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2018年11月2日金曜日

脳硬化症者たちの「想像界」

いやあボクが想像界についての記述を割愛しているのは、「古典的ラカンドグマの転回」で記してあるけど、まずミレール2008の次の発言にもとづいている。

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか。精神生活の始まりはなにか?

古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。

事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)

私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(ジャック=アラン・ミレール Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. 2008)


ほかにもポール・バーハウ2001がより鮮明に書かれている。

ラカン①(おおよそセミネール10まで)は、想像界と象徴界の対立があった。

ラカン②(セミネール11以降)においては、現実界が焦点化され、「象徴界と想像界が合体したもの」に対する「現実界」がある。

ラカン③(おおよそセミネール20以降)、②と同様の「象徴界+想像界」/「現実界」の対立が「ファルス享楽/身体の享楽」として取り上げられるようになる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe 、BEYOND GENDER. From subject to drive、2001)

ようするにボクが次のように図示するときは、基本的には「象徴界+想像界」/「現実界」の意味。




あくまで「基本的には」、だけど。

ほかにもミレールの次の文がある。

ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュimages qui pouvaient se voir について語った。…

しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について話すことを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 L'imaginaire postsymbolique は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 l'imaginaire présymbolique とはひどく異なる。

象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか? 厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものであるce qui ne peut pas se voir。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス le phallus féminin、母なるファルス le phallus maternel がある。それが想像的ファルス le phallus imaginaire と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 imagination の問題であるかのようである。

ラカンの名高い鏡像段階 le stade du miroir における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚 perception と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。…これが意味するのは、想像界と象徴界の接合connexion de l'imaginaire et du symbolique であり、したがって知覚からの分離という命題である。すなわち、イマージュは見られ得ないものをスクリーンする(覆う)l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller、LES PRISONS DE LA JOUISSANCE、2008)


とはいえさきほど「基本的には」と記したのは、1976年あたりから、想像界の復権ともいえる考え方が出てきているから。

人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel 。あなた方は、« イデアを自ら得る se faire une idée »と書かねばならない。私は、《球面 sphère 》としての想像界と書く。想像界が意味するものを明瞭に理解するためには、こうせねばならない。(ラカン、S24 16 Novembre 1976)

そもそもボクの世代の「文芸評論家」が想像界やら象徴界やらと言っているのは、浅田彰の『構造と力』の記述ーーあれはあれであの当時においての初期ラカン入門編としてはスグレタものだけどーーやジジェク掠め読みにもとづいているので(しかも固くなった頭の思い込みにもとづいて)、今なら瞬間罵倒系だよ、そんなの信じちゃダメ。




ニーチェの永遠回帰はフロイトの反復強迫である

ニーチェの永遠回帰とはフロイトの反復強迫のことである。これは精神分析が明らかにしたことである。永遠回帰の内実はこれ以外にない、とわたくしは考えている。

ニーチェをめぐる最も優れた書き手であるだろうクロソウスキーも、永遠回帰は至高の欲動ではないか、と1969年の段階で既に言っている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーは、たとえば次の情動 Affekte を欲動 impulsionと読み替えているのである。

力への意志が原始的な情動(Affekte)形式であり、その他の情動は単にその発現形態であること、――(……)「力の意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

⋯⋯⋯⋯
もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)

ーー《常に回帰する immer wiederkommt》とはフロイトにとって反復強迫(欲動の反復強迫)のことである。

同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

ラカンはこの反復強迫をたとえば次のように表現した。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない le Réel ne cesse pas de s'écrire 。(S25、10 Janvier 1978)

ラカンにとって現実界とは実質上、トラウマ界のことである(参照)。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

…………


今、引用したフロイト二文の前後を含めて掲げる。

【快原理の彼岸(1920年)】
精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかに強くわれわれの心を打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び fort-da)。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い欲動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)


【モーセと一神教(1939年)】 

ーー以下の文に「神経症」という語が出て来るが、フロイトにおいては「精神神経症 psychoneurose」 と「現勢神経症 Aktualneurose 」の二種類の神経症概念がある。前者が心的なもの、後者が身体的なものであり、これが人間にとっての症状のすべてである。現勢神経症とは実質上、外傷神経症である(参照)。


われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期のエゴへの傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体への経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungenである。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

⋯⋯⋯⋯


ラカンは反復強迫を享楽回帰という。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

享楽回帰とは、なによりもまず「身体的なものの回帰」ということである。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011 、25/05/2011
ラカンの現実界 Réel は、フロイトの無意識の臍(夢の臍 Nabel des Traums)であり、固着Fixierung のために「置き残される zurückgeblieben(居残るVerbleiben)」原抑圧 Urverdrängungである。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの Somatischem」が「心的なもの Seelischem」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)


