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2016年5月7日土曜日

おれとしては言い張るほかない! 女に

滝は十八位だつた。色は少し黒い方だが、可愛い顔だと彼は思つて居た。それよりも彼は滝の声音の色を愛した。それは女としては太いが丸味のある柔かいいゝ感じがした。 (志賀直哉『好人物の夫婦』)

家政婦が三週間ほど前から若い女に変わった。家政婦といっても、朝三時間ほど来て庭仕事をするのが中心だが。その仕事のかわりに、一週間毎のいくらかの賃金とは別に、妻が亡母から引き継いだアパートの家賃を無料にしている。田舎から出てきた色の黒い娘で、夕方には屋台でお好み焼きを作って生計を立てている。

彼は滝を嫌ひではなかつた。それは細君の留守中の事ではあつたが、例へば狭い廊下で偶然出合頭に滝と衝突しかゝる事がある。而して両方で一寸まごついて、危く身をかわし、漸くすり抜けて行き過ぎるやうな場合がある。左ういふ時彼は胸でドキドキと血の動くのを感ずる事があつた。それは不思議な悩ましい快感であつた。それが彼の胸を通り抜けて行く時、彼は興奮に似た何ものかで自分の顔の赤くなるのを感じた。それは或るとつさに来た。彼にはそれを道義的に批判する余裕はなかつた。それ程不意に来て不意に通り抜けて行く。

以前働いていた中年の女性は里に帰ったという。わたくしはもう戻ってこないのかを訊くことはしていない。また今の若い娘が一時的な代替なのかそれとも続けて働くのかを敢えて訊くことをしていない。

「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」 ( 德田秋聲 『爛』)

庭仕事に 汗ばむ少女の 
肢の間を 洩れ出る匂 
鄙びたる 恥丘の憶ひ  
手にて宥む 泥鰌の踊り 

小姑の  睨みはみえず 
空は今日  玉虫色らし 
血の動く  わが心を 
諫めする なにものもなし

乙女の香に  朝は悩まし 
うしなひし さまざまのゆめ 
森竝は 露に濡れそぼつか

ひろごりて  たひらかな腹 
土手づたひ  森林のへりを越え 
火口へと  突き進む  わが指先


わたくし、ほんとうはそんなことよりも、せなかのうえにぐったりともたれていらっしゃるおちゃちゃどのゝおんいしきへ両手をまわしてしっかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあいがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらっしゃいますので、なんともふしぎななつかしいこゝちがいたしたのでござります。まごまごしていれば焼け死ぬというかきゅうの場合でござりますのに、どうしてそのようなかんがえをおこしましたやら、まことに人はひょんなときにひょんなりょうけんになりますもので、申すもおはずかしい、もったいないことながら、あゝ、そうだった、自分がおしろへ御奉公にあがってはじめておりょうじを仰せつかったころには、お手でもおみあしでも、とんと此のとおりに張りきっていらしったが、なんぼうおうつくしいおくがたでもやはり知らぬまにおとしをめしていらしったのだと、ふっとそうきがつきましたら、たのしかったおだにの時分のおもいでが糸をくるようにあとからあとから浮かんでまいるのでござりました。いや、そればかりか、お茶々どのゝやさしい重みを背中にかんじておりますと、なんだか自分までが十年まえの若さにもどったようにおもわれまして、あさましいことではござりますけれども、このおひいさまにおつかえ申すことが出来たら、おくがたのおそばにいるのもおなじではないかと、にわかに此の世にみれんがわいて来たのでござります。 (谷崎潤一郎『盲目物語』)

…………

《おれの年齢で、またきみも幾らかは知っているおれの来し方でさ、ほんの小娘から「性の世界」について、新しい体験を ……新しい知識とすらいっていいものを、あたえられた。そう聞けば、きみは複雑な表情をするのじゃないだろうか? いじましい倒錯などとは無関係だぜ。アッケラカンと健康な、「性の世界」なんだ。そしていまいったことを自分が体験してるんだ、とおれとしては言い張るほかない!

まず、というより、徹頭徹尾、キスなんだ。キスをする。はじめのうちおれは思ったんだ、この娘は子供がお母さんにするほどのキスしかしたことがないのじゃないか、と ……そのようなキスの仕方、返し方。ところが、それが急速に進歩したんだよ。半日、キスだけしてるんだから、当然かも知れない。しかし生まれつき熱心なキスの習得者、また創り出す人でね。唇のあらゆる部分で、舌のすべての使い方で、さらに口の全体で。変化と繰り返し、そして新しい発見。歯の効用。そのうちこちらまで、かつてなく熱心なキスの習得者になっていた。創り出す人にもなっていたんだ。名にし負う性の古強者のおれがさ。一時間、二時間、キスだけで、頭も身体全体も欲望に熱くなっている。きみの言い方でなら、自分の性が久しぶりに「活性化」している! 娘の、半ば開いた唇の左端に指を入れる。唾に濡れて輝やく歯が、指を噛む。その間にも、唇の右端からキスしている。こちらも唇を半ば開いて、舌を動かして。ところが急に頭をのけぞらせてね、運動していたように紅潮した顔で、娘がいう。笑いながら……

――これはダメ、色気がありすぎる!

娘は色気という日本語を知っていたものの、使うのはおそらく初めてなんだ。おれはそう思ったよ。しかしその使用法の、誤まりもふくんで表わすものの切実さ! シックじゃないか? 粋で、寛大で、男らしくさえあって ……六隅さんが定義された chic 本来の意味どおりさ。》
 《キスしながら、膝にまたがっている娘のパンタロンの下に両掌を差し入れて、腰から尻を撫でさすっている。余分の脂肪はないすべすべして小さな尻、清らかさと、結晶体のようなエロティシズム。そのうち右手が平らな腹へと滑り込む。幾日もかけて、指は腹から下腹へと前進する。陰毛の上のへりに、指がさわる。とくに憤慨しない。それからは、陰毛のへりにふれることがルーティンになる。いったん克ちとった陣地は、奪い返されないから。しかし、さらに下方へ進む指は決して許されない。こちらを傷つけぬ、明快な優しさの拒否。地形を推量するように、範囲が確定されている。》
《抱きあって、ソファに横になる。パンタロンの下に潜り込んだ手が、パンティにそってというより、視覚的なイメージとしてハイレッグスの水着のへりを辿るように、骨盤の下辺から腿の付け根へと降りてゆく。ついに性器にふれてしまえば、決然と拒まれるだろう。やりなおしはできなくなるかも知れない。注意深く、錘りが腿の外側へ指をつねに方向づけているように。しかもその指のゆっくりした進展に切実なエロティシズムをあじわいながら。性的なオスの能動性は、ただキスのみに、またスボンごしに娘の腿にふれているペニスのたかぶりにのみ生きている。いつまでも、そのままキスしている。》
《娘の十八歳の誕生日に、祝いの夕食の席のために、クリーム色の柔かなワンピースを贈った日 ――ベルリンの百貨店の質実さ、妥当な品物を選ばせようとする献身 ――まだそれを着たままの娘は、グラス半分のソーテルヌにほろ酔いで、キスに熱中している。ソファの上で、服が皺だらけになるのもかまわず。腿の付け根にそって辿ってゆく指が、下着のへりの進路からいつか迷ってしまう。激しく下肢をこすりつけあっていた間に、娘のおシャレした薄い下着がよじれたのだろう。ためらいながら、すでに許されているコースに戻ろうとして、人さし指の腹が、ぼってりと厚みのあるところに乗る。その皮膚の端が濡れているのを感じる。指の腹は陰毛のへりでさわっていた柔毛とは別の、たくましく縮れた太い毛を押さえる。娘は断乎腹をよじって、指のみならず掌全体を、腿の外へと追いやる。

