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2018年9月22日土曜日

無能な観察者たち

・・・いやあ、ボクはけっして名を挙げないよ。そんなシツレイなことはけっして。でも彼の言説は倒錯の典型構造だな、それは歴然としてる。自らも半ば気づいているのかも。

まず「簡潔版:倒錯の構造」で引用したラカンの三文を再掲しよう。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)

………

倒錯者の最も基本的な構造は、次の機制にある。

⑴ 二者関係における子供の最初の大他者は母である。その母なる大他者の享楽の道具になる。

⑵ だが道具になりつつ母なる大他者を支配しようとする(受動ポジションから能動ポジションへの移行)。

⑶ 第三の形象である父(父なる大他者)は無能な観察者に格下げされる。


この構造はのちの人間関係(社会的つながり)でも反復される。

たとえば、ツイッターで10000人のフォロワーがいる人物Aを例にとろう。Aは10人の母なる大他者を想定している。父なる大他者は9990人である。

① Aは、10人のフォロワーの享楽の道具になる。
② Aは、道具になりつつも10人のフォロワーを支配しようとする。
③ Aの、9990人のフォロワーは無能な観察者に格下げされる。

ーーこれはあくまで仮の事例であることを強調しておくよ。

で、③が最も楽しみなのさ、インテリ倒錯者ってのは。だからおバカな神経症的観客がたくさんいたほうが楽しみが増える。したがって9990人のフォロワーへのサービスもときにする。

晩年のラカンの定義では神経症者もじつは倒錯者なんだけどさ。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme …これを「père-version」と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

コレット・ソレールで補えば次の通り。

…結果として論理的に、最も標準的な異性愛の享楽は、父のヴァージョン père-version、すなわち倒錯的享楽 jouissance perverseの父の版と呼びうる。…エディプス的男性の標準的解決法、すなわちそれが父の版の倒錯である。(コレット・ソレール2009、Lacan, L'inconscient Réinventé)

この父の版の倒錯者たちを嘲弄するのがとっても楽しいんだよ、 いわゆる善人たちをね。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』)

わかるかい?

なにはともあれ、ほどよい聡明さ=凡庸な鳥語を読む楽しみ方ってのはあるのさ。もうボクはそれもやめちゃったけど、でもたまに覗くと笑っちまうね。

どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

マイノリティ擁護のために

ドイツ倫理委員会(2014)によって、きょうだいのあいだでの近親相姦を合法的にすべきだとの勧告がなされたのは既によく知られているだろうが、父と娘、母と息子のあいだの近親相姦もそのうち許容されることだろう。禁止される理由はないのである。





幼児性愛はどうか。これにはインフォームドコンセントという壁がある。

セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)

だが歴史的にみれば、幼児性愛を禁止する現在の習慣こそ奇妙ではなかろうか。これもマイノリティ擁護のために是非熟慮する問いである筈だ。




東インドのある地方では、思春期以前の結婚や同棲生活が、いまでも珍しくない。八十歳を越したレプチャ族の長老たちは八歳の少女と交接するが、誰もべつだん奇異とは感じないらしい。ダンテがベアトリーチェと熱烈な恋をしたとき、彼女はまだ九歳の才気あふれる少女だった。深紅の衣裳や宝石で身を飾り、薄化粧をほどこした愛らしい少女だった。これは一二七四年にフィレンツェでひらかれた楽しい五月のある内輪の宴での出来事だ。またペトラルカがロリーンに熱狂的な恋をしたとき、彼女は花粉を吹きちらす風のなかを走りまわる十二歳の金髪のニンフェットで、ヴォクルーズの連丘から眺めた姿は、さながら美しい平原に舞い踊る一輪の花だった。(ナボコフ『ロリータ』)

さらに屍姦愛でさえなぜいけないのかは瞭然としない。




最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案(……)。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


マイノリティ差別に激怒する二人のスグレタ作家のツイートを最近たまたま拾ったが、知的能力のきわめてタカイ二人のことである。彼らは当然、近親相姦・幼児性愛・屍姦愛等も視野に入れてこう発言している筈である。



日本でもこの二人の作家に導かれて近親相姦・幼児性愛・屍姦愛等の擁護の動きがあることを望みたい。

ところでジジェクの「愉快な」マイノリティ擁護揶揄の文がある。

聾者の国 Deaf Nation の事例を取り上げてみよう。 今日、「耳の不自由な」人のための活動家は、耳が不自由であることは傷害ではなく、別の個性 separateness であることを見分ける徴であると主張する。そして彼らは聾者の国をつくり出そうとしつつある。彼らは医療行為を拒絶する、例えば、人工内耳や、耳の不自由な子供が話せるようにする試みを(彼らは侮蔑をこめて口話偏重主義 Oralism と呼ぶ)。そして手話こそが本来の一人前の言語であると主張する。“Deaf”に於ける大文字のDは、聾は文化であり、単に聴覚の喪失ではないという観点をシンボル化している。(Margaret MacMillan, The Uses and Abuses of History, London 2009による)

このようにして、すべてのアカデミックなアイデンティティ・ポリティクス機関が動き始めている。学者は「聾の歴史」にかんする講習を行い、書物を出版する。それが扱うのは、聾者の抑圧と口話偏重主義 Oralism の犠牲者を顕揚することだ。聾者の会議が組織され、言語療法士や補聴器メーカーは非難される、……等々。

この事例を揶揄するのは簡単である。人は数歩先に進むことを想像しさえすればよい。もし聾者の国 Deaf Nation があるなら、視覚偏重主義の圧制と闘うために、どうして盲者の国 Blind Nation が必要ないわけがあろう? 健康食品と健康管理圧力団体のテロ行為に対して、どうしてデブの国 Fat Nation が必要でないわけがあろう? アカデミックな圧力に残忍に抑圧された人たちにとって、どうして阿呆の国 Stupid Nation が必要でないわけがあろう?(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 )


この文を想起しつつ、わたくしの偏見にみちたアタマでは、阿呆鳥作家の擁護運動をせねばならぬのではないかという危惧を捨て切れていないのである。

だがそれは杞憂とでも言うべきものだろう。経験豊かな、かつまたいくつかの作家賞を受けている二人である。わたくしが次のような悪臭を嗅いでしまったのは、たんに鼻のぐあいがわるいための錯覚である。


