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2017年2月6日月曜日

死後脳エビデンス?

いやあまだコメントしてくるわけかい、貴君は。エビデンスとか死後脳による遺伝(実証)とかという語彙群を使って。

で、貴君のいってるエビデンスのエビデンスはどこにあるんだろうかね?

今ざっとネットを検索しただけだが、こんなのにも行き当たるぜ

自閉症スペクトラム(ASD)は、対人的相互作用やコミュニケーションの障害、興味・活動の限定された反復的常同的な行動様式によって特徴づけられる発達障害である。双生児を対象にした研究から ASD は遺伝要因が強いと考えられ、 多くの候補遺伝子が探索されてきたが、責任遺伝子の同定には至っていない。近年、ASD の遺伝性はこれまで見積もられていたよりも低く、 むしろ環境要因が ASD により大きな影響を与えている可能性が報告された (Hallmayer et al, 2011) 。 環境要因は DNA メチル化やヒストン修飾に影響を与え、エピジェネティック過程は遺伝要因と環境要因のインターフェースと考えられている。(「自閉症死後脳縫線核メチル化状態の網羅的解析」 松﨑秀夫、岩田圭子、中林一彦 、中村和彦、秦健一郎 、森則夫 、2015、PDF

信頼性がおける研究かどうかは知らないが、英文ならこんなのもある。

Genetics can play an important role in many neurodevelopmental disorders, and some cases of certain conditions such as intellectual disability are associated with specific genes. However, most neurodevelopmental disorders have complex and multiple contributors rather than any one clear cause. These disorders likely result from a combination of genetic, biological, psychosocial and environmental risk factors. A broad range of environmental risk factors may affect neurodevelopment, including (but not limited to) maternal use of alcohol, tobacco, or illicit drugs during pregnancy; lower socioeconomic status; preterm birth; low birthweight; the physical environment; and prenatal or childhood exposure to certain environmental contaminants.14-21 (Neurodevelopmental Disorders、America's Children and the Environment | Third Edition, Updated October 2015、PDF)

自閉症者の死後脳が萎縮しているという「エビデンス」があったって、自閉症的生活をおくったから萎縮したかもしれないじゃないか? ようは原因と結果を混同させている可能性は疑わないんだろうか? 

もうひとつ今行き当たった文を貼り付けておくがね、結局、最初期の母子関係が大切なんだよ。

A history of onset before three years, severe problems with eye contact, poor capacity to read no verbal behaviour, being classified as a child as ‘odd' or eccentric, being bullied as a child, having an unusual accent, childhood echolalia, fascination with spinning objects and spinning the body, preservation of sameness, clumsiness and severe sensory issues suggest Autism/ Asperger's Syndrome. A very detailed early childhood history is very critical in making the correct diagnosis with this the appropriate treatment. Misdiagnosis leads to frustration for the person themselves, their families and psychiatrists.(Michael Fitzgerald, SCHIZOPHRENIA AND AUTISM/ASPERGER'S SYNDROME: OVERLAP AND DIFFERENCE、2012,PDF

もちろん「冷蔵庫マザー refrigerator mother」ーー「母親非難 mother-blaming」モデルの主要な起源のひとつーーの考え方の創始者カナーのように言ったら言い過ぎさ。

ほとんどの患者は、親の冷酷さ・執拗さ・物質的欲求のみへの機械仕掛式配慮に最初から晒されていた。彼らは、偽りのない思いやりと悦びをもってではなく、断片的パフォーマンスの視線をもって扱われる観察と実験の対象だった。彼らは、解凍しないように手際よく「冷蔵庫」のなかに置き残されていた。(レオ・カナー、In a public talk quoted in Time magazine in 1948ーーだれもが自閉症的資質をもっている

ラカン派における母ってのは、たんなる母じゃなくてまずは「象徴的母」だ。最初の大他者という意味での。この「母」の鏡には、かつてはモラルやよき慣習などが映っていたはずだけれど、いまこの鏡に映るのは、負け犬にならないようにね、お金がなによりも大切よ、ってのしかほとんど映らないんだよ。

これが最もベーシックなラカン理論だな、二年ほどまえ粗訳したポール・バーハウの文のさわりを引用しとくがね。

…… 結論としては、アイデンティティとは構築 construction に帰着するのです。そこでは文化が決定的な役割を果たします。これは私たちに別の二つの問いをもたらします、どうやって構築されるのか、そしてこの構築の内容はなんなのだろう、と。この問いに答えるための十分な科学的根拠があります。そこには二つの過程が働いています。すなわち同一化 identificationと分離 separationです。

同一化は今ではミラーリングmirroring(鏡に反映すること)と呼ばれます。そして、それは同一化を言い換えるとても相応しい仕方です。このミラーリングは私たちの生の最初の日から始まります。赤子はお腹がへったり寒かったりして泣き叫びます。そして魔法のように、ママが現れます。彼女は心地よい声を立て、赤ちゃんに話しかけます、彼女が考えるところの、なにが上手くいってないのかを乳児に向けて語り、彼女自身の顔でその感情を真似てみせます。このシンプルな相互作用、何百回とくり返される効果のなんと重要なことでしょう。私たちは、何を感じているのか、なぜこの感情をもつのか、そしてもっと一般的には、私たちは誰なのか、を他者が告げ私たちに示してくれるのです。空腹とオシメから先に進み、世話をやく人から子どもへのメッセージは、すぐに、よりいっそう入り組んだものになり、かつ幅広くなります。

幼児期以降、私たちは継続的に、なにを感じ、なぜそう感じ、これらの感じをどのように取り扱うか、取り扱うべきでないかを教えられています。私たちは聞くのです、良い子なのかいたずらっ子なのか、美しいのか醜いのか、おばあちゃんのように頑固なのか、パパのように賢いのか、と。同時に、自分のカラダや他人のカカラダで何ができて何ができないのかを聞かされます(すこしは大人しく座ってなさい! あなたの弟にかまいすぎないで! ダメよ、耳にピースなんてしたら!)こういったことすべては、私たちは誰で、どうすべきで、どうすべきではないかを明らかにします。

