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2014年12月7日日曜日

ファシズム、ケインズ主義の回帰

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)
われわれは忘れるべきではない、二十世紀の最初の半分は“代替する近代”概念に完全にフィットする二つの大きなプロジェクトにより刻印されれていたことを。すなわちファシズムとコミュニズムである。ファシズムの基本的な考え方は、標準的なアングロサクソンの自由主義-資本家への代替を提供する近代の考え方ではなかったであろうか。そしてそれは、“偶発的な”ユダヤ-個人主義-利益追求の歪みを取り除くことによって資本家の近代の核心を救うものだったのでは? そして1920 年代後半から三十年代にかけての、急速なソ連邦の工業化もまた西洋の資本家ヴァージョンとは異なった近代化の試みではなかっただろうか。(ジジェク『LESS THAN NOTHIN』2012 私訳)

ーーとあるように世界資本主義が危機に陥ったとき、ファシズム、コミュニズム、そしてケインズ主義がかつて起こった。

ここで、現在、西欧の先進諸国や日本でネオナチが猖獗しつつあるのは、ひょっとして世界資本主義の危機のせいではないか、と問いを発してみることもできる。そして黒田日銀の異次元金融緩和などのアベノミクスは復活したケインズ主義ではないか、と。

「どのような利子率であれ、それが永続きしそうだと十分に強い確信をもって受け入れられるならば、現に永続きする」のである。

 ケインズの洞察によれば、人々の生活態度には確固とした知識の裏付けなどない。「大衆が利子率の緩やかな変化に対してかなり急速に馴染んでいくことはあり得る」。そう考えれば、「少しは気も楽になろう」と言い切っている。

 『一般理論』は不況と失業という難病に取り組むための、知的な実験だった。黒田日銀の異次元緩和はデフレという難病の解消を目指すものだ。両者の発想と行動が似ていたとしても不思議はない。知の武器庫を活用するときだ。(大機小機)ケインズの洞察と黒田日銀 2013/5/29)

このように思いのほか、われわれの社会に起こる現象は、「経済」の影響の下にある。そして世界資本主義の危機などといわないまでも、日本の財政はとんでもない「危険水域」に突入しつつあることは間違いない。

「白川方明前日銀総裁が以前の講演で、財政悪化したときの回復方法について言及していた。増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかないという。調整インフレやデフォルトを避けようとすれば、財政再建の道筋しかないのだが、働いても給与の手取りが増えず、社会保障サービスも低下するというきつい状態だ。こうなると人やマネーは日本から出て行ってしまうのではないか」(インタビュー:「危ない橋」渡る日銀、円の信認喪失も=上野泰也氏 | Reuters)

白川方明前日銀総裁の見解として、《増税と歳出削減による財政再建か、調整インフレ、デフォルトの3つしかない》とある。

これはジャック・アタリの『国家債務危機』の変奏としてよいだろう。アタリは、国家債務の解決策は8つ存在するとしている、《増税、歳出削減、経済成長、低金利、インフレ、戦争、外資導入、デフォルト》。

8つのうちの選択肢のなかに「戦争」とある。安倍政権の戦争への傾斜とも見られるものが、資本主義の危機のせいだとは断言しまい。だが次のように引用することはできる。

最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人[反原発デモが日本を変える])
……基軸商品の交替という観点から見ると、この次に、今までのようなヘゲモニー国家が生まれることはありそうもない。それよりも、資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(柄谷行人「第四回長池講義 要綱 歴史と反復」
「現在は平時か。僕は戦時だと思っています。あなたが平時だと思うなら、反論してください。でないと議論はかみあわない」

安倍晋三政権が集団的自衛権の行使に向け、憲法解釈を変えようとしている。なりふりかまわぬ手法をどう見るか、そう尋ねた後だった。

 「十年一日のようにマスメディアも同じような記事を書いている。大した危機意識はないはずですよ。見ている限りね」(【時流自流】作家・辺見庸さん ファシズムの国2013.09.08

 ジャック・アタリに戻れば、彼の『国家債務危機』の「第5 債務危機の歴史から学ぶ12の教訓」には次のようにある。

1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである
2 公的債務は、経済成長に役立つことも、鈍化させることもある
3 市場は、主権者が公的債務のために発展させた金融手段を用いて、主権者に襲いかかる
4 貯蓄投資バランスと財政収支・貿易サービス収支は、密接に結びついている
5 主権者が、税収の伸び率よりも支出を増加させる傾向を是正しないかぎり、主権債務の増加は不可避となる
6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る
7 債権者が債務者を支援しないと、債務者は債権者を支援しない
8 公的債務危機が切迫すると、政府は救いがたい楽観主義者となり、切り抜けることは可能だと考える
9 主権債務危機が勃発するのは、杓子定規な債務比率を超えた時よりも、市場の信頼が失われる時である
10 主権債務の解消には八つもの戦略があるが、常に採用される戦略はインフレである
11 過剰債務に陥った国のほとんどは、最終的にデフォルトする
12 責任感ある主権者であれば、経常費を借入によってまかなってはならない。また投資は、自らの返済能力の範囲に制限しなければならない

ここでしばしば議論に上がる《6 国内貯蓄によってまかなわれている公的債務であれば、耐え得る》については、小黒一正氏の2010916日に書かれた記事「「政府の借金は内国債だから問題ない」は本当か?」に簡明な分析がある。そして最後にこう書かれることになる。

国債発行は世代間格差を引き起こし、将来世代に過重な負担を押し付ける。したがって、「政府の借金の多くは内国債だから問題がない」というのは、間違いである。

すなわち、ジャック・アタリの《1 公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》に関わってくる。池尾和人氏も、2011年の段階で次のように発言している。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