リビドーは、その名が示しているように、穴trouに関与せざるをいられない。身体と現実界le corps et le Réelが現れる他の様相と同じように。(⋯⋯)

(そして)私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーーラカンにとって穴とはトラウマのことである、《穴 trou ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21、19 Février 1974)

そして原抑圧(固着)とはサントームである。

症状(原症状=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation(ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)
サントーム、それは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. *J.-A. MILLER, 、 9/2/2011) 
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰への意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

人がもし、サントーム(原症状)の永遠回帰が分かりにくいようであるなら、まずは外傷的事故の永遠回帰に思いを馳せればよい。フロイトが反復強迫概念に思い至ったのは、第一次世界大戦の外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen 者の続出に起源があるのだから。

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式のアタック hysteriforme Anfälle がおこる。このアタックによって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年ーー「リビドーのトラウマへの固着」)

⋯⋯⋯⋯

とはいえおそらく人には、ドゥルーズによる純粋差異としての永遠回帰はどうなのか、という問いがあるだろう。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを回帰させることはなく、それ自身が純粋差異 pure différenceの世界から派生する。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

この純粋差異とは内的差異のことである。

究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第二版、1970年)

ラカンも純粋差異について既に語っている(ここでは詳細は割愛し要点だけ示す)。

…この「一」自体、純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S9、06 Décembre 1961)
「一のようなものがある[Y a de l’Un]」…この純粋差異としての「一」は、要素概念と区別される。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(ラカン、S19、17 Mai 1972)

ラカンの「一のようなものがある[Y a de l’Un]」とは、リビドーのトラウマへの固着(サントーム)と等価である。

サントーム sinthome……それは « 一のようなものがある Y a de l’Un »と同一である。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

ラカンにとっての純粋差異に相当するものは、たとえば次のような形で図示されている。



1=1+ Ø (空集合)とは、集合論の基本である。

空集合 ∅ とはラカンにとって女である。

女 La femme とは…空集合 un ensemble vide のことである。(ラカン、S22、21 Janvier 1975)

そして《ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)


このひとりの女とは、対象aとしての《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)ーーあるいは、フロイトの「異物 Fremdkörper,」のことである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

異物とはラカンの対象a(外密)のことである。

外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985) 
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」(=対象a[参照])である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)

ようするにトラウマへの固着 Fixierung (身体の上への刻印 inscripition)としての「一」には、常に一と対象a(残余)がある。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

あるいは、常に《「一」と身体がある。 Il y a le Un et le corps》( Hélène Bonnaud、2012-2013, PDF

これが最晩年のフロイトが《リビドーの固着 Libidofixierungen 》の《残存現象 Resterscheinungen》(『終りある分析と終りなき分析』1937)と記しているものである(参照)。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとのつながりconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

⋯⋯⋯⋯

※付記

上にミレールの《外密(対象a)はフロイトの 「不気味なもの Unheimlich 」である》と引用したが、人は、ニーチェのアリアドネのひとりであり後にフロイトに弟子入りしたサロメとの対話から、フロイトの「不気味なもの」概念と永遠回帰=反復強迫の思考がひょっとして生まれたのかもしれないと思いを馳せてもよいのである。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。

Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

2018年11月1日木曜日

Ebène フォーレop121

◆The Ebène Quartet plays Fauré quartet e-minor




ーーふた月前の演奏(Wissembourg Festival August 27th 2018)


エベーヌカルテットは、ビオラの Mathieu Herzog が2015年にグループから離れ(彼は今指揮者をやっている)、後釜がなかなか決まらなかったのだが、Marie Chilemmeで落ち着くのかな(チェロ男だけに惚れすぎなかったらいいんだけどな・・・)




とっても「女」だね、彼女は。一楽章冒頭の見事さはさておき、三楽章なんか見てると、イイなあ、彼女の仕草。どうイイのか言わないでおくけど。

真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)
真理は女である。真理は常に非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)

カルテットというのは女一人混じっていたほうがいいんじゃないか。男二人女二人はダメだね。男一人女三人なんてありえない(カラダがモタナイ!)。女四人だったらときにいける・・・

エベーヌカルテットの三楽章は、2012年だったかのがネット上に落ちていて、その演奏が好きだったんだけど、上の演奏はそれよりずっといい。彼らは三楽章がとっても上手い。二楽章はちょっとボクの趣味とは違うけど、何度か聴いていたらナレルかも(今のボクの耳には低音部の響きが弱すぎる箇所があり、ヴァイオリンのPierre Colombetーーとっても好きな演奏家なんだけどーーが前面に出過ぎて聞こえてくる)。