どの心理学理論も認めています、これらの乳幼児と母のあいだの最初のやり取り、そして子どもと親たちのあいだのそれの重要性を。それはアイデンティティの構築のためのものなのです。とはいえ、この重要性はある片寄った観点を導き入れます。私たちは忘れがちになってしまうのです、両親はただ彼ら自身が受け取ったもののみを鏡に反映するということを。彼らのメッセージは無からは生まれません。私たちの家族は、自分の文化、ーー地方の、宗教の、国民の等々ーーの重要な考え方を鏡に反映させるのです。物語や考え方、それは、家族や私たちが所属する社会階級、わたしたちがその部分である文化によって、私たちに手渡されるのですがーー、こういったものすべての鏡が、混じりあって、象徴的秩序、より大きな集団の偉大なる語り the Great Narrative を作り上げるのです。それが多かれ少なかれ共通のアイデンティティを生みます。より多くの語り(ナラティヴ)が共有されれば、よりいっそう私たちは似たもの同士になります。(Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary ーー「アイデンティティ」という語の濫用/復活

これも仮説さ、だがわたくしは(いまのところ)この仮説をとるってだけだ。「いかさまエビデンス」ーーシツレイ!--じゃなくてね。

いずれにせよ、わたくしは異なった観点を紹介しただけだ。だというのに、なぜアツくなるんだろ?そんなに遺伝とかエビデンスが好きかね?

であるなら、あまりお話ししたくないタイプだな、わたくしはそっち系はまったく音痴なのでね。




あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる

◆Paraphrase on Mozart’s “Alla Turca” / Yuja Wang



Yuja Wangの隠れファンでね、彼女だったらなにやってもいいよ

もともとは静かで端正な演奏が好きなんだけどさ、彼女は別さ

あの女の目や、頬や、唇にはことばがある。いや、脚も話しかけてくる。[There's language in her eye, her cheek, her lip, Nay, her foot speaks. ]((シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』 )

◆FIERY ENCORE BY YUJA WANG! Carmen Variations (Bizet/Horowitz)



神様に愛されたのさ、彼女に文句をいう奴の気がしれないね

王羽佳、--なんという美しい名だ、ひとつの詩だよ





2017年2月4日土曜日

「仮性の自閉症」という「疑似風土病」

「自閉症」増大という新自由主義のやまい」にコメントが入っているが、わたくしは専門家でなく、そして「自閉症」自体にはいままであまり興味がなかったということを示している。

かつまた何か新しいことを言いたいわけでもない。すべて引用した資料にもとづく憶測である。その憶測の仕方が悪いのか、あるいは文献に異議があるのかを示していただけないと返事のしようがない。

自閉症自体についてはあまり興味がなかったと記したが、不思議な現象についてはやや興味がある。


(現代の流行病「自閉症」)

そして次の文章をネット上から拾って訳出し提示した。

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタル・ディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。その要因とは、諸個人が常には逃れえないものである社会的・経済的要因であり、犯罪・暴力・居住環境の貧困・借金などだが、人はそこに、仲間‐競争者を凌ぐように促す新自由主義的圧力を付け加えうる。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)
私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

以下の文はいままで引用していないが、これもわたくしの考え方のベースのひとつ。

子どもが何らかの理由で親に叱られた場合、子どもは親の言葉に何の返事もせずにじっとし て黙っている場合がよくあります。それは子どもが親の言葉に少しでも反応すると、それを きっかけに次々と親の言うことを聞いて親の論理に入っていかなければならなくなるからです。 ここで子どもは自分の特異性を守るために沈黙し、一種の仮性の自閉症で親に対抗してい るのだといえましょう。 (向井雅明『自閉症について』 2016年

これらから、新自由主義社会における自閉症診断の激増は、社会的な脅威による「仮性の自閉症」のせいではないかという仮説である。

ポール・バーハウ2009の文をもうすこし長く引用しておこう。

(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

以上

秘めた愛

◆Barbra Streisand - Verschwiegene Liebe(ヴォルフ、秘めた愛)




いやあわるくない、低音はややお腹の空気がはやく抜けすぎる感がなきにしもあらずとはいえ、バーブラ・ストライサンドの高音は限りなくすばらしい。

ヴォルフなどめったに聴かず、この「秘めた愛」はたぶんはじめて聴く。

◆Barbara Bonney; "Verschwiegene Liebe"; Hugo Wolf



Barbara Bonney はフォーレ歌いだからよく聴くが(わたくしはフォーレファンである)、彼女の声はときに子供っぽくきこえてくるときがある。でも伴奏のピアニストのGeoffrey Parsonsってのはなかなかいい。

ヴォルフ歌いのシュヴァルツコップの「秘めた愛」は、ざっとみてみたかぎりでは、YouTubeにない。

Streisand as Schwarzkopf

The voice that is "one of the natural wonders of the age" confronts The Masters
by Glenn Gould

I'M A STREISAND freak and make no bones about it. With the possible exception of Elizabeth Schwarzkopf, no vocalist has brought me greater pleasure or more insight into the interpreter's art.

グールドはジョークを言っているわけではない。

◆Barbra Streisand - Mondnacht




もし欠陥があるとするなら、高音があまりにも無理なく滑らかに出てしまうことだ。

ーーと記して想い出したが、ときに下手糞のほうがいい?場合がある。ロ短調ミサのサンクトゥス(カール・リヒター指揮)のトランペットのギリギリの音に少年時代イカレタのだが、その後もっと上手いトランペット奏者の演奏をきいて失望したことがある。

◆J.S.Bach: Mass in B minor BWV 232 22. Coro- Sanctus [Richter]



ーーいやあ今聴いてもシビレル、4分41秒あたりからがことさら死ぬぐらいいい。グールドのBWV914の後半と同じぐらい。

◆Glenn Gould - Bach Toccata BWV 914(以下は後半部分のみ)





シュヴァルツコップも聴こう、彼女の「Die Bekehrte(心変わりした娘)」はとても美しい。ムーア伴奏のものをよく聴くが、フルトヴェングラー伴奏を見出した。

◆Hugo Wolf -- 2 Lieder -- Schwarzkopf & Furtwängler (live, 1953)