――規則を、約束を破ってはいけない、と勇気にみちた声がいう。いま娘の性器は濡れて、外縁に溢れてさえいたと、発見の喜びが鼓動になって搏つ。キスだけのエロスが、強靭な、全身的なものに変っている。》
《キスをするだけのことが、なぜこれだけ豊かで、複雑で、自分としては使いたくない言葉だけれど、奥が深いと感じられるんだろう? そのように独り言めいたことをいうおれに、娘は答えた。キスだけで、のぼりつけられるまでゆこうとしているから! よく考えぬいておいたことのように彼女はいう。いつか私がキスを途中でやめて、これは色気がありすぎる、といったでしょう? あなたは、日本語の使用法に問題がある、と教育してくれた。けれども私は「ある一線」に達しそうになったから、照れてああいったんです。ひとりだけ、そんな気持になっている、と思って。あの後であなたが、このようにしているとイッテしまいそうだ、といったわね。私は嬉しくて、イッチャエ! と叫んだのよ。

それから娘は、話しの逸脱をもとに戻そうとして、真剣にこういったのだ。あなたとセックスはできないと知っているから、キスがどこまでものぼりつめてゆくんです。》
《帰国がせまった日、一度だけ、パンタロンを脱ごうという合意ができる。ベッドに横になってのことで、はずみにパンティも剥ぎとられた。性器は見ないが、臍のまわりの、丸く薄い餅(ピン)のような脂肪と、やはり真丸な陰毛が見える。身体を重ねあわせてをみよう、窮屈そうだから太いものをーー今日はとくにフトいーー腿の間にいれてもいい、と娘はいう。経験がある者のように(あるいは経験がないゆえにか)娘は膝を高くかかげさえしたが、ペニスは挿入されない。娘の掌に射精することを許されたが、彼女の言葉を使うならそれはセックス以上だが、セックスではなかった。これまでで最高に気持がいいのに、イカなかった、と後から娘はいっていた。そのすべてをふくめて、思いだすと生涯で一、二のエロティックな経験だった。》
ーー大江健三郎『取り替え子』より


2016年5月6日金曜日

太鼓のひと弾き

君の指先が太鼓をひと弾きすれば、音という音は放たれ、新しい階調が始まる [Un coup de ton doigt sur le tambour décharge tous les sons et commence la nouvelle harmonie] (ランボー「A une raison」)

…………

東浩紀 @hazuma: トランプについて、彼が大統領になりかねない現実をなんとか理性的世界のなかに組み込もうと努力している論評(本選でどうせ負ける、じつはまともナドナド)を数多く見かけるけど、ぼくは、彼は単なる馬鹿であり、それを選ぶぐらい現代世界は病んでいるのだとシンプルに捉えるのが正しいと思う。

そしてそれはアメリカだけでなく、欧州も日本も同じだと思う。おそらくは今後、世界的に、政治家は馬鹿になっていくだろう。歴史的には、いわゆる民主主義が一時うまく回っていたのは、産業革命から2世紀、財と象徴資本が著しく偏在し議論の質を暗黙に支えていたからという結論になるのではないか。

ぼくたちはいま、グローバルな衆愚政治の時代のとばぐちにいるわけで、かつてのように民衆が選良を選び、選良が国家を動かすという幻想はもはや信じることができない。いまだその幻想にしがみつくひとが多いが、基本的に不毛だと思う。そんな時代で各自どう生きるかも、根本的に再考する必要がある。

正しさの根拠が支持者の数で決まる世界というのは、個人的にはたいへん貧しい世界だと思うし、ぶっちゃけ人類の叡智がかなぐり捨てられている感しかしないが、それでいいと本人たちがいいというのであれば口出しできないというのが現代世界の倫理なので、たぶんこの衆愚政治化は回避しようがないのだ。

やっぱ、人類には神が必要なのかもしれないね。「おれはこんなに民衆に支持されてるぜ、金もってるぜ、だから偉いんだ、正しいんだ」と臆面もなく発言してしまう人間に対する、抑止力としてね。近代が神を殺したのは、プラグマティックにまちがいだった気がするな。

というか、そもそも神は、そういうアホを抑止するためにこそ生み出された観念なんだろうから、その機能的有用性を無視して、神の概念を勝手に実体視して、「神なんか存在しません(キリッ」とかやってた近代人は単純に愚かだったんだな。神なんているわけない。でも必要だったんだよ。。。


これはひどく「正しい」問いかけではないか。

わたくしには「民主主義」をいまさら顕揚しているインテリ連中が、ひどいマヌケにみえる。

国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる。(ノーム・チョムスキーNoam Chomsky, “Necessary Illusions”)
現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である。(バディウ

そして、われわれには「神」が必要であることもまちがいない。象徴秩序を支える大他者(父の名)としての「神」が。

《始めに言葉ありき》(「ヨハネによる福音書」)

神とは言葉(ロゴス)である。

なにかを名付けることは神の諸名のひとつである。

父の諸名(Noms-du-père,複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

具体的には、次のようなことだ。

ラカン曰く、人が「昼と夜」と言えるようになる前には、昼と夜はない。 ただ光のヴァリエーションがあるだけだ。

世界に「昼と夜」というシニフィアンが導入されたとき、何か全く完全に新しいものがうまれる。 (ミレール、The Axiom of the Fantasm、 Jacques-Alain Miller、2013)


それをラカン派ではクッションの綴じ目ともいう。

象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立において、現実界 the Real は象徴界の側にある。それは、象徴界にまとわりつく--象徴界の非一貫性/裂け目/不可能性という装いにてしがみつく--現実 reality の部分である。現実界とは、象徴秩序と現実 reality とのあいだの外面的な対立が、象徴界自体に内在しているーー内部から手足を切断されつつ内在しているーーそのポイントにある。すなわち、象徴界の非全体 pas-tout である。ひとつの現実界 a Real があるのは、象徴界が外部の現実界 external Real を掴みえないからではない。そうでなく、象徴界が十全にはそれ自体になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で、ひびが入っているせいである。というのは、現実界 the Real とは形式化の行き詰まりだから。

この命題は、その十全な「観念論者」の重さを与えられねばならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かなので、どの形式化も現実 reality を掴むのに失敗し、現実の上でよろめくという《だけではない》。現実界 the Real とは、形式化の 行き詰まり以外の何ものでもない。濃密な現実 reality が「向こう out there」にあるのは、象徴秩序の非一貫性と裂け目のためである。現実界 the Real は、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。現実界は象徴秩序の外部にある例外ではないのだ。

現実 reality はそれ自体、不安定で非一貫的なものだ。したがって、現実は、それ自体を一貫的な領域へと安定化するために、主人のシニフィアンの介入が必要である。この主人のシニフィアンは、点(ポワン・ド、キャピトン)を徴づける。この点において、シニフィアンが現実界 the Real のなかに落ちる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ポワン・ド・キャピトン point du capiton は、一般的に「クッションの綴じ目」と訳される。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、現実のように、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンは、かつまた主人のシニフィアン S1 とも呼ばれる。

バディウは時折、"正義"を主人のシニフィアンとするように提案する。"自由"や"民主主義"のようなあまりにもひどくイデオロギー的に意味付けられ過ぎた概念のかわりにすべきだというものだ。しかしながら正義についても同様な問題に直面しないだろうか。プラトン(バティウの主要な参照)は正義を次のような状態とする、すなわちその状態においては、どの個別の決断も全体性の内部、世界の社会秩序の内部にて、適切な場所を占めると。これはまさに協調組合主義者の反平等主義的モットーではないか。とすれば、もし"正義"を根源的な束縛解放を目指す政治の主人のシニフィアンに格上げしようとするなら多くの付加的な説明が必要となる。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012私訳)

ジジェクの見解では、バディウの「正義」でもなく、かつまた「民主主義」でも「自由」でもなく 、別の「神の言葉」、別の名付けが、現在、ひどく必要である。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。(……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、2012,私訳)

…………

※附記

現在の混沌の主因は、実は誰もがわかっているはずだ。ただ、フロイトの無意識の基本的定義のひとつである「知っていることを知らない」振舞いをしているだけだ。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーー「ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈」)

たとえば、ラカン派の臨床家でもあるヴェルハーゲは次ぎのように言う、新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

・ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

・ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

・右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全てのナラティブに共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。

だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014、私摘要訳 )






2016年5月5日木曜日

ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代

the era of the ‘Ur’ – Freud’s UrverdrängungーーAnne Lysy (ECF, NLS, WAP, current President of the NLS)

すなわち、われわれの時代は、原抑圧の時代である。「父の名」(父の法)の機能が弱体化すれば、抑圧から、その抑圧の底にある原抑圧へと向かうのは当然だ。

これはなにも Anne Lysy-Stevens が勝手に言っているのではなく、セミネール23において、聴衆のひとりからのサントームをめぐる質問に答えるなかで、ラカン自身が「原抑圧 Urverdrängung」と口に出している。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.