・マイノリティの側に立つこと、マイノリティとの同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちのマジョリティ的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。

・現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「マイノリティの尊重」である。

・「マイノリティの尊重」とは、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わる可能性が高い。


……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


ああ、ニーチェほどの鼻があればよかったのに! そうであればこんなふうに「錯覚としての」悪臭や嘔吐感に悩まされずにすんだのだが・・・実に忸怩たる思いである。


最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)



2018年9月21日金曜日

一般市民の覚悟しなくてはならない孤立

ひょんなことから未婚率について調べてみたのだが、前回の記事「父の蒸発の時代の非カップル者たち」で示した未婚率とは、独身率ではない。独身率だと次のようになるらしい。



独身率とは、かつて結婚していても離別したり死別したりで独り身となった人も含めた率で、さらに上のデータは《15歳以上の全人口に占める独身者(未婚+離別死別者)数》とのこと。

独身というと、つい未婚者のことを思い浮かべがちですが、有配偶者以外はすべて独身なのです。つまり、15歳以上の全人口に占める独身者(未婚+離別死別者)数は、20年後には男女合わせて4800万人を突破し、全体の48%を占めます。(『2035年「人口の5割が独身」時代がやってくる』荒川和久 2017

この2035年の推計はもちろん概算こうなるだろうということで、同じ荒川和久氏の2018/08/11の記事では、上の記述における48パーセントが、46.3パーセントになっている。
独身率といっても、たとえば作家の金井美恵子のように姉妹で暮らしている人たちもそのなかに入る筈である。
とすれば単身世帯率はどうなるのか、と探ってみると、野村綜研によるデータがある(「2040年、約4割が単身世帯に!? 80年代生まれは「ソロ社会」をどう生きる?」2018.02


39パーセントとある。とはいえ、これも学生のアパート住まいや、いわゆる結婚適齢期に達しない若者たちも含まれるので、この数字自体だけではなんら眼を瞠るものではない。やはり未婚率(あるいは独身率)のほうが現在の人の孤立を考える上でより重要なんだろう。
ま、でも未婚率、独身率が高くたって、誰かがそばにいればいいんじゃないか。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」1996年)

中井久夫は作家についてこう書いてるのだけれど、ふつうの人たちはいっそうそうだ。《「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人》がいたらいいさ、独身だって。

あるいは《「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性》の人がいたらいい。

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)

ま、そうはいってもそんな同性あるいは異性の友人や親族はなかなかいないのが現実なんだろうけど。

《困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない》とあった。だが最も困難な時に、中井久夫は敬愛してきた祖父に失望したそうだ。

私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくない…。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。…

最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993『家族の深淵』所収)


食料が乏しくなれば、これが人間の姿である。《その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く》などということは実際上は稀有である(母の子供への愛のみ、とまでは言わないでおくが)。

人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。(中井久夫「「「祈り」を込めない処方は効かない(?) 」)

⋯⋯⋯⋯

「孤立」ということを考えると、晩年の荷風を想い出しちゃうね。
以下、3年前に記した「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」より抜粋。





……昭和二十三年以降の「日乗」を読み進むにつれて私には、だんだんに荷風の後姿しか見えなくなってくるーーそれまでの、背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄が年ごとに薄れて、老人の健脚がひたすら遠ざかっていく、とそんな印象を受けてならない。全集が刊行され、浅草の踊子たちに親しみ、芝居が上演され、役者たちと《鳩の街》を見てまわる。新聞記者に追いまわされ、街娼にまで顔を知られるようになり、やがて文化勲章を受けて、鞄の置き忘れ事件によって財産状態が世人の目を惹くところとなる。そうして身辺が多事になっていくにつれて「日乗」の記載は年々短くなる。(古井由吉『東京物語考』)



三十年頃までは《夜浅草》あるいは《燈刻浅草》という記が多くて夜の繁華街歩きになかなか精を出していたようなのが、やがて《午後、浅草》となり、人と会うことも減って一人で洋画を見ることが多くなる。(……)

さらに《午後》が《正午過ぎ》となり、三十三年頃にはただの正午、《正午浅草》あるいは《小林来話、正午浅草》あるいは《正午浅草、燈刻大黒屋》という短い記の羅列に近く、こうなるとかえって後姿なりにまた目の前に大きくアップされてきたようで、朝方に地元の不動産屋氏の御機嫌伺いを受けてから京成電車で押上まで出て浅草の洋食屋で昼飯を摂り、おそらくさしたることもなく早目に家にもどって、夕刻には地元駅前の大黒屋なる店に足を運ぶという、判で捺したような老年の生活の反復が伝わってくる。(……)

そして三十四年三月一日、日曜日、雨の中を《正午浅草》に出たところが路上でにわかに歩行困難になり驚いて家に帰ったとあり、それから一週間あまり寝つくと、《正午浅草》もなくなって《正午大黒屋》となり、四月二十日以降は《小林来話》だけになる。(……)

この素っ気もないような記録こそ、住まいは江戸川を渡った市川菅野であっても、わが東京物語の極みである。長年の孤立者がさらに年ごとにひとりになり、やがて月ごとにひとりになり、ついにひとりになる。しかしぎりぎりまで歩く。範囲は日ごとに狭まってきても、とにかく歩かないことには生きられない。最後には三町ばかりの道だけになり、同じ道の往き返りだけになり、それでもまっすぐ、はてしなく歩きつづける心地でいたのかもしれない。

四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという。

昭和五十七年の八月に私は東京駅を出た新幹線の中でたまたま開いた週刊誌のグラビアに、昭和三十四年四月末の荷風終焉の姿を見て吃驚させられた。取り散らした独り暮しの部屋の、万年床らしい上から、スボンをおろしかけた恰好のまま、前のめりに倒れこんで畳に頬を捺しつけていた。ちょうど外食から帰宅したところで、吐血だったという。墜落だ、これは、と私はつぶやいたものだ。八十一歳の老人というよりも、むしろ壮年の死だ。孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない。いまや文豪の死というよりも、一般市民の覚悟しなくてはならない最後の姿だ、と。(同上 古井由吉『東京物語考』)