シュヴァルツコップのほうがいいに決まってるさ、バーブラ・ストライサンドよりもずーっと。


2017年2月3日金曜日

詩人中井久夫の離れ技

以下まずはネット上から拾った文(座談会「中井久夫に学ぶ」『中井久夫の臨床作法』2015所収)。

山中康裕)「先生は『僕は患者さんにはあまり訊かないし、しゃべらないし、黙っていることが多いんだよね』とおっしゃるのですが、それはまったく嘘です。」

「診察中に、隣の診察室の中井先生の声がうるさくて僕の患者さんの声が聞こえないので、先生もうちょっとしゃべらずに静かにしてくださったらいいのになあ、と思ったことが何度かあるのです。」

「そういう時に、診察が終わってから『先生、もう少し声のボリュームを下げて頂けないでしょうか』と申し上げたら、『山中くん、僕はしゃべっていないよ』と必ずおっしゃったのです。」

「あの時、僕が思ったのは、先生ご自身としてはしゃべっていないおつもりなのです。だけど独り言が出るのです。これは僕なりの考えなのですが、その独り言が患者さんにとってはすごくいいのです。ですからしゃべってはいけないという意味ではないのです。」

いやあ、すごい話だな

うまくいっている面接においては「自分」が透明になり、ほとんど自分がなくなっているような感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこういうものであろうか。自分の行為の意味をいちいち意識する面接はたいていうまくいっていない。これは、自動車運転の初心者に起こることとおなじであろう。(中井久夫「統合失調症の精神療法」)

ーーということなのだろうか?

とはいえ次のような形に近いということも考えられる・・・

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家の諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないだろうか?(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

あるいは「詩人の「離れ技 tour de force」ということなんだろうか?

・私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème. (Lacan,17 mai 1976 AE.572)

・ポエジー poésie だけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。(ラカン、S.24.1977).

(これは)たんなる詩の問題ではない。これは、意味の効果でありながら、また穴の効果でもある詩である。

意味とはシニフィアンの助けにて共鳴するものだ。しかし共鳴は十分ではない。それはむしろ穏やかだ。意味は共鳴を拭い去る。

意味は我々を眠りに誘う。詩も同じく。もし詩が意味から意味へと移行するなら。

眠りから覚めるのは、我々が理解しないときである。

この「新しいシニフィアン」--問題となっているのはシニフィアンの別の使用法であるーーが目を眩ます効果をもつ。そのとき意味の眠りから身を起こす。
.
この強制するもの forçage が詩を通して作働する。

詩人の「離れ技 tour de force」は、意味を不在にすることである。le « tour de force » du poète est « de faire qu’un sens soit absent »(ミレール、2007ーーInterprétation, semblant et sinthome por ANNE LYSY-STEVENS)

《意味の効果でありながら、穴の効果でもある詩 c’est une poésie « qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou »》とあった。

ミレールによる穴の定義は次の通り。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ミレール派の Pierre-Gilles Guéguen は次のように記している。

主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(Guéguen、LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」、2016,PDF

※ララングについては、「中井久夫とラカン」を参照。

…………

※付記

――ここからすこしの間は頭の中の対話として述べたい。それは私の発想が在と非在との間をゆれ動いている時期をもっとも忠実に再現するものと思う。それはポール・ヴァレリーの『若きパルク』の冒頭三行である。

すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか?
いやはての金剛石〔ほしぼし〕とともにひとりある このひとときに ……
誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。

「パルクは深夜にめざめる。おそらく夜の半ばだろう。宇宙の地平に明滅するいちばん遠い星がいちばん近く感じられ、その他はすべて闇だというなかにめざめる。私が泣くという自己所属性の意識はない。すぎゆくひとすじのような風にまがう、かそかな泣き声。それは、誰の泣き声なのか。パルクはおのれを知らない。身体のほとんどはめざめていないのだから。しかし、あまりにわが身に近い。ほとんどわが身からのようではないか ……そんな意味であろう。運命の糸をつむぐのがギリシャ神話のパルクだが、このパルクは後の詩行でわかるとおり、おのれの運命を紡ぐ点てユニークなパルクだ。何の予兆とも知らされていないが、しかし、ほとんど現前するもののない世界だ。これは純粋予感だ。あるいは発生機状態in stato nascendi にある予感だ。」

「世界は、索引でもある。手近かにはプルーストだろうね。一枝のサンザシが、すりへった石段のふみごこちが、三つの塔の相互関係の視覚的変転が、紅茶にひたしたマドレーヌ菓子が、それぞれひとつの世界をひらく。「索引」とはいささか殺風景なことばだが、一見なにほどのこともないひとつの事象がひとつの世界に等しいものをひらくわけだ。」

「そう、たとえばアカシアの並木は私にはひとつの世界をひらく鍵だ。おさない時、私は宝塚市小林の聖心女学院の下にいた。その通学路のニセアカシアのかおりは、私の幼年時代をひらく魔法なのだ。こうやって開かれるものと、眼前にあるものとのあいだには、同一世界内の記号間の関係ではないね。記号は、ひとつの世界の一部であるのだから。」 (中井久夫「世界における索引と徴候」)

わたくしが中井久夫に最初に驚いたのは次の文だった。もう25年ほど前になるが。

往診して初めて解けた初歩的な謎がいくつもあった。たとえば、ある少女が、十年来、まったく眠れないと訴えつづけていた。また、傍らに魔女がいるとも。私は、外来でその謎が解けないまま、何年も診てから、友人に後を頼んで転勤した。しかし、二度目の転勤先に頻繁にかかってきた電話は、現主治医とともに往診することを私に決心させた。それは患者の希望でもあったが、私の心の中に謎を解きたいという気持ちが動いてのことだったのも否めない。

市営住宅の一つに少女の家はあった。父は去り、母と二人住まいであった。少女は白皙といってよい容貌に、二十歳を過ぎているとは思えないあどけなさを残していた。十歳にならないころ、まず母の診察に伴って私の前に現れ、次いで診療の主役となった当時の面影はほとんそそのままであったが、十年の閉じこもりが、そのうえに重なっていなかったわけではない。旧知の母は私を歓迎した。私たちは道に迷い、夜になっていた。豪雨であった。