現在ラカン派では、サントームの臨床が強調されることが多いが、その内実はーーすくなくとも主要な内実のひとつはーーフロイト概念の「原抑圧」にかかわることになる(参照:「原抑圧・原固着・原刻印・サントーム」)。

かつまたジャック=アラン・ミレールは、「父の名」の何種類ある定義を提示するなかで、六番目の定義として、父の名=サントームとしている(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)。

ただし、ここでの「父の名」は、実際は「父の諸名」のことだろう。

父の諸名(Noms-du-père,複数の父の名) 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(セミネール22,.R.S.I., 3/11/75)

そして、旧来の「父の名」の下っ端ヴァージョンとしてある「父の諸名 les Noms-du-père」とは、母から受動的に侵入・刻印された原初の徴とそこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け)の両方をおそらく表している。

前者の意味でのサントームとは、《un événement de corps = sinthome》 (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)である。

ただし、これを父の名のひとつとしてよいのかどうかは、わたくしには厳密には曖昧なままだ。むしろ論理的には、「母の名」(母の法)としたほうがよい気がする。

法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話されている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語のなかで、話すことを学ぶ。この言語へに没入によって形成され、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。(Geneviève Morel 、‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

もっとも、くり返せば、サントームは原症状の意味をもっているーー 《sinthome as an irreducible symptom or primal repression (Urverdrängung)》(Post-Fantasmatic Sinthome (Youngjin, Park、PDF) ーーには相違ない。いま曖昧なままなのは、この原症状を父の諸名とすることができるのかということだ。

この曖昧さは、次の文の« La femme »を、〈母〉とすることができるかどうか、という問いもかかわる。

「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

[La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».](ラカン、セミネール23、 サントーム)


別に、《女は男のサントームである [Une femme est pour tout homme un sinthome]》(S.23)などという厄介な発言もある。

前に戻って、後者ーー挿入が多くなりすぎて「後者」の意味合いが不鮮明になってしまったが、「母から受動的に侵入・刻印された原初の徴/そこから逃れようとする個人の能動的な徴(名付け」の二項の後者ーーが、旧来の神経症者における「父の名」(父の法)とは異なって、その「父の名」が介入する以前の父の代りの倒錯ヴァージョン père-version (あるいは vers le père、つまり父の機能に向かう倒錯的替え玉、父の傀儡 la dupe du père )ということになる。


…………

以下、資料編。


◆まず、エリック・ロランーーフロイトの大義派(Ecole de la Cause freudienne)、いわゆるミレール派のナンバー・ツー)の2012年の記事(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM )より。

……「ふつうの精神病」は、皆が精神病的であることを意味していない。人は精神病的主体から学んだ教訓(それは臨床領野のすべてと関係がある)と、臨床カテゴリー自体を混淆してはならない。(……)

我々はクレペリンの時代と同じ状況にある。当時、精神病院に入院した人々の80パーセントほどは、パラノイア(妄想)的だと考えられた。我々は「ふつうの精神病」をいたるところに持っているだって? いやそんなことはない! このコンセプトは、整備プログラム、調査、方向づけであり、我々は、何を扱っているかが分かるまで当面抱き続けているものだ。

その上おそらく、「精神病」という言葉が時代の精神とズレる日が来るのではないか。代わりに、「ふつうの妄想」という用語について語る来るべき日が。
ジャック=アラン・ミレールが、ジャック・ラカンのエラスムス的調子、『痴愚神礼讃』の調子をもって言った「みな狂人だ、みな妄想的だ」(参照)。これは、みな精神病的であることを意味しない。そうではなく、このすべては、21世紀における我々の現代的調査、すなわち、精神病とは、我々にとって何を意味するのかの問いである。

それはちょうど、精神病のふつうの地位が、普遍的な拡がりを持っていることを意味しないのと同様に、我々は精神病的主体から引き出した教訓は、「父の機能」が消滅したわけではないことだ。父の機能は残っている。変形されてはいるが。

父はいる。よりふつうの位置の父が。ラカンはこの父を次のように呼んだ。まだ「ウケる(épater)」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父と。彼は「例外」を構成する者だ。我々を驚かす能力がある者だ。ジャック=アラン・ミレールは、これを示す例を取り上げている。現代の政治家は、それが道化師の機能のようであってさえ、印象づけようと奮闘している、メディアやコミュニケーション産業に囚われつつ、印象づけようと努めている、と。もちろん、これは正しい仕方でなされなければならない。

《Sur n'importe quel plan, le père c'est celui qui doit épater la famille. Si le père n'épate plus la famille, naturellement… mais on trouvera mieux ! C'est pas forcé que ce soit le père charnel, il y en a toujours un qui épatera la famille dont chacun sait que c'est un troupeau d'esclaves. Il y en aura d'autres qui l'épateront. 》(Lacan,S.19)

(……)印象づける者とは、我々の世界において、よりいっそうの規律と統整を喚起させる者だ。…他の皆とは異なった形で、なんとか物事をなそうと努める者たち。このような個人は、我々の特殊なカテゴリーに入る。そして我々の調査における共同者である。すなわち、いったん我々が分類不能の地平にあるとき、いかに「ふつうの父の名」が変形・機能しているかを取り調べる共同者だ。……(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM 、2012)

※妄想については、幻想=妄想とするミレールの観点を前回引用したが、ここではミレールではなく、ジジェクを再掲しておこう。

欠如 している大他者という概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの大他者の欠如を満たす試み、大他者の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。この理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは「大他者の大他者がある」という信念である。別の大他者、外部に現われた社会的現実の大他者の裏に隠れた大他者、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる「大他者の大他者」への信念である。((ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳ーー「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」)


◆次にベルギーの臨床家ポール・ヴェルハーゲへのインタヴュー記事(2011)より掲げるが、ヴェルハーゲは次ぎのように言われることもある人物である。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013、PDF

“PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE”(An Interview With Paul Verhaeghe,2011,PDF)より(インタヴュアーのDominiek Hoens は、英語圏のラカン解釈にかかわる論集でも、ときに見かける名だが、専門は哲学であるようだ)。