 われわれがこの数十年来ーー超少子高齢化社会になることが周知になったあともーー、《負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきた》ということになる。


「正しい心を抱いて邪な行為をする」(シェイクスピア=ジジェク)

2008年リーマンショックの米国議会の対応をめぐって、ジジェクは次ぎのように書いている。

緊急援助に反対する共和党のポピュリストが正しい理由から誤ったことthe wrong thing for the right reasonsをしている一方で、緊急援助 の発案者は誤った理由から正しいことthe right thing for the wrong reasonsをしているのだ。もっと凝った用語を使えば、これは非推移的なnon-transitiveな関係なのである。すなわちウォールストリートに善いことは一般の人びとに善い必要はないが、一般の人びとは、ウォールストリートが病気になったら、栄えることはできない。そしてこの非対称性はアプリオリにウォールストリートを有利な立場に置く。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

ここにある「正しい理由から誤ったことをする/誤った理由から正しいことをする」は、シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』における「邪な心を抱いて正しい行為をする/正しい心を抱いて邪な行為をする」のヴァリエーションだろう。

……シェイクスピアは『終わりよければすべてよし』において、真理と嘘の絡み合いに対する驚くべき洞察力を見せている。バートラム伯爵は王の命令で、平民の医者の娘へレナと結婚しなければならなくなるが、同居も床入りも拒み、「先祖代々伝わる指輪を私の指から奪い、私の子どもを宿したら」、彼女の夫になってもよい、と告げる。きっとそれは無理だろう、とバートラムは考えたのである。一方でバートラムは、若くて美しい娘ダイアナを誘惑しようとしている。ヘレナとダイアナはひそかに、バートラムを正式な妻のもとに帰するための策略を練る。ダイアナはバートラムと一夜をともにする約束をし、夜中に自分の寝室に来るようにと告げる。暗闇で、二人は指輪を交換し、愛を交わす。しかし、バートラムは知らなかったのだが、彼が一夜をともにした女性はダイアナではなく妻のヘレナだった。後にヘレナと対面したバートラムは、彼女が結婚の条件を二つとも満たしたことを認めざるをえない。ヘレナは彼の指輪を手に入れ、彼の子どもを宿したのだ。では、この寝室のトリックをどう位置づけたらいいのだろうか。第三幕の最後に、ヘレナ自身が素晴らしい定義を与えている。

今宵、計画通りにやってみましょう。うまくいけば、
先方は邪な心を抱いて正しい行為をするわけだし、
こちらは正しい心を抱いて邪な行為をするわけでしょ。
どちらも罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない。
とにかく、やってみましょう。〔第三幕第七場〕

Why then to-night
Let us assay our plot; which, if it speed,
Is wicked meaning in a lawful deed
And lawful meaning in a wicked act,
Where both not sin, and yet a sinful fact:
But let’s about it.

ここにあるのは、実際には「邪な心による正しい行為」(結婚の成就、すなわち夫が妻と寝ること以上に正しいことがあろうか。だがそれにもかかわらず、バートラムはダイアナと寝ていると思っているのだから、心は邪だ)と、「正しい心による邪な行為」(夫が寝るのだから、ヘレナの意図は正しい。だが彼女は夫を騙し、そのために夫は妻を裏切るつもりで彼女をベッドに連れ込むのだから、その行為は邪だ)である。彼らの情事は「罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない」。実際には夫と妻が寝るだけのことだから、罪ではない。だが、双方とも相手を騙しているのだから、罪深い行為である。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)

冒頭の文のあと、ジジェクはトリクルダウンをめぐって書いている。

思い出してみよう、平等主義者の再分配(高度な累進課税制など)に反対する標準的なトリクルダウンtrickle-downの議論を。……この態度は、単にアンチ干渉主義者のものであるどころか、実のところ、経済の国家干渉のまさに正確な把握をあらわしている。われわれは皆、貧しい者がより豊かになって欲しいにもかかわらず、彼らを直接に助けるのは逆効果なのである。というのは、彼らは、社会において精力的で生産的な構成分子ではないから。唯一必要な干渉の種類は、金持ちがより裕福になることを手助けすることである。そうすれば利益は自動的に、貧しい者たちのあいだに広がっていく……(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

ここでのジジェクの論理によれば、トリクルダウン反対者は、「正しい心を抱いて邪な行為」を主張していることになる。すなわち弱者、あるいは一般的な人びとの救済は正しい心である。だが、彼らは「社会において精力的で生産的な構成分子」ではない。とすれば効率的な資金分配の方法ではなく、結果として経済成長を減退させ、弱者を一層苦しめることになる(邪な行為となる)。

この論理(トリクルダウンの論理)によれば、これが正真正銘の繁栄を生み出す唯一の方法なのである。さもなければ、国家が支給する資金はただ、真の富の創造者を犠牲にして困窮者に与えられる事例となる。したがって、財政投機から、現実の人びとの必要性を満足させる製造業の“真の経済”への復帰の必要性を伝道するものは、資本主義の肝心の的を外している。自己推進的なそして自己増殖的な金融の循環のみが、資本主義のリアルな特質なのであり、生産の現実が資本主義の本質ではないのだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

ジジェクは、このように書きつつ、資本主義のシステムは、富者擁護が避けがたく、だから新しいコミュニズムを考えなければならないという論理が展開されていくのだが、ここではそれには多く触れることはしない。

