主体にとって「危険な」知覚内容は回避されなければならないと。

さらに我々は、エディプスにもこれを適用しる。彼は両目を何度も刺し貫く、「目はいかにせん、正視に堪えぬ。君の与える、げにそれほどの恐れおののき」「おお、光よ、おんみを目にするのも、もはやこれまで」。あまりに多く見てしまった男がもはや母を見ないように盲目になる。したがって、盲目になることは、見ることを禁じられたものに対する防衛である。(ヴェルハーゲ、1999、PAUL VERHAEGHE,DOES THE WOMAN EXIST? 1999,PDF

ジュパンチッチの文にあるラカンの引用、「欠如が欠如する le manque vient à manquer」については、「人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望」で引用した「不安が出現するのは、まさに主体が「陽画的positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》(Lacan,S.10)にもかかわる。

欠如とは本来、象徴的欠如であり、これもラカンによる「図書館」の話がわかりやすい。

ペニスの不在が「不在」として知覚されるためには,そもそもその不在の知覚以前にそれが「現前」しているものとして想定されているのでなければならない。つまり,原初的には「男性だけでなく女性も母親をフアルスを授けられたもの,つまり,いわゆるファリックマザーとして考えている 」 ( E686) のである。 それゆえ,母のペニスの不在が知覚されたとき,そこには象徴的なフアルスが発見されているのである。これは例えるなら,図書館のなかで一冊の本がなくなったとき,それは純粋に存在しないわけではなく「あるべき場所に欠けている」わけであって,「ない」という意味で「ある」という性質を持つという事態に似ている ( S4) 。これは象徴的対象だけに起こる事態であって,反対に現実的対象は常にあるべき場所にあり.欠如の可能性をもたない。象徴的なもの,つまりシニフイアンだけが「その場所に欠けることができる」 (E25)のだ。(松本卓也、2011ーーシナナイタメニ)

反対に「現実界には何も欠けていない」(S.10)、母のペニスの不在は象徴界からの遡及的なnachträglich 視点からのみ「不在」である。ラカン派にとって、このフロイトの用語「遡及性Nachträglichkeit」は、フロイト概念のうちで最も重要なもののひとつとされる(参照:結果は原因に先立つ)。

上のジュパンチッチの文に、《欠如がその象徴的、そして/あるいは想像的支えを失った瞬間、欠如は「単なる穴」になる》とあったが、ジャック=アラン・ミレールは、この象徴界の欠如/現実界の欠如を明晰に記述し、欠如/穴(ブラックホール)、すなわち、大他者のなかの欠如/穴=大他者の場の欠如としている(参照)。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)

いまだラカンの前期の主要概念「存在欠如」を人間の最も根源的なものとする立場を取り続けているラカン注釈者もいないではないが、それは遡及性概念をただしく把握していないことによるのではないだろうか。だが存在欠如とは言語の効果にすぎない。

言語の効果は遡及的である。まさにそれが展開すればする程、いっそう存在欠如としてあるものを顕す。

L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.(S.17)

コレット・ソレールは後期ラカンを、存在欠如manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。かつまたラカンはフロイトの無意識を晩年、parlêtre(語る存在、言存在と邦訳されている)と言い換えたが、その用語をめぐって次のように記している。

parlêtre用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009ーー人間の根源的な三つの次元:享楽・不安・欲望

ミレールなら次の通り。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

もちろんミレールにとっても享楽 jouissanceとは、「マイナス享楽(あるいは斜線を引かれた享楽)」である。

あなたがたが「父の名」の秩序化要素を導入するとき、リビドー・享楽・欲動のレヴェルにおける削減 subtraction がある。あなたがたがファルス用語で語るなら、完全な想像的ファルス(φ)とマイナスフィ(-φ)ーーこの意味は去勢であり、それは享楽の削減の代わりのフロイトの言葉である--がある。(Jacques-Alain Miller Ordinary Psychosis Revisited ,2008,PDF)


享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。

リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF


さて、ヴェルハーゲの注釈にもあったように、フロイトはソフォクレスの神話やホフマンの『砂男』解釈で、盲目になることと去勢とをほとんど同じものとして扱い人間の原初的な不安としているーーしかも最晩年の著作『終りある分析と終りなき分析』1937でさえ去勢コンプレクスを「岩盤」(分析の行き詰まり)としているが、それはいささか保留しながら読まなければならない。

もし岩盤なるものがあるならば、同じ『終りなき分析』に記されている「女性性」が岩盤である。

私は、「女性性の拒否」Ablehnung der Weiblichkeit は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

この 「女性性」とは実際は何なのかをめぐっては、「シナナイタメニ」にいくらか記したのでここでは触れない。ここでは去勢概念が二次的なものであるということを強調するのみにする。

上に、《不安の底には(甦った)去勢の恐怖あるいは脅威ではなく、去勢自体を喪失する恐怖あるいは脅威》であり、《欠如の象徴的支え、去勢コンプレックスが提供する象徴的支えを喪失する恐怖・脅威》(ジュパンチッチ)、あるいは《盲目になることは、見ることを禁じられたものに対する防衛》(ヴェルハーゲ)とあった。

ようするに、ラカン派内では、エディプスコンプレックスがフロイトの夢であったように(« complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD.)(ラカン、S.17)、去勢概念も原不安への防衛である、という見解が現在では主流の考え方になりつつある(参照:エディプス理論? ありゃ《まったく使いものにならないよ! C'est strictement inutilisable ! 》。

ーーエディプス、無意識の欲望の原理、それは70年代にとても賛否両論の議論があったのですが、いまも通用するのですか? それは新しい家族の配置に釣り合うのでしょうか?