もっとも荷風も通いのお手伝いさんがいたり、上にあるように最晩年の日記には《小林来話》という記述が頻出する。

昭和三十四年乙亥年  荷風散人年八十一

三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。(……)

四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。
四月二十日。陰。時々小雨。小林来話。
四月廿一日。陰。
四月廿二日。晴。夜風雨。
四月廿三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。夜月よし。
四月廿四日。陰。
四月廿五日。晴。
四月廿六日。日曜日。晴。
四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
四月廿八日。晴。小林来る。
四月廿九日。祭日。陰。

つまり地元の不動産屋氏の御機嫌伺いがあったので、真の孤立ということは言えないのかもしれない。



2018年9月20日木曜日

父の蒸発の時代の非カップル者たち

◆生涯未婚率の推移(将来推計含む)厚生労働省




◆結婚と出産の国際比較, 松田茂樹、2011,pdf








こうして見ると、20~40代の全体平均では日本のカップル状況は特殊ではないんだな、

ただし現在の日本においては、20代の非カップルが際立っている。




結婚・同棲・未婚の国際比較



上の図の20代の非カップル率をみれば歴然とするが、つまり日本(あるいは韓国)においての特殊は晩婚化なんだ。



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ボクの結婚した当時(1980年代前半)は、女は25歳を過ぎると売れ残りとされたんだけどさ。下の表にあるとおり、1985年時点での25~29歳の未婚率は30パーセント。

年齢階層別未婚率の推移




ところが、いまでは24歳までには90パーセント未婚。30歳までを見ても、60パーセントが未結婚だ。30~34歳の時点で、急激に結婚率があがるから、30歳過ぎになってアセルんだろう。 


この傾向の端緒は、1970年がひとつの目処だろう。そして1989年における最後の父、「マルクスの父」の崩壊が決定的。

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

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ラカンは、学園紛争のおりに《父の蒸発 évaporation du père》 (「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)と言っている。ラカンのいう主人の言説から資本の言説への移行が、このあたりにある(参照)。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)





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話を元に戻せば、男ももちろん同じ傾向。






いやあ世界は、とくに日本の若者たちは変わったね、「資本の言説」の時代の若者たちは。

ラカンのいう資本の言説の時代とは、新自由主義の時代、市場原理主義の時代とほぼ等価。つまり主人の支えがないのだから、人間関係は二者関係的になる。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収ーー「アタシはファルスだわ、あなたたちよりもずーっと」)

つまりは勝ち組/負け組の時代である。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収)
「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009

・・・というわけで笑うことだよ、まず現在の「不幸な」社会構造をみつめて。

聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョン、1973年ーー飲めば飲むほど渇く





2018年9月19日水曜日

水脈との出会い

・多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません。

・「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません(杉田水脈「「LGBT」支援の度が過ぎる」)

杉田水脈さんが話題となっているので、30分程度だけネット上を探ってみた。つまりわたくしは、ここでたいしたことをいうつもりは毛ほどもない。
とはいえ(わたくしの素朴な頭では)、上に掲げた二文は実に「反時代的」でスバラシイのではなかろうかと感じてしまう。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

杉田さんの主張が「反時代的」だとするのは、次のジジェク文にまずは依拠している。

現在の状況のもとでとくに大切なことは、支配的イデオロギーと支配しているかに見えるイデオロギーとを混同しないように注意することだ。…例えば、セックスで真のヘゲモニーを掌握している考え方は家父長制的な抑圧などではなく自由な乱交であり、また芸術で言えば、悪名高い「センセーショナル」展覧会と銘打ったスタイルでなされる挑発が規範に他ならなず、それは体制に完全に併合されてしまっている芸術の典型事例である。 (ジジェク『迫り来る革命 レーニンを繰り返す』)

「支配的イデオロギー/支配しているかに見えるイデオロギー」の区分で言えば、水脈さんの言っていることは、反「支配的イデオロギー」であるだろう。現在はけっして家父長制が支配的イデオロギーではない。家父長制とは一見いまだ「支配しているかに見えるイデオロギー」に過ぎない。
たとえば現在の支配的イデオロギーは「自由な乱交」だとあるが、ネット上をすこしだけ垣間見るだけで、わたくしはジジェクに頷きたくなる。
あるいはラカン派臨床家バーハウの次の文はどうか?

セクシャリティとエロティシズムの問題において、現在ーー少なくとも西側先進諸国のあいだではーーほとんど何でも可能だ。これは、この20年間のあいだに倒錯のカテゴリーに含まれる症状の縮小をみればきわめて明白だ。現代の倒錯とは、結局のところ相手の同意(インフォームドコンセント)の逸脱に尽きる。この意味は、幼児性愛と性的暴力が主である、それだけが残存する倒錯形式のみではないにしろ。実際、25年前の神経症社会に比較して、現代の西洋の言説はとても許容的で、かつて禁止されたことはほとんど常識的行為となっている。避妊は信頼でき安い。最初の性行為の年齢は下がり続けている。セックスショップは裏通りから表通りへと移動した。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject、2005)

ーーこらんの通り、現在は事実上、ナンデモありの時代であるという認識がわたくしにはある。そしてナンデモありをほうっておくと、ヒト族は絶滅してしまう、というのが「真の」精神分析学の洞察である。それは杉田さんの《「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません》とよく共鳴する。

「セクシャリティ」における象徴的法は、(本能の壊れた・多形倒錯的な)ヒト族の生存にとって欠かせない、とラカンは信じている。象徴的性別化の終焉は、人間を単なる動物的性交に制限するのではなく、種の絶滅へ導く。…ラカン注釈者たちがほとんど満場一致で見落としいるのは、象徴界は(再生産的reproductive)人間の性関係の発生可能性の構造的条件を構しているという事実である。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)

ーーああ、若き世代のラカン派リーダーとされるロレンゾの文には、「生産」という水脈語彙さえ出現する。

人間は「主人」が必要である。というのは、我々は自らの自由に直接的にはアクセスしえないから。このアクセスを獲得するために、我々は外部から抑えられなくてはならない。なぜなら我々の「自然な状態」は、「自力で行動できないヘドニズム inert hedonism」のひとつであり、バディウが呼ぶところの《人間という動物 l’animal humain》であるから。