十年の全不眠はありにくく、まして体重が減少しないでそうであるということはまずありえない。質問に応じて少女は頭痛と眼痛と脚の痛みとを訴えた。私は、脈をとった。一分間に一二〇であった。速脈である。これは服用中の抗精神病薬いよるものかもしれなかった。しかし、彼女はまったく気づいていない。私は舌を診た。ありえないほどの虚証であった。長年の病いは、「雨裂」と地理学でいう、雨に侵食された山の裸のような甚だしい裂け目を舌の実質に作り、舌の厚さは薄く、色も淡かった。それにしても脈は細く数が多い。私は脈を取りつづけた。少女は静かにしていた。私は、椅子にすわっている少女の前の床に座って、もう一方の手を足の裏にそっと当て、そのままじっとしていようとした。

なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部にふれることは危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった。

時間がたっていった。母親が話しかけようとするたびに私は指を口唇にあてて制止した。私はこの家の静寂を維持しようとした。私は、ここまできたら、何かがわかり、少女が眠るまでは家を動かない決意をしていた。じっと脈をとっていると、私の脈も次第に高まってきた。身体水準での「チューニング・イン」が起こりつつあった。この能力に私は恵まれているが、それは両刃のやいばであって、しばしば、私はこの状態からの脱出に苦労してきた。ついに彼女の脈と私の脈は同期してしまい、私の脈も一分間一二〇に達した。しかも、ふだん六〇である脈が倍になれば、ふつうならば坂道を登る時のような息切れがあるのに、今の私には、まったく何の苦痛もなかった。逆に時間の流れがゆっくりになった。眼前の時計の歩みの速さがちょうど半分になった。すべてが高速度写真のようにゆっくりし、すべての感覚が開かれ、意識が明晰になった。これはおそらく少女が日々体験しているものに他ならないものであった。何の苦痛もないことが奇妙であった。ふと私は身の危険を感じた。五十歳代の半ばに近づいており、循環器系を侵す病気を持っているーー。
感覚の鋭敏さの中で、私はガシャガシャガシャという轟音を聞いた。その轟音の音源はすぐわかった。母親が食事を作っている音である。力いっぱいフライパンを上下しているのだ。ついで鍋の中をかきまわす音。この音のつらさは、静寂の中で突然起こり、ほとんど最大限に達して、突然消えることであった。その耐えがたさは、静かな瀬戸内の島に橋がかかり、特急列車が通過する時に島の人が耐えられないと感じる、その理由と同じものである。それは、音の大きさの絶対値だけではない。それもあるが、さらに苦痛なのは絶対に近い静寂が突如やぶられる突発性である。静かな場に調整されている耳は、騒音に慣れている耳とは違う。そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当っているだろう)という認知に当っている。声の微細な個人差を何十年たっても再認し、声の主を当てるのが聴覚である。この微分回路は「突変入力」に弱いのである。ゼロからいきなり立ち上がる入力、あるいは突然ゼロになる入力のことである。その苦痛であった。

いま私は少女の状態に一時的に近づいている。私が耐えがたい轟音として聞いている、この台所仕事の音は、長年これを聞いている少女にはさらに耐えがたいであろう。突変入力がはいるたびに、少女の微分回路は混乱するにちがいなかった。「家にいる目に見えない悪魔」とは「突変入力」によるこの惑乱ではないかと私は仮定した。母親の側には突然最大限の力を出すという特性があり、少女には慣れが生じにくいという特性があるのだろう。それは不幸な組み合わせであるが、生活の他の面にも浸透しているにちがいなかった。

私は突然気づいた。眼前の掛け時計の秒針の音が毎分一二〇であることに。ひょっとすると、少女の脈拍は時計に同期しているのかもしれない。私はよじ登って時計をとめた。私は一家にしばらくこの掛け時計なしで過してもらうことに決めて、時計を下駄箱の中に隠した。

仮説は当たっていた。彼女の脈拍はしだいにゆっくりとなった。私の脈も共にゆるやかになった。母親は、別の部屋で主治医が相手になっていてくれるらしかった。

私は、あらためて思った。ある種の患者は、そのまったき受動性において、あらゆる外界からの刺激を粘土が刻印を受け取るように受け取るーー少なくともそういう時期があるということを私は指摘したことがある。私は、少女が時計の音にも脈が同期してしまう、まったき受動性において日常外部あるいは内部に発生する入力を処理している、いやむしろ一方的に受け入れているのではないかという仮説を立てた。解決方法は、入力の制限か、入力に耐えられるように少女に変わってもらうことだ。しかし、それは大変な問題である。差し当たって、少女が眠れれば、少なくとも、好ましいほうに何かが変わる可能性がある。母親にも本人にもある希望が、かすかにせよ、起こるかもしれない。

私の指圧は、この場合のとっさの行為である。このような未知数の多い状況においては、他の選択肢はすべて危険をはらんでいた。頭の指圧など、それだけで少女に破壊的であり、抗精神病薬なら、これまでに少女が大量に服用していないものはなく、いまさら処方するものはなかった。そして、それはそもそも主治医の問題であった。私は足の裏への軽い接触を続けた。この少女の病んできた膨大な時間の塊りの前で、それはほとんど無にひとしいが、ほかに方法は思いつかなかった。ことばも無力であった。「おりこうさん」的な返事しか返ってこないことを私は十二分に経験していた。

医学とは別に私は指圧を少しはできないではない。私の大叔父の一人は、若いころは放蕩者だったというが、私の知る晩年は、村外れの小さな家で、村人に灸を据え、指圧し、愚痴を聴く、一種の「お助けじいさん」であった。その老人の何かを私は受け継いでいるのかもしれなかった。しかし、鍼灸指圧の職業人ではない私は、通常一人か二人でへとへとになるので、ふだん患者の指圧はしないようにしている。後の患者を診る力がぐっと減るのである。

一時間半後、頭痛は去り少女は眠気を訴えた。いい眠けか、いやーな眠けかと私は問うた。いい眠けであった。私は「隣りの自分の部屋に行ってもいいよ」といった。少女はそっと部屋に滑り込んだ。頭痛などは筋緊張のせいであり、少女の筋緊張がゆるむのを先ほどから私は彼女の足の裏に感じていた。

ここで当然、母親が世話をやこうとした。当然といえば当然の行為であるが、私は、母親のいつもながらの、声帯をいっぱいに緊張させた声でこの一幕を台無しにしたくなかった。思いついたのは、釈迦が自分の出身部族を攻撃に来る王の軍隊の踵を二度めぐらせた、その方法である。私は、その部屋のまえで座禅を組んだ。われながら三文芝居と思ったが他に方法はあっただろうか。「悟り」を求めようとさえしなければ、まあ無念無想というのであろう状態に入ることはむつかしくない。外からみれば周囲の事物あるいは風景の一部になってしまうこととなろう。母親はさすがにたじろいだ。二十分も経ったろうか。隣室から寝息が聞えてきた。とにかく私は何かを達成したのだ。