ポピュリストのスローガン、“メインストリート(一般の人びと)を救え、ウォールストリートではなく!”は……まったく本質を捉えていない。それは最も純粋なレベルのイデオロギーの形式である。それは見過している事実は、メインストリートを資本主義の下に維持しているのはウォールストリートであるということだ!  ウォールを取り崩してみよ、メインストリートはパニックとインフレで溢れかえるだろう。ギ・ソルマン、――現代の資本主義の典型的なイデオロギストの一人――が次ぎのように主張するとき実に正しいのである。「“ヴァーチャル経済”と、“真のreal経済”を区別する理論的根拠はない。最初に資金を調達することをしないでは、どんな“真real”も生み出されない……金融危機のときでさえ、あたらしい金融市場の世界的な(福祉)利益は、その費用を上回る。」(同上)

もっとも、トリクルダウンについては、貧富の差が極端な米国、あるいは企業の内部留保が多額でかつ企業家精神を失った日本のような国では、そのメカニズムは働かないという見解もあるだろう。

トリクルダウン(trickle down)は浸透を意味する英語。トリクルダウン理論とは「富裕者がさらに富裕になると、経済活動が活発化することで低所得の貧困者にも富が浸透し、利益が再分配される」と主張する経済理論。

この理論は開発途上国が経済発展する過程では効果があっても、先進国では中間層を中心とした一般大衆の消費による経済市場規模が大きいので、経済成長にはさほど有効ではなく、むしろ社会格差の拡大を招くだけという批判的見方もある。(野村證券「証券用語解説集」
結局、いわゆる晩期資本主義では、過剰なマネーからバブルが生まれてははじける、その繰り返しになっちゃうんだよね。古典的には、実需に見合った生産拡大があって、雇用が増加し賃金が上がる、その循環で景気が回復するはずだった。ところがいまは、バブルの儲けが上から下にしたたり落ちる(トリクルダウン)のを期待するばかり。当然ながら、それは空しい期待なんだよ。(浅田彰 憂国呆談

だが、現在日本で議論されているのは、ほとんど彌縫策ばかりであるというのは間違いない。

……資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム『倫理21』と『可能なるコミュニズム』2000.11.27)

また消費税反対というのは、「正しい心を抱いて邪な行為をする」ーー弱者擁護の立場を取りつつ、それは財政赤字をいっそう促進し、将来的には弱者をいっそう苦しめる(財政破綻によって)でないかどうかは念入りに疑ったほうがよい。

次ぎの記事はそのことの懸念が要領を得てまとめてある。

消費増税延期と財政(中) 党利党略優先、再建遅れも 国枝繁樹 一橋大学准教授 :日本経済新聞2014/12/5
いくらか抜きだしておこう。

 米ハーバード大学のアルベルト・アレシナ教授らは「消耗戦モデル」によって改革の遅れを説明した。各政党は現状のままでは危機を迎えることを理解しながら、支持者の負担増を伴う改革を自ら打ち出せば政党として大きな打撃を受けるため、お互いに我慢比べをする。危機が深刻化し改革先送りのコストが非常に高くなって、やっと改革が実現するというものである。
……既に首相は増税先送りを決め、衆院を解散した。今後、財政の信認維持にはどうすべきか。第一に再設定した消費増税を二度と先送りしないことである。いわゆる景気条項を付さないとした決定は正しいと考えられる。

 第二に、与党税制協議会は17年度からの軽減税率導入を目指すとしたが、導入には多くの経済学者が反対している。低所得者対策は高額所得者にも恩恵が及ぶ軽減税率よりも直接の低所得者支援のほうが有効である。複数の税率により事務的にも煩雑になり業界の利害による政治介入の余地も大きくなる。課税ベースの縮小で税収確保には、より高い税率が必要になる。

 第三に、10%に消費税率を引き上げても、基礎的収支の赤字は解消しない。首相は来年夏までに黒字実現への具体的計画を策定するとしたが、楽観的な経済見通しや内閣府の研究会で既に否定された過大な税収弾性値に基づく甘い計画では信頼されない。

 現実には今回の増税先送りの結果、より迅速な再増税や歳出削減が必要になってくる。信認確保には、慎重な見通しを前提とし、10%を超える税率引き上げのスケジュールや将来の公的年金の支給開始年齢の引き上げを含む大胆な社会保障改革を明示した財政再建計画が不可欠である。

 楽観的な見通しの弊害を防ぐため、他の先進国では政治から独立して専門家が財政見通しを立てる独立機関の設置例が増えている。我が国でも同様の機関の設置を検討すべきである。世代会計に基づき将来世代の負担を示すことも重要である。なお、慎重な前提を置くことは経済成長の重要性を否定するものではない。積極的に成長戦略を推進する一方で、その成果を過大視しないということである。

 財政危機のリスクは高血圧のリスクに似ている。普段は自覚症状はないが、脳卒中その他の死につながる病の確率を高める。医師は即時の高血圧の治療開始を強く勧めるが、自覚症状がないからと治療を先送りする患者もいる。しかし、脳卒中で倒れてから後悔しても、もう遅い。財政再建も同様である。財政の信認が失われないよう、慎重な経済見通しに基づいた確実な財政再建計画を早急に提示することが強く求められる。

〈ポイント〉 ○延期で財政安定に一段の収支改善が必要 ○目先の痛み避ける政策運営が復活の恐れ ○税率10%超の日程や大胆な社保改革示せ


上の文にある《税収弾性値に基づく甘い計画》は消費税反対論者によって、しばしば提出される。

「増税や歳出削減に反対する人たちが、根拠を探して高い税収弾性値を持ち出す」(大和総研 鈴木準主席研究員
小黒一正 @DeficitGamble

最近、某氏に「長期の税収弾性値=1」である説明を簡単にしたが、意味が分からなかったらしい。資産課税等を除き、長期で税収弾性値が1よりも大きければ、時間が十分経過すると、税収はGDPを超えるのですが。