ここでの底に横たわるパラドクスは、我々は「主人なき自由な個人」として生活すればするほど、実質的には、既存の枠組に囚われて、いっそう不自由になることである。我々は「主人」によって、自由のなかに押し込まれ/動かされなければならない。(ジジェク、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? 2016)
ま、もちろんヒト族はもっと減って20世紀の初頭ぐらいの人口になったらよい、象徴的法など御免蒙るという立場があってもよろしい。


地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」2006.6初出『日時計の影』所収)



この傾向に歯止めをかけるためには「ペット婚」や「機械婚」のほうが望ましいという側面はあるのである。

主人のすすめをするジジェク自身、こうも言っている。

地球にとってもっともよいのは、三分の二の人間が死ぬような仕組みをゆっくりとつくることではないだろうか。 (ジジェク『ジジェク、革命を語る』2013)


というわけだが、杉田水脈さんは名前が実にいいのである。わたくしの EVERNOTE の引き出しを検索してみたら、実に美しいニーチェの文に遭遇した、《全体を、また個々の芽を養うための樹液が無数の水脈を通って流れめぐらねばならない》。この文は長い間失念していたので、水脈さんとの出会いはこれだけでも貴重であった。

君たちがその老衰した近眼の眼で地球の人口過剰として恐れている現象は、もっと希望に満ちた者たちにとっては、まさに偉大な使命を彼に託する所以のものである。すなわち、人類は将来一本の樹となって全地上にその影を投げ、全て相共に実を結ぶべき幾十億の花をつけなければならない、そして地球自体はこの樹の養分となるべく準備されねばならない、という使命である。

いまはまだ小さなその萌芽は樹液と力を増しゆかねばならない、全体を、また個々の芽を養うための樹液が無数の水脈を通って流れめぐらねばならない、――このような、またこれに類した使命から、現在の個々の人間が有用であるか無用であるかについての尺度がとってこられねばならない。この使命は言いようもなく遠大であり、放胆である。我らはみな、この樹が時至らざるに朽ち果てぬよう、力を合わせよう! 

歴史学的な頭脳を持つ人ならば、ちょうど我らの誰もが蟻の本質をその巧みに築かれた蟻塚と共に思い浮かべるのと同じようにして、人間の本質や行動を時代全体の視点から眼前に彷彿せしめることができるだろう。もしも表面的にに判断するならば、人類の全本質についても蟻の本質についてと同様「本能」の問題を取り上げることができよう。だが、いっそう厳密に検討するならば、我々は、歴史上の全民族、前世紀が、人間の或る偉大な全体のために、そして最後には人類全体の偉大な果樹のために裨益することを可能にする新しい手段を発見し、またそれを十分に試験すべく努力していることに気付くのだ。そして、この試験の過程に際して各個人、各民族、各時代がどんな禍をこうむったにしても、この禍を通じて常に個々人は賢くなってきたのであり、またこの賢さは個人からゆっくりと溢れ出て、各民族全体、各時代全体の講ずる方策へと広がりつつあるのである。

蟻もやはり間違ったり、やりそこなったりする。人類もその手段の愚かさのために時至らずして腐朽し、枯死することも十分あり得る。蟻にとっても人類にとっても、彼らを確実に導く本能など存在しないのだ。我らはむしろ、あの偉大な使命をまともに直視なければならない、地球を、最も偉大な、そして最も喜ばしい豊饒性を宿す植物のために準備するという使命を、――理性に課する理性の使命を!(ニーチェ『人間的、あまりに人間的』「漂泊者とその影」)

→「家父長制は現在の支配的イデオロギーではない


私のなかの女

荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年)

いいな、こういうことを言う女って。





でも「私のなかの女」とは、石倭さんだけじゃなくて、
それなりの割合の女性たちがいうんじゃないだろうか。
そのいってる意味合いはたぶんそれぞれ違うにしても。

逆に「僕のなかの男」って男が言ったら滑稽だね、
そんなこと言うヤツは稀だろうし。

「僕のなかの女」と言うヤツはたぶんいっぱいいるよ

倒錯者 inverti たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠 embryon をもっている。 (プルースト「ソドムとゴモラ」井上究一郎訳)

「私のなかの男」と女が言ったって悪くない、
「僕のなかの女」にとっては。

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)

これなしで人生おくる男たちが多いんだろうけどさ、
きみたちの不幸だよ

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

原母子関係では必ず、幼児は受け身で、母は支配者だ。

母としての女の支配 dominance de la femme en tant que mère…
命令する母・それと同時に幼児の依存を担う母。mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.(ラカン、S17、11 Février 1970)
quoad matrem(母として)、すなわち《女というもの la femme》は、性関係において、母としてのみ機能する。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

フロイトの定義上では、原母とは実質上男で、すべての乳幼児は女だ。
母子関係とは、能動者/受動者なんだから。

受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

で、受動的立場とは主体性の障害なのだから、
女というものは追い出されている。
日常的観察においてもそうさ

本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト、Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放 refoulée)されている。男にとって女というものが抑圧(追放)されているのと同じように。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

でも退行して幼児化すれば、
人は自らのなかの女に出会う、
すくなくともその場合がある。

それが「女への推進力 pousse-à-la-femme」(AE466、1972)の意味だ。

人はみな退行すべきだね、
そうでないと「私のなかの女」に出会えないよ

何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)

最近は上に引用した古井由吉の言っている意味とは異なった
「男への推進力」の女たちが跳梁跋扈しているけれど、
彼女たちはあれでシアワセなんだろうかね

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

2018年9月18日火曜日

「欠如の欠如」と「穴」

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、AE573、1976)

⋯⋯⋯⋯

欠如の欠如という不気味な刻限」に引き続く。

以下も、最初のジュパンチッチ以外は、前回と同様に以前に訳したもの。


◆アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005

ラカンの「欠如の欠如 Le manque du manque 」は、(現実界としての)対象aの概念に包含されるものである。その理由で、《不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet》(S10, 6 Mars l963)

「不気味なもの」の側に位置する「欠如の欠如」という定式を具体的に示すために、ひとつの事例を取り上げよう。毟り取られた眼のイメージである。…

このイメージの不気味な側面を分析するとき、人は通常、二つの事態を指摘するだろう。

①眼の代わりに、二つの空洞が顔のなかで大きく開いている。
②身体から引き離された眼自体は、幽霊のような不可能な対象として現れる。

第一の点について、人は空洞が怖ろしいのは欠如のせいだと想定しがちである。不定形の深淵へと引き込む空虚が恐いと。だが本当の幽霊的なものとはむしろ逆ではないだろうか?