DH)新しい病理・新しい病い・新しい主体性の型についての全ての問いにかかわって、より厳密なラカン派的接近方法内では、これらはしばしば「後期ラカン」と関連づけられます。その「後期」とは、エディプス・コンプレックスの彼方のラカン、サントームと享楽のラカンという意味です。これは、純粋な理論的立場からは、次のことを意味しないのでしょうか? つまり、欲望、エディプス・コンプレックス、あるいは無意識は、もはや役立つカテゴリーではないことを。
PV)エディプス・コンプレックスについてのラカンの最後の理論において、彼はそれを必要不可欠な社会構造としています。しかしまたラカンは、エディプス・コンプレックスは、定義上、この個別の社会構造を必要としないことをも示しています。一つの社会構造がなければならない、享楽に対する保護、限度を設けるという意味での保護です。これは、倫理のセミネール 7 と比べて、きわめて異なった視点です。セミネール 7 では、享楽は、法の侵犯として叙述されているのですから。とはいえ、一方は他方を排除しません。最後の理論は、倫理のセミネールの核心として現れたものの実に深い反映です。ところで、私はあなたの質問を忘れてしまった。
DH)私は別の形で定式化しえます。精神分析理論、そして古典的形式におけるラカン理論は、神経症の理論、無意識の理論、去勢の、欲望の理論です。あるポイントでーーこれはラカン読解のある仕方で、ということですが、ときに、セミネール 17、あるいはセミネール 20 に断絶(裂け目)が位置されると読みえますーー、このポイントにて、ラカンは、古典的ラカンの出発点を変えたかもしれない、と。そして、異なった理論の選択のもと、古典的ラカンを捨て去りさえした、と。

私は、ジャック=アラン・ミレールによって広められた用語に思いを馳せています。すなわち、「ふつうの精神病」、psychose ordinaire です。これが指摘しているのは、古典的神経症ーーヒステリーと強迫神経症ーーはまだ出現しはしますが、(あなたがすでに言及したように)以前より減少した、ということです。これは別の問題にかかわるに違いありません。この論拠の流れにしたがえば、精神分析が依拠する基盤、歴史的であると同時に原則的な基盤ーー無意識の理論、欲望の理論--はもはや効力はない。このカテゴリーでは、わずかなことしかなされえない。そう人は考え得ます。というのは、主体性の新しい形式、快楽との関係性を考えるために、もはや適切ではないからです。
PV)私は異なった仕方で定式化します。ポストラカニアンは、実にこれを「ふつうの精神病」用語で理解するようになっている。私はこれを好まない。二つの理由があります。一つは、「ふつうの精神病」概念は、古典的ラカンの意味合いにおける精神病にわずかにしか関係がない。もう一つは、さらにいっそうの混乱と断絶をもたらしています。非精神分析的訓練を受けた同僚とのコミュニケーションとのあいだの混乱・断絶です。

実に全く疑いはない。私たちは、もはや単純にフロイト理論や初期のラカン理論を適用しえないことは確かです。それはまさに単純な理由からです。すなわち、神経症は異なったものになった。社会が変わったからです。アイデンティティさえ変貌した。これを私もまた確信しています。…

でもこれは次のように言うことではない。すなわち、私たちは、古典的理論に現れた、数ある決定的語彙を使い続けえない、と言うことではない。不安の理論、快楽の理論、欲望の理論。それはただ現在異なったふうに転調されているのです。

変わったのは、大他者なのです。私たちは、大他者への数々の変化を感知しています。…結局、フロイト理論は、ヴィクトリア朝社会の解釈です。これは過ぎ去った。私たちは、今、ポストモダン社会、新自由主義社会のなかにいます。そう、私たちの理論はその新しい社会のなかの数多くの構造を認知しています。そして、エロス、タナトス、不安、快楽、ジェンダー、去勢のような数多くの根本問題も、その社会のなかに場所を持っています。だが、もはやヴィクトリア朝にあったものではない。

《変わったのは、大他者なのです》とあるが、これはもちろん、上に掲げたエリック・ロランの文を参照しつつ、「変わったのは、「父の名」なのです」と言い換えることができる。





2016年5月4日水曜日

「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

われわれはーーすくなくともフロイトや前期ラカン、さらにはドゥルーズなどの読者であったわれわれれ、多くは凡庸な解釈者を通しての分かったつもりになっていただけかもしれないわれわれは、そうであっても、神経症・精神病・倒錯の区分けにそれなりに魅されてきたと言えるのではないか。

たとえばドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』には、次のような表現がある、《オイディプス的な家族的大地、倒錯の人工的な大地、精神病の隔離された大地》。この書が上梓された当時は、まだ「オイディプス的な家族的大地」の残照があった。だが、いまはそんなものはほとんどない(すくなくとも先進諸国では虫の息である)。

そのとき、あいつは「神経症」的だよ、あるいは「精神病」、「倒錯」的だよ、とは何か。たんに血液型の推測と似た遊戯の一種のようなものなのか。

かりにそうであっても、旧套の人間であるわたくしは、この三区分の「血液型推測」にいまだ魅せられているところがある。

神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012ーー「精神の貴族としての倒錯者」)
呪物〔フェティッシュ≒倒錯者の対象物)は、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、呪物崇拝者にはぜんぜん気にもならないのである。 (フロイト『呪物崇拝』)


こういったことに関心があるのは、たとえばフロイトが1931年の短いエッセイの冒頭で掲げた次ぎのような問いにかかわる。

われわれの観察は、ひとりびとりの人物は人間というものの一般的な姿を一目では見渡すことのできない多様性をとって実現しているものである、ということをわれわれにしめしている。このようなたくさんのもののなかで二、三の類型を区別したいというもっともな欲求にもししたがうとすれば、どのような特徴をたよりに、どのような見地からこの区分をくわだてたらよいのかという選択をあらかじめ行わなければならないなるだろう。(フロイト『リビドー的類型について』1931)

この、フロイト旧訳ではわずか四頁のエッセイは、わたくしの知るかぎり、ほとんど言及されることのないものだ。だが、フロイトはこのエッセイの末尾近くで、次のように記しており、現在でも豊かに活用できうる示唆をもっている。

エロティック型が罹患すると、強迫型が強迫神経症となるように、ヒステリーになるということは容易に推量できるように思われるが、しかしこれは最後に強調しておいたような不確実性とも関わりをもっている。ナルシシズム型は、その平正の非依存性によって外界から拒否される機会にさらされており、犯罪を犯しやすいという本質的な条件をそなえていると同時に、精神病への特別な素因をふくんでいる。(フロイト「リビドー的類型について」1931)
Daß die erotischen Typen im Falle der Erkrankung Hysterie ergeben, wie die Zwangstypen Zwangsneurose, scheint ja leicht zu erraten, ist aber auch an der zuletzt betonten Unsicherheit beteiligt. Die narzißtischen Typen, die bei ihrer sonstigen Unabhängigkeit der Versagung von Seiten der Außenwelt ausgesetzt sind, enthalten eine besondere Disposition zur Psychose, wie sie auch wesentliche Bedingungen des Verbrechertums beistellen.(Freud,ber libidinöse Typen)

旧来のラカン派的観点からは、だれもが神経症か倒錯、精神病なのだから、フロイトが記すリビドー類型の罹患とは関係なしに、神経症・精神病・倒錯のどれかの構造にあてはまる。これをフロイトのこのエッセイの叙述に当てはまれば、エロティック型=ヒステリー、強迫型=強迫神経症、ナルシシズム型=精神病となる(前二者は、神経症の下位分類)。

ところで、フロイトはこのエッセイで、混合型を提示している。

①「エロティック強迫型(erotisch-zwanghafte)」
②「エロティック・ナルシシズム型(erotisch-narzißtische)」
③「ナルシシズム的強迫型」(narzißtische Zwangstypus)」

ラカン的には、①は神経症型、②はヒステリー精神病型、③は強迫神経症精神病型ということになる。これは、古典的ラカン理論の区分けではありえない。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也)

だが、現在のラカン理論解釈ではゆたかな示唆がある、といううふうに、わたくしは読む。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

そもそも、われわれの「症状」は二重構造になっている。上方が神経症の真珠(欲望の象徴界)、下方が精神病的砂(欲動の現実界)と。

これはフロイトの精神神経症/現実神経症(抑圧/原抑圧)区分でもある。

フロイトは、『制止、症状、不安』(1926)にて、「後期抑圧」(後の大半の抑圧 Mehrzahl aller späteren)と「最初期の抑圧 (frühesten Verdrängungen )」とを比較して、第二の場合(原抑圧Urverdrängung)は現実神経症 Aktualneuros の原因、第一の場合(後期抑圧 Nachdrängung)は精神神経症 Psychoneuros の特徴としている(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。
これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(“ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER:” BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK、2007