2014年12月6日土曜日

飛行機と猫と劇薬

小黒一正という比較的若い経済学者ーー1974年生まれで財務省出身ーーは、たぶん反リフレ派・反アベノミクスで、たとえばこんなことを言っている。

小黒一正 ‏@DeficitGamble

学生時代、「原爆落とされた日本は何でこんな勝ち目のない戦争を決断したんだろう」と思いましたが、戦前も無謀な戦争に突入するのを止めるのは難しかったんだろうな。財政の現状を見ると、本当にそう思います。
小黒一正 ‏@DeficitGamble

【歴史的文書】「(物価上昇の)しかも見通しも下がっている時に、放置できるということがあり得るのだろうか、私は金融政策運営者としてそれはできないというのが最大の理由です。それはマネタイゼーションへの懸念を越えて重要な問題だと思います」http://goo.gl/FE72DB

ーーこのように白井さゆり日銀審議委員の発言(2014.11.26)から、無謀な戦争への突入を読みと取っているわけだ。すなわちデフレマインド払拭という敵との熾烈な黒田日銀の闘い(マネタイゼーションへの懸念を越えても物価上昇2%の確約を死守しようとする態度)は、あまりにも無謀だと。

小黒氏は、オレがかつては「盲信」していた岩井克人にイチャモンつけたり、池田ノピーとつるんだりしているので、ちょっと気に入らないところがあるのだが、まあ許してやろう、世代間格差の改善を目指す「ワカモノ・マニフェスト策定委員会」のおそらく創立時からのメンバーでもあるようだし。

◆「ワカモノ・マニフェストYouth Policy 2009ー世代間格差の克服と持続可能な社会を目指してー」より


これは2012年の経済社会綜合研究所による「社会保障を通じた世代別の受益と負担」にも次ぎのような図表がある。


さて小黒氏の岩井克人へのイチャモンの話に戻ろう。

‏@DeficitGamble問題の本質は金融政策の出口戦略(http://goo.gl/LeC9Fq )で、「経済学は人間の心理の変化が経済活動にどのくらい影響を及ぼすのか解明しきれていない」→「期待は経済の本質」岩井克人・国際基督教大客員教授:日本経済新聞 http://s.nikkei.com/ZN3AkJ

で、岩井克人は、「出口戦略」についてどう考えてんだろう? まだまだ大丈夫っていう感じのようなこと言ってんだけど、ダイジョウブなんだろうか、岩井さんよ。

《今の状況では、物価が本当に2%に近づくと(出口戦略を検討すべきだが無理であるため)日銀はにっちもさっちもいかなくなる。英語で言う『catch 22』(動きの取れないジレンマを示す)という状況だ》(インタビュー:基礎的財政収支黒字は反故に=富士通総研・早川英男(元日銀理事) 2014年 11月 27日)などとあるが。

黒田さんはこんな具合だ。

黒田東彦日銀総裁は、12日午後の衆院財務金融委員会で「追加金融緩和で『出口』が困難になるとは考えていない」と述べ、2%物価目標を達成した後に金融政策を正常化する「出口戦略」の過程で金融市場が混乱しかねないとの見方を否定した。  財政健全化については「持続可能な財政構造を確立する取り組みを着実に進めるよう(政府に)期待している」と述べた。いずれも武正公一氏(民主)への答弁。(「出口」困難にならず=追加緩和で-黒田日銀総裁 2014/11/12
出口戦略を議論するのは時期尚早。 出口議論は当然内部でやっているが外で話すのは適当でない。(黒田日銀総裁 出口戦略は当然内部でやっている :2014/10/28 )

まあもともと「失われた20年」をなんとかしようというので、アベノミクスーー名前が悪いがねーーの博打を始めたはずだから(デフレを脱却できないのは白川日銀がもたもたしていたからだという具合で)、あのままだと「失われた40年」になりかねなかったわけで、いまさら博打をやめようってのは、どうなんだろう? やれるとこまでやったらいいじゃん。資金は国民や企業の貯蓄でそれなりに潤沢にあるのだし。彼らがマジメすぎて博打やらないタイプだから、日銀がかわりにやってんだよ。日銀のボスからギャンブラーが出るなんて、いままでの日本では考えられなかったじゃん。

アベノミクスが失敗したらそうそうに財政破綻して、老人がたくさん死んで、起死回生の日本復活になるかもしれないしな。これはオレが言ってるのじゃなくて、エライ先生が言ってんだからな→ 「高齢化社会対策の劇薬

・意外に悪影響の少ない劇薬?
・日本への教訓 – ハイパーインフレ恐るるに足らず?
・むしろ究極の財政再建策として検討すべき?


そしてこの「冷徹な」メンバーの方々はロシアの財政崩壊をも研究されている。

いささか不謹慎な話題かもしれませんが・・・。――旧ソ連が崩壊し、ロシアでは、それまで全国民に医療サービスを政府が提供する体制が実質的に崩壊しました。また、ソ連崩壊後の時期に死亡率が急上昇しました。……[送り状(2)]http://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/research/zaisei/ScenarioCrisis2904pdf.pdf

以下、オフレコらしいが、10歳近く平均寿命が落ちたのが、ソ連崩壊後の現象であり、劇薬とはそういうことじゃないか(そして逆に、若く元気出機敏な働き手は、戦後インフレ期などの小説を読むと(たとえば坂口安吾)、ボロ儲けできる場合もあるようだ)。