コレット・ソレール)いいえ、フロイトが私たちに提供したエディプスはもはや通用しません。それは、ラカンが言ったように たんなる「hystoriole」です。言ってしまえば、精神分析の「ファミリーロマンス le roman familial 」だった。(基本版:現代ラカン派の考え方

というわけだが、これらの解釈を受け入れるならば、谷崎潤一郎の「盲目」についての叙述は、フロイトよりも「正しい」ことになる。

…………

◆第二盲目物語
その両眼を抉った時期は、はっきり語っていないけれども、多分三成の邸へ呼ばれて怠慢の咎めを蒙った時、即ち文禄三年の秋を去ること餘り遠くない同じ年の冬か、四年の春頃であったろう。拙著「春琴抄」の佐助は盲人になるために針を瞳孔に突き刺してよく目的を達したが、順慶は戦国の武士であるからもっと野蛮な荒療治を行った。
斯くて順慶は、見たところでは従来と何の変化もなく、一箇の藪原勾当として自らも振舞い、人からも遇されていた訳であり、その限りに於いて彼の計畫は豫期の成果を収めたのであったが、一方彼は必然に起って来るであろう自己の心中の推移について、大きな誤算をしたのであった。と云うのは、視覚さえ失ったら精神的の煩悶が減って、ほっと重荷をおろした感じがするであろうと思っていたのが、反対の結果になった。彼が失明した目的の一つは、「夫人を見ないため」であったが、少くとも此の点に於いてアテが外れた。見まいと心がけたものが、前よりもよく見える。その上、一層悪いことには、それを肉眼で見ていた間は、「見る」と云うことに良心の制裁が伴っていたのに、心の眼を以て見るようになってからは、何等の拘束がないのである。肉眼で見るのでない以上、舊主へ不忠にもならなければ、夫人へ失礼にもならない。誰に対しても気がねがない。いつでも、自由に、その映像を飽きるほど視つめていられる。盲人の真似をしつゝ、薄眼でおず〳〵と盗み視ていた時よりも、遥かに大きく、生き〳〵と見えるのであった。(『聞書抄 第二盲目物語』)

◆春琴抄
されば佐助は当夜枕元へ駈け付けた瞬間焼け爛れた顔をひと眼見たことは見たけれども正視するに堪えずしてとっさに面を背けたので燈明の灯の揺めく蔭に何か人間離れのした怪しい幻影を見たかのような印象が残っているに過ぎず、その後は常に繃帯の中から鼻の孔と口だけ出しているのを見たばかりであると云う思うに春琴が見られることを怖れたごとく佐助も見ることを怖れたのであった彼は病床へ近づくごとに努めて眼を閉じあるいは視線を外らすようにした故に春琴の相貌がいかなる程度に変化しつつあるかを実際に知らなかったしまた知る機会を自ら避けた。しかるに養生の効あって負傷も追い追い快方に赴いた頃一日病室に佐助がただ一人侍坐していると佐助お前はこの顔を見たであろうのと突如春琴が思い余ったように尋ねたいえいえ見てはならぬと仰っしゃってでござりますものを何でお言葉に違いましょうぞと答えるともう近いうちに傷が癒えたら繃帯を除けねばならぬしお医者様も来ぬようになる、そうしたら余人はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬと勝気な春琴も意地が挫けたかついぞないことに涙を流し繃帯の上からしきりに両眼を押し拭えば佐助も諳然として云うべき言葉なく共に嗚咽するばかりであったがようござります、必ずお顔を見ぬように致しますご安心なさりませと何事か期する所があるように云った。それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きているようになりいつ繃帯を取り除けても差支ない状態にまで治癒した時分ある朝早く佐助は女中部屋から下女の使う鏡台と縫針とを密かに持って来て寝床の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した針を刺したら眼が見えぬようになると云う智識があった訳ではないなるべく苦痛の少い手軽な方法で盲目になろうと思い試みに針をもって左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にずぶと二分ほど這入ったと思ったらたちまち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った出血も発熱もなかった痛みもほとんど感じなかったこれは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時にして両眼を潰したもっとも直後はまだぼんやりと物の形など見えていたのが十日ほどの間に完全に見えなくなったと云う。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。
お師匠様お師匠様私にはお師匠様のお変りなされたお姿は見えませぬ今も見えておりますのは三十年来眼の底に沁みついたあのなつかしいお顔ばかりでござりますなにとぞ今まで通りお心置きのうお側に使って下さりませ俄盲目の悲しさには立ち居も儘ならずご用を勤めますのにもたどたどしゅうござりましょうがせめて御身の周りのお世話だけは人手を借りとうござりませぬと、春琴の顔のありかと思われる仄白い円光の射して来る方へ盲いた眼を向けるとよくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、私は誰の恨みを受けてこのような目に遭うたのか知れぬがほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。あ、あり難うござりますそのお言葉を伺いました嬉しさは両眼を失うたぐらいには換えられませぬお師匠様や私を悲嘆に暮れさせ不仕合わせな目に遭わせようとした奴はどこの何者か存じませぬがお師匠様のお顔を変えて私を困らしてやると云うなら私はそれを見ないばかりでござります私さえ目しいになりましたらお師匠様のご災難は無かったのも同然、せっかくの悪企みも水の泡になり定めし其奴は案に相違していることでござりましょうほんに私は不仕合わせどころかこの上もなく仕合わせでござります卑怯な奴の裏を掻き鼻をあかしてやったかと思えば胸がすくようでござります佐助もう何も云やんなと盲人の師弟相擁して泣いた(『春琴抄』)