とすれば、フロイトの混合型とは、われわれ標準的な人間のほとんどの基本的精神構造ではないか。われわれには、原抑圧はどんなタイプでもかならずある。抑圧は捉え方しだいだが、なんらかの形である(そもそも言語を使用する人間は、神経症的に「抑圧」される)。

①のド神経症型ーーフロイト曰く、《両親の遺物や教育者や模範などに対する依存症》が顕著になるタイプーーは、二重構造的説明にはあてはまらないが、②③は、ーー②はエロナル型、③は強迫ナル型とでも略することができようーー、明らかに二重構造の類型である。

それは、下記に示すがミレールのふつうの精神病概念にも近似した区分けであるように思う。

ーーで、〈あなた〉はエロナル型だろうか、それとも強迫ナル型だろうか。あるいはド神経症型だろうか・・・

もちろん、純粋型、つまりエロ・強迫・ナル型もありうるのかもしれないが(とくにナル型は最もありうるだろう、「現実神経症」が上のフロイトが記すように「精神神経病」なしでも現われるのなら)、純粋ナル型以外は、理論的にはーーつまりフロイトの原抑圧や現実神経症の考え方を信用すればーー大半は混合型であるだろう。

やや冗談っぽく記しているが、それなりにマジであり、フロイトにとって、エロティック型の《愛を失うことに対する不安に支配され》た状態は、エロス的融合の側にあり、強迫型の《高度の独立性》はタナトス的分離の側にある。

結合の代用としての肯定はエロスに続し、排除の継承である否定は破壊欲動に属している。(フロイト『否定』旧訳)

[Die Bejahung – als Ersatz der Vereinigung – gehört dem Eros an, die Verneinung – Nachfolge der Ausstoßung – dem Destruktionstrieb.](Freud: Die Verneinung,1925)
エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛と neikos 闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

エロス Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。つまり、分離した要素を結びつけることによる融合・統一である。逆に、タナトスThanatos は、分離の状態への回帰を目指す。これが破壊欲動の内実である。

たとえば、どの原主体も、乳幼児期には、無力(寄る辺なさ Hilflosigkeit)な状態におかれ、避けがたく母との融合・同一化しなければならない。だがしばらくした後、その受動的ポジションから能動的ポジションへと移行を目指す。人は常に、《受動的なことに反抗し能動的な役割を好む》(フロイト『精神分析概説』1938)。これが分離・独立であり、母との融合(エロス)の破壊(タナトス)である。

フロイトはナルシシズム型を、《自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができる》と記していることを附記しておこう(参照)。

この下部の欲動の現実界が上部構造においていくらか加減されているという意味合いでのエロナル型であり、強迫ナル型である。いってしまえばエロス型/タナトス型ということになるが、これではたいしておもしろくない。エロナル型、強迫ナル型のほうがいいんじゃないか。

ところで、エロナル型と強迫ナル型の人間類型の差異はどうして生まれるのだろうか。以下の文の「ヒステリー」はエロナル型、「強迫神経症」は強迫ナル型の基盤として読んでみよう。

ヒステリーにおいては、すべてのアクセントは、快の部分の取り入れ・同一化に置かれる。ヒステリー的主体は、自らが〈他者〉を失うことを許容しえない。強迫神経症においては、すべてのアクセントは、不快部分の吐き出し・分離に置かれる。強迫神経症的主体は、自らが〈他者〉と融合することを許容しえない。(……)

ヒステリー的な母は充分に与えない。強迫神経症的な母は過剰に与える。

ヒステリー的な子どもは、〈他者〉からけっして充分に受けとらない。この帰結として、絶えまず要求する主体となる。〈他者〉によって受け入れられたいという主体だ。

強迫神経症的な子どもは、あまりにも過剰に受けとる。この帰結として、拒絶・拒否する主体となる。〈他者〉から可能なかぎり逃れたい主体だ。 (Paul Verhaeghe、Beyond Gender: From Suject to Drive、2012)

ーーひとつの見解ではある。ヴェルハーゲ以外にこういったことを言っている解釈者はいない。だが、ヒステリーは口唇欲動にかかわり、強迫神経症は肛門欲動にかかわる、というのはほぼコンセンサスがある。とすれば、母のおっぱいが足りないのが、エロチック型であり、規則正しいうんこを母から強要されるのが、強迫型であるには相違ない。この線で「論理展開」すれば、ヴェルハーゲの解釈に至りうる。

最近、わたくしはひどく攻撃的な人物(強迫ナル型)を垣間見ると、彼の母に思いを馳せる。ひどく融合的な人物(エロナル型)を垣間見ると、彼女の母(あるいはきょうだい関係)に思いを馳せる・・・(もちろん、わたくし自身については、とっくに診断ずみであるが、「倒錯」の扱いにおいて若干の曖昧さは残る)。

さて、以下が実は本題であったのだが、上記はあとでつけ加えた新式「血液型」推定にかかわる、いささか長くなりすぎた「序論」である・・・  

なお、くり返せば、以下に出てくるミレールの「ふつうの精神病」概念は、フロイトの「現実神経症」概念にーー分裂病の取扱いなどの細部を除けばーーひどく近似したもののはずだ。

…………

今、私は思い起こしてみる。あの時私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

あなたがたは知っている、ロマン・ヤコブソンの理論では、どのシニフィアンも基本的に次のように定義されることを。それは、今では古臭い理論だ。他のシニフィアンに対する、あるいはシニフィアンの欠如に対するそのポジションによって定義されるなどということは。ヤコブソンの考え方は、シニフィアンの二項対立定義だった。私は認める、我々は長年のあいだ、本質的に二項対立臨床をして来たことを。それは神経症と精神病だった。二者択一、完全な二者択一だった。

そう、あなたがたにはまた、倒錯がある。けれど、それは同じ重みではなかった。というのは本質的に、真の倒錯者はほんとうは自ら分析しないから。したがって、あなたが臨床で経験するのは、倒錯的痕跡をもった主体だけだ。倒錯は疑問に付される用語だ。それは、ゲイ・ムーブメントによって混乱させられ、見捨てられたカテゴリーになる傾向がある。

このように、我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・精神療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。 (Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF


《あの時私はなぜ、……「ふつうの精神病」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか》とあるが、この「あの時」とは、1998年のことだろう。

1998年にECFの大きな会合で精神病の問題が扱われた時でした。ジャック=アラン・ミレールが「普通の精神病(psychose ordinaire)」というタームを掲げて、それがまたたくまにECFの中で広まり、今では普通名詞のように、あるいは診断名のように使われています。(立木康介ーーラカン派の「ふつうの精神病」概念をめぐって


◆ポール・ヴェルハーゲのインタヴュー(2011)より。

……私は異なった形で形式化したい。ポストラカニアンは、実にこれを、「ふつうの精神病」用語で理解しようとした。ーーわたしはこの用語が好きではない。二つの理由がある。これは古典的なラカン派の意味での精神病にわずかにしか関係がない。さらに、よりいっそうの混乱と断絶をもたらしている。それは非-精神分析的訓練を受ける同僚とのコミュニケーションの混乱と断絶である。(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE An Interview With Paul Verhaeghe,2011,PDF)