今まで一度も引用したことのない池田ノピーも劇薬次いでに引用すればこういうことだ。

どっちにしても、大増税は避けられない。増税しなければ財政が崩壊して、公共サービスも年金給付も生活保護も止まり、餓死する人が出るだろう。イギリスが政府債務の圧縮のために緊縮財政をしき、公共投資を大幅に削減したことが、その社会インフラが貧しくなった原因だ、とピケティは指摘している。(1000兆円の借金を返す方法

アベノミクスの博打成功率がどの程度なのかは知るところではないが、どうせ20年後には財政崩壊するに決まってだんだから(?) 10~20%の成功率はあるかもしれない(?)ギャンブル不首尾の場合、財政崩壊=劇薬を飲む時期が早まっただけだよ。ザンネンだな、池田ノピーさんたちの高齢者予備軍経済学者は逃げ切れなくて、--《われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれない》(池尾和人)のは「杞憂」だったんだよ、やっぱり彼らもともに美味で刺激的な劇薬飲まなくちゃ。

そもそも岩井克人に言わせれば、アベノミクスの真の狙いは、《お年寄りから若い世代への所得移転を促すこと》なのだから、高齢者予備軍の経済学者たちの大半は嫌うはずさ。

山口 人為的に流通量を拡大してお金の価値を希薄化させる権限を、時の権力はあまり 行使すべきではない、と考えています。たとえば、貨幣のモラルという観点でも、お年寄り が大事に抱えてきた現金の価値を希薄化させることは問題がありそうで、非常に判断が難 しいとの思うのですが、その点はいかがでしょうか?

岩井 アベノミクスの真の狙いが、お年寄りから若い世代への所得移転を促すことにあると いうのは正しい。そして、わたしはすでに年寄り世代ですが、それは望ましいことだと考え ています。 (お金とは実体が存在しない最も純粋な投機である ゲスト:岩井克人・東京大学名誉教授【前編】)

いずれにせよ、次ぎの元日銀副総裁の武藤敏郎氏ーー2度総裁になりそこなったーーが取り仕切る「国家の大計」の記述は間違いないのだろう。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している。(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」(大和総研2013 より)

そしてこれは決して選挙では解決できない。シルバーデモクラシーのせいで(日本を抑え込む「シルバー民主主義」―― 日本が変われない本当の理由(アレクサンドラ・ハーニー))、あるいはブキャナンの指摘にもあるように。

ジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。(橘玲『(日本人)』)

まあ経済学者というのはいろんなことを言うもので、財政制度等審議会会長かつ東京大学大学院経済学研究科長・東京大学経済学部長吉川洋氏などは、クルーグマンや岩井克人の言ってること(「期待は経済の本質」)、あるいは黒田日銀のやっていることを「オカルト」って言ってるようなもんだからな。

――日銀の岩田副総裁は6月の講演で「足し算エコノミスト」批判をしました。たとえばガソリンが値上がりしたら、消費者はほかのモノを買い控えて値下がりにつながる。品目の積み上げではなく、マクロ経済で考えるべきだという主張です。円安による輸入物価の上昇が1年たって薄まるとの指摘にも備えたものとの指摘があります。いずれにしてもマネーの量やそれが生み出す期待が大事で、物価はすべて日銀の責任だという考えが根底にあるようです。

 「私は反対だ。マクロ経済学はこの40年でずいぶん変わって、名目の支出はマネーで決まるというマネタリズムが優勢になっている。岩田さんの考えは主流派的な考えだ。Aという財の価格が上がれば、Aの支出は減らすかもしれないが、その分はBという消費に移るだろうと。頭を全部抑えているのは名目支出で、それは名目マネーで決まっている。この考えは、私はオカルトだと思う。物価は足し算だ」(「物価は足し算だ」 吉川洋・東京大学教授  インタビュー 2014/10/25


ここで「パネル・ディスカッション「財政健全化の方向性」――予算委員会調査室」 (201311)における小倉一正氏の発言を挿入しておこう。彼の財政状況への認識の語り口が面白い。

財政の状況はどうなのかといいますと、少し極論になりますが、今の財政状況というのは、収入と歳出を比べて持続するということはあり得ない。したがって、財政の論理だけを考えれば、歳出を抑制する、増税をする、経済成長をする、この3つを同時にやっていくことが必要であることは間違いないということです。

そのときに、全部歳出カットで対応できるかというと、当然無理ということになりますので、何らかの対応をしなければいけないわけです。一時期「ゆでガエル」理論というのがあったと思いますが、今はもうそうではないと考えています。飛行機が空を飛んでいるけれども燃料が切れかかっている、着陸しようと思っても車輪が一部壊れていてどっちを選択するかという状態になっているのかなと思います。

この《飛行機が空を飛んでいるけれども燃料が切れかかっている、着陸しようと思っても車輪が一部壊れていてどっちを選択するかという状態になっている》とはジジェクのトムとジェリーの比喩を思い出させる。