二楽章のアンダンテがホントに美しく演奏できるカルテットは稀有だな、ボクの最愛の楽章なんだけど。


◆Faure, String Quartet, Movement 2  (たぶんグァルネリ弦楽四重奏団 Guarneri Quartet)





だれもが知らねばならぬことは、音楽の女王は弦楽四重奏だということである(もちろん真理は女だという前提でわたくしは今、記している)。そしてこのフォーレ遺作は、その至高の作品のひとつーー、人がいままで作られた弦楽四重奏曲のなかから十曲選ぶなら必ずそのなかに入る作品ーーだということである(敢えて十曲としてのは、わたくしのように、三曲のうちの一つに入れるほどまでには人に強制したくないという意味である)。

弦楽四重奏は、音楽のもっとも精神的な形をとったものである。あるいは精神が音楽の形をとった、精神と叡智の窮極の姿が弦楽四重奏である。それはまた、最もよく均衡のとれた形でもって、あいまいなところが少しもないまでに、ぎりぎりのところまで彫琢され、構成され、しかも、それをつくりあげるひとつひとつの要素が、みんな、よく「歌う」ことを許されているーーいや歌っていないとだめな形態である。明智の限りまで考えぬかれ、しかもすべてがよく歌い、しかも部分と全体の間で完璧な均衡が実現されているもの。それが弦楽四重奏である。(吉田秀和『私の好きな曲』)

フォーレは死の直前になって(難聴におそわれつつ)ようやく念願の、唯一の弦楽四重奏を書き上げた。ベートーヴェンから徹底的に学んで。とくにop131から。

◆Beethoven - String quartet n°14 op.131 - Budapest 1951




⋯⋯⋯⋯

欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.(ラカン、E825、1960)
美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する。…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.(ラカン、S7、18 Mai 1960 )
・《「触るなかれ」としての美 beau : ne touchez-pas》(S7、18 Mai 1960) 、これがカントの「美は無関心」のラカンによる「概念的翻訳」である。

・美はラカンの外密 Extimité の効果の名である。これが正確に、カントの「美は無関心」が目指したものである。(ジュパンチッチ、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan by Alenka Zupančič, pdf
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

◆Anton Webern, Streichquartett op. 9



ーーー「⋯⋯亡霊たちのざわめき Geräusch der Gespenster の中からやっと理性の声が聞こえてきました。……それにしても狂気からほんの一歩のところにいたのに気づかなかったとは」(ウィトゲンシュタイン、書簡集)

美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。(リルケ『詩への小路』ドゥイノ・エレギー訳文1、古井由吉)
美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

2018年10月31日水曜日

声なき声

夜と音楽。--恐怖の器官 Organ der Furcht としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術という音楽の性格がある。(ニーチェ『曙光』250番)


音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。

ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4 「めぐり」)


たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」

ーー同16 「音の輪が回る」

⋯⋯⋯⋯

「沈黙と音」とは、どちらが図であり地なのか? 最も美しい音楽においては、沈黙の瞬間が最も美しいということはしばしばある。沈黙を際立たせるために、音があるのではないか、と感じるほどに。

もっとも「まともな」音楽家たちにおいては、これは「常識」なのかもしれない、《音楽のなかで最も美しいのは沈黙である》(アンドラーシュ・シフ)





⋯⋯⋯⋯

われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)

ーーここでミレールが言っている対象aとは、現実界としての対象a、非全体 pastout としての対象a、穴としての対象aのことである。

これは、ラカンの四つの言説のうちの一つの分析家の言説における対象aである。





人はなぜ音楽を聴くのか? 対象としての声との遭遇の恐怖を避けるためである。リルケが美について語っていること(美は恐ろしきものの始まり)は音楽にも当てはまる。美=音楽は、囮・スクリーン・最後のカーテンである。音楽は、声の対象aとの遭遇の恐怖とのから我々を防御してくれる。(ジジェク、"I Hear You with My Eyes"、1996)

ここでジジェクが「声の対象aに対する美は最後のカーテン」と言っているのは、次のことである。

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)


たとえばニーチェの声なき声とは、現実界との遭遇に他ならない。

何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ!」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

⋯⋯⋯⋯

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

前期ラカンはこのモノを母と言っている。

(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)