すなわち無限の奈落、主体性の測り知れない底無しの側面への裂開をーー想像的水準でーー常に暗示するあの眼(人間の魂への開口として捉えられる眼)、その眼の代わりにある穴は、あまりに深みのない、あまりに限定されたものであり、眼の底はあまりに可視的で近くにありすぎる。

ゆえに怖ろしいものは、たんに欠如の顕現ではない。むしろ《欠如が欠けている manque vient à manquer》ことである。すなわち、欠如自体が取り除かれている。欠如はその支えを喪失している。人は言いうる、欠如はその象徴的あるいは想像的支えを喪失したとき「たんなる穴」、つまり対象になると。それは無である。文字通り見られうるものとして居残った無である。

同時に、いったん眼が眼窩から除かれたとき、それは即座に変容する、魂への開口から全く逆の過剰な「おぞましいもの abject」の開口へと。この意味で、毟り取られた眼は、絶対的な「剰余」である。それは、プラスとマイナス、欠如とその補填の象徴的経済のなかに再刻印されえない剰余である。
…ラカンは主張している、「去勢コンプレクス」は不安を分析するための最後の一歩ではないと。去勢コンプレクスは、フロイトの分析とホフマンの砂男における「不気味なもの」の分析の核であったが。ラカン曰く、もっと根源的な「原欠如」、現実界のなかの欠如、《主体のなかに刻印されている構造的罅割れ vice de structure》があると。…

ラカンがフロイトを超えて進んでいった点は、去勢不安を退けた点にあるのではなく、テーブルをひっくり返した点にある。ラカンの主張は、不安の底には、去勢恐怖や去勢脅威ではなく、「去勢自体を喪う恐怖あるいは脅威」である。すなわち「欠如という象徴的支えを喪う」恐怖あるいは脅威である、ーー象徴的支えは去勢コンプレクスによって提供されているーー。これがラカンの不安の定式、《欠如が欠けている manque vient à manquer》が最終的に目指すものである。

不安の核心は「去勢不安」ではない。そうではなく、支えを喪う不安である。主体(そして主体の欲望)が象徴構造としての去勢のなかに持っている支えを喪う不安、これが核心である。この支えの喪失が幽霊的な対象の顕現をもたらす。その対象を通して、現実界のなかの欠如は、絶対的「過剰性」として象徴界のなかに現前する。この幽霊的対象は、「欲望の対象」を駆逐し、その場処に「欲望の原因」を顕現させる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、REVERSALS OF NOTHING: THE CASE OF THE SNEEZING CORPSE, 2005、PDF


◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンの教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller, 6 juin 2001)
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如 manque と穴 trou とのあいだの相違が導入されなければならない。欠如は空間的であり、空間内部の空虚 vide を示す。他方、穴はより根源的であり、空間の秩序自体が崩壊する点を示す(物理学のブッラクホール trou noir におけるように)。ここには欲望と欲動とのあいだの相違がある。欲望はその構成的欠如に基づいている。他方、欲動は穴の廻り・存在の秩序になかの裂目の廻りを循環する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009

袋小路はしばしば誤った前提の結果である。…フロイトによる「ペニス羨望」の議論、つまり少女が母から身を翻して父へと移行する動機としてペニス羨望を主張したとき、彼は常に数多くの他の動機に言及している。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

核心は、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の対象であることから主体性への移行だと。どんな「ペニス羨望」や「去勢不安」より前に、子供--少女だけではなく少年も含んだどの子供も、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。

私はこの移行に、はるかに重要な基本的動機を認める。すなわち、最初の母子関係において、子供は身体的未発達のため、必然的に最初の大他者の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体として主体性のための障害である。

平明な言い方をすれば、子供と彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者関係-想像的関係性の典型であり、ラカンが鏡像理論にて描写した状況である。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安 primal anxiety」は母(あるいは最初の養育者)に向けられた二者関係にかかわる。無力な幼児は母を必要とする。ゆえに、明らかに「分離不安 separation anxiety 」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かない筈のその対応物を認知していた。すなわち母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「分離不安」とは別に、もう一つの原不安としての「融合不安 fusion anxiety 」と呼んでみよう。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。それにもかかわらず彼の論証過程において、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このようにフロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(elaboration)とさえ言いうる。原不安は、二つの対立する形態を取る。すなわち、他者が必要とされる時そこにいない不安(分離不安)、他者が過剰にそこにいる不安(融合不安)である。 (ポール・バーハウ 2009, PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains)

ーーポール・バーハウは2011年の講義では、融合不安を「侵入不安 intrusion anxiety」と言い換えている。これは、母なる大他者に侵入されて融合する(呑み込まれる)不安とともに、自らの身体の欲動に侵入されて圧倒される不安という意味の二つがあって、「侵入不安」は「融合不安」よりも広い意味合いがある。

ちなみに、自らの身体の欲動といっても、ラカンの定義上は、身体は大他者であったり、異者としての身体であったり、女であったりする。

大他者は身体である。 L'Autre …c'est le corps! (ラカン、S14,10 Mai 1967)
我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger (ラカン、S23、11 Mai 1976)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)






2018年9月17日月曜日

欠如の欠如という不気味な刻限

以下、数年前訳した粗訳だが、わずかばかりの訳語変更をするのみで、ロレンゾ・チーサによるによる「根本幻想とその彼岸」の注釈を掲げる(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)。

1976年生まれの彼は、「若きラカニアンの新しい世代のリーダー the leader of a new generation of ‘young Lacanians」(wiki)ともされる人物で、アガンペンの英訳者としても名高い。

31歳のときに(2007年)出版された『主体性と他者性 Subjectivity and Othernes』は、韓国語(2012)、中国語 (2017)にも翻訳されている。ジジェクは、まだロレンゾが20代のときに絶賛して紹介している。


以下に掲げる箇所に《欠如のシニフィアン S(Ⱥ)》との記述があり、そこだけはいくらか不満である(現在の主流ラカン派におけるように、穴のシニフィアンS(Ⱥ)とすべきである)。《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)のシニフィアンと。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

もっともミレール自身、ときに欠如という語を使っているので大きく拘る必要はない。

Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


なにはともあれ、わたくしの理解の範囲では、そして知りうる限りでの、最もすぐれて精緻な根本幻想にかかわる対象a とȺ のロレンゾによる記述である。

ーーこの文は、五種類の対象aについての記述の後に引き続いてある(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。



【主体は大他者の欲望の対象aとは何?】
主体は大他者の欲望の対象a である、そしてこの条件は究極的には主体自身の幻想的欲望の核と見なされるべきだとラカンが言うとき、その正確な意味は何なのだろうか?