2016年9月6日火曜日

荷風という「純粋なフェティシスト」

以下、「人はみなフェティシストである」に引き続く。
…………

マルクスとフロイトの「フェティシズム Fetischismus」という用語の意味合いは異なる。

マルクスのフェティシズムの場合、モノではなく、形態 Form が強調される。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」ーー芸術作品とフェティシズム Fetischismus)

これは、マルクスが「貨幣のフェティシズム」から「商品のフェティシズム」へと遡行してフェティシズムを分析したことに大きくかかわる。

貨幣物神 Geldfetischs の謎は、ただ、商品物神 Warenfetischs の謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。(マルクス『資本論』)

貨幣物神とすれば、我々はすぐさま黄金物神を想起し、それは、モノというフェティッシュを崇めること「錯覚」してしまう。だが商品物神への遡行とは、ある関係構造の場に置かれることを分析したということにかかわり、それが(柄谷行人、岩井克人、あるいはジジェクによれば)マルクスの価値形態論の核心である(参照:柄谷参照:岩井参照:ジジェク)。

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(『資本論』)。ーー柄谷行人『トランスクリティーク』2001)

いわゆる中期柄谷行人なら次のように言う。

貨幣のフェティシズムは、守銭奴において、あるいは「黄金欲」において、典型的にあらわれる。しかし、マルクスが指摘したように、それは黄金という対象物に由来するのではなく、 黄金がたまたま(一般的)等価形態にあるということに由来する。守銭奴の貨幣フェティシ ズムは、黄金というもの(使用価値)に向けられた欲望から生じるのではなく、それが等価 形態にあり、したがって「直接的交換可能性」(交換価値)をもつがゆえに、その「可能性」 のみを蓄積しようとするところから生じている。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986,P.112)

他方、フロイトのフェティシズムとは、(一般に)フェティシュとしてのモノにかかわる。これは、われわれの通念上のフェティシズム、たとえば、足フェチ、靴フェチ、下着フェチ等々に合致する。

呪物 Fetisch とは、男児があると信じ、かつ断念しようとしない女性(母)の陰茎に対する代理物なのである。(…)

足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝 Fetischismus』旧訳 フロイト著作集)

ジジェク=ラカンは、このフロイトのフェティシズムの捉え方を、マルクスの「形態」に近づけて再解釈する。

《母のペニスの欠如は、ファルスの特性が現われる場所である[… ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus]》(Lacan,E.877)。われわれは、この指摘にあらゆる重要性を与えなければならない。それはまさにファルスの機能とその特性を識別するものである。

そしてここに、我々はフロイトの紛らわしい「ナイーヴな」フェティッシュ概念、すなわち主体が、女のペニスの欠如を見る前に見た最後の物としてのフェティッシュという考え方を更生(リハビリ)すべきである。フェティッシュが覆うものは、単純に女におけるペニスの欠如ではない(…)。そうではなく、この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実にある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

《この、現前/不在のまさに構造が、厳密に「構造主義者的」意味において、差延(ズレ)的であるという事実》という表現から、わたくしは、ロラン・バルトの「出現ー消滅 apparition-disparition」をめぐる叙述を思いおこさざるをえない。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

モノではなく、出現ー消滅の演出にどうしようもなく魅せられてしまうのが、真のフェティシストではないだろうか。




次のGIFは「純粋なフェティシスト」としてのわたくしには、いささか見えすぎるきらいがあるが、おおむね不純なフェティシストであるだろうみなさんのために掲げておこう。






ところで、現在のマルクス研究者のなかにも、通念としてのフェティシズム概念に囚われてか、「形態」ではなく「物象化」ーー使用価値等のモノ化--としていまだ捉えている場合も多いのかもしれない(すなわち彼らもいまだ不純なフェティシュ解釈にとどまっている)。

…我々は、標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品のフェティシズム」の題目を徹底的に再形式化するように強いられる。それは、後者が、確固とした対象としてのフェティッシュ、その安定した現前が社会的仲裁を煙に巻くものとしてのフェティッシュ概念に依拠しているかぎり、においてである。

逆説的に、フェティシズムは、フェティッシュ自体がまさに「脱物質化」されたときに、そのアクメ(絶頂)に達する。それは、流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在 entity に変換される。貨幣のフェティシズムとは、電子的形式への移行に伴って最高潮に達する。すなわち、貨幣の物質性の最後の痕跡が消滅するときである。(同ジジェク、2012)

とすればーージジェクのいうように、《流動的な「非物質的」ヴァーチャルな実在》が純粋なフェティッシュであるならばーー、いわゆる「足フェチ」の谷崎潤一郎よりも、「覗き趣味」の永井荷風のほうが、純粋なフェティシストであるということは言えないだろうか?

まず、谷崎という「不純な」フェティシストの文章を抜き出そう。

丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)
私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(『痴人の愛』)
春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)
盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(『瘋癲老人日記』)

以下は、荷風の覗き趣味の「噂」である。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」 (半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風
関根歌というそんなに美人さんじゃない芸者がいたんですが、荷風はこの関根歌を落籍せ、麹町に「幾代」という待合の店を持たせました

ここで素人客の部屋を覗き見することにしたのです
小さい柄のついた細長い鋸を買って、押入れの中で穴をあける作業に夢中
小さな穴が開くと、本気で大喜びし、夢中でのぞきました

でもって、「今のはあんまりよくなかった」とか、「あの方たちはいい。席料はまけてあげなさい」なんて言ったりしてました(のぞき癖
昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

これらは名高い話で荷風ファンなら当然知っているだろうが、なんと彼は戦後住まった市川の自宅まで覗きをしていたらしい。なんという至高のフェティシストよ!