ようするにモノとは「斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」である。


穴Ⱥと「穴のヴェールとしての愛の対象」



声の対象a(喪われたモノ)の起源が、「母の言葉」にあるのは、実は誰もが知っていた筈である。ただほとんどの人々において忘却されているだけである。ニーチェの「最も静かな時間 Die stillste Stunde」を経験した者のみがわかっている、「おまえはそれを知っているではないか!」

リトルネロとしてのララング(母の言葉) lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
サントーム(原症状)は、母の言葉に起源がある。 Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle(Geneviève Morel、Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome、2005)
サントームの小道は、享楽における単独性の永遠回帰への意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

※参照:ララング定義集

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

大他者は象徴秩序(言語秩序)である。そして誰もが知っているように、《原大他者 Autre primitif は母である。》(ラカン、S4、06 Février 1957)

そして大他者とは、己の身体でもある。

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

ーー身体には穴が開いている。母なる大他者による「身体の上への刻印」の穴が。《corps. ⋯ C'est un trou》(Lacan, Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Niceーー「身体は穴である」)



2018年10月30日火曜日

小便器のアウラ



対象から発するアウラは、対象の直接的な特性ではなく、それが占める場である。この場への依存の古典的な例は、もちろん、マルセル・デュシャンのよく知られた小便器(泉)ーー小便器自体が展示されることによってアートの対象となったものーーである。

デュシャンの功績は、たんに、アート作品においてなにが重要とされるか(小便器でさえも)の範囲を拡げたことになるのではない。彼がなしたことはーーそのような普遍化の形式的条件としてーー、対象とそれが占める(構造的な)場のあいだの区別の導入である。すなわち小便器をアート作品とするのは、それに内在する特性ではなく、それが占める場(アートギャラリイ)なのである。あるいはマルクスが遠い昔に商品フェティシズムに関して言ったように、「 ある人間が王であるのは、ただ他の人間が彼に対して臣下として相対するからである。彼らは、逆に彼が王だから、自分たちが臣下でなければならぬと信じている」ということである。

日常生活において、われわれはこの種の物象化 reification の犠牲者である。つまり、われわれは純粋な形式的あるいは構造的決定性を対象の直接の特性として誤認してしまうのである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)

いやあそうは言ってもデュシャンの泉は形が美しいね、なによりも穴が開いているのがいい。




穴としての対象a は、枠・窓と等価でありうる。それは鏡と反対のものである。対象a は捕獲されない、特に鏡には。長いあいだ鏡に時間を費やしたラカンは、そのように強調している。対象a とは、われわれが目を開くことによって、己自身を構築する窓枠なのである。 En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre, à l'opposé du miroir. L'objet a ne se laisse pas capter, spécialement dans le miroir. Lacan, qui a passé beaucoup de temps avec le miroir, le souligne. Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux. (ジャック=アラン・ミレール、« L’image reine »2016)

ミレールは「窓枠 fenêtre」ということによって次の図のことを言っている。


「女と鏡」あるいは「星と月は天の穴」


いわゆるルネ・マグリット構図である。


話を戻せば、デュシャンの「泉」は、ゴダールの『彼女について私が知っている二、三の事柄』の珈琲渦のブラックホールと銀のペニスと同じくらい美しいね。




ベンヤミンは、対象を取りかこむアウラは、眼差しを送り返す合図だと注意を促した。彼が素朴にもつけ加えるのを忘れたのは、アウラの効果が起こるのは、この眼差しが覆われ、「上品化」されたときだということだ。この覆いが除かれれば、アウラは悪夢に変貌し、メドゥーサの眼差しとなる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)


結局、美の核心は現実界としての穴をぎりぎりに覆ったもの(防衛)じゃないんだろうか?

美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ジャック=アラン・ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant)

リルケのいう「美は恐ろしきものの始まり」に違いないよ(参照)。

ゴダールの上のイマージュは、デュシャンの次の二つの作品を合せたぐらい美しいな、ただし(ボクにとっては)触覚の感覚がいささか劣っているのが映像イマージュの欠点だけど。




私は上躰を乗り出して、あっさり縢ったボダン穴のような肛門と、そこから拇指の頭ひとつおいたほどの距離にしっかり閉じている性器の端を見た。明るい茶色の肛門にくらべて、性器の皮膚が木の冬芽の色合いなのは、縮れた薄い体毛が表面に散らばっているからだ。私は指を伸ばしてマユミさんの性器の周りにふれてみないではいられなかった。(……)きれいな小さな水玉が、襞ひだの間にいっぱい浮かんできたよ。天体望遠鏡で銀河系のはしを撮ったスライドに似てるわ……(大江健三郎『燃え上がる緑の木』)