ラカンはセミネールX にて、根本幻想を《窓の枠組みの上に位置づけられた絵 un tableau qui vient se placer dans l'encadrement d'une fenêtre》として明瞭に叙述している。この《馬鹿げたテクニックTechnique absurde》は、まさに《人が窓から見るものを見ない ne pas voir ce qui se voit par la fenêtre》こと、斜線を引かれた大他者・大他者のなかの欠如Ⱥ を見ないことにある、と。


【分身と対象a】
(……)我々は既に吟味した。子どもが大他者が斜線を引かれていることȺ を悟るずっと前に、彼は欲求不満の象徴的弁証法のなかに入り込む仕方を。すなわち始まりには、原象徴化の窓がある。それはエディプス・コンプレックスの最初の段階である。次にエディプスコンプレックスの第二段階の初めに、窓は深淵を枠組みしていることに子どもは気づく。彼は窓から容易に落ちる(母に呑み込まれる)かもしれない。したがって絵によって描写された光景は、深淵を覆い隠す機能を持っている。

さらに重要なのは、ラカンはセミネールX にて、そのような「防衛的」光景は、異なった諸主体にてどんな個別の特徴があろうとも常に、「分身」としての他者の非鏡像的 unspecularizable イマージュの肖像を描くことを暗に示している。言い換えれば、根本幻想のなかで、想像的他者は「欠如していないイマージュnonlacking image」として「見られる(観察される)」。このイマージュとは、主体から去勢され喪われた部分対象を所有している。したがって「分身」とは i′(a) + a、想像的他者プラス対象a である。

これが殊更はっきりと現れるのは、フロイトの名高い症例狼男においてである。ラカン曰く、彼の反復される夢は我々に《その構造のなかでヴェールを剥ぎ取られた純粋幻想 le fantasme pur dévoilé dans sa structure》の見事な事例を提供すると。窓が開かれ、狼たちが樹上に止まって患者を見詰める、彼自身の眼差しで(狼男自身の身体の非鏡像的残余にて)。ラカンはまたホフマンの『砂男』の物語において同様の光景に言及する。人形オリンピアは学生ナターニエルの目によってのみ完成されうる、と。


【ファルス化された対象aの機能】
これらの事例が示しているのは、喪われた部分対象a ・まずなによりもファルス化された眼差しは、いかに大他者のなかの空虚ーーȺとしての純粋欲望ーーを覆い隠すものかであり、それがいかに無意識の根本幻想のなかで「分身」として現れるかということである。幻想のなかで、私は私たち自身を大他者のファルス化された欲望として見る。私は私自身を大他者のなかに見る、彼のリアルな欲望のなかに「崩れ落ちる」ことのないように。

したがって、もはや大他者の欲望としての主体の欲望について語るのは十分でない。我々がここでより明確に次のことを取り扱っている限り。《大他者のなかの欲望…私の欲望は空洞のなかに入り込む、私であるところの対象の形式(偽装)のなかにある空洞に。désir dans l'Autre…mon désir entre dans l'antre où il est attendu de toute éternité sous la forme de l'objet que je suis》(S.10)

ゆえに最も純粋には、私の幻想的欲望(防衛としての欲望)の対象は「私が私自身、対象である」という事態のなかの大他者の欲望である。これが説明するのは、なぜ幻想はーーシンプルに二次的同一化と個体化をもたらすものにも拘わらずーー本質的には《根源的脱主体化 désubjectivation en tout cas radicale》を基盤とした構造であるかということである。それは《主体が観客、単純には目の状態へと還元される le sujet n'est plus là que comme une sorte de spectateur réduit à l'état de spectateur, ou simplement d'œil》(S.4)ことによる脱主体化である。

この引用を解釈するとき、(観客の)個人化された行為としての視覚のようなものと我々はうっかりと考えてしまう危険を避けねばならない。ちょうど今、上に事例にて叙述したように、幻想はむしろ「相互受動的 interpassive」光景であり、そこでは人は「分身」のなかに位置する喪われた部分対象としての「彼の」眼差しによって「自分自身が見られる」。

この文脈においてのみ、我々はセミネールX にて提供された幻想の謎めいた定義を理解しうる、《私は言おう、a という$ の欲望 ・幻想の式 $ ◊ a は、この展望のなかで次のように翻訳しうる je dirai que $ désir de (a), $ ◊ a formule du fantasme, ça peut se traduire, dans cette perspective 》、すなわち《大他者は姿を消してゆく、気絶する、私がそうであるところの対象の前で。私が己自身を見ることから差し引かれものの前で。 l'Autre s'évanouisse, se pâme, dirais-je, devant cet objet que je suis, déduction faite de ce que je me vois 》(S.10)


【リアルな対象aとは?】 
疑いもなく、幻想の視覚的な相互受動性において姿を消してゆくのは、リアルな欠如としての大他者の欲望・リアルな対象a(= Ⱥ)である。したがってラカンは次のように言うことができる、(神経症的)幻想のなかの対象a の想像化は、主体を不安から防御する、《[想像的] 対象a がまがいもの postiche である限りにおいて》。