しかし、問題は、よい残留効果を残しつつどのようにしてこの一幕を閉ざすかであった。私は、母親に、今日は少女を食事に起こさず、このまま眠らせて、明日も起こさないことを頼んだ。実際どれほど大量の眠りが溜まっていたことだろう。そして、掛け時計をしまったことを告げ、私の腕時計をとっさに渡してしばらくこれでやってほしいといった。母親は頷いた。そして、隣室に盛大に用意されている食事に誘った。

私は迷った。彼女は福祉の保護を受けている身である。せいいっぱいの献立であった。しかし、私の目的は母親ではなかった。母親とは当人である少女以上にここで親しくなってはならなかった。動きたく、世話をやきたい彼女を抑えて少女を眠らせつづけることに私はエネルギーを使いつつあった。食事は、当然、私の緊張をほぐし、母親とのいささか馴れ合いを含んだ関係を作るだろう。しかし、いただかなければ、母親がこの食事を捨てる時の気持ちは、索漠とした、受容されなかったという感情となるにちがいない。それは少女にどうはね返るだろうか。

結局、私は、合掌して真ん中のごちそうに象徴的に箸をつけた。そうして合掌したまま、後ろずさりに家を出た。主治医がいくばくかのことばを交して私の後を追った。

閉じ方がこうであってよかったのか、今も思い返すが、結論はまだ揺れている。私は、ある漢方薬を医師に勧めた。主治医にどう見えたかを聞くと「何か芝居がかったことをしていたとしかわからない」といい「しかし、あの家で静寂が二時間あったということはなかったでしょう。二時間の状況をあそこにつくり出したということですね」と答えた。

私はまだまだいろいろなことを語ることができるだろう。しかし、もはや語るには、私の内心の抵抗が大きすぎる。私が経験したことをすべて語るならば、それは、さすがに憚って、かつて公刊されたことのない、精神分析のほんとうの生の記録を公開するに等しいことになるだろう。むろん、その際に私の中で起こっていたこと、私のその都度その都度の仮説とその修正とを詳細に述べなければ、事態は、半面しか見えず、フェアでなく、また読む者を誤った方向に連れてゆくであろう。

ここで、精神分析においては詳細な記録とされるものが、往診においては単なるフィールド・ノート程度であることに注意していただきたい。個人は、抵抗のすえに初めて無意識の秘密をいくらか明らかにするが、家族、少なくとも危機にある家族への往診は、一挙に家族の意識を越えた深淵を明らかにする。しばしば、それは「見えすぎる」のである。(中井久夫「家族の深淵」1991年)

2017年2月2日木曜日

「自閉症」増大という新自由主義のやまい

さて「自閉症」第三弾である。

①「現代の流行病「自閉症」」にて自閉症診断増大は、「金」のせいであるとした。
②「だれもが自閉症的資質をもっている」にてはこの表題が示す通りのことを示した。
③そして今回は、「自閉症」増大という新自由主義のやまい、という表題を掲げた。

なにかそれぞれ言っていることが相矛盾しているようにも感じられるが、これはヘーゲル流の「否定の否定」である・・・

…………

まず、①にて引用したなかでの核心的な文のひとつをいくらか長く訳出して再引用する。

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタル・ディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。その要因とは、諸個人が常には逃れえないものである社会的・経済的要因であり、犯罪・暴力・居住環境の貧困・借金などだが、人はそこに、仲間‐競争者を凌ぐように促す新自由主義的圧力を付け加えうる。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)

ここに社会的・経済的要因として付け加えられた「新自由主義的圧力」とは次のようなものである。

我々の社会は、絶えまなく言い張っている、誰もがただ懸命に努力すればうまくいくと。その特典を促進しつつ、張り詰め疲弊した市民たちへの増えつづける圧迫を与えつつ、である。 ますます数多くの人びとがうまくいかなくなり、屈辱感を覚える。罪悪感や恥辱感を抱く。我々は延々と告げられている、我々の生の選択はかつてなく自由だと。しかし、成功物語の外部での選択の自由は限られている。さらに、うまくいかない者たちは、「負け犬」あるいは、社会保障制度に乗じる「居候」と見なされる。(ポール・バーハウ「新自由主義はわれわれに最悪のものをもたらした、ガーディアン (The Guardian、2014.09.29

これはすでに日本でも1989年以降指摘されている内容とほとんど等価である。

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009
今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)。

冒頭の文で、英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)のDSM批判とされる「メンタル・ディスオーダー」の診断区分は、《支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している》とされていた。

環境のせいか、あるいは資質のせいかは別にして、支配的社会規範(新自由主義)に適合性が欠けるようになり、他者との折り合いがうまくいかなくなった人たちが、「メンタル・ディスオーダー」の範疇に入れられがちだ。そして彼等は「社会的負け犬」への道を歩む。そのようにここでのわたくしは当面捉えることにする。

この社会的負け犬、あるいはその予備軍の指標として、現代の流行語「自閉症スペクトラム」は機能している側面はないだろうか。

ところで上に引用しベルギーのラカン派精神分析者ポール・バーハウーー英語圏では代表的ラカン派論客のひとりであるーーは、別の論文で次のように言っている。

私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。

この見解の正否については議論があるだろうが、その前段もふくめて引用しよう。

どの社会秩序も、その成員のアイデンティティの展開を決定づける。それと同時に、そのメンバーの潜在的な障害 disorders を決定づける。(フロイト時代の)ヴィクトリア朝社会は、超厳格な超自我の圧制下、神経症の市民を生みだした。彼らは集団として、つねに自らの家父長にためにーー他の集団の家父長に対してーー、戦う用意があった。

エンロン Enron(ポストモダン)社会は、互いに競争する個人的消費者を生みだす。ラカンにとって、ポストモダンの超自我の命令は「享楽せよ!」である。

ヴィクトリア朝時代の病は、あまりにも多く集団にかかわり、あまりにも少なく享楽にかかわることだった。ポストモダンの個人たちの現代的病は、あまりにも多く享楽にかかわり、あまりにも少なく集団にかかわることである。