たとえばニュートンの有名なリンゴは重力の法則を知っていたから落ちたのだ、などという言い方は馬鹿げているとしか思われない。しかしながら、仮にそうした言い方がただの無内容な洒落だったとしても、われわれは、そうした発想がどうしてこれほど頻繁にコミックスやアニメの中に登場するのか、という疑問をもたねばならない。猫が、前方に断崖があるのも知らず、必死にネズミを追いかけている。ところが、足元の大地が消え去った後もなお、猫は落下せずにネズミを追いかけ続ける。猫が下を見て、自分が空中に浮かんでいることを見た瞬間、猫は落ちる。猫が下を見て、自分が空中に浮んでいることを見た瞬間、猫は落ちる。まるで<現実界>が一瞬、どの法則に従うべきかを忘れたかのようだ。猫が下を見た瞬間、<現実界>はその法則を「思い出し」、それにしたがって行動する。こうした場面が繰り返し作られるのは、それらがある種の初歩的な幻想のシナリオに支えられているからにちがいない。この推量をさらに一歩すすめるならば、フロイトが『夢判断』の中で挙げている、自分が死んだことを知らない父親という有名な夢の例にも、これと同じパラドックスが見出される。アニメの猫が、自分の足の下に大地がないことを知らないがゆえに走り続けるのと同じように、その父親は、自分が死んだことを知らないがゆえに今なお生きているのである。三つ目の例を挙げよう。それはエルバ島におけるナポレオンだ。歴史的には彼はすでに死んでいた(すなわち彼の出る幕は閉じ、彼の役割は終わっていた)が、自分の死に気づいていないことによって彼はまだ生きていた(まだ歴史の舞台から下りていなかった)。だからこそ彼はワーテルローで再び敗北し、「二度死ぬ」はめになったのである。ある種の国家あるいはイデオロギー装置に関して、われわれはしばしばそれと同じような感じを抱く。すなわち、それらは明らかに時代錯誤的であるのに、そのことを知らないためにしぶとく生き残る。誰かが、この不愉快な事実をそれらに思い出させるという無礼な義務を引き受けなくてはならないのだ。(ジジェク『 斜めから見る』p89-90)

ジジェク次いでに、日本のサヨクやらリベラルのチトー症候群とでもいうべき現象があるので、次の文も引用しておこう。チトー症候群とは、次のような赤旗のマニフェストに代表される。(「消費税にたよらない別の道」――日本共産党の財源提案 2014年11月26日

……いくつかの公文書や回想録によると、1970年代半ば、チトー(ユーゴスラヴィアの大統領)は、チトーの側近たちはユーゴスラヴィアの経済が壊滅的であることを知っていた。しかし、チトーに死期が迫っていたため、側近たちはかたらって危険の勃発をチトーの死後まで先延ばしにすることに決めた。その結果、チトーの晩年には外国からの借款が休息に膨れ上がり、ユーゴスラヴィアは、ヒッチコックの『サイコ』に出てくる裕福な銀行家の言葉を借りれば、金の力で不幸を遠ざけていた。1980年にチトーが死ぬと、ついに破滅的な経済危機が勃発し、生活水準は40パーセントも下落し、民族間の緊張が高まり、そして民族間紛争がとうとう国を滅ぼした。適切に危機に対処すべきタイミングを逃したせいだ。ユーゴスラヴィアにとって命取りとなったのは、指導者に何も知らせず、幸せなまま死なせようという側近たちの決断だったといってもいい。

これこそが究極の「文化」ではなかろうか。文化の基本的規則のひとつは、いつ、いかにして、知らない(気づかない)ふりをし、起きたことがあたかも起きなかったかのように行動し続けるべきかを知ることである。私のそばにいる人がたまたま不愉快な騒音を立てたとき、私がとるべき正しい対応は無視することであって、「わざとやったんじゃないってことはわかっているから、心配しなくていいよ、全然大したことじゃないんだから」などと言って慰めることではない。……(文化が科学に敵対するのはこの理由による。科学は知への容赦ない欲動に支えられているが、文化とは知らない/気づいていないふりをすることである)。

この意味で、見かけに対する極端な感受性をもつ日本人こそが、ラカンのいう〈大文字の他者〉の国民である。日本人は、他のどの国民よりも、仮面のほうが仮面の下の現実よりも多くの真理を含むことをよく知っている。(ジジェク『ラカンはこう読め』「日本語版への序文」)

…………

というわけで、オレは博打継続派なんだけど、劇薬派であるかどうかは自ら知るところではない、--のはどうでもよろしい。

ああ、ソウダ、ソウダ、--想田和弘っていう庶民的正義の味方の映像作家がいるのだけれど、彼の専門の仕事は別にして、こいつ真から経済音痴のマヌケじゃないか? なんでこんなヤツがインテリぶって説教たれてんだろう? 完璧チトー症候群だぜ→ 「「GDP解散」で僕が深いため息をつく理由


まあ日本の経済学者の分析が自らの痛みの問題ーーインフレによる貯蓄目減りや消費税負担、社会保障費削減の怖れなどーーで信用できないのなら、たとえば海外のこういった分析ぐらいはせめて読んでおいたほうがいいぜ。

(財政は持続可能か)消費税率、53%の可能性も  R・アントン・ブラウン アトランタ連銀上級政策顧問


※ここでは「アベノミクスによる税収増と国債利払い増」の懸念ついては敢えて触れなかったが、これはリフレ派・反リフレ派に限らず、殆んどの経済学者が憂慮することであり、アベノミクスの博打の大きな側面である。そして「出口戦略」と言われるものに大きく関わる。





2014年12月5日金曜日

遺伝子工学の時代のサド的な「不死の」究極の拷問

苦痛のケースを例に取ってみよう。現実のヴァーチャル化と、計りしれない無限化された肉体の苦痛のあいだには密接な関係がある。それはふつうの苦痛よりも途轍もなく強烈なものだ。

遺伝子工学とヴァーチャルリアリティの組み合わせは、新しく「高められたenchanced」拷問の可能性を開くのではないか? われわれの苦痛に耐える能力の拡張の、新しい、前代未聞の地平を(苦痛を我慢する知覚能力の拡張を通して、そしてとりわけ、知覚認知をバイパスして脳中枢を直接に攻撃する方法、こういった苦痛を加える新しい形式の発明を通して)。