…………

さて、ミレールの講演 2008 の結論部分を抜き出しておこう(今までもその一部を掲げたことがあるが、もう少し長く)。

【ふつうの精神病の相反する二つの理論的帰結
①神経症概念の改良】
「ふつうの精神病」の理論的帰結は二つの対立した方向に向かう、と私は感じる。一方向は、神経症概念の改良である。私は次のように言うのを好む、神経症は固有の構造であり、壁紙ではない、と。あなたは、「これは神経症だ」と言う何らかの基準が必要性だ。あなたは、「父の名 the Name-of-the-Father 」ーーそれは「父の名のひとつ a Name-of-the-Father」ではない--との関係が必要だ。あなたは、− φ の何らの証拠、つまり去勢・不能・不可能との関係の何らかの証拠が必要だ。あなたは、フロイトの二番目の構造図式を使用するためには、自我とエスとの間、あるいは諸シニフィアンと諸欲動との間のはっきりした差異化が必要だ。あなたは、はっきりと輪郭を描かれた超自我が必要だ。そして、もしあなたがこれを持たずに他のサインを持っているなら、そう、あなたは神経症ではない。あなたは何か他のものだ。

【②精神病の一般化】
したがって、一つの方向において、我々は神経症概念を改良する方向に導かれる。しかし他方で、反対方向の帰結がある。つまり、あなたは精神病の一般化に導かれる。これはラカンがとった道のりだ。精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。 そんなものは存在しない。父の名はひとつの属性(述語 predicate)である。常にそうだ。父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。

【神経症と精神病の区別の撤廃】
そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが 1978 年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれの仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。私は、今年の最後のレッスンで、この文、« Tout le monde est fou, c'est-à-dire délirant »にコメントした。「みな狂人だ、すなわち妄想的だ」。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも同様である。


【すべては妄想的】
あなたは精神分析家として機能しないだろう。もしあなたが知っていること、あなた自身の世界が妄想的であることに気づいていないなら。ーー我々はこれを幻想的と言う。だが、幻想的という意味は、妄想的のことだ。分析家であることは次のことを知ることである。あなた自身の世界・あなた自身の幻想・あなたが「意味をなす make sense」仕方が妄想的であることを。この理由で、あなたはそれを捨て去らなければならない。あなたの患者の正しい妄想、患者の「意味をなす」仕方に、ひたすら気づくために。

 【痴愚礼讃】
これが、あなたがたにエラスムスの『痴愚神礼讃』を推奨する理由だ。この古典、彼自身の仕方で、エラスムスはまさにこう言う、ーーみな妄想的だ、と。私はこの話をこの文をもって終える。「意味をなすこと」は、それ自体妄想的である。すなわち、意味をなすことは、我々を現実界から引き離す。我々が現実界と呼ぶものは、「意味をなせない」何ものかだ。そして、この理由で、我々は現実界というカテゴリーを使用する。だから、意味をなすことに御用心! 私は気づいている、この一時間半、私が「意味をなした」ことを。だから、私が言ったことに御用心!(同上、ミレール、Ordinary psychosis revisited,2008)

ひとつ前のパラグラフで、ミレールは、幻想=妄想としている。通常、幻想とは、想像界もしくは象徴界の審級とされてきたはずだ。これを、たとえばジジェクは長年語ってきた(参照:「三種類の幻想、あるいは幻想と妄想」)。

だが、2012年の書には、次のような叙述が見られる。

欠如 している大他者という概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの大他者の欠如を満たす試み、大他者の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。この理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは「大他者の大他者がある」という信念である。別の大他者、外部に現われた社会的現実の大他者の裏に隠れた大他者、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる「大他者の大他者」への信念である。((ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


2016年5月3日火曜日

ミレール? 天才だよ、シニカルで完璧に学者ぶった天才だ(ジジェク)

ーーという題の文を記して、その後、ミレールの別の論文をたまたま読んだのだが、彼はクリアだね、実に明晰で、ラカン理論の変遷がわかったツモリになれる。驚きをも与えてくれる。

《精神病の主因は父の名の排除ではない。逆に、父の名の過剰だ》、などという逆説的「真理」をも提示してくれる(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER、2013)。

この論文の表題 L'Autre sans Autre、とは il n'y a pas d'Autre de l'Autre 「大他者の大他者はいない」の言い換えだが、「大他者なしの大他者」なんていいじゃないか。

というわけで、下記の文をいくらか書き換えようか、と思ったが、思っただけで、そのまま投稿する。


(Lacan dot com)

あなたがたは覚えているだろう、フロイトの名高い自問、「女は何を欲しているのか?」を。一人の男として、フロイトはこの問いを発した。そしてたぶん、一人の女としても。我々は、三十年のラカンの教えにもかかわらず、答えを持っていない。我々は試みた。したがって、特異な問いではない。

私には別の問いがある。それは長年私を悩ましてきた。その問いは「アメリカ人は何を欲しているのか?」だ。私は何と答えを持っている! 部分的な答えだ。アメリカ人はスラヴォイ・ジジェクを欲している! 彼らは、スラヴォイ・ジジェクのラカンを欲している。彼らは、我々 La Fondation du Champ freudien のラカンよりも、ジジェクを好むのだ、おそらく、当面のところは。

問いはこうだ、彼らは、とりわけ明瞭なコンセプトを欲しているのか? あるいは、声高に論争する余地を欲しているのか? 何らかの交渉する空間を? そして、それは精神分析のコンセプトに当てはまる。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

ミレールはジジェクが英語圏で読まれすぎ、反面、彼の見解はわずかしか注目されていないことーー特に非専門家のあいだではーーにまずは苛立っているのだろうが、この講演は「ふつうの精神病」のコンセプトをめぐるものでもあり、ジジェクは、わたくしの知るかぎり、「ふつうの精神病」概念に一度も触れていない。おそらくミレールの苛立ちはそれに大きくかかわるのではないか。

ジジェクは、かつては私のラカンはミレールのラカンだと言った。だが、ある時期(2000年前後)から、ミレール批判が始まった。ジジェクのミレール批判は理論的な部分もあるが、その主要な部分は、ミレールは、まったく社会改革に目が向かず、たとえば、ミレールが21世紀にはいって専心している後期サントーム臨床(「ふつうの精神病」にかかわる)は個人の臨床の道具でしかない、というものだ(もちろんミレールはたんなる臨床家であり、それでいいという観点もあるだろう。だがミレールはラカンの遺産を引き継ぐ代表者でもある)。

他方、フロイトもラカンも社会構造に目を向けた。それぞれの社会構造は、それぞれの異なった症状を生む。いまでは「神経症」、その代表症状であるヒステリーはーーすくなくとも強度のヒステリーはーーほとんど消えてなくなった。それは超自我社会でなくなったおかげである。だがラカンは主人の言説の時代から資本家の言説の時代へ、と1970年前後にいったとき、今までとは異なった別の症状の現われに気づいていた。現在の症状は、資本の論理、新自由主義による症状である。


主人の言説は、概ね消滅してしまった(ラカン セミネールⅩⅦ、1970)

資本主義の言説を特徴づけるものは、排除(Verwerfung)、拒絶、象徴界の領野すべての外に拒絶することだ。何を拒絶するのか? 去勢を拒絶する。(セミネールⅩⅨ 1972/1/6)

もう遅すぎる……、危機、主人の言説のではない、資本家の言説、それは代替だが、それは開いてしまったouverte(ラカン ミラノ 1972/5/12)

ここで一見意想外な指摘を掲げておけば、ラカンの男性の論理/女性の論理の二項は、後者の女性の論理を顕揚していると理解されることが多い。だが「主人の言説から資本家の言説へ」とは「男性の論理から女性の論理へ」としても捉えうることだ。そして現在の症状(社会症状であるならば、レイシズム、原理主義等、個人症状であるならば自閉症、いじめ猖獗等)はひょっとして社会的な女性の論理における症状なのではないか、という観点がある。

……女性の論理のタームで組織された社会構造もまた、それ自身の袋小路に遭遇する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

ここでの法は、法への一つだけの例外とともの超越性と普遍性である(……)。

反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy 私訳ーー三つの「父の死」)

資本の論理とは例外の論理ではない。究極的には差異の論理だ。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです》(岩井克人

そして、Levi R. Bryanが言うように、《女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する》。