我々は狂ったように自ら享楽しなければならない。より正しく表現するなら、狂ったように消費しなければならない。数年前に比べてさえも享楽の限界は最小にしなければならない。草叢の蛇(目に見えない敵 snake in the grass)は、文字通りあるいは比喩としても、首尾よく捕まえなければならないーーそれは我々の義務であるーー。その捕獲方法は、もちろん絶えまない他者との競争によってである。このようなシステムは、トーマス・ホッブズの恐怖を正当づける、すなわち、Homo homini lupus est(人間は人間にとって狼である)。

結果は、Mark Fisher が印象的に名付けた「抑鬱的ヘドニア(快楽)depressive hedonia」である。

(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

フロイト時代の超強制倫理社会が生み出したのが「神経症」であるならば、我々の新自由主義社会が生みだしたのが「メンタル・ディスオーダー」ーーそしてその代表的なものが「自閉症」あるいは現在なら「自閉症スペクトラム」である、という論旨である。

かつまた《この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている》とあるように、「金」のせいで自閉症診断が増えたのではないか、という「現代の流行病「自閉症」」に記した内容の暗示もある。

そしてこの小論文は「文明の中の新しい居心地の悪さ」という副題をもっている。フロイトの「文化の中の居心地の悪さ」1930年の21世紀版の導入版としても読んでほしいという著者の意図だろう。

これが極論であるか否かの判断は、読み手に任せる。

ただし《(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている》というのは否定できない厳然とした事実だろう。

我々の時代の標語は、生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーション等々であり、すべて「経済のディスクール」である。そこでは、策謀や計略や慎重さを身につけ、また自分の勧告をおしつけ、相手に信じさせ、同意をうばいとってしまう種族は生きやすいだろう。

だがそうでないキャラクターは負け犬になりがちだ。

ポール・バーハウは最近の書では次のように記している。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(ポール・バーハウ2014、Paul Verhaeghe What About Me? )

悪の陳腐/善の陳腐の戦いにおいて、我々の時代は前者を特権化する。そうではないだろうか?以前からそうだったという観点もあろうが、すくなくとも「新自由主義」的非イデオロギーの時代により一層そうであるようになったのは、確かである。

…………

ここでやや飛躍して記すが、フロイト・ラカン派的な精神分析的治療は終焉間近であるのは、ほぼ間違いない。

精神医学ではDSM などの影響で精神分析的な観点は捨て去られ、現在では精神疾患には薬物療法以外の治療法はほとんどなくなっています。そして、精神療法の領域では認知行動療法が主流になってきています。(向井雅明「自閉症について」2016年)

中井久夫はすでに1989年の段階で、次のように言っている。

現在の米国の有様を見れば、精神病の精神療法は、医師の手を離れて看護師、臨床心理士の手に移り、医師はもっぱら薬物療法を行っている。わが国もその跡を追うかもしれない。すでに精神療法を学ぼうという人たちの多くは、医師よりも臨床心理士ではないだろうか。(中井久夫「統合失調症の精神療法」1989年)

だがフロイト・ラカン派の視点は、現在の経験主義的な現場の精神科医や心理士たちの多くに欠けているものがある。それはフロイト・ラカン派の精神分析的治療が斜陽であってもすこぶる貴重である。

(もっともわたくしの場合、精神医学関係の論についてはほとんどフロイト・ラカン派のみを基本的に読むので偏見があるのを疑わなくてはならない。)

フロイトもラカンも破門経験者である。フロイト自身は当時のユダヤ人ということもあり、生まれつき社会から破門されていた。ラカンは1963年に国際精神分析協会 IPA によって破門されている。

人は「被破門」マインドがなければ、制度批判的精神をもちにくい。

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)

もちろんある意味でさらに上には上がいるのであり、スピノザはユダヤ人共同体を異端の廉で、追われたのち、レンズ磨き職人として生計を立てた。

フロイト・ラカン派ではないが、わたくしが敬愛する日本の精神科医中井久夫も「破門」経験者である。

私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。

私が自由検討を維持するためにはかなりの努力を要する状況があった。ヴァレリーは、頭をまったく自由な状態に保つために役にたってくれた。主に彼の散文である。ヴァレリーは危機感受性とでもいうべきものがある。個人的危機の解決が政治的危機への対応を呼び醒ますのである。私の場合がそうであるかどうか、おのれでは定めがたいが、私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)

たとえば多くの場合「制度の人」たちである経験論的専門家たちは社会批判に向うことはすくない。

制度とは、語りつつある自分を確認する擬似主体にまやかしの主体の座を提供し、その同じ身振りによってそれと悟られぬままに客体化してしまう説話論的な装置にほかならない。それは、存在はしないが機能する装置なのである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。(蓮實重彦『物語批判序説』)

わたくしは今回、日本の精神科医やその関係者による「自閉症スペクトラム」の記述がある10ほどの論ーー精神科医らしきひとのブログ記事も含めばもうすこし多いーーを読んでみたが、半数ほどは、その猫撫で声文体と社会規範に折り合いをつけるのみのマインドに溢れ返った様に罵倒したくなった。いやいやこの話題はやめておこう・・・

とはいえどうしようもない連中が多すぎる、医師といえばある程度「聡明な人たち」の集団であるはずだが、《世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿》(小林秀雄)と呟きたくなってしまう。たとえば「自閉症スペクトラム」が、現在の社会で負け犬、あるいは負け犬予備軍の「有徴」印として機能しているのではないかと疑う素振りさえない連中が多く、のほほんとエビデンス主義にのっとって感想文でしかないことを学会などで発表している・・・

逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。 (千葉雅也ツイート)

《医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」という》(中井久夫『精神科医がものを書くとき』)のだそうだが、実にいつわりのへりぐたりによる猫なで声で脅しマインドを隠蔽しつつもっともらしく語っているあの連中・・・制度の腐臭にまみれたアホウドリども・・・

いやいやもうやめておこう……いずれにせよ社会批判の観点が生まれるのは「心理学」ではなく、フロイト・ラカン派の「メタ心理学」的態度である。

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

「超越論的」とは、最も基本的には、自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということである。

ここでバーハウの「激烈な」DSM批判の文を「現代の流行病「自閉症」」から再掲しよう。

DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007、PDF )
精神医学診断における想定された新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。 (“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007 – Health4Lifeconfererence – DCU)