しかしながら同時にーー私は既に凍りついた恐怖映画の例にて描写したがーー「枠組みを嵌める framing」不安、《寄る辺なさHilflosigkeit を越えた最初の治療 le premier recours au-delà de l'Hilflosigkeit》であるところのものにおいて、根本幻想はまた、無意識の水準において、不安の現実界を効力化する、《それは敵対性自体の(主体の)構成である c'est la constitution de l'hostile comme tel》。フロイトが名付けた性的 erogenen マゾヒズム、ラカンが享楽 jouissanceと名付け直したものの誕生である。


【三つの不安】
したがって我々は、不安の三つの論理的時間をーー対象a と根本幻想に相対してーー区別すべきである。

① エディプス・コンプレックスの第二段階の開始における、前幻想的な「窓から首を出すこと leaning out of the window 」、リアルな対象a としての母なる大他者の欲望とのカオス的遭遇ーーそれは根本幻想の形成になかでそのカオスの鎮静後にのみ、それ自体として感知されるリアルな対象a(= Ⱥ)である。

ここにある不安は、ラカン曰く《何かの予兆 pressentiment de quelque chose》である。しかしまた全ての(象徴的)偽りの感情に先立つ《前感情« pré » du sentiment》・《おどろおどろしい確実性 affreuse certitude》(S.10)である。そしてそれに対する反応は、最初の疑念「母なる大他者は何を欲しているのか」を形成する。

この最初の意味で、《(構造化されていない)不安は鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》・Ⱥの原初的出現であり、それなしでは、リアルのなかのシニフィアンの現前・その機能・その登場・その徴は考えられもしない 《sans laquelle la présence du signifiant, son fonctionnement, son entrée, son sillon dans le réel est impensable.》(S.10)。

② 対象a の想像化による根本幻想の絵のなかの《不安の枠組み化 encadrement de l'angoisse》(S.10)。ここで敵対性 l'hostile は《飼い馴らされ、懐柔され、受け入れられる amadoué, apaisé, admis》。そして客 l'hôte になる。しかしながら、母なる大他者の欲望によって生み出された不安に枠を嵌めるために、主体は去勢されて大他者のなかの対象として現われなければならない。そして《これは堪え難いものである c'est là ce qui est intolérable 》。言い換えれば、この観点からは、幻想のなかで根本的に抑圧されるものは、主体の非自律性 la non-autonomie du sujet の顕現である。(……)

③ 厳密な意味での不安、それは、幻想のなかで不安に枠を嵌める責を負う欠如のシニフィアン S(Ⱥ)自体が喪われているときに起こる不安である。すなわち、(幻想の彼岸にある)大他者のリアルな欲望の過剰な近接性のせいで去勢 (−ϕ)が宙吊りにされたときに起こる。これは、自己意識のなかで《欠如自体が欠けている le manque vient à manquer》(S.10)不気味な刻限 uncanny moment に他ならない。

《不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。》(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)

《欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。》(Lacan、1976、 AE573)




【欠如の欠如(欠如のポジ)という自己喪失】
疑いもなく、要求の通時的次元は、アガルマという換喩の空虚の場によって特徴づけられる。すなわち欠如は想像的自己意識のなかに現前している。しかしながらこれは、我々が通常この欠如のイマージュをもっていることを全く含意しない。

不安が出現するのは、まさに主体が「ポジティブな positive」欠如のイマージュを得たときである、《C'est ce surgissement du manque, sous une forme positive, qui est source de l'angoisse.》--すなわち「窓」が、主体の鏡像的投影によって隠された空虚に向かって開かれたときであるーー、そしてアガルマ、鏡像の彼岸にある《我々がいる場の不在 l'absence où nous sommes》は、このようにしてその真の特性のなかで曝露される。すなわち、《どこか別の場にある現前 présence ailleurs》、《一ポンドの肉 la livre de chair》、私があるところの部分対象、私の幻想のなかの大他者の欲望にとっての部分対象(欠如のイマージュ)である。したがって不安とは、部分対象の束の間の浮上・主体自身の目にて主体を眼差す分身の出現に相当する。

言い換えれば不安とは、自己意識のなかでの私自身の幻想の「消滅の顕現 appearance of the disappearance 」であり、私の存在は大他者の幻想的対象以外の何ものでもないという堪え難さの顕現である。したがって、幻想の「意識的」顕現は、必然的に幻想の消滅と合致する。そしてそれに伴い自己意識の喪失をもたらす。

ここで強調すべき重要なことは、不安とは消滅のなかで経験された「感情 sentiment」ではないことだ。そうではなく、消滅する危険を上演する信号signalである。すなわち大他者に呑み込まれる危険の上演の信号。絶対的な脱主体化でありうるものの一時的な顕現……。

須臾の間、原初に部分対象a の喪失を引き起こした大他者Ⱥのリアルな欲望が部分対象とともに顕れる。須臾の間、対象a は同時に、欲望の対象であり欲望の原因である両方のものとして感知される。(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)

2018年9月16日日曜日

不気味なもの界

ああ日本言論社交界のドゥルーズ派をバカにしたけどさ、「真のアンチ・オイディプスは、オイディプス自身である」で記したヤツは「小者」だからしょうがないよ。学者商売の邪魔をしたくないからあえて名前はださなかっただけさ。

若手スター系のドゥルーズ学者、たとえばチバとかコクブンとかもその書は読んだことがないからよく知らないさ。けれどもネット上でときたまチラミするとトンデモだな。

たとえば下のチバ文に「通常vs.ファルスの構図」とあるが、まったくイミフだな。想像的ファルスと象徴的ファルスの区別ができてないんじゃないだろうか。性別化の式のファルスは象徴的ファルスだ。「通常」とは象徴的ファルスΦ があってこその通常であり、対立として記述できるわけがない。

通常vs.ファルスの構図は、ドイツ語でいえば「通常=馴染み=我が家的である=ハイムリッヒ(heimlich)」なものと、「不気味なもの=我が家的でない=ウンハイムリッヒ(unheimlich)」なものの対立として記述できます。ここで私が第3の道として提起したいのは、ファルス的=不気味ではなく、かつ通常でもないもの。それは、通常のものと極薄の違いしかもたない、「不気味でない(ウン・ウンハイムリッヒ[un-unheimlich])」ものです。……