…………

文脈の都合上、谷崎を不純なフェティシストとしてしまったが、もちろん異なった観点があるのを知らないわけではない。上にかかげた文だけを抜き出して足フェチに焦点を絞る見方は、たんなる通念としての谷崎のイメージの範囲を出ない。

『盲目物語』でも『春琴抄』でもべつだんとりたてて女性の乳房が登場するわけではない。だが、そこには、視力の喪失によってのみ可能となるような特異な官能性が漲っており、それは性交によるオルガスムスの擬似体験よりはむしろ、無意識的な幼児期における乳首と唇との至福の交合の不意の再現に近いものであるかに思われるのだ。谷崎の繰り出しつづける粘着的な言葉の流れに身を浸していると、人はあたかも羊水に全身を浸して暗闇を漂っているかのような印象さえ受ける。もはや遠近のパースペクティヴもなく、中心と周縁とを分かつヒエラルキーもない、パースペクティヴやヒエラルキーといった視覚的秩序によって組み立てられた世界像、つまり世界のイメージそのものが刻々と崩壊し、ワタシニ触レルナカレという命令が平然と無視されて、言葉と言葉との結びつきが肌の滑らかさや肉の柔らかさによってのみ可能となるような、イマジネール以前のイマジネールが展開してゆく。『春琴抄』の佐助は、晩年になってから「しばしば掌を伸べてお師匠様の足はちやうど此の手の上へ載る程であつたと云ひ、又我が頬を撫でながら踵の肉でさへ己の此処よりはすべすべして柔らかであつたと」語ったという。だがこれは、むしろ谷崎の言葉が言葉それ自身をめぐって呟いている感想なのではないか。

女体への谷崎の執着が、とりわけ足という部位に焦点を結ぶものであったことはよく知られている。若い女の柔らかな蹠をフェティッシュとして聖化しそれで顔を踏まれることの快楽を夢想してやまない谷崎的マゾヒズムが、文学的に昇華された倒錯的症例の一形態としてしばしば語られるわけだが、谷崎の織り上げてゆく言葉の物質的表情それ自体は、むしろ乳房と唇とのかすかな触れ合いがいつまでも引き延ばされてゆくといった印象をかたちづくっているように思う。盲目という特権的主題がそれをさらに誇張するのだが、瞳を失った者のイマジネールは、内面的な暗闇の中に引き籠もってゆく代わりに、肉と肉の物質的な接触へと向かってあくまで凶暴に開かれてゆくことになるのだ。乳首と唇のエクリチュール。……(松浦寿輝『官能の哲学』 「乳房が眼を閉じる」)

谷崎は盲目のエクリチュール、あるいは触覚の作家なのだ。この松浦寿輝の叙述する谷崎に「出現ー消滅 apparition-disparition」、「揺らめく閃光 un éclair qui flotte」(「揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉」)の作家谷崎潤一郎に思いを馳せないでどうしていられるというのだろう?

またすくなくとも谷崎のモノとしてのフェティッシュという「通説」の範囲にとどまってさえ、彼にとってのモノは、足から乳房へ、またその逆へ、と揺らめいているということは十分ありうる。たとえば「乳房」は随筆である『陰影礼賛』にさえあらわれる。

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味(ぬくみ)とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁(ふち)がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣(ふく)む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心特、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。
私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。 (谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)

この谷崎の側面は、「雪子のシミ」でも示したが、『細雪』とは、雪子の顔にあらわれる「出現ー消滅の演出」の物語としても読める。






2016年9月4日日曜日

雪子のシミ

一人の立派にハジ(聖地巡礼をすませた回教徒の尊称)。短い灰色のひげをよく手入れし、手も同様に手入れし、真っ白い上質のジェラバを優雅にまとって、白い牛乳を飲む。

しかし、どうだ。鳩の排泄物のように、汚れが、きたないかすかなしみがある。純白の頭巾に。(ロラン・バルト『偶景』)

《シミが現れるとともに、欲望の領野において、その背後に隠されたものの蘇生の可能性が準備される。Avec la tache apparaît, se prépare la possibilité de résurgence, dans le champ du désir, de ce qu'il y a derrière d'occulte》(ラカン、S.10)

ーーここでのシミとは対象a のことであり、外密(あなたのなかにあって最も親密なものでありながら外部にあるもの)のことである。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

ーー異物とはフロイト概念Fremdkörper が起源(参照)。

『細雪』とは、実は外密=異物の物語としても読める。

雪子の左の眼の縁、―――委しく云えば、上眼瞼の、眉毛の下のところに、ときどき微かな翳りのようなものが現れたり引っ込んだりするようになったのは、つい最近のことなので、貞之助などもそれに気が付いたのは三月か半年ぐらい前のことでしかない。
……結果、これは妙子の方がよい、幸子だと却って大層らしくもなり、当然貞之助までがその議に与っているように邪推される恐れもあるから、妙子が何気ない風をして軽く切り出したら、と云うことになった。で、その後又雪子の顔にシミが濃く現れていた或る日、彼女がひとり化粧部屋で鏡に向っている時に、偶然妙子がそこに居合せたようにして、

「雪姉ちゃん、その眼の縁のもん心配せんかてええねんで」と、小声で云ってみた。雪子はただ鼻で、「ふん」と云っただけであったが、妙子は努めて彼女と視線を合せないように下を向いたままで、「そのこと、婦人雑誌に出てたのん、雪姉ちゃん読んだやろか。まだやったら見せたげよか」「読んだかも知れん」「ふうん、読んだのん。―――それ、結婚したら直るもんやし、注射でも直るもんやねんて」「ふん」「知ってるのん、雪姉ちゃん」「ふん」(谷崎潤一郎『細雪』)