たとえば、現在どんなことが起っているのか。

ヴィクトリア朝時代の病いは、あまりにも多く集団にかかわり、あまりにも少なく享楽にかかわることだった。ポストモダンの個人たちの現代の病いは、あまりにも多く享楽にかかわり、あまりにも少なく集団にかかわることである。(……)

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントは殆ど存在しない。疑いなく、会社や組織への忠誠はない。これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは己れをコミットすることの失敗あるいは拒否を反映している。個人主義、利益至上主義とオタク文化me-cultureは、擬似風土病のようになっている。…表面の下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、薬品産業は莫大な利益をえている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大はこの結果だと思う。私の意見では、それは伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。そうではなく、社会的孤立の増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(Paul Verhaeghe、Capitalism and Psychology Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent、,2012 私訳ーー新自由主義社会のなかの居心地の悪さ

いずれにせよ、ジジェクやポール・ヴェルハーゲの解釈では、現在のレイシズム、原理主義の猖獗は、資本の論理(資本家の言説)社会のせいである。

疑いもなく、エゴイズム・他者蹴落し性向・攻撃性は人間固有の特徴である、ーー悪の陳腐さは、我々の現実だ。だが、愛他主義・協調・連帯ーー善の陳腐さーー、これも同様に我々固有のものである。どちらの特徴が支配するかを決定するのは環境だ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 ーー「ラカン派による「現在の極右主義・原理主義への回帰」解釈」)

ラカンの遺産をまっさきに継ぐべきミレールが、冷笑主義的個人臨床に引きこもっていていいものだろうか、というのが彼らの批判としてよいだろう。

とはいえ、フロイトやラカンは言うだけ言って、社会構造の変革にはたいしたことはやっていない、という観点もあろう。ラカンが言うように、フロイトは『集団心理学と自我の分析』で、ヒトラーの出現を予言したとしても、ヒトラーが現われたあと、それに抵抗することは事実上なにもやっていない。ラカンも資本家の言説の出現を指摘しはしたが、その後たいしたことはやっていない。つまり、現在のラカン主義者、マルクス主義者は、ラカンの可能性の中心を読み取ってなにやら言っているだけだ、という批判はありうる。

たとえば、ヴェルハーゲは次ぎのように言う、新自由主義のヘゲモニーのもと、《我々はシステム機械に成り下がった、そのシステムについて不平不満を言うシステム機械に。》(Paul Verhaeghe What About Me? 2014 )

・ポピュリストの批判は、大衆自らが選んだ腐敗した指導者を責めることだ。

・ラディカルインテリは、どう変えたらいいのか分からないまま、資本主義システムを責める。

・右翼左翼の政治家たちはどちらも、市場経済に直面して、己れのインポテンツを嘆く。

これら全てのナラティブに共通しているのは、何か別のものを責めたいことである。

だが我々皆に責務があるのは、「新自由主義」を再尋問することだ。…それを「常識」として内面化するのを止めることだ。(Paul Verhaeghe What About Me? 2014、私摘要訳 )

ーーこの指摘は痛烈だ。われわれは何らかの形でこれをやっているのではないか。

いずれにせよ、フロイトやラカンは(そして上のヴェルハーゲなども)日々患者に接しているはずで、社会構造の変貌にたいして敏感な嗅覚をもっていた(いる)に相違ない。そもそもすぐれた分析家とはそういう資質があるはずだ。

たとえば、日本でも中井久夫が次ぎのように言っている。

中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

これはまさに主人の言説の崩壊(象徴的権威の斜陽)を感じとっていた精神科医の言葉である。

さて、具体的に、ジジェクのミレール批判を抜き出せば、たとえば、最近のミレール批判は次ぎの通り。


◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012より

ミレールにとって(彼はここでラカンに従っている)、不安は、我々を騙すことのない唯一の情動である(フロイトがすでに言ったように)。この意味は、〈大義〉のためのどの(政治的)熱狂も、想像的な誤認の要素だということだ。ミレールは、この最近の数年、ことさら主張しているのだが、政治は、想像的あるいは象徴的同一化の領野であり、それ自体イリュージョンだと。

このような立場は、必然的に、ある種の冷笑的悲観主義に終わる…。すなわち全ての集団的熱狂のアンガーシュマンは屑に終わる。真理は、悲壮な誠意の自己盲目的行動において、瞬時のあいだのみ経験されるだけである……。

こういった瞬間は永遠に維持できはしない。だから我々に出来る唯一のことは、「(社会的)ゲームをする」ことだけだ、と。政治的行動は、究極的にイリュージョンの単なる遊戯でしかないと気づきつつ。

バディウは、我々を、この高尚化された悲壮な冷笑主義から抜け出すことを可能にしてくれる。すなわち、熱狂は、不安よりも、すこしも「真正」でないわけではない、と。集団的な政治のアンガーシュマンは、その事実だけで、想像的誤認であるわけではない。

この相違は、今日、全く決定的である。政治的な死と生の相違であり、支配的なポスト政治的な冷笑主義への是認と、ラディカルな解放運動のための勇気の集結のあいだの相違である。
ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけ semblances (理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、「自ら享楽し、他者が享楽するに任せる」という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す。

我々は見てきたように、ミレールはもちろん商品市場に要求される享楽の標準化に批判的ではある。とはいえ彼の異議表明は、標準的な文化批評の域を出ない。さらに、ミレールが無視しているのは、あのような特異性が繁茂する特殊な社会-象徴的状況だ。(……)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被とのあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけ semblance の地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけ semblances は、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違える les non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界とのあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤 illusion とは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルに棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)

※ジジェクとほぼ同様な見解の ロレンツォ・キエーザのミレール批判は、「Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)」にある。





2016年5月2日月曜日

「人間は想像界から始まる」という通念は疑わしい

ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF

ここでミレールは、古典的ラカンの吟味をしている。事実、ラカン派の解釈はいまだ鏡像段階が幼児の最初の状態だとされることが多い。

だが、言語は最初からある。象徴界が想像界に先行している。その象徴界は、S1 導入後の象徴界とは異なった、象徴界のなかの現実界とでもいうべきものだが。

ラカンは、セミネールⅩⅦの冒頭から次ぎのようなことを言っている。

主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1 は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。

たとえば、ロレンツォ・キエーザを次ぎのように記している。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場をする前に、文字 letter  としての言語、言語のリアルReal-of-language に関係する。人は原初の要所を思い描くことを余儀なくされる、要所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話され続ける。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007 )

ここでの「文字 letter 」とは、「もの」としての言葉(中井久夫)、あるいは純粋シニフィアンのことである(参照:純シニフィアンの物質性)。


以下のポール・ヴェルハーゲの記述は、人間は想像的関係から始まるとされているが、その想像的関係の対象となる母は、最初から大他者(象徴界の審級)であることが示されている。

同一化は今ではミラーリングmirroring(鏡に反映すること)と呼ばれます。そして、それは同一化を言い換えるとても相応しい仕方です。このミラーリングは私たちの生の最初の日から始まります。赤子はお腹がへったり寒かったりして泣き叫びます。そして魔法のように、ママが現れます。彼女は心地よい声を立て、赤ちゃんに話しかけます、彼女が考えるところの、なにが上手くいってないのかを乳児に向けて語り、彼女自身の顔でその感情を真似てみせます。このシンプルな相互作用、何百回とくり返される効果のなんと重要なことでしょう。私たちは、何を感じているのか、なぜこの感情をもつのか、そしてもっと一般的には、私たちは誰なのか、を他者が告げ私たちに示してくれるのです。空腹とオシメから先に進み、世話をやく人から子どもへのメッセージは、すぐに、よりいっそう入り組んだものになり、かつ幅広くなります。(……)

どの心理学理論も認めています、これらの乳幼児と母のあいだの最初のやり取り、そして子どもと親たちのあいだのそれの重要性を。それはアイデンティティの構築のためのものなのです。とはいえ、この重要性はある片寄った観点を導き入れます私たちは忘れがちになってしまうのです、両親はただ彼ら自身が受け取ったもののみを鏡に反映するということを。彼らのメッセージは無からは生まれません。私たちの家族は、自分の文化、ーー地方の、宗教の、国民の等々ーーの重要な考え方を鏡に反映させるのです。物語や考え方、それは、家族や私たちが所属する社会階級、わたしたちがその部分である文化によって、私たちに手渡されるのですがーー、こういったものすべての鏡が、混じりあって、象徴的秩序、より大きな集団の偉大なる語りthe Great Narrative を作り上げるのです。それが多かれ少なかれ共通のアイデンティティを生みます。より多くの語り(ナラティヴ)が共有されれば、よりいっそう私たちは似たもの同士になります。(Paul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities”、2013.)