そして、もしDSM が裸の王様であるにもかかわらず、精神医療に携わる人がそれに依拠し続けているのなら、それはおそらく、専門家とは、自らを支えるパラダイム(諸条件)の変容を抑圧する集団から、ということが言いうる。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

だが我々にとって、《もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。》(柄谷行人『隠喩としての建築』)

誠実・真摯・聡明な人たちでさえ(おおむね)、新自由主義という釈迦の掌で、なにやら対策を練ったつもりになっている猿に過ぎない。

そしてその対策は事実上、次のような形で機能する。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の抑圧と奴隷へと導く。(Levi R. Bryant 2008,PDF)

というわけだが、このあたりで「自閉症」についての話題はやめにしておく。以上は、一夜漬けならず三日漬けの「成果」であり、つまり自閉症についてほとんど無知であった「蚊居肢散人」が記しているわけで、「強い疑い」をもちつつ読まねばならぬ・・・


…………

※付記

日本でもやや年配の「まともな」精神科医が次のように言っているのを見出した。

……こうしてみると,DSM は精神病理学と科学哲学を 2つの柱にしつつ,そのいずれもが,専門的見地からみるなら初歩的な水準にとどまっています.そのようなものが,その後3 0 年以上も生き延び,それどころか世界の精神医学の指導原理となっているのは,不思議といえば不思議なことです.
DSM が臨床の現場に弊害を与えたとしたならば,それは第Ⅲ版ではなく,第Ⅳ版(1 9 9 4 )の時代ではないでしょうか.第Ⅲ版も第Ⅳ版も操作的診断学として,その基本骨格は同じです.しかし第Ⅲ版では, 「この診断マニュアルは,精神科の基本的診断ができるようになっている人が使用するように」 ,という但し書きが付けられています.つまり一定の臨床経験を積んだうえで使うものと位置付けられているのです.われわれもそれを確認して納得したものです.

実は,第Ⅳ版にもそうした但し書きがいくらか記載されているのですが,たいていは無視されています.ちなみにその箇所を読まれた方はどれくらいおられるでしょうか.第Ⅳ版の時代になって,米国の精神医学は謙虚さを失いました.そして誇りと自信を失った日本は,それに唯々諾々と従っているわけです.
…現在の診断学では信頼性が暴走しています.たとえば経験豊かな精神科医でも,駆け出しの研修医でも同じ診断にならなければならないというのは乱暴な話です.さらには臨床に携わったことのない研究者でも同じ診断になるならば,臨床知は捨て去られることになります.なぜなら,一致させるためには,低きに合わせざるをえないからです.こうした体たらくでは,素人にばかにされるのもいたしかたありません.([うつ病の臨床診断について]、内海健、2011、PDF)

DSM第Ⅳ版(1 9 9 4 )以降の世代の精神医療にたずさわる人たち、すなわちこれまた市場原理主義がおおっぴらに席捲するようになった時代の人たちはおおむね、わたくしのような《素人にばかにされるのもいたしかたありません》テイタラクにあるらしいよ




2017年2月1日水曜日

だれもが自閉症的資質をもっている

まず今では悪評高い「冷蔵庫マザー refrigerator mother」ーー「母親非難 mother-blaming」モデルの主要な起源のひとつーーの考え方の創始者の文を掲げる。

ほとんどの患者は、親の冷酷さ・執拗さ・物質的欲求のみへの機械仕掛式配慮に最初から晒されていた。彼らは、偽りのない思いやりと悦びをもってではなく、断片的パフォーマンスの視線をもって扱われる観察と実験の対象だった。彼らは、解凍しないように手際よく「冷蔵庫」のなかに置き残されていた。(レオ・カナー、In a public talk quoted in Time magazine in 1948)

カナーはもちろん(ほぼ現在に使われる意味での)「自閉症」概念(1943年)の創始者の一人である(アスペルガーがやや先行して1938年にこの語を使用している)。

そこでの自閉症とは「他人とコミュニケーションができない症状」という意味。

さらに言えば、autismの語源はドイツ語のAutismusであり、ギリシャ語のautos-(αὐτός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語で、フロイトと一緒に仕事をしたスイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが「統合失調症患者が他人とコミュニケーションができない症状」を記述するために、1910年に用いたそうだ(参照)。アスペルガーによる「自閉症」概念の使用もブロイラーの記述をもとにしているという。いずれにせよ、autismとは、本来は「自己状態」ということであり、「閉じる」の意味は元からない。

ーーというおそらく「常識的」なことを今頃知った。autismが自己状態であるならば、いままで異和のあった表現もなんの問題もなくなる。たとえば「自閉症スペクトラム」とは、自己状態スペクトラムである。これであったら何の異和もない。自己状態から他者状態ーーたとえば言語という他者状態ーーに移行するのは、言語という道具がなければ生きていけない人間として已む得ないにしろ、その他者に囚われていることに気づかないままのほうがむしろ「病気」かもしれない。

ラカンは言語という他者に囚われることを疎外といったり象徴的去勢といったりする。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante(Lacan,S17, 18 Mars 1970)
…主体の最も深刻な疎外は、主体が己自身について話し始めたときに、起こる。 (ラカン、ローマ講演 ,Ecrits, 281、1953)

数多くのヴァリエーションがあるが、そのなかからいくらかを掲げておこう。

先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化 l'éterrusation de son désir をもたらす。(ラカン、ローマ講演、1953年)
フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
幼児は話し始める瞬間から、その前ではなくそのまさに瞬間から、抑圧のようなものがある il y ait du refoulement、と私は理解している。(Lacan,S.20, 13 Février 1973)

さて話を元に戻せば、「冷蔵庫マザー」概念を言い出したのは、べッテルハイムではあるが、上のカナーの文を読めばわかるように、実際の起源はカナーである。

ベッテルハイムは、ホロコーストの生存者だった(1939年のヒトラーの誕生日、強制収容所から逃げ出し米国に移住した)。彼曰く、自閉症の子供たちはホロコーストに置かれるのと同様な「極限状況」に苦しむ。そしてそれは母の情緒遮断・愛情欠如によって引き起こされると(参照:PDF)。