たぶん、究極のサド的な「不死の」拷問の餌食のイメージ、ーー死に逃れる得ずに、絶え間ない苦痛を持続させる犠牲者ーーこれもまた現実になるのを待っている。そのような可能性においては、究極のリアル/不可能な苦痛は、もはや実際の肉体の苦痛ではなく、ヴァーチャルリアリティによって引き起こされた「完全無欠の」ヴァーチャルリアルな苦痛である。(そして、勿論、同じことは性的快楽についても言える)。(『ジジェク自身によるジジェク』私意訳)
二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

…………






諸君はあのドイツの古い刑罰、例えば、石刑(――すでに口碑に伝えるかぎりでも、石臼が罪人の頭上に落下する)、車裂きの刑(刑罰の領域におけるドイツ的天分の最も独自な創意であり、十八番だ!)、杙で貫く刑、馬に引き裂かせたり踏みにじらせたりする刑(「四つ裂き」)、犯人を油や酒の中で煮る刑(十四世紀および十五世紀になお行なわれていた)、人気のあった皮剝ぎの刑(「革紐作り」)、胸から肉を切り取る刑などを思い合わせ、更に悪行者に蜜を塗って烈日の下で蠅に曝す刑なども思い合わせてみるがよい。そうした様々な光景を心に留め、後者の戒めとすることによって、人々はついに、社会生活の便益を享有するためにかねた約束した事柄に関して、幾つかの「われ欲せず」を記憶に留めるようになる。――そして実際! この種の記憶の助けによって、人々はついに「理性に」辿り着いたのだ! ああ、理性、真摯、感情の統禦など、およそ熟慮と呼ばれているこの暗い事柄の全体、人間のすべてのこうした特権と美粧、これらに対して支払われた代価がいかに高かったことか! いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか! ……(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 p68)

道三は新しい血をためすために、最大の権力をふるった。その血は、彼の領内が掃き清められたお寺の院内のように清潔であることを欲しているようであった。

 院内の清潔をみだす罪人を――罪人や領内の人々の判断によるとそれは甚しく微罪であったが――両足を各の牛に結ばせ、その二匹の牛に火をかけて各々反対に走らせて罪人を真二ツにさいたり、釜ゆでにして、その釜を罪人の女房や親兄弟に焚かせたりした。(坂口安吾『梟雄』)



壽阿彌の手紙には、多町の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。此に其全文を擧げる。「永富町と申候處の銅物屋大釜の中にて、七人やけ死申候、(原註、親父一人、息子一人、十五歳に成候見せの者一人、丁穉三人、抱への鳶の者一人)外に十八歳に成候見せの者一人、丁穉一人、母一人、嫁一人、乳飮子一人、是等は助り申候、十八歳に成候者愚姪方にて去暮迄召仕候女の身寄之者、十五歳に成候者愚姪方へ通ひづとめの者の宅の向ふの大工の伜に御坐候、此銅物屋の親父夫婦貪慾強情にて、七年以前見せの手代一人土藏の三階にて腹切相果申候、此度は其恨なるべしと皆人申候、銅物屋の事故大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此邊出火之節、向ふ側計燒失にて、道幅も格別廣き處故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ樣に心得、いか樣にやけて參候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土藏の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は多町一丁目にて、此所よりは火元へも近く候間、宅へ參り働き度、是より御暇被下れと申候て、自分親元へ働に歸り候故助り申候、此者の一處に居候間の事は演舌にて分り候へども、其跡は推量に御坐候へ共、とかく見せ藏、奧藏などに心のこり、父子共に立のき兼、鳶の者は受合旁故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりや釜の中よといふやうな事にて釜へ入候處、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成旁にて死に候事と相見え申候、母と嫁と小兒と丁穉一人つれ、貧道弟子杵屋佐吉が裏に親類御坐候而夫へ立退候故助り申候、一つの釜へ父子と丁穉一人、一つの釜へ四人入候て相果申候、此事大評判にて、釜は檀那寺へ納候へ共、見物夥敷參候而不外聞の由にて、寺にては(自註、根津忠綱寺一向宗)門を閉候由に御坐候、死の縁無量とは申ながら、餘り變なることに御坐候故、御覽も御面倒なるべくとは奉存候へ共書付申候。」

此銅物屋は屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の道聽途説に由つて知られる。道聽途説は林若樹さんの所藏の書である。

 釜の話は此手紙の中で最も欣賞すべき文章である。叙事は精緻を極めて一の剩語をだに著けない。實に據つて文を行る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をも著さなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。(森鴎外『寿阿弥の手紙』)

2014年12月4日木曜日

禿鷲と皮剝ぎ

クロハゲワシ     写真: キム・ソンヒョン


鷹(たか)とは、タカ目タカ科に属する鳥のうち比較的小さ目のものを指す通称で、鳥類の一種である。 オオタカ、ハイタカ、クマタカなどの種がいる。タカ科に分類される種にて比較的大きいものをワシ(鷲,Eagle)、小さめのものをタカ(鷹, Hawk)と呼び分けているが、明確な区別ではなく慣習に従って呼び分けているに過ぎない。また大きさからも明確に分けられているわけでもない。例えばクマタカはタカ科の中でも大型の種であり大きさからはワシ類といえるし、カンムリワシは大きさはノスリ程度であるからタカ類といってもおかしくない。(wikipedia)
ハゲワシ(禿鷲)は、鳥類タカ目タカ科のうち死肉を主な餌とする一群の種の総称である。かつて狭義にはクロハゲワシの標準和名だった。旧大陸の低緯度に生息し、英語では Old World vulture と呼ぶ。似た生態で新大陸に住むコンドル科 Cathartidae (New World vulture) とは類縁関係にない。(wikipedia)
Birds of Yosemite National Park (1954, 1963) by Cyril A. Stebbins and Robert C. Stebbinsha