・・・とはいえ(?)、やっぱりドゥルーズ=プルーストを常に参照しなくちゃな。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

これはすべての愛の対象にかかわる、人だけでなく芸術作品、文学、自然、料理・・・。

そして、同じことだが、ラカンの「欲望の原因」(欲望の対象ではなく)だな、肝腎なのは。

私はあなたを愛する。だが私は、あなたの中のなにかあなた以上のもの、〈対象a〉(欲望の原因)を愛する。だからこそ私はあなたを八つ裂きにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、S11、24 Juin 1964)


人はまず、たとえば名高い芸術家や詩人の作品を愛しているのは、あるいは自然の景観、たとえば海を愛しているのは、小便器を愛しているのと変わらないんじゃないか、と疑ってみることだね。

もちろんボクのプルーストへの愛や、ラカン派への執着も疑わなくちゃな。

でも、ラカンの「欲望の原因」とは、ようするに対象に自分自身の眼差しが書き込まれているってことだ。

そして原「欲望の原因」は、ボロメオ結びの中心にある「a」だ。

(S23,13 Janvier 1976)


ラカンの欲望の原因とは,上の原欲望の原因の横ににある、JȺ(大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre)、SENS(意味の享楽=見せかけとしての対象a)もそう。

アンコールSéminaire XXにおいて、対象a は、…意味の享楽である。幻想のなかに刻印される意味の享楽である。petit a c'est encore un sens-joui, c'est encore un sens-joui inscrit dans le fantasme. (Fin du Cours XX de Jacques-Alain Miller du 6 juin 2001 )

そして上でミレールが言っていた穴としての対象aは、フロイトの表象代理と等価で、JȺの箇所にある(参照:人間の条件と表象代理と対象a)。

絵自身のなかにある表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation qu'est le tableau en soi, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)




この欲望の原因は、プルーストのメガネ、光学機械と相同的なんだな。ボクは結局、「君の愛は私にあるんじゃなくて、君のなかにある」ってことを教示してくれる作家がいいね。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。…

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。(プルースト『見出された時』)

あるいはニーチェのようにさ。

・君たちは、自分自身と顔を向き合わせることからのがれて、隣人へと走る。

・まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

・自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

ーーというわけで(?)、《嘘をいう能力のない者が、真理が何であるかを知っているはずがない》(同、ツァラトゥストラ)。


2018年10月29日月曜日

「ニーチェの永遠の愚行」と「ヴァレリーの女狂い」

世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚の群れのなかへ走りこんだという人間が少なくない。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

ーー世には、自分の内部から性欲を追い出そうとして、かえって男狂い、女狂いのなかへ走りこんだという人間が少なくない。

嫉妬は悲哀とおなじように、ともに正常といえる情動状態 Affektzuständenである。それがある人の性格や態度のうちに見られられない場合は、強い抑圧(放逐) starken Verdrängung を受けたために意識されないのであって、それだけに無意識の心的生活 Seelenleben ではいっそう大きな役割を果たしている、と推論してよい。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)

ーー性欲は愛と同じように、ともに正常といえる欲動状態である。それがある人の身体表出のうちに見られられない場合は、「排除」(外に放り投げること)を受けたために現れないのであって、それだけに無意識の「身体的生活」ではいっそう大きな役割を果たしている、と推論してよい。

排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに回帰する qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)



ラカンの現実界 Réel は、フロイトの無意識の臍(夢の臍 Nabel des Traums)であり、固着Fixierung のために「置き残される zurückgeblieben(居残るVerbleiben)」原抑圧 Urverdrängungである。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの Somatischem」が「心的なもの Seelischem」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)
・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)




愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。

私も最初からそうすることもできただろうし、それによって多くの反発をまぬかれたことだろう。しかし私はそうしたくなかった。というのは、私は弱気に陥りたくなかったからである。そんな尻込みの道をたどっていれば、どこへ行きつくものかわかったものではない。最初は言葉で屈服し、次にはだんだん事実で屈服するのだ。

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



ニーチェは永遠の愚行に堕ちこんだ。本能を弁護するという愚行、自然を弁護するという愚行に。(ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』ーー丹治恒次郎『ニーチェとヴァレリー』pdfより)
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。

二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。

しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。

他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)




・わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。

・まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。

・よし悪人がどんな害をおよぼそうと、善人のおよぼす害は、もっとも害のある害である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)


2018年10月28日日曜日

あたった女の差

いやあきみ、人生経験の差というのか、ま、遠慮していえば、あたった女の差ってのがあるんだろうな、きみはまだ幸せなんだろうよ。

…そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)





宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。……

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。……

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)