「例外vs.通常」という構図から外れること。それは後期ラカンでいうところの、男性の式から外れて、女性の式へと向かうことです。女性の式においては、単一の例外者が存在せず、それと相関的である「他のすべて」もない。ゆえに女性の式については「すべてではない(not-all)」という独特の概念をラカンは提示しています。

不気味でないものは、「すべてではないもの」である。 …(千葉雅也「「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性」10plus1、2016/12

で、《不気味でないものは、「すべてではないもの」である》なんてね、これ、一瞬で抹殺すべき言明だな。

そもそも象徴秩序(言語秩序)とは、ファルス秩序、欠如のシニフィアンΦがあってこその秩序だよ、これが「通常」の秩序だ。

それがラカンが次のように言っている第一の意味合いだ。

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。

Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン、S18, 09 Juin 1971 )

ま、彼は自ら「広告屋の息子」だと宣言しているように逆張りでの受け狙いなんだろうがね。あれを一瞬で罵倒できないのは、日本言論社交界のきわめて悲しい知的退行だよ。

⋯⋯⋯⋯

ラカンは性別化の式を次のように語っている。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …«斜線を引かれた女 Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化 dédouble される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。… (ラカン、S20, 13 Mars 1973)

このファルス秩序の二重化、そしてファルス秩序の彼岸にあるS(Ⱥ)こそが「非全体 pastout(すべてではない)」にかかわるシニフィアンである。



ジジェクによる簡潔な注釈を掲げよう。

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pastout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012、私訳)

そしてジジェクは次のように図式化している。上段が男性の論理(ファルスの論理)、下段が女性の論理(S(Ⱥ)の論理)だ。




「S1=例外」はファルスΦに相当する。「対象a=非全体」は、穴Ⱥあるいは穴のシニフィアンS(Ⱥ)に相当する(S(Ⱥ)が(a)に相当するだろうことは、「「欲望は大他者の欲望」の彼岸」の後半を見よ)。


ジジェクによる対象aの両義性を示しつつの表現なら次の通り。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(⋯⋯)

欲望「と/あるいは」欲動が循環する穴としての対象a、そしてこの穴埋めをする人を魅惑要素としての対象aがある。…したがって人は、魅惑をもたらすアガルマの背後にある「欲望の聖杯 the Grail of desire」・アガルマが覆っている穴を認めるために、対象a の魔法を解かねばならない(この移行は、ラカンの性別化に式にある、女性の主体のファルスΦからS(Ⱥ)への移行と相同的である)。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016、pdf)

対象aの一側面が「穴」であるのは、ラカン自身も明瞭に示している。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

繰り返せば S2 という通常の知は、Φの例外があってこその通常であり、「通常vs.ファルスの構図」などという対立なんかされるものではないし、象徴的ファルスΦが不気味なものの審級にある筈はまったくない。チバの発言は完全な誤謬。

以上に示した通りだが、どんなに逆張りしても、象徴的ファルスΦが不気味なものと直接的な関係があるわけがない。

ファルスは繋辞である le phallus c'est une copule。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。

対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。

人が、対象a と書くとき、正当的な身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。正当的な身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)

⋯⋯⋯⋯

現在、性別化の式のデフレが主流ラカン派では主張されているから、ラカン派内では混乱があることはあるのだけれど、主流ラカン派の主張を受け入れるなら、S(Ⱥ)こそさらにいっそう「不気味なもの」であり、Φは「不気味でないもの」だな。S(Ⱥ)については「S(Ⱥ)と「S2なきS1」」を見よ。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なき sans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(JACQUES-ALAIN MILLER、2012、pdf

「法なき現実界 réel sans loi」とはラカン自身の言葉だが、これこそ「欲動の現実界 le réel pulsionnel」としての不気味なものの審級にある。そもそもラカンにとって現実界とはトラウマ界であり(参照)、言ってしまえば「不気味なもの界」だ。

フロイトは不気味なものについてこう言っている。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

ラカンはこう言っている。

不気味なもの Unheimlich とは、…欠如が欠けている manque vient à manquerと表現しうる。(ラカン、S10「不安」、28 Novembre l962)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。(Lacan、1976、 AE573)

欠如の欠如とは穴のことである。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)

穴、すなわち象徴界的欠如ではなく現実界的穴であり、欲動にかかわる。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

さらにラカンの L'ÉTOURDIT(14 juillet 72、オートルエクリ所収)には、pourtout 全体化(全てに向って)/pastout 非全体(全てではない)という表現が現われている。


フロイトにおいては、快原理内部にあるものとは、語表象 Wortvorstellungen に拘束された備給(リビドー)であり、他方、快原理の彼岸にあるものとは語表象に拘束されないリビドーである。

欲動の蠢き Triebregungen は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動の蠢きが一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

したがって不気味なもの、その反復強迫は語表象(シニフィアン)に拘束されないエネルギーの作用である。

フロイトは言っている、「不気味なもの」は、快原理の彼岸、つまりファルス享楽の彼岸にあると。不気味なものは、他の享楽(女性の享楽)に結びつけられねばならない。シニフィアン外部の、脅迫的な現実界のなかに。⋯⋯⋯反復強迫の作用とは、最初からシニフィアンが欠如している場でこの現実界を拘束しようとする作用、つまり現実界をシニフィアンに結びつけようとする(不可能な)作用である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)

ここまでの語彙群を抽出し図示すれば次のようになる。


※欠如と穴の相違は、「欠如と穴(簡略版)」を見よ


いままでに何度か掲げている基本図も再掲しておこう。



上図の上部はラカンの発言からが整理したもの。

非全体(すべてではない pas toute)の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

※標準的には大他者の享楽と訳される jouissance de l'Autreを「他の享楽」とした理由については、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。

下部は、ジャック=アラン・ミレール 2005セミネールの図( Jacques-Alain Miller Première séance du Cours 、mercredi 9 septembre 2005、PDF)より。


ラカンは、ファルスの彼岸にある「身体の享楽」と言っているように、上図の右側は「快原理の彼岸」の症状、左側は「快原理内部の症状」である。ラカン語彙なら現実界/象徴界。

くりかえせば快原理の彼岸にあるものが反復強迫としての不気味なものにかかわる。それはフロイトの定義上では、必ずそうなる。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

ラカン的には現実界の症状の反復強迫が不気味なものだ。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974ーーー「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ

以上。