《私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.]》(ラカン、セミネール11)

雪子は結婚を間近にして、シミは消え去った。細雪の最後の文はこうだ、《下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまた続いていた》。もちろん糞便もラカンにとっては対象aである。

ラカン派の用語では、結婚は、対象(パートナー)から「彼(彼女)のなかにあって彼(彼女)自身以上のもの」、すなわち対象a(欲望の原因―対象)を消し去ることだ。結婚はパートナーをごくふつうの対象にしてしまう。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

ーーというわけで、ひさしぶりに青空文庫の大きな文字で、『細雪』上中下の上のみーーまだ入庫しているのは上のみーーを読んでみたけれど、たぶん中下を読んでもそういうことが言えるんじゃないか。


…………

《これらの長篇を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである》(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)




2016年5月20日金曜日

奴隷の韻律

これは万葉集の場合に限つたことではないが、凡そ歌――短歌といふものは、三十一文字のそれ自らの詩形から、私の見るところでは、主題として恋愛を取扱ふのに最も適してゐるやうに思はれる。この詩形にあつては、詩語がある音楽的な週期的な繰返しを以て、不思議に情緒に纏繞してくるやり方で、それの語意によつてよりもそれの語感の感触で、一篇のポエジイを成立たしめてゐるのである。詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる――といふのは、もとより何も短歌の場合に限つた事情ではないが、しかしまた短歌の場合ほど端的に、純粋に、しかも効果的に、右の事情を我々に感ぜしめる例は、わが国の詩歌にあつては、他に類例がないといつてもよいやうに思はれる。

短歌と並立して我国の最も普遍的な詩歌の伝統をなしてゐる俳諧に就て見ても、そこでは右の事情がやや趣を異にしてゐるのを、何人も容易に看取されることであらう。そこでは詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐるのは、何人の眼にも明かな事実であらう。さうしてここで序でに、俳諧――俳句に於ては恋愛が恰好な主題とはなり得ない、考へ方によつてはいささか奇妙な消息を併せて考察してみるならば、先に私が、短歌がそれの詩形から主題として恋愛を取扱ふのに適してゐるといつた意味も、半ばは明らかになることだらう。短歌のあの五七、五七と繰りかへして最後に更に七とつけ加へた、短小ながら確乎として音楽的形式を踏んだ、嫋嫋とした詩語の纏繞性は、他の如何なる主題を撰んだ場合よりも、恋愛を歌ふに適当してゐるといつても、必ずしも牽強の言ではあるまい。(三好達治『万葉集の恋歌に就て』)

このところ、いままでほとんどまともに読んだことがなかった万葉集をゆっくりと読んでいるのだが、短歌というのは、たしかに ≪詩歌に於ける詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる≫ので、剽窃がしやすい、ということがある(その巧拙は別にして)。

その逆に俳句というのは、剽窃がしにくい(すくなくともわたくしにとって)。それは三好達治のいうように、≪詩語の語意が、――それの明示性に依るよりもそれの暗示性に依るが故になほそれは詩的であるが――短歌に於てよりもずつと遥かに重要な機能を、負担を負はされてゐる≫せいなのだろう。

ところで、谷崎潤一郎が似たようなことを言っている。

それは、流麗な文(和文調)と簡潔な文(漢文調)――源氏物語派と非源氏物語派――に分けて文章の美を説く箇所で、谷崎潤一郎自身は流麗な調子を好み、《この調子の文章を書く人は、一語一語の印象が際立つことを嫌います》としている。他方、志賀直哉の文が一語一語が際立つ簡潔な名文の代表とされて、次のように書かれている。

他の蜂が皆巣に入つて仕舞つた日暮、冷たい瓦の上に一つ残つた死骸を見る事は淋しかつた。(志賀直哉「城の埼にて」)

とありますが、初心の者にはなかなかこうは引き締められない。

日が暮れると、他の蜂は皆巣に入って仕舞って、その死骸だけが冷たい瓦の上に一つ残って居たが、それを見ると淋しかった。

と云う風になりたがる。それを、もうこれ以上圧縮出来ないと云う所まで引き締めて、ようやく前のようなセンテンスになるのであります。(谷崎潤一郎『文章読本』)

たぶん、慣れ親しんでしまえば、流麗な文のほうが模倣しやすいのではないか、短歌がそうであるだろうように(すぐれた俳句や志賀直哉のような凝縮した文は、わたくしには真似することさえむずかしい)。

この≪詩語の機能が、語意によりも寧ろ語感に依存してゐる≫短歌形式をひどく嫌う書き手がいる。小野十三郎はかつて「奴隷の韻律」と言った。金井美恵子なら次のように言う。

短歌との巡りあわせが悪かったせいで、詩を書こうという欲望は持ったが、短歌を作ろうとも読もうとも、長いこと思わなかった。簡単にいえば、凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く(……)。形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれないのだが、短歌という、広大なすそ野に広がる無数の作者群を持つ詩的形式は、その、あまりにも親しいリズム(日本語のなかにすっかり喰い込んだ一種脅迫的韻律というべきだろうか)とともに、悪しき夢でもあるかのように、どうやら、私たちの耳にこびりついてしまうものらしいのだ。(金井美恵子「愛の歌」)

≪形式というものそのものが、あるいはグロテスクなものであるのかもしれない≫とある。さて、そうなのだろうか。ここで逆にこう引用しておこう、≪「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、"現実"や"意味"と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである。≫(柄谷行人)