『大丈夫、ちゃんと殺す。心配することはない。(中略)彼らは本当にうまく皮を剥ぐ。これはもう奇蹟的と言ってもいいくらいのものだ。芸術品だ。本当にあっという間に剥いでしまうんだ。生きたまま皮を剥がれても、剥がれていることに気がつかないんじゃないかと思うほど素早く剥いでしまうんだ。しかし ? 』、と彼は言って胸のポケットからまた煙草入れを取り出し、それを左手に持って、右手の指先でとんとんと叩きました。『? もちろん気がつかないわけはない。生きたまま皮を剥がれる方はものすごく痛い。想像もできないくらいに痛い。そして死ぬのに、ものすごく時間がかかる。出血多量で死ぬわけだが、これはなにしろ時間がかかる』。彼は指をぱちんと鳴らしました。すると彼と飛行機で一緒にやってきた蒙古人の将校が前に出ました。彼はコートのポケットの中から、鞘に入ったナイフを取り出しました。(中略)彼はナイフを鞘から抜き、それを空中にかざしました。朝の太陽にその鋼鉄の刃が鈍く白く光りました。(中略)ナイフを持ったその熊のような将校は、山本の方を見てにやっと笑いました。私はその笑いを今でもよく覚えています。

今でも夢に見ます。私はその笑いをどうしても忘れることはできないのです。それから彼は作業にかかりました。兵隊たちは手と膝で山本の体を押さえつけ、将校がナイフを使って皮を丁寧に剥いでいきました。本当に、彼は桃の皮でも剥ぐように、山本の皮を剥いでいきました。私はそれを直視できませんでした。(中略)彼は始めのうちはじっと我慢強く耐えていました。しかし途中からは悲鳴をあげはじめました。それはこの世のものとは思えないような悲鳴でした。男はまず山本の右の肩にナイフですっと筋を入れました。そして上の方から右腕の皮を剥いでいきました。彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかに、ロシア人の将校が言ったように、それは芸術品と言ってもいいような腕前でした。もし悲鳴が聞こえなかったなら、そこには傷みなんてないんじゃないかとさえ思えたことでしょう。しかしその悲鳴は、それに付随する痛みの物凄さを語っていました。やがて右腕はすっかり皮を剥がれ、一枚の薄いシートのようになりました。(中略)その皮からはまだぽたぽたと血が滴っていました。皮剥ぎの将校はそれから左腕に移りました。同じことが繰り返されました。

彼は両方の脚の皮を剥ぎ、性器と睾丸を切り取り、耳を削ぎ落としました。それから頭の皮を剥ぎ、やがて全部剥いでしまいました。山本は失神し、それからまた意識を取り戻し、また失神しました。失神すると声が止み、意識が戻ると悲鳴が続きました。しかしその声もだんだん弱くなり、ついには消えてしまいました。(中略)私はそのあいだ何度も吐きました。最後にはこれ以上吐くものがなくなってしまいましたが、私はそれでもまだ吐きつづけました。熊のような蒙古人の将校は最後に、すっぽりときれいに剥いだ山本の胴体の皮を広げました。そこには乳首さえついていました。あんなに不気味なものを、私はあとにも先にも見たことがありません。誰かがそれを手に取って、シーツでも乾かすみたいに乾かしました。あとには、皮をすっかり剥ぎ取られ、赤い血だらけの肉のかたまりになってしまった山本の死体が、ごろんと転がっているだけでした。いちばんいたましいのはその顔でした。赤い肉の中に白い大きな眼球がきっと見開かれるように収まっていました。歯が剥き出しになった口は何かを叫ぶように大きく開いていました。鼻を削がれたあとには、小さな穴が残っているだけでした。地面はまさに血の海でした。(村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』)

2014年12月3日水曜日

ガガンボに尼っ子の肢腫れあがる

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
 大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)


私は善人は嫌ひだ。なぜなら善人は人を許し我を許し、なれあひで世を渡り、真実自我を見つめるといふ苦悩も孤独もないからである。悪人は――悪徳自体は常にくだらぬものではあるが、悪徳の性格の一つには孤独といふ必然の性格があり、他をたより得ず、あらゆる物に見すてられ見放され自分だけを見つめなければならないといふ崖があるのだ。善人尚もて往生を遂ぐ況や悪人をや、とはこの崖であり、この崖は神に通じる道ではあるが、然し、星の数ほどある悪人の中の何人だけが神に通じ得たか、それは私は知らないが、そして、又、私自身神サマにならうなどと夢にも考へてゐないけれども、孤独の性格の故に私は悪人を愛してをり、又、私自身が悪人でもあるのである。けれどもそれは孤独の性格の故であり、悪人の悪自体を正気で愛し得るものではない。(坂口安吾『蟹の泡』)



男はたしかに凡夫にすぎない。ソノ子のお尻の行雲流水の境地には比すべくもないのである。水もとまらず、影も宿らず、そのお尻は醇乎としてお尻そのものであり、明鏡止水とは、又、これである。 

乳くさい子供の香がまだプンプン匂うような、しかし、精気たくましくもりあがった形の可愛いゝお乳とお尻を考えて、和尚は途方にくれたのである。お釈迦様はウソをついてござる。男が悟りをひらくなんて、考えられることだろうかと。(坂口安吾『行雲流水』)




恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで 
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼蟲どもに
くすぐられてゐる。 

あなたにのこりなく消化され、 
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しずみながら
あなたをみあげてもよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ぱたんと出て行ってしまった。

   金子光晴 「もう一篇の詩」『人間の悲劇』