※ここでの文脈と異なるので敢えて引用しないが、「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」について、意想外の研究結果を以前メモしたことがある(参照)。


ところで《現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷》としているらしい。これは現在のポリティカル・コレクトネス規範などの観点からは、母親非難、ましてや「冷蔵庫マザー」などとは(ヨイコは)口が裂けても言ってはいけない、言えないという文脈のなかで捉えられる。

ラカン派臨床家の向井雅明氏は『自閉症について』 2016年にて、この経緯を次のように説明している。

自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。

生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。

ただしこうもある。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)

これも当然そうあるべきだろう。そして主体的選択とは原初の母子関係における主体的選択にかかわる。いずれにせよ、たんに「遺伝」が原因と言ってしまっては何も始まらない。いや次のようなことは始まるかもしれない。

前回引用したが、仏ラカン(ミレール)派のAgnes Aflaloはの文を再掲しよう。

自閉症の領野の拡大は、市場のひどく好都合な拡大をもたらす。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Report on autism,2012

もうすこし一般的には、次のような言い方もされる(この文はそのうちもう少し長く引用することにするが、今回ではない)。

(自閉症・メンタルディスオーダーの類の)精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。(ポール・バーハウ2009,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)

…………

ところで現在ラカン派ではファルスの彼方にはーーフロイトの「快原理の彼方」にはーー自閉症的享楽 jouissance autiste がある、とされる。

まずはラカンのファルスの彼方をめぐる文を引用する。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…

ファルスの彼方 Au-delà du phallus……ファルスの彼方の享楽である!(Lacan20、20 Février 1973)

たとえば Jean-Luc Monnier 2015によれば、話す身体は、身体の享楽、自閉症的享楽とされている。

言存在の身体 Le corps du parlêtre は、主体の死んだ身体ではない。生きている身体、《自ら享楽する身体 se jouit 》である。この観点からは、身体の享楽 jouissance du corps は、自閉症的享楽 jouissance autiste である。(L’HISTOIRE, C’EST LE CORPS

Jean-Luc Monnier 2015の文は、Florencia Farìas、2010の文とともに読むことができる(参照:歌う身体の神秘)。

言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、,PDF

「言説に囚われた身体」とは、ほぼ「ファルスに囚われた身体」と等しい。わたくしはこれらから、だれにでも原初には自閉症的享楽がある、あるいはファルスの鎧を取り払ったら自閉症的享楽が現われる--、そのように読む。

自閉症的享楽については、ミレール派の主要論客であるPierre-Gilles Guéguen2016も同様の考え方である。

肉の身体 le corps de chair は生の最初期に、ララング Lalangue によって穴が開けられている troué 。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴ウマ troumatism の反響を見出す。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を示す。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016)

ほかにも次のような記述がある。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)

これらは最晩年のラカンの次の言葉がヒントのひとつになっているようだ。

精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家の諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないだろうか?(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

ミレールはこの文に次のようなコメントをしている。

もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan,2002)

ただしPierre-Gilles Guéguen 2016は、別に「器官なき身体 les corps sans organes」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」ということも言っている(参照:話す身体と分裂病的享楽)。


自閉症と分裂病はどちらが先行するものだろうか。

たまたま次のような記述を拾った(WIKI:冷蔵庫マザーの項)。

自閉症は統合失調症的気質の基本的な性質である。それは合併して明らかな統合失調症にもなりうる。自閉症児は、もしその子が適切な治療を受け、家族からもフォローが得られるのであれば(しばしば家族はこの症候群の原因でもある。特に家族が子供に度の過ぎたことをしたり、過剰に完璧主義的な育て方をした場合にはそうである)多かれ少なかれ完全に治療可能である。だが、たとえその問題が解消されようとも、その子供はそれでもなお普通に落ち着いた人間関係を構築することが困難である。(Rizzoli-Larousse Encyclopedia 2001年版)

ここで現在DSM5では、自閉症スペクトラムと分裂病スペクトラム(統合失調症スペクトラム)という区分がなされていることを示しておくが、実際はこの二つは容易には区別できないという議論が多いようだ。





…………

以下、中井久夫の叙述から「自閉症」にかかわる文をいくらか抜粋する。

言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 ーー「ある臨界線以上の強度のトラウマ」)

次の文は、冒頭近くに記述した自閉症概念の創始者ブロイラーの名が出て来る。わたくしはようやくここで中井久夫がブロイラーの名を出している意味合いが分かった気がする。

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。

ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』、2002)
私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性coenaesthesiaと原始感覚性protopathyとを挙げた。

もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。(……)

私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。(……)

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。

絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。

私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。(……)音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。

視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P59-60)

この最後の文は、Pierre-Gilles Guéguen 2016、PDF による、「器官なき身体 les corps sans organes」、「語の物質性 la matérialité des mots」、「分裂病的享楽 une jouissance schizophrène」 の関連づけにかかわるだろう。

中井久夫もかねてより、「語の物質的側面」、分裂的症状の発生期の「言語の例外状態」を語っている(参照:「エディプス的なしかめ面 grimace œdipienne」 と「現実界のしかめ面 grimace du réel」)。

…この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。(……)

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。(中井久夫「詩の基底にあるもの」1994年初出『家族の深淵』所収ーー中井久夫とラカン

おそらく自閉症者や統合失調者は、ときにモノとしての言語の感受性がすこぶる高い状態にあるということだろう。それは言語とは限らない。肝腎なのは「物質性」である。それがミュンシュや絶対音感を事例に掲げた文に現れた「絶対性」・「非文脈性」・「共通感覚性」・「原始感覚性」という語彙群が示す内容である。

最後に中井久夫の記述、《言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けら》る、《言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができる》ーーこれをラカン派ではおおむね「ファルス化」と呼ぶーーに反応して、ニーチェの次の文を掲げておくことにする。

なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。

すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである。(ニーチェ「哲学者の本」(『哲学者に関する著作のための準備草案』1872∼1873)ーー言語自体がフェティッシュである

上に引用した諸家の文から鑑みるに、遺伝などといわずにもファルスの鎧を取り払ってしまえば、だれもが自閉症的資質をもっているということが言えるのではないか?

もしそうであるならーー向井雅明氏の記述を再掲するがーー、次の態度が臨床的には最も肝腎である。

現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016)