そもそも金井美恵子の上の文は、≪凡庸な田舎歌人が身近な身内と親戚にいたので、最初から敬遠する気分が強く≫とあるように、近親憎悪の吐露いうふうに読みうるだろう。彼女のひどく魅惑的な文は、底に横たわる語感に依存しがちな「あまりにも親しいリズム」になんとか抵抗しつつ書かれた文章だ、とわたくしは感じてしまう。

なまあたたかい涙が頬をつたい、顎から首を濡らし、顔を横にそむけると、涙は眼尻から溢れて耳殻にそって流れ、やがて耳の穴のなかに入って、なまあたたかくむずがゆいような感触に身体が少し震える。それから、もうずっと昔のことのように思えるのだが、ある女が、好んで示したしぐさを、だしぬけに思い出す。女の全体をではなく――それはもう、すっかり忘れてしまっている――肉体の一部分だけの触覚と、その触覚を形づくっているしぐさだけを思い出しているという奇妙さに軽く戸惑いながら、しかし、耳たぶをやわらかく咬む歯と唇、尖った舌の先が耳殻のなかで動くたびになまあたたかく溢れる唾液とを、唐突に思い出す。いわば、耳を濡らす唾液にまつわる物語――わたしは彼女に会い、おそらくは恋をして、そして、別れる、いや、別れた――を忘れたままで(というか、思い出しもせず、あるいは、思い出すことが出来ずに)、あるしぐさだけが、触覚としてよみがえることの奇妙さに、わたしの唇は少し開かれて――いくうらか痴呆的に――思わず笑いを浮かべる。(金井美恵子『くずれる水』)

ここには五七調とはいえないまでもある心地よいリズム、あるいはすくなくとも語感に依存した文章の流れがあるといってよい。しかも彼女は敢えてやっているのはずだが、この短い文のなかに、「なまあたたかい」「なまあたたかく」「なまあたたかく」と三つがリズムをとっている。さらに「やわらかく」も「なまあたたかく」と同じ母音の構成だ(aaaa…u)。

そのエッセイでは辛辣な批判精神横溢の金井美恵子を引き合いに出したあとこのように言うのはなんだが、こういった流麗調の文体の作家や歌人とは、批評精神がなくても、場合によっては、人を惹きつける作品を書きうる。それは、少なくとも「ほどよくすぐれた」読み手をも魅了することがある。

「君」と「父」「母」、「弟」、「生徒」、そして「万智ちゃん」からなる、朝日新聞の「ひととき」欄のように、ほっと心なごむささやかな歌集をはじめて読んで驚いたのは、「万智ちゃん」であり「我」や「吾」や「私」とも表記される若い女性の、わが眼を疑うような媚び方だった。紋切り型に「父」と「母」が娘を心配し、陳腐そのものに、その「父」と「母」はふとしたはずみに「男」や「女」であることをかいま見せるのは、何もそれが短歌という土人の言葉によって韻律化されているからというわけではない。サラダの味を恋人に、この味がいいね、と言われて有頂天になり、「君」がケチャップ味が好きなことをメモに書きとめ手製のタマゴ・サンドが食べ残されるのを気に病み、「君」がアスパラガスが嫌いなことを発見して心を騒がせ、失恋することをおびえつつ、しかし失恋して「見る前に翔ばず何を見るのかもわからずけれどつるつる生きる」と考え、「我が膝に胎児の重み載せながら無頼派君が寝息をたてる」のを聴いている若い娘の世界は、短歌に詠まれる以前から、おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足とに韻律化されていることに、改めて愕然とさせられる。歌集に寄せられた、荒川洋治、高橋源一郎、小林恭二という三馬鹿青年たちのスイセンの言葉の、歌集そのものに輪をかけた退廃ぶりは、1988年の339版の裏表紙に、心得顔やしたり顔のスイセン者の方が名前を知られていない、という奇妙な事態をひきおこしたが、その程度のことで、この3人は反省ということをするとは思えない。(金井美恵子『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』)


ここでの話題からはずれるが、かつて浅田彰は、金井美恵子に「映画の趣味が悪い」とか「背が伸びなかったし(笑)」とかのたぐいをさんざん言われたせいか、次のように彼女を評している。

若くしてデビューした頃の彼女はきらめくような才能をもった作家で、少女小説をそのまま現代文学にしたような作品を書いていた。彼女がそのままのびのびと書き続けていたらどうなったかはわからない。問題は、彼女がインフェリオリティ・コンプレックスの塊で、精一杯虚勢を張ってすべてをバカにしてみせながら、実は、日本でいちばん賢くてセンスがいい(と田舎者には見える)おじさまに依存せずにはいられないということだった。

賢くてセンスがいいといえば、やっぱりフランス文学者、たとえば蓮實重彦。こうして彼女は、おじさまに褒めてもらいたい一心で、必死に勉強し、スタイルを変えていった。「こう書けば、蓮實さんなら、私がジャン・ルノワールを観ているってわかってくれるはず」。そしておじさまの反応が冷たいと、「いや、蓮實さんより私のほうがルノワールのことを本当に分かっているのよ」。もちろんルノワールの映画は素晴らしいが、ルノワール通であることを仄めかすために書かれた小説は絶望的に退屈で、自分も「通」であることを示したい貧乏な田舎者のグルーピーが喜んで読むだけだ。悲惨な話ではある。彼女は最近「噂の娘」という小説を出版したという噂だが、私はもはやそれを手にとってみようとさえ思わない。私はかつてジャーナリスト専門学校で講演したとき、阿部和重を含む聴衆に、「田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される人間』だ」と言ったことがある。噂のオールドミスの哀れな姿は、そんな人間の末路を赤裸々に示している。(浅田彰「噂のオールドミス」)