…………

※附記

おそらくラカンに親しくない者のほとんどは、次のような先入主をもってきたし、いまもほとんどそうだろう。

二歳半から三歳半のあいだにさまざまな点で大きな飛躍があるとされている。フロイトのいうエディプス・コンプレックスの時期である。これは、対象関係論者によって「三者関係」を理解できる能力が顕在化する時期であると一般化された。それ以前は二者関係しか理解できないというのである。これは、ラカンのいう「父の名」のお出ましになる時期ということにもなるだろう。それ以前は「想像界」、それ以後は「象徴界」ということになるらしいが、ラカンの理論については自信のあることはいえない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

ところで、この講演でミレールが敬意をもって言及している Jean-Louis Gault は、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人物ではなく言語自体だ、とさえ言っているそうだ。

この言語にはもちろん「文字」も含まれるだろう。文字とは「身体のパッション」、あるいは「身体の出来事」でもある。これは下にあるようにサントームでもあり、原固着でもある(参照:原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)。


la passion du corps = l' Un de signifiant = Lettre = petit(a) --Lacan,S.22 pp.71-73

un événement de corps = sinthome (JOYCE LE SYMPTOME,AE.569)

Le sujet est causé d'un objet qui n'est notable que d'une écriture(...). L'irréductible de ceci… qui n'est pas effet de langage, car l'effet du langage, c'est le παθείν [ pathein ]

…c'est la passion du corps.

Mais, du langage, est inscriptible, (…) en tant que le langage n'a pas d'effet …cette abstraction radicale qui est l'objet (…), que j'écris de la figure d'écriture (a), et dont rien n'est pensable, à ceci près que tout ce qui est sujet… sujet de pensée qu'on imagine être Être …en est déterminé. (S.22, 1975.1.21)




2016年5月1日日曜日

心音音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう

幸福に必要なものはなんとわずかであることか! 一つの風笛の音色。――音楽がなければ人生は一つの錯誤であろう。(ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」33番)

というわけで(吸啜・把握・エロス)、究極のエロス対象は、母の心音(60~70)のテンポの母の声に近似した音楽じゃないか? 母の乳房なんかじゃないさ。

ニーチェ死後出版の『この人を見よ』の「序言」につづく「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第三節が妹によって原稿差し替えがなされていることを最近知った(参照)。

これはすでに1969年に「本来」の原稿に戻されたらしいので、現在の『この人を見よ』邦訳も、新しい「正規の」もので訳されているのかもしれない。だが、わたくしの手元の手塚富雄訳は、旧版の訳のままだし、須藤訓任氏の指摘では西尾幹二訳もそのままである。

ニーチェの「本来の」原稿から抜き取られた箇所は次の通り。

「わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙って in meinen höchsten Augenblicken  くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永劫回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。―」 (KSA(Friedrich Nietzsche Sämtliche Werke Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter), 1980, Bd. 6, S.268)

母胎内だったら、いまだ母の性格の悪さーーというか構造的な貪り食う母(元来彼女のものであったものを奪い返す存在)ーーはしらないからな。やっぱり同じ母でも乳房じゃなくて、心音の方さ。


◆Monteverdi - L' Incoronazione di Poppea ("Adagiati, Poppea - Oblivion soave")

 


もちろん人間の声でない音楽に母の声・心音を聴く場合だってあるさ。

フルトヴェングラーは、ベートンヴェン OP.130 弦楽四重奏曲のカヴァティーナを愛したようだ。

◆FURTWANGLER & Beethoven-'Cavatina'

 


ーーそのあたりのヘボ弦楽四重奏団の演奏では失われているものがここにある(フォルテが過度ではなかったり、クレッシェンドも穏やかであったり、あるいは呼吸のとり方、テンポのずらし方…)。

もちろんグールドのラルゴだって、母の心音に近いだろうよ。

◆Bach - Keyboard Concerto No. 5 in F minor, Largo - Glenn Gould




ラルゴやアダージョじゃなくて、アンダンテだってぎりぎり母の心音さ。あなたの母のテンポにもよるし、演奏の仕方にもよるけどさ。



聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」)

オレは母胎内で、心音や声だけじゃなくて血液の流れもじっくり聴いていたタイプでね・・・

◆Faure - String Quartet in Em,Op.121-02 Andante.




◆Anton Webern: 5 Sätze Für Streichquartett, Op. 5 - 4. Sehr Langsam





もっとも心音の倍速音楽だって、半分に調整しながら聴いてるのか、もともと突発的に心音が倍速になることが重なった母だったのか、それとも当地の胎児がそうであるように、妊娠中の母親がモーターバイクを乗りまくっていたのか、判然としないが、プレストだっていいさ。どうもオレはモデラートのような中途半端な速度がいけない。




ーーやあ、こういった鼻息が荒そうなオカアサンにプレスト演奏されるとウットリしちまうよ。


さて、もうすこし一般受けそしそうな、心音音楽だったら、BWV1016のアダージョなんてどうだろう? (わたくしの趣味からすると、やや速すぎる感はなきにしもあらずだが)。この曲は、だれもいまだスウィングル・シンガーズのようには魅力的に演奏していないんじゃないか(スウィングル・シンガーズ+MJQ のバッハは、ときにうるさく感じられる演奏があるが、これはMJQが慎ましく後ろに控えていてとってもよい)。

もっとも若い頃のメニューヒン兄妹のものはわるくない。

◆les swingle singers - JAZZ SEBASTIEN BACH 20/23 - Adagio: Sonata per Violino MiM BWV 1016 (1968)




やあ、バッハは何を聴いてもすばらしい。

次のも心音系だ。

バッハのロ短調ミサの最も「崇高な」箇所のひとつと少年時代思い込んでいた Crucifixus(キリストは十字架に磔にされた)が、どちらかといえば庶民的で下品な作曲家だと馬鹿にしていたヴィヴァルディ、ーーその世俗的な愛のカンタータ「泣き、嘆き、憂い、怯え」(Piango, gemo, sospiro e peno)のパクリであるのを知ったときには衝撃をうけたね(参照)。

◆J. S. Bach - Mass in B Minor BWV 232 - 14. Crucifixus (14/23)





◆Antonio Vivaldi: Piango, gemo, sospiro e peno




この「下品」ということになっているヴィヴァルディの「泣き、嘆き、憂い、怯え」が、冒頭に掲げた「高貴」ということになっているモンテヴェルディの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」に劣るかどうかを判断するのは、〈あなた〉の耳しだい。

バッハはパクリの天才だった。ニーチェが、「受容の天才」、「盗みの天才」(マンフレート・エーガー)だったと同じように。

《あらゆる『創造』の九九パーセントは、音楽であれ思想であれ、模倣だ。窃盗、多かれ少なかれ意識して》(ニーチェ、遺稿)

…………

平素以上に埋葬の多い場合には収入もそれにつれて増加しますが、ライプチヒは空気がすこぶる快適なため、昨年の如きは、埋葬による臨時収入に百ターレルの不足を見たような次第です。(バッハの手紙ーーデュアメル『慰めの音楽』尾崎喜八訳より)