さて、最後に金井美恵子の浅田彰を引用しつつの短歌評を掲げておこう。

言うまでもないことだが、短歌というものは天皇を頂点とする文化のヒエラルキーにつらなる言葉によって形成される詩形で、浅田彰風に言うならば、さだめし、「土人の詩」ということにでもなろうか。 (金井美恵子「文学界」1989年7月号)

浅田彰風とはかくのごとし。

連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。(浅田彰「文学界」の1989年2月号)

ーーと引用して唐突に思い出したが、2015年8月30日の国会前大規模デモは、あれはひょっとして「土人のデモ」ではなかったのだろうか。

・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!( 辺見庸、 2015/09/15

松浦寿輝は、2012年に、高見順賞受賞者二人(2011年受賞者金時鐘、2012年受賞者辺見庸)を、「現代詩ムラの他者」と呼んでいる。

高橋睦郎も次のように評している。

辺見さんは詩人を信じていない。それは壮絶な孤独な深さから来るのではないか。真の詩は排除された者から生まれるが、詩人の多くは詩人ムラで打算的に傷をなめ合っている。大切なのは詩であって、自分の名誉のために詩を使う詩人ではない。今日は貴重な反省の機会をありがとうございました。



2016年5月7日土曜日

おれとしては言い張るほかない! 女に

滝は十八位だつた。色は少し黒い方だが、可愛い顔だと彼は思つて居た。それよりも彼は滝の声音の色を愛した。それは女としては太いが丸味のある柔かいいゝ感じがした。 (志賀直哉『好人物の夫婦』)

家政婦が三週間ほど前から若い女に変わった。家政婦といっても、朝三時間ほど来て庭仕事をするのが中心だが。その仕事のかわりに、一週間毎のいくらかの賃金とは別に、妻が亡母から引き継いだアパートの家賃を無料にしている。田舎から出てきた色の黒い娘で、夕方には屋台でお好み焼きを作って生計を立てている。

彼は滝を嫌ひではなかつた。それは細君の留守中の事ではあつたが、例へば狭い廊下で偶然出合頭に滝と衝突しかゝる事がある。而して両方で一寸まごついて、危く身をかわし、漸くすり抜けて行き過ぎるやうな場合がある。左ういふ時彼は胸でドキドキと血の動くのを感ずる事があつた。それは不思議な悩ましい快感であつた。それが彼の胸を通り抜けて行く時、彼は興奮に似た何ものかで自分の顔の赤くなるのを感じた。それは或るとつさに来た。彼にはそれを道義的に批判する余裕はなかつた。それ程不意に来て不意に通り抜けて行く。

以前働いていた中年の女性は里に帰ったという。わたくしはもう戻ってこないのかを訊くことはしていない。また今の若い娘が一時的な代替なのかそれとも続けて働くのかを敢えて訊くことをしていない。

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」 ( 德田秋聲 『爛』)

庭仕事に 汗ばむ少女の 
肢の間を 洩れ出る匂 
鄙びたる 恥丘の憶ひ  
手にて宥む 泥鰌の踊り 

小姑の  睨みはみえず 
空は今日  玉虫色らし 
血の動く  わが心を 
諫めする なにものもなし

乙女の香に  朝は悩まし 
うしなひし さまざまのゆめ 
森竝は 露に濡れそぼつか

ひろごりて  たひらかな腹 
土手づたひ  森林のへりを越え 
火口へと  突き進む  わが指先


わたくし、ほんとうはそんなことよりも、せなかのうえにぐったりともたれていらっしゃるおちゃちゃどのゝおんいしきへ両手をまわしてしっかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあいがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらっしゃいますので、なんともふしぎななつかしいこゝちがいたしたのでござります。まごまごしていれば焼け死ぬというかきゅうの場合でござりますのに、どうしてそのようなかんがえをおこしましたやら、まことに人はひょんなときにひょんなりょうけんになりますもので、申すもおはずかしい、もったいないことながら、あゝ、そうだった、自分がおしろへ御奉公にあがってはじめておりょうじを仰せつかったころには、お手でもおみあしでも、とんと此のとおりに張りきっていらしったが、なんぼうおうつくしいおくがたでもやはり知らぬまにおとしをめしていらしったのだと、ふっとそうきがつきましたら、たのしかったおだにの時分のおもいでが糸をくるようにあとからあとから浮かんでまいるのでござりました。いや、そればかりか、お茶々どのゝやさしい重みを背中にかんじておりますと、なんだか自分までが十年まえの若さにもどったようにおもわれまして、あさましいことではござりますけれども、このおひいさまにおつかえ申すことが出来たら、おくがたのおそばにいるのもおなじではないかと、にわかに此の世にみれんがわいて来たのでござります。 (谷崎潤一郎『盲目物語』)

…………

《おれの年齢で、またきみも幾らかは知っているおれの来し方でさ、ほんの小娘から「性の世界」について、新しい体験を ……新しい知識とすらいっていいものを、あたえられた。そう聞けば、きみは複雑な表情をするのじゃないだろうか? いじましい倒錯などとは無関係だぜ。アッケラカンと健康な、「性の世界」なんだ。そしていまいったことを自分が体験してるんだ、とおれとしては言い張るほかない!

まず、というより、徹頭徹尾、キスなんだ。キスをする。はじめのうちおれは思ったんだ、この娘は子供がお母さんにするほどのキスしかしたことがないのじゃないか、と ……そのようなキスの仕方、返し方。ところが、それが急速に進歩したんだよ。半日、キスだけしてるんだから、当然かも知れない。しかし生まれつき熱心なキスの習得者、また創り出す人でね。唇のあらゆる部分で、舌のすべての使い方で、さらに口の全体で。変化と繰り返し、そして新しい発見。歯の効用。そのうちこちらまで、かつてなく熱心なキスの習得者になっていた。創り出す人にもなっていたんだ。名にし負う性の古強者のおれがさ。一時間、二時間、キスだけで、頭も身体全体も欲望に熱くなっている。きみの言い方でなら、自分の性が久しぶりに「活性化」している! 娘の、半ば開いた唇の左端に指を入れる。唾に濡れて輝やく歯が、指を噛む。その間にも、唇の右端からキスしている。こちらも唇を半ば開いて、舌を動かして。ところが急に頭をのけぞらせてね、運動していたように紅潮した顔で、娘がいう。笑いながら……

――これはダメ、色気がありすぎる!

娘は色気という日本語を知っていたものの、使うのはおそらく初めてなんだ。おれはそう思ったよ。しかしその使用法の、誤まりもふくんで表わすものの切実さ! シックじゃないか? 粋で、寛大で、男らしくさえあって ……六隅さんが定義された chic 本来の意味どおりさ。》
 《キスしながら、膝にまたがっている娘のパンタロンの下に両掌を差し入れて、腰から尻を撫でさすっている。余分の脂肪はないすべすべして小さな尻、清らかさと、結晶体のようなエロティシズム。そのうち右手が平らな腹へと滑り込む。幾日もかけて、指は腹から下腹へと前進する。陰毛の上のへりに、指がさわる。とくに憤慨しない。それからは、陰毛のへりにふれることがルーティンになる。いったん克ちとった陣地は、奪い返されないから。しかし、さらに下方へ進む指は決して許されない。こちらを傷つけぬ、明快な優しさの拒否。地形を推量するように、範囲が確定されている。》
《抱きあって、ソファに横になる。パンタロンの下に潜り込んだ手が、パンティにそってというより、視覚的なイメージとしてハイレッグスの水着のへりを辿るように、骨盤の下辺から腿の付け根へと降りてゆく。ついに性器にふれてしまえば、決然と拒まれるだろう。やりなおしはできなくなるかも知れない。注意深く、錘りが腿の外側へ指をつねに方向づけているように。しかもその指のゆっくりした進展に切実なエロティシズムをあじわいながら。性的なオスの能動性は、ただキスのみに、またスボンごしに娘の腿にふれているペニスのたかぶりにのみ生きている。いつまでも、そのままキスしている。》
《娘の十八歳の誕生日に、祝いの夕食の席のために、クリーム色の柔かなワンピースを贈った日 ――ベルリンの百貨店の質実さ、妥当な品物を選ばせようとする献身 ――まだそれを着たままの娘は、グラス半分のソーテルヌにほろ酔いで、キスに熱中している。ソファの上で、服が皺だらけになるのもかまわず。腿の付け根にそって辿ってゆく指が、下着のへりの進路からいつか迷ってしまう。激しく下肢をこすりつけあっていた間に、娘のおシャレした薄い下着がよじれたのだろう。ためらいながら、すでに許されているコースに戻ろうとして、人さし指の腹が、ぼってりと厚みのあるところに乗る。その皮膚の端が濡れているのを感じる。指の腹は陰毛のへりでさわっていた柔毛とは別の、たくましく縮れた太い毛を押さえる。娘は断乎腹をよじって、指のみならず掌全体を、腿の外へと追いやる。

――規則を、約束を破ってはいけない、と勇気にみちた声がいう。いま娘の性器は濡れて、外縁に溢れてさえいたと、発見の喜びが鼓動になって搏つ。キスだけのエロスが、強靭な、全身的なものに変っている。》
《キスをするだけのことが、なぜこれだけ豊かで、複雑で、自分としては使いたくない言葉だけれど、奥が深いと感じられるんだろう? そのように独り言めいたことをいうおれに、娘は答えた。キスだけで、のぼりつけられるまでゆこうとしているから! よく考えぬいておいたことのように彼女はいう。いつか私がキスを途中でやめて、これは色気がありすぎる、といったでしょう? あなたは、日本語の使用法に問題がある、と教育してくれた。けれども私は「ある一線」に達しそうになったから、照れてああいったんです。ひとりだけ、そんな気持になっている、と思って。あの後であなたが、このようにしているとイッテしまいそうだ、といったわね。私は嬉しくて、イッチャエ! と叫んだのよ。

それから娘は、話しの逸脱をもとに戻そうとして、真剣にこういったのだ。あなたとセックスはできないと知っているから、キスがどこまでものぼりつめてゆくんです。》
《帰国がせまった日、一度だけ、パンタロンを脱ごうという合意ができる。ベッドに横になってのことで、はずみにパンティも剥ぎとられた。性器は見ないが、臍のまわりの、丸く薄い餅(ピン)のような脂肪と、やはり真丸な陰毛が見える。身体を重ねあわせてをみよう、窮屈そうだから太いものをーー今日はとくにフトいーー腿の間にいれてもいい、と娘はいう。経験がある者のように(あるいは経験がないゆえにか)娘は膝を高くかかげさえしたが、ペニスは挿入されない。娘の掌に射精することを許されたが、彼女の言葉を使うならそれはセックス以上だが、セックスではなかった。これまでで最高に気持がいいのに、イカなかった、と後から娘はいっていた。そのすべてをふくめて、思いだすと生涯で一、二のエロティックな経験だった。》
ーー大江健三郎『取り替え子』より